まだ暗い空の先を、睨むようにして見上げていた。
「日の出はまだだ。そのような顔をするものじゃない」
「そんな顔って、どんな顔よ」
隣から聞こえる声に、憎まれ口を返す。
姿は見えない。もう見えなくなってしまった。
「いつにも増して機嫌が悪いな。何かあったか?」
「別に。ただ来年の事を思うと、ちょっと落ち着かないだけ」
「そうか。十八になるのか。もう巣立ちの時期なのだな」
感慨深げな声に、手を強く握り締める。
その声音は酷く穏やかで、別れを惜しむ感情は一切含まれていない。
私だけだ。別れを怖れ、泣いて縋ってしまいたいのは。
小さい頃から見えていた、人ではないモノ達が見えなくなり、声が聞こえなくなってきたのはいつからだろう。
最初は、祖母の家の奥座敷にいた少女だったように思う。
最初の友達。皆には見えないモノを見る、変わった子として周りから爪弾きにされていた私に優しくしてくれた、可愛い女の子。おはじきやかるたなど、昔の遊びをたくさん教えてくれた、優しい子。
彼女に手を引かれ、家の中や周囲の皆に紹介してもらったからこそ、一人の寂しさに耐える事が出来た。
それなのに、数年前から彼女の姿が見えなくなった。戸惑い泣く私に、仕方がない事だと宥めてくれた優しい声すら、今はもう思い出す事が出来ない。
彼女が消え、家の中にいた皆が次々に消えて、声を残して他のモノは見えなくなった。
きっと今年が最後だ。
「ね。あの子はまだ奥座敷にいてくれているの?」
「ああ。彼女はいつもお前の帰りを待ち、見守っているよ」
「いつもありがとうって、伝えてくれる?」
「それは直接伝えるといい。屋敷では常にお前の側にいるのだから」
声は優しく、それでいて何よりも残酷な事を言う。
姿が見えず、声も聞こえないのに、どこに向かって言えというのか。
鼻の奥がツンとする。気を抜けば直ぐにでも泣いてしまいそうだ。
「なんでそう、酷い事が言えるかな」
「酷い、か。そういうつもりではないのだが」
「そうね。これっぽっちも考えた事はないよね」
「やはり機嫌が悪いな。俺といるのは苦痛か?」
声はまた、酷い事を簡単に言葉にする。
耐えきれなくなり、膝を抱えて俯いた。
「少し、疲れた。日の出が近くなったら起こして」
声が何かを言うよりも早く、適当に言い訳をして目を閉じる。泣くなと自分自身に言い聞かせ、声が漏れないように唇を噛んだ。
声はすべて分かっているのかもしれない。泣くのを我慢している事も、別れを怖がっている事も。
これはただの強がりだ。私の精一杯の見栄だ。
それでも良い。
最後に残った声の主である彼には、弱い所は見せずにさよならを言いたかった。
ふと、呼ばれた気がして顔を上げる。
暗い空の向こう。一筋の白を認めて目を細めた。
日の出だ。新しい一年が始まったのだ。
「きれい」
「毎年見ているだろうに」
隣から呆れた声がして、ほっとする。
まだ聞こえている。彼が隣にいる事を感じられる。
こうして最後に一緒に彼と一緒にいられる事が、泣きたいくらいに幸せだった。
「今年で、きっと最後だ」
「すでに決めているのか?」
「まだ。進学も就職も、何にも決めてない。でも働く事になるだろうね。おばあちゃんはもういないから」
祖母は去年の秋に亡くなった。眠るように、穏やかに逝ってしまった。
両親から愛されなかった私を、唯一愛してくれた祖母。子供の私を守ってくれる大人は、もういないのだ。
「ごめんね。おばあちゃんが残してくれた家、きっとお母さん達に取られちゃう。私じゃ、守れないから」
祖母の遺志だとしても。
子供の私の言葉を、大人達は聞いてくれない。適当に宥めすかされ、言い聞かせられて大人の都合のいいように事を進めていくのだろう。
「気にするな。仕方のない事だ」
仕方がない。軋む心に手を当てた。
彼が冷たいのか、そう思えない私がおかしいのか。
白む空を見つめ、その先の昇る日を睨んだ。
朝が来る。泣いて嫌だと叫んだ所で、時は止まらない。
あぁ、嫌だ、と手を握りしめた。
好きなものを守れない私も。さよならに怯える私も。彼を酷いと思ってしまう私も。
弱い私が、私は大嫌いだ。
「夜が明けるな。そろそろ戻るとしようか」
「そうだね」
頷くも、視線は朝日に向けたまま。
丸く、欠けた所のない太陽に嫉妬した。
いいなぁ、と小さく溢し。嫌いな私と比較して、笑った。
大嫌いな私なんて、このまま消えてしまえばいいのに。
声を出さずに呟いた。
ぱちんっ。と。
何かの割れる音がした。代わりに周りの音が消えた。
