扉の前へ立つ。
白い大きな扉。幼い頃から見てきたそれは、成長した今でも変わらない大きさで見るものすべてを圧倒する。
手にした鍵の束に目を落とす。
この家に生まれた者に、必ず与えられる鍵束。この中の一つを使い、扉を開けなければならない。
扉に視線を向ける。開けた者の、未来へ続くと言われている扉。
早い者は五つの頃から鍵を選び、扉を開ける。
そうして、ようやくこの家に認められるのだ。
「今日もそうやって、無駄な時間を過ごしていくのか」
けたけた、と背後で聞こえる嘲りや侮蔑を含んだ嗤い声に、僅かに眉を潜める。
声を返す事はしない。何かを言った所で何の意味もない事は、随分と前から理解してしまっていた。
「自分で未来も決められない泣き虫に、ここに来る資格はないよ。いつまでも居座ってないで、さっさと戻んな」
「そうですね」
冷たく険を帯びた言葉に、肯定を返す。
選べぬ者がこの場にいるだけで、業腹なのだろう。幼い頃はまだ優しさのあった声は、今はもう苛立ちを隠そうともしない。冷たい言葉ばかりを吐き捨てられる。
目を伏せる。最初から選べぬ事は分かっていた。
「十五になっても選べません。資格がないからなのでしょう」
手にした鍵束を一度強く握り、背後を振り返る。そして声の主に鍵束を放り投げた。
「どういう、つもりだ」
「お返しします。申し訳ありませんでした」
一礼して、扉へと向き直る。
迷いなく把手を掴み、押し開けた。
選べぬのならば、ただ受け入れればいい。
「馬鹿が。止せっ」
焦りを含んだ声を背後に聞きながら、扉の向こうへ足を踏み入れる。
不安も恐怖も、何一つなく。戻らぬ意思で、扉を閉めた。
星のない夜空に、丸く浮かぶ白い月。
月の光を反射してか、きらきらと光る水面。
寄せては返す波打ち際に、小舟が一つ。
とても静かだ。
選択をしない、与えられた未来とは、こうも静かで穏やかなものなのか。
裸足の足が砂に埋まる。その感触が心地好い。
ゆっくりと歩き出す。小舟に乗って海の向こうへ向かうために。
その先のあるのだろう終を思い、長い事忘れていた笑みを浮かべた。
「やり直しだ。これ以上アレに近づくな」
腕を掴まれ、強い力で引かれる。感情を削ぎ落としたかのような低い声に、体が強張り足が縺れた。
「戻るぞ。さっさとしろ」
半ば引き摺られる形で、扉へと戻される。振り返る視線の先の小舟が波に揺れるのを見て、思わず手を伸ばした。
「この馬鹿が」
忌々しげな舌打ちが聞こえ、腕を掴む力がさらに強くなる。その痛みに顔を顰め腕を放そうと踠くが、逆に掴む力が強くなるだけで、離す事は出来なかった。
「アレが何かも知らずに、軽率に求めるな。アレに喰われれば、二度と此処からは出られんぞ。還る事すら許されない」
冷たく吐き捨てる声に、逆らう事を諦め、腕を引かれるままに扉を潜り抜ける。
放り投げるようにして手を離され、耐えきれずに床に倒れ込んだ。
音を立てて扉が閉まる。倒れ込んだまま起き上がる事も出来ないでいる己の眼前に、扉を抜ける前に投げ渡した鍵束が晒される。
「選べ。いつまでも目を逸らすな」
体を引き起こされ、手に鍵束を握らされる。
首を振り、返そうとしても許されない。
「選べません。私には鍵の違いは分かりません」
「分かるはずだ。この家に生まれた者は、選べるように出来ている」
「私はこの家に相応しくありません。だから選べぬと言われています」
「何を言っているんだ」
俯く顔を無理矢理上げられ、目を合わせられる。
その表情に怒りはない。困惑を浮かべた目に、何も知らされていないのだと理解した。
「私は母を殺して生まれた忌み子です。呪われ穢れた私は、この家の障害にしかならない」
「何だ、その戯れ言は。まさかお前、それを本気にしているのか」
