手を差し入れて、そっと水を掬い上げる。
手の端から溢れ落ちる水をただ眺め。少なくなってきた水を注ぎ足すように、再び水の中に手を差し入れる。
繰り返す。何度も、いつまでも。
「何をしているの?」
繰り返す少年を不思議に思い、少女が声をかける。
見かけたのは偶然だ。足腰の弱くなってきた祖母の手伝いの帰り。寄り道で訪れた小さな淵に、少年はいた。
淵の水を掬い、流れ落ちる水を眺めてまた水を掬う。
その手つきは壊れ物でも扱うかのように、優しく。それがまた少女の興味を引いて、思わず少年に声をかけた。
「別に。何かいるかなって、暇つぶしに」
そっけなく返る声に、少女はおや、と首を傾げる。
聞き覚えのある声だった。さらに興味を引かれ、少年の隣に歩み寄る。
「高遠くん」
見知った横顔に、少女が小さく名を呼んだ。同じクラスの、人気者。サッカー部のエースだとも言われている少年が、何故こんな寂れた場所にいるのだろう。
呼ばれた事で、少年は手を止め少女に視線を向ける。驚いたように目を瞬き、泉宮、と少女の名を呼んだ。
「え。何してんの、こんな所で」
最初に少女が少年にかけた言葉と同じ言葉を言われ、少女は苦笑する。
意外な場所で見知った顔に出会ったのだ。その疑問も当然ではある。けれども普段教室で見慣れている、しっかりとした印象の彼と今の彼との差異に面白くなってしまい、少女はくすくす笑いながら、少年の隣に腰を下ろした。
「おばあちゃん家の帰り。高遠くんはどうしてここにいるの?」
「興味本位、かな」
薄く笑い、少年は再び淵に視線を向け、同じように水を掬い上げる。
「前に見た雑誌で、ここの事が書いてあったから…取り替え淵。何かと何かを取り替えてくれるって書いてあった」
「この前、教室で話してた雑誌の事?」
「そう。ちょっと気になって」
掬った水が手から溢れ落ちる様を、少年は口元だけで笑いながら見つめる。
やはり今日の少年はどこか普段と違う。それとも今の彼が取り繕う事のない姿だとでも言うのだろうか。
不思議に思いながらも、少女はそれを言葉にする事なく、少年の言葉の続きを待った。
「誰が言い始めたんだろうって。最初に取り替えた誰かは、知ってて取り替えるために沈めたのかな。それとも偶然?偶然取り替えたいものがあって、ここに来て、偶然沈めたの?」
「昔話なんて、皆そんなものじゃない?」
少しばかり興が冷めたように、少女は言う。
現象が先か、物語が先かの違いなど今となっては分かりようがないからだ。どちらが先でも変わらない。
ここは何かと何かを取り替える淵であるという認識は、変わりようがない。
「泉宮って、あんまりこういう都市伝説的な話って興味ないんだ。何か意外。よく小説とか読んでるのに」
「別に。卵が先か鶏が先かの話をしても意味がないって思ってるだけだよ」
「そっか。まあ確かに、そういう事になるのか」
ぱしゃ、と掬った水を落とす。
少女に視線を向けて、少年はねぇ、と囁いた。
「取り替えるために沈められた皆は、どこにいるんだろう。まだ、この淵の底にいるのかな?もしも、一度取り替えるために沈めた誰かを、別の誰かと取り替えようとしたら、戻ってくるのかな?」
おや、と少女は僅かに眉を潜める。
何か、ではなく誰か、になっている事に違和感を覚えた。
「水の底に沈んだものは、二度と上がってこないよ。穏やかに見えるけど、水の流れは複雑だから」
「現実的。取り替えの話だよ」
くすり、と少年は笑い。少女に寄り添うようにして距離を縮めた。
楽しそうな、哀しそうな。複雑な色を乗せた目が、少女を見つめ柔らかく笑む。
「もしもの話だ。もしも、戻ってくるのなら。還ってくるためには、何と取り替えてもらえばいいんだろう?」
「戻ってこないよ。還ってくる事もない」
「本当に現実的だな。じゃあ、試してみる?」
とん、と。
優しく、そっと、少年は少女の背を押した。
強い力ではない。さほど力を入れずとも抗えるほどの、触れているといえるくらいの弱い力だった。
だが、背を押す力に抗う事なく、少女の体は淵へと倒れ込む。ぱしゃん、とやけに軽い音を立て、そのまま静かに沈んでいく。
水の中。くるり、と体を動かし水面を見る。
ゆらり揺らめく水面越しに、手を伸ばす少年の姿を認めて、少女はこぽり、と空気を吐き出した。
後悔しているのか。自分が押したというのに。
それとも、ようやく普段の少年に戻れたのか。
