sairo

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六畳の和室。それが己の世界の全てだった。

和室の中心に座り込み、虚ろな目で前を見る。
四肢の自由はなく、意思もない。
空であるが故に、言葉も持たない。
ただそこにあるだけの、人形。


「よぉ、イイコにしてたか?」

目の前の障子戸が開き、男が音もなく入り込む。
俯く顔を上げ、視線を合わせられる。

「いいねぇ。ちゃんと出来上がってる。今までの中で最高の仕上がりだ」

上機嫌に男は笑う。抱き上げられ、背後の襖戸へ歩み寄るとそのまま戸に手をかけた。
静かに戸を開く。男に抱き上げられている今は見る事は叶わぬが、その先の部屋に何があるのかは知っている。

「さて、今日はどんな衣装を着て遊ぼうか。俺のお人形さん?」

衣装部屋。或いは、歪な子供部屋。
衣桁にかけられた無数の打掛や振り袖を横目に、男は足取り軽く奥へと向かう。部屋の最奥。古めかしい三面鏡の前に己を座らせ、男は再び着物の向こうへと消えていった。
今日の遊びに使う衣装を取りに行ったのだろう。

人形遊び。
煌びやかな衣を着付けられ、紅を差されて遊ばれる事を何度繰り返したのだろうか。
思考する事が許された始めの数回以降は、記憶に留めてすらいない。
当然だ。男のための人形遊びなのだから。
中身のない、人形としてある己には何度、など思考するのは無意味だ。
己は人形遊びのために、男の手によって作られたのだから。


六畳の和室で一人、男の訪れを待ち続ける。
虚ろな目が、僅かに開いた障子戸の隙間の先を見ている。
その先は己の世界の外側だ。
見る事の叶わぬ景色。今の己にはまだ遠い、かつて見ていたような。
指先が、痙攣する。
四肢の自由はない。そのはずだ。
中身のない己には、四肢を動かす事は出来ない。
だが、手が動いた。
隙間の先に誘われるように、手が、そして足が動く。
酷く緩慢な動きで、己の意思で立ち上がった。

一歩。歩き出す。
一歩。また一歩と。障子戸へと歩いて行く。
腕を伸ばし、戸に触れて。


「何、してんだ」

己が開く前に、戸が開く。
表情を削ぎ落とした男が、戸の先に立っていた。

「何で動いてんだよ。お前の中身は全部抜き取っただろう?うまくいっていたのに、また作り直しか」

感情の乗らない男の声が、鼓膜を揺する。
揺れる。男に抜かれ、僅かにしか残らない脳が、思考する事を強要する。

あぁ、そうだ。己は人形などではない。
己は。私は。男は。
恐怖が背筋を駆け上がる。
奪われる前の穏やかな日常と、今のこの牢獄に似た永遠の箱庭の中の非日常と。
記憶が巡る。じり、と足が後退する。
逃げなければ。ここから、この男から。
私は、人形ではなく、人間なのだから。

「脳幹の一部を残したのが駄目か。調整が難しいな…にしても、中身伽藍堂でも動くもんだな。気持ち悪い」

冷たく吐き捨てられた言葉に、足が止まる。
中身がない。外側しかない己は、果たしてまだ人間なのだろうか。
あぁ、私は、本当の私、は。

「もういいわ。お前、いらない」

とん、と軽い音と共に、世界が回る。
とさり、と地に落ちて、それきり体は完全に動きを止める。
呼吸も、鼓動も、最初からなく。戻ってきた思考も直ぐに止まるのだろう。
見開いたままの目だけが、嘆息しこちらに手を伸ばす男の姿を捉えていた。


「最初からやり直しか。今度こそ仕上がったと思ったのにな」

男に引き摺られ、廊下を行く。
角を曲がり、暗がりの先の戸を開けた。
狭い部屋に積み重なるのは、人の形をした抜け殻。
男がこれまで作り続け、廃棄した人形の成れの果て。