「え?」
振り返る。そこにいた皆の姿を認めて、声が漏れた。
赤い振り袖をきたあの子。家を軋ませて笑っていた小さい子達。
近くの淵に引きこもってばかりだったはずの青年。踊るのが好きな猫や狸達。
そして、彼。
皆がいた。一人ぼっちの私を支えてくれた、優しい彼らがそこにいた。
焦ったように、困惑し必死で誰かを探している。声は聞こえないけれど、皆誰かの名前を呼んでいる。
「どうしたの?」
声をかけても、誰も私に気づかない。
そこでようやく理解した。
私は、いなくなってしまったのだ。
口元が無意識に緩む。くすくす、と声が漏れてしまう。
彼らが私を探してくれている。それが何より嬉しかった。
彼の側に寄る。久しぶりに見る事の出来た彼の姿に、初めて見る焦りを含んだその表情に、益々彼を好きになる。
大好き、と小さく呟いて、彼に手を伸ばす。
彼に触れる事なくすり抜けた手を、少しだけ残念に思いながら。手を引いて、数歩下がる。
彼を見て、皆の事を見て。
「ありがとう。さようなら」
笑う。皆が好きだと言ってくれた、とびきりの笑顔を浮かべた。
くるりと彼らに背を向けて、歩き出す。
これからどうすればいいのかは、何一つ分からない。けれど何とかなるだろう。
不思議と怖くはなかった。大丈夫、と弾む声音で囁いて、飛び跳ねるように道を行く。
何だか楽しくて仕方がない。
「こ、のっ!大丈夫なわけがあるか!」
ぐい、と腕を引かれた。バランスを崩して背後に倒れ込む体を、大きな影が包み込む。
「お前、日の出に何を望んだ!何を望めばこうなるんだ!馬鹿なのか?いや、馬鹿だからこうも気楽なのだろうが。あぁ、まったく!」
「え?えと、あれ?」
背後から降り注ぐ声に、訳も分からず目を瞬く。
「さっさと何を望んだのか説明しろ、この阿呆。呆けている暇があるなら、この消えかけている状況を何とかする努力をしろ。本当にお前は、昔から突拍子もない事ばかりするのだから」
「いや、そんな変な事ばかりしてないし。というか、何が起こっているのか私にも分からないし」
「おい、黙ってないで何とか言ったらどうだ。いつまで黙りを続けているつもりだ」
おや、と首を傾げる。
ねぇ、と体を抱き留めている彼の腕を叩き声をかけるが、反応はない。
伝わらない事にどうしようかと悩んでいれば、小さな手が腕に触れた。
はっとして視線を向ける。柔らかな、それでいてどこか哀しげな笑みを浮かべた赤い振り袖の少女が、腕から手首へと手を這わせ、そのまま強く手を繋いだ。確かめるように、離れないように繋がれた手に、思わずごめん、の言葉が零れる。
「声。聞こえていないのかも。さっきより姿も薄くなっている。わたしたちが分からないのかもしれない」
「そう、だな。先に隠してしまった方が良いか。また消えられてしまったら、探す事も叶わんからな」
「お屋敷は、こちらで隠しておくから。それじゃあ、彼方で」
「あぁ。後でな」
するり、と手が離れ、少女は背を向け去って行く。
名残惜しげに手が彼女を追うが、きゅっと強くなった彼の腕に、身じろぎして彼を見た。
目線は合っているはずなのに、視線が合わない。彼の目の中に私の姿が見えない。
「世話の焼ける子だ。精々、軽率に俺らに望む事の愚かさを、彼方で悔いる事だな」
呆れを乗せた声音で呟く彼の周りを、風が舞う。
ざわり、ざわ、と渦を巻いて、周りの景色を歪めていく。
怖くて彼にしがみつけば、小さく笑う気配がした。
「お前のほとんどが消えた原因の説明を聞いた後は、説教だな。言いたい事がある奴らで、順にしてやろう。足のしびれで立てなくなるだろうが、自業自得というやつだな」
久々に見る、彼の怒りの込められた凶悪な笑み。
最後に見たのは、夜の冒険に憧れて一人家を抜け出した時だったか。
あの時は泣いた。涙が涸れるくらい泣いて、謝って。一日二日で終わらない説教に、もうしませんと固く誓う程の恐怖は、決して忘れる事は出来ない。
ひぃ、と声が漏れる。逃げようと暴れる私に気づいて、彼の笑みがさらに深く、怖ろしくなっていく。
「今までは泣くお前が不憫になって、手心を加えてやっていたが、今回ばかりはそうもいかない。俺を含めた皆の説教が終わるまで何日かかるか分からんが、まあ気にするな。彼方は時の流れなど、あってないようなものだからな。存分に泣いて、叱られろ」
もうすでに涙目である。
彼の笑顔をこれ以上見ているのが怖くて、必死で顔を背け、目を瞑る。