「未来など選ぶ権利はないと皆言っています。だから選ぶのではなく、受け入れろ、と」
「それは誰が言った」
口を閉ざす。
誰が、ではない。誰もが言っていた事だ。
それを察したのだろうか。幾分穏やかさを帯びた声が、問いかける。
「逆に、言わなかった者はいるか?お前を認めてくれる誰かはこの家にいるのか?」
目を逸らし、首を振る。
忌み子を認める者など、いるはずがない。
「鍵を使わずに扉を開ける事を教えたのは、誰か言えるか?」
「…父、が」
「そうか。あの男、贄を作り上げようとしたか」
冷たい声音に、肩が震える。
全てを知って、この家の者のように声の主も己を忌むのだろう。
忘れたと思っていたはずの悲しさや苦しさを、唇を噛む事で耐える。
少しの我慢だ。鍵を返し、もう一度扉を開ければ、それで終わる。
「選べぬ私には、鍵は不要です。ですから」
「それはお前のためだけの鍵だ。いいか、良く聞け」
逸らしていた目を、もう一度合わせられる。
「お前は忌み子ではない。呪われたというならば、それはこの家の血筋全てだ。遠き祖先の過ちから一族を守るため、私は鍵を作り、未来を選ばせる事でアレとの縁を断ち切っていた。そういう契約だ」
幼い頃に聞いていた優しい声で、言い聞かせるように言葉が紡がれていく。
知らない事、聞かされなかった事ばかりで、うまく理解が出来ない。
「契約?」
「そうだ。贄を作らぬ条件で、守り続けていた。だがお前の父は、お前を作った。何一つお前に教える事なく、お前を忌み子として扱う事で、選択を否定させた。そして扉を開けるよう、仕向けた」
混乱する己を抱き上げて、声の主は扉の前に歩み寄る。
鍵束のそれとは異なる深紅の鍵を差し込み鍵を開け、扉を開いた。
開いた先に海はない。代わりに地下へと続く長い階段が見えた。
「お前から扉を開く事で、お前の意思だとしたかったのだろうが。選択出来ぬよう作り上げたのならば、贄と変わらないからな。契約違反だ」
階段を下りていく。先の見えない恐怖に震え出す体を宥めるように、優しく背を撫でられる。
恐怖と、優しさと。相反する感情に何も考えられなくなっていく。手にしたままの鍵束が、階段を下りる度にじゃらじゃらと音を立てた。
未来を選ぶ鍵。守るための鍵。契約。
分からない。もう考えるのが苦しい。
「もう一度聞くが、この家にお前を愛した者はいないんだな?」
「分からない。愛されていたのかも、そうでないのかも。何も」
「そうか。どちらにしても、この先にあるもので分かるが…どうやら、はずれのようだな」
「何?」
立ち止まる気配に、背後を振り返る。
視界に入ったそれに、目を見開き息を呑んだ。
「…ぁ、やだ」
座敷牢。幼い頃、扉の前につれて行かれる以外に、押し込められていた場所。
体の震えが止まらない。泣いて叫んでも、誰にも届かない絶望を思い出し、涙が零れ出す。
「大丈夫だ。これはただの幻。本物は、後で私が壊しておいてやろう」
「ごめん、なさい。私、ごめんなさい。許してっ」
「聞こえていない、か。仕方がない。少し眠っているといい。その間に全て終わらせておく」
背を撫でていた手が、額に触れる。
「すまないな。気づいてやれなくて」
「待っ、て。いかない、で」
「契約違反の対価を払ってもらうだけだ。直ぐに終わる」
落ちていく意識に抗いながら、必死に声の主にしがみつく。
僅かに理解できる、契約違反と対価の言葉に、不安が募った。
「今まで与えていたものを返してもらうだけだ。選択した未来が、本来受け入れるべき未来に成り代わるだけだよ」
あの海の向こうに渡るだけ。
意識の途切れる間際に聞こえた言葉は、今まで聞いたどんな声よりも優しく、そして残酷に響いた。
20250111 『未来への鍵』
1/12/2025, 7:58:37 AM