「次はどんな人形にするか。女は衣装映えするが、脆くて直ぐに壊れるからな」

部屋の中に放られる。それを冷めた目で見ながら、男は踵を返し。
男の目が何かを捉え、歪んだ笑みを浮かべた。

「あんたでもいいな。少し草臥れてはいるが、着飾れば映えそうだ。きっと今までの人形よりも美しい、まだ見た事のない姿を見せてくれる」

甘く、熱や狂気を孕んだ声音で囁いて。

「それにあんたなら、俺も大切に出来る。永遠に遊んでいられる」

これまでを見てきた彼に近づき、頬を撫で上げる。
その瞬間、込み上げる怒りと赤く染まる視界に、弾かれるようにして飛びかかり。
衝動のまま、男の喉笛に噛み付いた。





「まったく。こんな所で油を売っていていいんですかねぃ、先生」
「こいつらがネタをくれるというから、着いてきただけだ」

提灯を手にした子供の呆れた問いかけに、男は僅かに眉を寄せ答える。
視線は目の前の二人に向けたまま。手には黒い手帳を持ち、時折何かを書き付けている。

「何ですかい、これは。随分と大層な仕掛けですが」
「ここにいた化生の趣味。壊す前にせんせに見せてあげようと思って」

人形役の少年が起き上がり、くるり、と一回転して狐の姿になる。化生役の男も起き上がると、一度体を伸ばしてから赤く染まった喉元を撫でさすった。

「本気で噛みに来る奴があるかよ。あぶねぇな」
「せんせにちょっかいかける兄貴が悪い」
「ちょっとくらいいいじゃねぇか。アレならこれくらいはするぜ」

さする先から赤が消え、噛み痕一つそこにはない。
それを見て、先生と呼ばれた男の目元が僅かに綻ぶ。どうやら心配されていたようで、それに気づいた狐の兄は、破顔して擦り寄ろうと男に飛びついた。
最もそれは、間に入った子供と、弟である狐によって叶う事はなかったが。

「お触り禁止だよ。馬鹿兄貴」
「先生は見かけの通り、細っこくて直ぐに折れてしまいやす。お手を触れないでくだせぇ」
「さすがに抱きつかれたくらいで折れんだろう」

男の呆れた言葉に、答えるモノはない。
子供と弟、そして兄。
睨み合い、隙を窺い。けれども男へと飛びつく事が出来ぬのに焦れた兄は、狐の姿へと戻るとその場でじたじたと転がり出した。

「何だよ。少しくらいいいじゃん。アレの思考を真似るの、めんどかったんだぜ。お前はただ黙って座ってるだけだから、楽だっただろうけどさぁ」

化生の行動を再現したごっこ遊び。
たまには話を聞くのではなく、実際に見た方が面白いのではないかと、狐の兄弟が考えたものだ。
化生の姿を真似、行動を真似た二人の芝居は中々に新鮮なものであったと男は充足した気持ちで手帳をしまった。

「楽しんでたんだろ。途中までせんせで想像してたくせに、この変態兄貴」
「だって、お前で人形遊びしても楽しくねぇもん」

子供のように駄々をこね出す兄に、誰かが嘆息する。
仕方がない。楽しませてくれた対価は払わなければ。
冷めた目で見下ろす子供と弟の横を通り抜け、男は転がる兄の側で膝をついた。

「せんせ、甘やかさないで」
「話のネタをもらった礼だ。これくらいなら構わない」
「やっぱせんせぇ大好き。最高」

男の膝に乗り思う存分擦り寄る兄の背を、男は無言でなで続ける。ふん、と不機嫌に鼻を鳴らす弟に視線を向け、手招いた。

「別に、おれは甘やかさなくていいんだけど。せんせが言うなら撫でていいよ」
「じゃあ来んな。あっち行け」
「うっさい。そこどいて、我が儘兄貴」

兄を蹴り落とし、弟は空いた男の膝に乗る。
頭を撫でられ、ゆるり、と尾が揺らめいた。

「先生。前にも言いましたがね。手前共を甘やかしすぎると、欲が出て堕ちてしまいやすよ」

はぁ、と息を吐いて。子供は狐を膝から下ろし、男の手を取り立ち上がらせた。
締め切りはまっちゃあくれやせんよ、と男を急かし、歩き出す。

「堕ちた手前共の手で、こんな薄暗い所に閉じられるのは、先生も嫌でしょうに」
「お前らは堕ちんだろう。この空間はお前らには似合わん」

男の言葉に、子供は笑う。狐の兄弟もにたり、と唇を歪めた。

「先生がまだ見ていないだけで御座いますよぅ。先生が見ているのは、手前共の一部だけ。綺麗な部分だけですよ」

男の手を引く。どろり、と溶け出した空間を後に提灯の明かりだけを頼りに歩く。
ですからね、と子供は甘く優しく囁いた。

「先生は、これからも締め切りを守って、綺麗な手前共の話を書いていてくだせぇ」

そのためにも、早く戻って原稿を仕上げましょうねぇ。

くすくす笑う子供に、男は何も言わず。
ただ締め切り、原稿の言葉に、嫌そうに顔を顰めた。



20250114 『まだ見ぬ景色』

1/15/2025, 4:25:30 AM