「本当に、何を望めばこうなるんだか。これだけ狭間に近づいても、お前の姿がほとんど見えないとは。烏の気まぐれにも困ったものだ」
「からす?」
「まだいるな。折角だ。元に戻してくれと、望んでみたらどうだ?」
促されて目を開け、太陽を見る。
大分高く昇った太陽は、歪む周囲の景色に逆らって変わらずまん丸で綺麗だ。
かぁ、と鳴く声。僅かに残っていた木の一番高い枝に、一羽の烏が留まっていた。
こちらを見下ろしかぁ、と鳴き。金色の翼を広げて飛び上がる。
――嫌いなあなたはいなくなった。好きなあなたは好きなように生きればいい。
優しい声音でそれだけを告げ、太陽を目指し飛んでいく。
「嫌い?好き?一体何の事だ」
困惑する彼の声を聞きながら、歪んで消えていく太陽と烏をただ見つめていた。
20250104 『日の出』
墨をする。
心を落ち着かせる、この静かな時間を堪能する。
半紙の位置と、文鎮。それから筆。視線だけで確認して。
ことり、と墨を置く。
筆を手にし、筆先に墨を付ける。
年が明ける前から考えていた言葉を思い描きながら、半紙の白に力強く筆を押しつけた。
「で。これが今年の抱負、か」
「はい。これ以外はありえません」
「そう、か」
満面たる笑みを浮かべる少女に、少年は何とも言えぬ表情を浮かべた。
彼が手にしている半紙には、辿々しくも力強い字が書き付けてある。
――見敵必殺。
溢れ落ちそうになる溜息を押し殺し、引き攣る口角を上げ笑みを必死で形作る。
「意味は、知っている?」
「以前、当主様が仰っておられました。敵を見つけ次第、必ず殺す。さーちあんどですとろい、というのだそうです」
「そっか」
年端の行かぬ少女からは、聞きたくない言葉である。
「これ以外では、駄目なの?」
「逆にこれ以外の抱負などあるのですか」
「あ。うん。あるんじゃ、ないかな」
心底不思議だと言わんばかりの表情に、少年は視線を逸らし、胸中で重苦しい溜息を吐く。
これは駄目だ。自分の手には負えない。
とはいえ、このまま知らぬ振りをするわけにもいかず。適当な感想を言うわけにもいかず。
冷や汗を掻きながらどう説得すべきかを悩んでいれば、こんこん、と扉を叩く音が聞こえた。
「如何したの?悩み事かい」
低く落ち着いた響きの声が鼓膜を揺する。
部屋に入ってきた男を見て、助かった、と少年は安堵の息を吐いた。
「今年の抱負だってさ」
「おや。これは」
少年に手渡された半紙の文字に、男の眉が僅かに寄る。だがそれは直ぐに優しい微笑みに変わり、褒めるように少女の頭を優しく撫でた。
「上手に書けているね。この言葉は当主殿に教えてもらったのかな」
「はい。昨年の三が日の時に、不思議な匂いを纏われ上機嫌でいらした当主様から教えて頂きました」
「うわぁ」
去年、というよりも毎年三が日は、無礼講の如く朝から酒浸りで大騒ぎをするのが恒例行事だ。
今も母屋では、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎとなっている事だろう。
酒に酔い、上機嫌で少女に余計な言葉を教えた当主が簡単に想像でき、少年は口元をさらに引き攣らせた。
男の表情は変わらない。優しげな笑みを浮かべたまま、少女の目線に合わせて身を屈め、手にした半紙を少女へと手渡す。
「気持ちが込められた良い字ではあると思うよ。けれど残念ながら、これは課題として提出する事は難しいな」
「いけませんか?」
少女の言葉に、男の笑みが僅かに陰る。憂いを帯びた微笑みに、少女だけでなく男の真意を知る少年ですら、息を呑んで続く言葉を待った。
「先生方というのは、平穏を好み争い事を憂うものだからね。これは屋敷の中に飾る事にして、課題には別の言葉を書くといいよ」
嘘は何一つ言っていない。ただ男の表情と含みを持たせた言葉に、少女は何かを察したのか、あぁ、とか細い声を溢した。
「そうでしたか。先生方のお心を煩わせる事は本意ではありませんし、別の抱負を考える事と致します。教えて頂きありがとうございます」
悲しみを湛えた目を伏せて、少女は失礼します、と一礼し部屋を去って行く。
ぱたん、と扉が閉まる音に、少年は危機が去った事を実感し、深く息を吐いた。
「助かった」
「当主殿には、しっかりと話をしておくよ」
苦笑する男に、よろしく、とだけ告げて、少年はふらふらとベッドに歩み寄り、そのまま倒れ込んだ。
疲れた。まだ昼時も過ぎていない事は分かっていたが、少女をどう思い留ませるか考えすぎてしまった。
