sairo

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「あぁ、やはりこちらにいたのですね」

柔らかな声に、俯いていた顔を上げる。
涙で滲む世界で、それでもはっきりと彼女の姿は見えていた。


「どうして、分かったの?」
「あなたはわたくしの特別だからですよ。可愛い子」

微笑んで手を差し伸べられる。白くて綺麗で、作り物のような手は、少し冷たいけれど誰よりも温かい事を知っている。
彼女の手を取り、立ち上がる。服についた埃を軽く払われて、恥ずかしくなって目を逸らした。

「さぁ、帰りましょうか」
「帰りたくない。あたし、悪くないもん」

また滲み出す涙を乱暴に拭いながら、首を振る。
悪くはない、はずだ。
幼い弟がいたずらをして雪見障子の硝子を割り、怪我をしてしまった。止めたのに、弟は止まらなかった。
それなのに、怒られたのは弟ではなかった。側にいただけ、姉だからというだけで、両親に叱られた。

「おとうさんもおかあさんも、あたしの事が嫌いなんだ。だからいつもあたしだけが叱られる。もうあんな家に帰りたくない」
「あら。それは困りましたねぇ」

困ったようには見えない微笑みを浮かべて、彼女はそっと涙を拭う。どこまでも優しく、誰かを非難する事のない彼女が、少しだけ恨めしかった。

「あたし。謝らないし、帰らないから。絶対なんだから」
「そんな事を言っていると、隠されてしまいますよ」
「いいもん。怖くなんかないんだから」
「駄目ですよ」

彼女がどこか悲しそうな顔をする。それだけで決して曲げないと思っていた決意が、簡単に揺らいでしまう。
優しい彼女を悲しませるのは嫌だった。彼女が悲しくなるのであれば、自分が我慢すればいいのではないか。
そう思ってしまうくらいには、彼女の事が大好きだった。

「本当に、帰らないと駄目なの?」
「皆さん、心配されていますから。わたくしと一緒に帰りましょう」
「…分かった。手を繋いでてくれるなら、一緒に帰る」

そっぽを向いて、小さく呟く。手を出せば、綺麗な手が包み込むようにして繋がった。
それだけで何だか嬉しくなってしまう自分は、やはりちっぽけな子供でしかないのだろう。


「覚えていて下さいね。可愛い子」

手を繋いだ、帰り道。
彼女が歌うように囁いた。

「あなたがわたくしを必要としてくれるのならば、わたくしはいつでもあなたのもとへ参りますよ」

本当に、と見上げた彼女の横顔は、とても穏やかで。

「絶対だからね」

素直に嬉しいと言えない、ひねくれた言葉しか返せない自分に、呆れてしまいながらも。
彼女の言葉がいつまでも本当でありますように、と繋いだ手を強く握った。





懐かしい夢を見た。
幼い頃。いつも側にいてくれた、優しい彼女の夢。

「嘘つき」

呟いて、起き上がる。
気分は最悪だった。

彼女はいない。声を上げて泣く事をしなくなった自分の側には来てくれなくなった。
所詮は子供だましの約束だったのだろう。我が儘な子供を宥めるための口約束など、大体がそんなものだ。

「もう、こんな時間」

時計を見る。
止まる事も、況してや戻る事もなく動き続ける針を睨み付け、ベッドから抜け出した。
本当に最悪だ。夢でも現実でも、悪い事しかない。
溜息を一つ溢し。準備をするために、部屋を出た。



「おはようございます。お迎えに上がりました」
「おはようございます」

微笑む男に、作った笑みを浮かべ挨拶を返す。
自分より十も年上の男。紳士的な態度を取りながらも、その目に劣情を隠す事なく浮かべた、自分の夫となる男。

「ようやく貴女と夫婦になる事ができるのですね」

頬に触れる男の手に耐えながら、笑みを貼り付ける。
下手に機嫌を損ねては、後が厄介だ。
逃げられはしない。今日の結納を済ませてしまえば、このまま妻として男と暮らす事になるのだから。

「それでは行きましょうか」
「はい」

男の後に続く。
脳裏に浮かぶ彼女を微笑みを思い出し、唇を噛んだ。
今更だ。見合いの時も、婚約の時にも彼女は来てくれなかった。
どんなに求めても彼女は来ない。助けて、なんて言えるはずがないのに。

「どうしました?」
「いえ、何でもありません」

振り返る男に、慌てて笑みを貼り付け、何でもないのだと首を振る。
諦めなければ、と気持ちを切り替えて、外に。

「わたくしの特別。悲しいのですか?」

声が、聞こえた。

「可哀想に。泣けなくなってしまったのですね」

背後から抱き竦めるように回された、白い腕。
白く、細い。血の通わぬ、冷たい手。

「ひっ!?化け物!」

男が怯えたように後退る。恐怖を強く宿した目が、自分の背後を凝視し、耐えられなくなり外へと逃げていく。

「姉ちゃん!」

弟の声が遠い。同じ家の中にいたはずなのに、何かで仕切られたように声がくぐもって聞こえる。

「どうして」

小さく零れた声に、背後の彼女は笑ったようだった。

「あなたがわたくしを必要としてくれるのならば、わたくしはいつでもあなたのもとへ参ります。今回は少しばかり遅れてしまいましたが」

申し訳ありません、と囁く彼女の声は悲しげで。
ゆっくりと振り返る。彼女の姿を確かめたくて。

「駄目だ!振り返るな!」

誰かの声が聞こえた気がした。けれどその声より早く、彼女の姿を認め。

瞬間。世界ががらりを色を変え、暗く冷たい水の底で彼女に抱かれていた。


「これで。ようやくあなたと共にいられる。永遠を共にできる」

歌うような囁きが、気泡と共に上っていく。

あぁ、そう言えば。酷く虚ろな意識で思い出す。
幼い頃住んでいた家にあった小さな井戸。水の底でこちらを見上げる彼女を見たのが始まりだった。
寂しそうな目をしていた。不思議と怖いとは感じられず、だから一人寂しそうな彼女へと向けて、手を差し出した。
あの井戸はもう、埋めてしまってなくなったのだと両親は言っていた。

「可愛い子。わたくしの愛おしい特別。あなたを愛したが故に堕ちてしまったわたくしを、決して許さないで下さいね」

彼女の泣くような声に、少し前に読んだ小説を思い出す。

――妖と深く関われば、いずれ妖は意思を持ち、望む事を知るだろう。応えるもののないそれに、妖は狂い堕ちるのだ。

思い出して、悲しくなった。優しい彼女を悲しませるのは、何よりも嫌だった。
身じろいで、振り返る。彼女と正面から向き合う形で、彼女の白い髑髏となった頬をそっと撫でた。

「約束守ってくれたから、一緒にいてあげてもいいよ。その代わりに、ずっと手を繋いでいてね」
「ありがとう。愛しい子」

頬を撫でていた手を取り、彼女はそっと手を繋ぐ。小さな頃とは違い包み込むようにではなく、指を絡めて離れないようにしっかりと。
繋いだ手を見て、笑う。嬉しくて笑い、幸せで泣いた。

あの頃のように。我慢をする事なく声を上げて笑いながら泣いていた。



20250116 『あなたのもとへ』

1/16/2025, 11:02:28 PM