水の中に差し入れられる手から逃れるように、少女は静かに沈んでいく。
暗い。とても静かだ。少年の姿が見えなくなって、少女は水面から水底へと体の向きを変えた。水の流れなど気にもせず、底に向かい泳いでいく。
「戻った方がいいわ。彼、今にも沈んでしまいそうだから」
不意にかけられた言葉に、少女は視線を向ける。暗闇の中でもはっきりと見える、揺れる女の長い髪に、戯れるようにして手を伸ばした。
「凄く驚いている。自分が何をしたのか、その理由が分からないみたい」
目を瞬いて、上を見る。だがここからは水面は遠く、少年の姿は欠片も見えなかった。
「彼は化生になってしまったの?」
「いいえ。遠い昔の夢を見て、引き摺られてしまっただけ。ここにはもう何もないけれど、記憶はまだ焼き付いているから」
哀しげに笑い、女は少女に小さな石を手渡した。石から伝わる幻に、少女はゆるく首を振る。
水面を覗く子供の背を、そっと誰かの手が押していた。
取り替えたのだろう。だが人を取り替える事など出来るはずがない。
きっと夢を見たのだろう。取り替える事の出来ない代わりに、優しく、残酷な夢を。
「空しいね。あまりにも哀しい夢でしかない」
「ええ。だから早く戻りなさい。それから人前で沈んではいけない。妖混じりから、人混じりに認識が変われば、人間として生きて行けなくなるから」
どちらも変わらない気はするが、と少女は声に出さずに呟いて。
「分かってる。じゃあ、もう行くね」
水を強く蹴り、水面へと向かい浮上する。
水面の向こう側に、小さく少年の姿が見えた。静かに立ち上がり、その体が傾いていく。
「ちょっ、待って!」
さらに強く水を蹴り。そのまま飛び出す勢いで、淵へと倒れ込む少年の体を押し戻す。
「ぁ。なん、で。俺、俺は」
「危ないよ。一度沈んだら戻ってこれないって言ったでしょ?」
「でも、泉宮が。泉宮が、俺のせいで」
混乱し、泣く少年の背を撫でながら、大丈夫、と少女は繰り返す。驚かせてしまった事を少しばかり悔やみながら、少女は少年の手を取り、己の頬に触れさせた。
「ほら、ちゃんと生きているよ。ちょっと怖い夢を見ただけ。沈んでないよ。濡れてないでしょう?」
「ほんと、だ…あれ?でもさっき。確かに背中を押して、泉宮が水の中に落ちて」
「居眠りしてたでしょ。今日は暖かいけど、こんな所で昼寝なんかしないでよね」
次第に落ち着いてきた少年に、すべては夢だと言い聞かせる。少し無理はあるが、少女の衣服は濡れてはいない事を確かめさせれば、少年は首を傾げながらも納得し始めた。
手を離し少年に気取られぬよう、小さく息を吐く。
「私、そろそろ帰るから。また明日、学校でね」
「っ、待って!」
手を取られ、立ち上がりかけた体はバランスを崩し、少年の方へと倒れ込む。押し倒してしまった形になった事に、少女の頬は真っ赤に染まり、硬直する。
「あ、ごめん。でも、もう少しだけ一緒にいてくれない?何かよく分かんなくて。どこから夢で、どこか現実なのか。教えてほしいんだけど」
「な、に。え?何。なんで?」
「大丈夫?ちょっと落ち着いて」
宥めるように今度は少年の手が、少女の背をさする。それに頬だけでなく耳までを赤くして、少女は泣きそうに声を上げた。
「全部!全部夢だから。だから全部忘れてっ!」
「だ、大丈夫だって。ほら、深呼吸して」
暴れ出す少女を抑えながら、少年は笑みを浮かべて、次第に声を上げて笑い出す。
動きを止めて、涙目で睨む少女に、ごめん、と謝りながらも少年は笑い続ける。
「ちょっと!笑わない、で」
「ごめんって。でも何ていうか、泉宮が思っていたより可愛くて。もっと落ち着いたイメージがあったんだけど」
とんとん、と背を叩き。少年は体を起こすと、硬直する少女の隣に座り直す。
「少しだけ、話を聞いてもらえると嬉しいんだ。泉宮は夢だって言ったけど、どうしても現実にしか思えなくて」
「…今の、全部忘れてくれるなら」
視線を逸らし、小さく答える少女に笑いを堪えながら。
少女に向き合い、確かめるように、そっと少女と手を繋いだ。
「忘れるから、少しこのまま手を繋いでいていい?今、ちょっと変な感じだから、誰かに手を繋がれていたくて」
「いい、けど。本当に忘れてね!」
ありがとう、の言葉に、一つ息を吐き、少女は少年と目を合わせた。
そっと手を握り返す。少年が誰かの背を押してしまわぬように。
20250115 『そっと』
1/16/2025, 8:16:58 AM