目を閉じる。このまま少し眠ってしまうのもいいのもしれない。
「大丈夫かい?水を持ってこようか」
「平気。少し疲れただけ」
ぎ、とベッドが軋む。男が座った気配に、少年はそのまま落ちていきそうな意識を手繰り寄せ、目を開けた。
顔だけを向けて男を見る。
「何か用があったんだろ?何?」
「いつものだよ」
少年の髪を指先で梳きながら、男は目を細める。
いつもの、の言葉に、少年は男から視線を逸らして、いつものか、と呟いた。
「年も明けた事だから、そろそろどちらにするか決めてくれたかと思ってね」
「あいつか俺か。どちらかじゃなきゃ駄目なのかよ。ばあさんでもいいだろ?当主なんだし」
「僕が従いたいと思うのが、二人なんだよ」
何度も繰り返されてきたやりとりに、少年は何も言葉を返さず目を閉じる。
「あの子はまだ幼いけれども、その気概はとても美しい。僕を十分に使役してくれるだろう」
「物好きが」
悪態を吐く少年を男は困ったように、だが愛おしそうに微笑み見つめる。拗ねてしまった子を宥める親のような慈しみを込めて、でもね、と男は言葉を続けた。
「僕としては、君に従いたいと思っているんだよ。君が頷かないから、こうして候補を広げているだけさ」
「俺は管なんていらない。一人で問題ない」
「困った子だね。強情な所は、本当に彼女にそっくりだ」
きゅっ、と唇を噛みしめる少年に、男は苦笑してその体を抱き上げる。膝に乗せその背をさすれば、次第に少年の抵抗は弱くなり、微かな嗚咽が混じり始めた。
「優しく、すんなっ!本当は、俺の事、嫌いなくせに。母さんっ、俺のせい、で、いなくなった、からっ!」
「嫌いにはなっていないし、況してや恨んでもいないと何度も言っているだろう?彼女は我が子を守ろうとしただけだ」
少年の耳元に唇を寄せて、男は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。それでも尚、首を振り否定する少年に、男は困ったね、と然程困っている訳でもない表情で呟いた。
「親が子を守るのは、当然の事だ。だから僕にも君を守らせてくれないかい?」
「やだ。いなくなるのは、もう、やだ」
「やれやれ。信用がないな。これでも猛助《もうすけ》と呼ばれ、人間達から怖れられている妖なのだけれどね」
くすり、と男は笑う。
分かっている。少年が男を信用していないのではなく、目の前で母を化生に奪われた幼き日の疵が、彼を今なお苦しめている事を。
失う事を怖れ、故に飯綱使いの家系に生まれながらも、未だに管の一つも使役しようとしていない事を。
かつて少年の母を己が主としていた男は、すべてを知って少年に語りかける。
「愛しい子。今年こそは君の管として、その身を守らせてくれないかい」
20250103 『新年の抱負』
「明けましておめでとう!」
かんっ、と釜の鳴る音。
あまりの煩さに目が覚めた。
「まだ…早い」
視線だけを向けて見た窓は、カーテン越しであっても暗さがよく分かる。
まだ夜明け前だ。起きるには早い。
「正月だぞ!年が明けたのだ。早く起きろ」
かんかん、と釜の音が鳴り響く。
頭まで布団を被る。だが間近で釜を鳴らされ続ければ、その騒音を防ぎようがなく。
これでは二度寝が出来そうにない。
「…起きる。起きますよ」
「最初から起きればよいものを。ほら、早くしろ」
もぞもぞと名残惜しげに布団から出る。
釜を持つ大男と、その隣に寄り添う女性に視線を向け、おはよう、と気のない挨拶をした。
「馬鹿者。新年の挨拶くらいはしっかりしないか」
「明けましておめでとう御座います。さあ、準備をしましょうね」
呆れる男に、やはり気のないおめでとうを言い。女に手を引かれ、部屋を出る。
向かう先が、普段行かない納戸である事に、密かに気を落とす。
分かっている。新年なのだから、それなりの格好をしなくてはならない。
着付けを含めた準備は、すべて任せてしまえばいい。
去年もそうだった。何かをしようとする前に、すべてが終わっていた。
小さく息を吐く。
納戸の扉が開けられ、その先にいた数人の女性達を視界に入れて、この先の面倒な神事を思い、鬱々とした気持ちで部屋に足を踏み入れた。
新年に限った事ではないが、神事とは長く退屈なものだ。
単調な祝詞。ゆったりとした神楽舞。そして吉凶占術の儀。
着慣れない衣装を着て、長時間の正座に耐えるのは苦行でしかない。
足の痛みに耐え、早朝と言う事も加わり、度々訪れる睡魔に抗う。
此方を監視するような男の視線を、半眼で見返す。半ば睨み付けている形になってしまうのは、眠気が強すぎるからで仕方のない事だ。誰にでもなく胸中で言い訳をして、一つ瞬きをする。
もう一度。さらにもう一度と瞬きをする度に目を閉じている時間が長くなっている気がするが、きっと気のせいだろう。
もう一度、目を閉じる。そしてそのまま、
――かんっ。
釜の音。びくりと肩を跳ねさせ、目を開ける。
視線だけで辺りを窺うが、見える範囲に釜はない。男の手にも、だ。
男と視線が交わる。呆れたようでこちらの反応を愉しんでいるような、にたり、とした笑みに頬が引き攣った。
逃げるようにして、男から視線を逸らす。すっかり冴えてしまった目を擦り、諦めて奉納される神楽が終わるのをただ待っていた。
「神事の途中に居眠りをしようとするな、この馬鹿娘」
頭を小突かれ、窘められる。
それに言い返す事はせず。一瞥しただけで、回廊の先を行く。
正論に言い返した所で、さらに正論が帰ってくるだけだ。
回廊の終わり。一つ置かれた大きな竈に、男が釜を置く。
一つ遅れて竈に火が点いた。近くで遊んでいた風が近寄り、火の勢いを強めていく。
「いいぞ」
男に促されて、釜の上の蒸籠に米を入れる。
蓋を乗せ、しばらくすれば聞こえるのは、低く唸る声にも似た音。
釜の音が形を成す。鳥や蝶、葉や羽など様々になり、四方へ去って行く。
必要とするモノの所へ、必要な言葉を届けに行くのだろう。
次第に形を成す音の数が減り。やがて釜は沈黙する。
ふっ、と詰めていた息を吐く。これですべてが終わった。
「上出来だ」
大きな手で力強く、優しく頭を撫でられる。揺れる視界で、男が笑った。
「さて。戻って飯にしようか。俺もそろそろ酒が飲みたい」
「朝酒は、さすがに怒られるのでは?」
「正月の酒は、許されるだろう。これから客も大勢訪れる事だしな」
呵々と笑う男の手から逃れ、乱れた髪を手で直す。
疲れて溜息を吐けば、男の笑みが柔らかくなった。
「今年こそは、探し人が見つかるとよいな」
「…はい」
探し人。誰かは分からない。ただ逢いたいと、その想いだけが身を焦がす。
そもそも、自身が誰なのかも覚えていない。
人か妖か。それすらも分からない。目の前の男にも、ここにいるモノの誰にも、それこそ常世に住まうモノにすら分からなかった。
ただ男は、己に似ていると言った。人が妖に成った気配に似ている、と。
男が妖に成った理由を詳しくは知らない。知っているのは、人でいた頃の名残で、こうして現世の神事の真似事をしている事と、妖と成るために禁術を使用したらしいという事だけだ。
「戻ろうか。朝餉の用意も出来ている頃合いだ」
男の差し出す手に、手を重ね。回廊に足を踏み入れる。
回廊を歩きながら横目で見る空は、どこまでも広く、青い。
「何故、神事を執り行っているのですか?」
「どうした?急に」
無意識に溢れ落ちた言葉に、男は立ち止まり首を傾げた。
聞くつもりはなかったが、一度口に出してしまったものは取り消せない。男を見上げ、答えを待つ。
「そうだな。最初は当てつけのつもりだったんだがな」
目を細め、遠い過去を懐かしむように、淡く微笑んで。
「釜の言葉を聞き取れぬ現世の奴らを、この狭間で真似事をして嗤っていたんだが。おまえが来て、真似事が本当の神事になったな」
手を引かれ、抱き上げられる。近くなった男の横顔はとても穏やかだ。
「急がんと朝餉が冷めてしまうな。しっかり捕まっていろ」
早足で回廊を戻る。落ちぬよう男の首元にしがみつきながら、過ぎていく景色を声もなく眺めた。
「新しき年だ。今は宴を楽しみ、目出度き日を祝おうぞ。直に釜の言葉を受け取ったモノらも訪れる事だろう。忙しくなるぞ」
速度が上がる。回廊を抜け、大広間へと駆け抜ける。
時折上がる、誰かの小さな悲鳴に声には出さずに謝罪した。
これは大広間に着くまで、止まる事はないだろう。
「何をなさっているのですか!」
「おっと。これは、まずいな」
悲鳴に混じり聞こえた声に、男が焦りを見せる。
慌て立ち止まる衝撃に、そのまま飛ばされてしまいそうになるのを必死に耐える。
きゅっ、と床を鳴らし、静止する。飛ばされぬ事に安堵していれば、そっと地に下ろされた。
振り返れば、怒りを露わにした女の姿。その矛先は男に剥いていると分かっていながらも、ひ、と思わず声が漏れる。
「子供ではないのですよ!新年早々浮かれすぎないで下さいまし」
「すまん。つい」
「つい、ではありませぬ!危ないと何度申し上げたら、殿はお聞き下さるのですかっ!」
男の妻である女の言葉に気まずさを感じていれば、横から手を引かれた。そのまま二人から離れ、手を引かれるまま納戸に向かい歩き出す。
「お召し物が乱れております。朝餉の前に整えましょう」
「ありがとう」
礼を言えば、仕えの女は淡く微笑んだ。
背後ではまだ、男を叱る声が響いている。当分終わる事はないのだろう。
新年とはこうも騒がしいものだったか。去年を思い返し、同じような光景を見ていた記憶に、溜息が出る。
「如何なされましたか?」
「酒飲みとは、怖ろしいなと思って」
疲れた笑みを浮かべつつ、首を振る。
切り替えなければ。今から疲れていては、この三が日を耐えきる事が出来ない。
出かかる溜息を呑み込む。顔を上げて前を見た。
――かぁん、と。
騒がしい年の始まりに、どこかで釜の音が響いた。
20250102 『新年』
今年もあと少しで終わる。
社の上がり口に座り、ぼんやりと周囲を見る。
鳥居と、手水場、社務所。
社務所の裏、木々を抜けた先の草原が昼寝に最適だと教えてくれたのは誰だっただろうか。
暖かな記憶の欠片に、はっきりとは思い出せない事を歯痒く思う。後悔は一切ないというのに、未練がましい矛盾した感情に苦笑する。
彼と出会って、私も随分と我が儘になってしまったみたいだ。
「黄櫨《こうろ》」
背後から聞こえた声。優しい響きに目を細める。
伸ばされた腕に擦り寄り、そのまま胸に凭れれば、声のように優しい手に頭を撫でられた。
「神様」
「寂しいのか」
意外な言葉に、顔を上げて彼を見る。首を傾げれば、小娘の事だ、と僅かに顔を顰めて彼は言う。
彼の言う彼女は、今はいない。年越しは家族と過ごすのだと、申し訳なさそうに言っていたのを思い出す。
気にする事ではないだろうに。親友は本当に優しい人だ。
彼もそうだ。どこまでも優しい彼に、笑って首を振る。
「違うよ。神様がいるから寂しくはないよ」
「では何を考えていた」
「私、我が儘になっているな、って。色々、思い出しながら考えてた」
優しい人達に囲まれて。怖くなるくらいに甘やかされている自覚はある。それをもっとと、足りないとねだってしまうのは、何て我が儘なのだろうか。
けれどそれを伝えても、彼は何故か満足そうに笑うだけで。頭を撫でる手が一層優しくなった。
「それでいい。求める事を覚え、与えられるものを素直に享受しろ。お前は子供なのだから」
「でも」
「大人の真似事なぞ、黄櫨には不要なものだ。誰かに応え生きていくのではなく、己自身のために望み生きよ」
彼は時々難しい事を言う。たくさんを与えられている状況で、さらに望めと酷い言葉を告げる。今ですら返せる気がしないというのに。
「与えられたものに対して、それと同等を返そうとは思うな。笑っていろ。それだけでいい」
「さらに我が儘になってしまうよ」
「それでいいと言っている。お前は大人の欲により眠りを否定され、使われ続けているのだから」
それを言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。
社の奥でさらに厳重に縄に巻かれ、封じられた以前の躰を思う。
数え切れないほどの呪を取り込んで、黒く染まった躰。記憶にはほどんどないけれども、それが長い年月により取り込まれて来た事くらいは見ていて分かる。
「神様」
「どうした。黄櫨」
「前の私は、可哀想だったの?」
ふと気になって彼に尋ねる。その優しさは憐みなのだろうか。
ただの興味本位だった。答えに興味は然程ない。
けれど彼は、僅かに目を見開いて、それから静かに微笑んだ。
「お前の生は、お前にしか分からぬよ。他者が推し量るものではない。況してや可哀想などと、卑しき言葉一つで思い做す事は許されぬ」
強く抱き竦められて、息を呑む。
すまない、と微かな震える声が鼓膜を揺すり、落ち着かなくなる。
謝罪の言葉に乗る感情は後悔だ。けれど彼が何に後悔しているのか、検討もつかない。
「神様?」
「選択肢を一つ消した。俺の望みのため、最良をなくしたのだ。憐みや慈悲ではない。俺の望みの、せめてもの償いだ」
何を言いたいのだろう。選択肢が何か、償いとは何かは分からない。
顔を上げて彼を見る。何かに後悔し苦しむ、優しい彼に伝えたい事があった。
「神様が望んでもいいと思うよ」
「黄櫨」
「神様は、ずっと人の願いを叶え続けてきたのだから。御衣黄《ぎょいこう》様が望んだっていいはずだよ」
頬に触れる。揺れる金を見返して、微笑んだ。
「俺の望みが、黄櫨の眠りを否定するものだとしてもか?」
「神様が側にいてくれないと、眠りたくはないよ」
我が儘を言ってみる。終って新しく始まるための眠りだとしても、一人は嫌だ。彼と一緒がいい。
彼が手を引いてくれる事で、私は前へ進む事が出来るのだから。
「このままで、俺と共にいてくれるのか?」
冬休みが始まる前にいなくなってしまった転校生が、さよならの前に言っていた事を思い出した。
呪を解く事が出来る、と。
その提案を、彼は否定した。呪を解くのではなく、封じてしまう選択を、彼は後悔していたのか。
「一緒にいたいよ。今の私だけでなくて、前の私も御衣黄様と一緒にいさせて」
願う言葉に、彼は微笑む。
頬に触れる手を包んで、黄櫨、と優しい声音で名を呼んだ。
「お前の望みにはすべて応えよう」
どこかで鐘の音がする。
除夜の鐘だ。慌ただしかった一年が終わり、また新しい一年が始まる。
どこか懐かしいその音を聞きながら、改めて彼を見る。
「えっと。明けましておめでとう御座います?」
「それはまだ早いな。年は明けておらぬ故」
「じゃあ。良いお年を?」
「それは昨日までの言葉だ」
呆れて笑う彼に、何を言えばいいのか分からなくなり、首を傾げる。
「言葉は必要なかろう。年を越すといえど、何も変わらぬ。昨日が今日になり、今日が明日になるというだけの事だ」
混乱する私を宥めるように、優しい手が背中を撫でる。
額に唇を触れさせて、彼はだが、と呟く。
「人にとって、一年とは大事なものであるからな。暫くは騒がしくなるぞ」
くすり、と笑い。
刹那、賑やかな声があちらこちらから聞こえてくる。
周囲を見渡す。いくつもの灯りに照らされて、明るい境内にたくさんの人が列を成す。
賽銭を投げ入れる音。本坪鈴の音。柏手。
必死に願う人を見て、戸惑い彼を見上げた。
「初詣だ。早い者はこうして年が明ける前から訪れる」
「すごい、ね」
「俺は神様をせねばならぬから戻るが、騒がしさを厭うのであれば、このまま神域にいるとよい」
「…神様と、一緒がいい」
驚きはすれど、それを理由に彼から離れるのは嫌だった。
服を掴み擦り寄ると、小さく笑う声がして抱き上げられる。
「長くなる。疲れたのならば、遠慮なく眠れ」
頷いて、耳を澄ませる。
たくさんの願い事、たくさんの想いを聞きながら、どこか夢見心地で籤を引く人達を見ていた。
喜ぶ人。悲しむ人。何度も籤を見返す人。
「願いを聞き、ああして籤で伝える。我に出来るは、ささいな事よ」
優しい眼をした彼を見る。どこか哀しげにも見えるその表情に、彼のために一つの歌を口遊む。
願いのすべてに応える必要はないのだと。手の届く範囲だけでいいのだと、想いを込めて。
「黄櫨」
「皆にとって、いい一年であって欲しいとは思うけれど。でもそれ以上に、御衣黄様の一年が穏やかであって欲しいと思っているよ」
微笑み、彼の首に両手を回して。
優しい神様を、そっと抱きしめた。
20250101 『良いお年を』
かた、と男は筆を置く。仕上がった原稿に、安堵の息が漏れた。
「お疲れ様で御座いやした。茶でも飲んで、ゆっくり休んで下せぇ」
ことり、と湯飲みを置かれ、代わりに仕上がったばかりの原稿を子供に取られる。男が横目で窺えば、真剣に原稿を読み込み、時折何かを書き付ける姿が見えた。
真面目だな、と湯飲みを手に取り茶を啜りながら、男はぼんやりと思う。
原稿を書き終えた今、何をするにも億劫だ。
仮眠でも取るべきかと思いながら、彷徨う視線が無造作に置かれたままの手帳を認めた。
湯飲みを片手に手帳を取る。見るとも無しに頁を捲り、男は懐かしさに目を細めた。
「この一年間、随分と騒がしかったみたいだな」
「そうですねぇ。消える妖より、堕ちた化生の方が多いなんぞ、世も末で御座いやすねぃ」
確かに、と頁を捲る。
この一年間、子供が語る話を殴り書いた手帳には、妖の話よりも化生の話の方が多い。特に妖が堕ちた化生の話が目についた。
「人の認識によって存在が歪み、化生に堕ちるんだったか。それにしては数が多いな」
「存在が歪んだだけでなく、妖自ら堕ちる事も増えてきやした。それだけ妖が人間に近くなってきた証拠でしょうなぁ」
「人に近くなってきた、ねぇ」
頁を捲る手を止め、ずず、と男は音を立てて茶を啜る。
そもそも妖とは何なのか。
人の望みに応え、認識される事で存在を保つモノ。人の認識により歪み、人に害をなすモノ。
人に近くなりすぎて、壊れてしまったモノ。
「人がいなけりゃ、妖も堕ちる事はないだろうに」
「何言ってるんですかい」
人知れず零れた男の言葉は、子供の呆れた溜息によって否定される。
「いいですかい、先生。まず人間がいなけりゃ、手前共みたいな妖は端から存在したりしやせん。人間がいて、求められて妖が存在するんでさぁ」
「お前もそうなのか」
「手前ですかい?」
顔を上げ、子供を見る。
きょとん、と目を瞬かせ男を見返す子供は、そのままつい、と空に視線を向ける。記憶を辿るように目を細め、穏やかに唇が弧を描いた。
「そうですねぇ。はっきりとは覚えていやせんが、声を聞きましたねぃ」
「声」
「えぇ。声です。男か女か。年寄りか子供か。今となっちゃあ誰かなんて分かりやせんが、声がしやした。暗い夜道に、灯りを求める声が」
灯り、と声には出さず呟いて、男は想像する。
遠い昔。夜の灯りなど、手にした提灯以外には月明かりしかない、暗い夜道。
一人きりで歩くのは、さぞ怖ろしかろう。灯りの届かぬ暗がりに、何かが蠢いているようで足が竦むのだろう。
もしも灯りがもう一つあれば。もう一人、誰かが隣を歩いてくれたのならば。
一人でなくば、暗い夜道も心細くはないだろう。
「随分と甘い事だ」
「先生には負けますよ。手前共に与えるだけ与えて、何一つ望んでくれやせん」
「望んだだろう。断られたが」
詳しく覚えていないが、少し前に疲れた頭で何かを望み、断られた気がする。
そう男がぼやけば、子供はあぁ、と原稿に視線を戻しながら相づちを打つ。
「それにはちゃあんと応えさせてもらいやした。きっちり締め切りに間に合わせて、締め切りをなくしたじゃあないですかい」
「屁理屈だな」
男の眉間に皺が寄る。
だがそれ以上何を言うでもなく。湯飲みに残った茶を飲み干すと、そのまま机に伏せ目を閉じた。
「先生。眠いなら座敷に床をしいていやすから、そこで寝てくだせぇ。こんな所で寝たら、風邪を引いちまいやさぁ」
「面倒だ」
「まったく。しようもないお人だ」
ふ、と息を吐き。子供は伏して微睡む男の背に毛布を掛ける。
いつもの事だ、と子供は笑みを浮かべ。
ふと思いついて、男の耳元に唇を寄せた。
「先生。あまり手前共を甘やかしてはいけやせん。欲が出て、堕ちてしまいやすよ」
男は答えない。規則正しい寝息に、子供の笑みが深くなる。
「人間と深く、長く関わるほど、妖というのは意思を持ちやす。情がわく、というやつでさぁ。意思を持てば欲が出る。欲が出れば、望みを持つ。触れ合いたい。離れたくない。失いたくない。永遠を共に」
灯りが消える。
暗闇の中。くすくす笑う子供の声が響く。
「妖が堕ちるのは、相手に永遠を望んでしまったからでさぁ。手順を踏まず、思いのままに人間の道理を歪めれば、当然堕ちるに決まっていやしょう?」
「手順…道理」
「おや?」
寝入ったはずの男の唇から言葉が溢れ落ちる。男の手が机の上を彷徨い、手帳に触れ引き寄せる様を見て、子供は目元を和らげる。
どこまでも仕事熱心な男に、子供は慈愛を目に浮かべ、幼子にするかのようにその背を撫ぜた。
「はいはい。仕事熱心なのはいいですが、半分以上寝てる今はおとなしく眠っていてくだせぇ。後でまた聞かせてあげやすからねぃ」
すうすう、とまた規則正しい寝息が聞こえ始め。子供は静かに男から離れた。
手には提灯が一つ。男を起こさぬよう、ゆったりとした足取りで部屋を出た。
「本当に、先生は困ったお人ですねぃ」
縁側を歩きながら独りごちる。
困った、困った、と言いながらも、子供の表情は酷く楽しげだ。
外を見る。月もなく灯りもない暗がりでナニかと目が合い、子供はゆらり、と提灯を揺らした。
「先生は今、お休み中でさぁ。静かに頼んますよ」
掃き出し窓が音もなく開く。ぞろぞろ入り込むのは、この一年間、男が書き留めた妖達だ。
手には酒や、食物を持ち。皆、それぞれに台所や茶の間へと移動する。
騒ぎ立てるモノは誰もなく。家の主である男を起こさぬよう、静かに準備をし始める。
「先生が起きた時が楽しみですねぃ。こんな賑やかな年越しなんて」
静かだが、どこか賑やかな室内に、子供は満足げに頷いて、自身も台所へと向かい歩き出す。
しばらくすれば目覚めるだろう男へ、新しい茶と甘味を用意をしなければならない。
「さて、今年もあと僅か。次の年には、どんな話を先生に聞かせられる事やら」
子供の足取りは軽い。
手にした提灯が新しい年のその先を思い、愉快だと言わんばかりにゆらゆら揺れていた。
20241231 『1年間を振り返る』