今年もあと少しで終わる。
社の上がり口に座り、ぼんやりと周囲を見る。
鳥居と、手水場、社務所。
社務所の裏、木々を抜けた先の草原が昼寝に最適だと教えてくれたのは誰だっただろうか。
暖かな記憶の欠片に、はっきりとは思い出せない事を歯痒く思う。後悔は一切ないというのに、未練がましい矛盾した感情に苦笑する。
彼と出会って、私も随分と我が儘になってしまったみたいだ。
「黄櫨《こうろ》」
背後から聞こえた声。優しい響きに目を細める。
伸ばされた腕に擦り寄り、そのまま胸に凭れれば、声のように優しい手に頭を撫でられた。
「神様」
「寂しいのか」
意外な言葉に、顔を上げて彼を見る。首を傾げれば、小娘の事だ、と僅かに顔を顰めて彼は言う。
彼の言う彼女は、今はいない。年越しは家族と過ごすのだと、申し訳なさそうに言っていたのを思い出す。
気にする事ではないだろうに。親友は本当に優しい人だ。
彼もそうだ。どこまでも優しい彼に、笑って首を振る。
「違うよ。神様がいるから寂しくはないよ」
「では何を考えていた」
「私、我が儘になっているな、って。色々、思い出しながら考えてた」
優しい人達に囲まれて。怖くなるくらいに甘やかされている自覚はある。それをもっとと、足りないとねだってしまうのは、何て我が儘なのだろうか。
けれどそれを伝えても、彼は何故か満足そうに笑うだけで。頭を撫でる手が一層優しくなった。
「それでいい。求める事を覚え、与えられるものを素直に享受しろ。お前は子供なのだから」
「でも」
「大人の真似事なぞ、黄櫨には不要なものだ。誰かに応え生きていくのではなく、己自身のために望み生きよ」
彼は時々難しい事を言う。たくさんを与えられている状況で、さらに望めと酷い言葉を告げる。今ですら返せる気がしないというのに。
「与えられたものに対して、それと同等を返そうとは思うな。笑っていろ。それだけでいい」
「さらに我が儘になってしまうよ」
「それでいいと言っている。お前は大人の欲により眠りを否定され、使われ続けているのだから」
それを言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。
社の奥でさらに厳重に縄に巻かれ、封じられた以前の躰を思う。
数え切れないほどの呪を取り込んで、黒く染まった躰。記憶にはほどんどないけれども、それが長い年月により取り込まれて来た事くらいは見ていて分かる。
「神様」
「どうした。黄櫨」
「前の私は、可哀想だったの?」
ふと気になって彼に尋ねる。その優しさは憐みなのだろうか。
ただの興味本位だった。答えに興味は然程ない。
けれど彼は、僅かに目を見開いて、それから静かに微笑んだ。
「お前の生は、お前にしか分からぬよ。他者が推し量るものではない。況してや可哀想などと、卑しき言葉一つで思い做す事は許されぬ」
強く抱き竦められて、息を呑む。
すまない、と微かな震える声が鼓膜を揺すり、落ち着かなくなる。
謝罪の言葉に乗る感情は後悔だ。けれど彼が何に後悔しているのか、検討もつかない。
「神様?」
「選択肢を一つ消した。俺の望みのため、最良をなくしたのだ。憐みや慈悲ではない。俺の望みの、せめてもの償いだ」
何を言いたいのだろう。選択肢が何か、償いとは何かは分からない。
顔を上げて彼を見る。何かに後悔し苦しむ、優しい彼に伝えたい事があった。
「神様が望んでもいいと思うよ」
「黄櫨」
「神様は、ずっと人の願いを叶え続けてきたのだから。御衣黄《ぎょいこう》様が望んだっていいはずだよ」
頬に触れる。揺れる金を見返して、微笑んだ。
「俺の望みが、黄櫨の眠りを否定するものだとしてもか?」
「神様が側にいてくれないと、眠りたくはないよ」
我が儘を言ってみる。終って新しく始まるための眠りだとしても、一人は嫌だ。彼と一緒がいい。
彼が手を引いてくれる事で、私は前へ進む事が出来るのだから。
「このままで、俺と共にいてくれるのか?」
冬休みが始まる前にいなくなってしまった転校生が、さよならの前に言っていた事を思い出した。
呪を解く事が出来る、と。
その提案を、彼は否定した。呪を解くのではなく、封じてしまう選択を、彼は後悔していたのか。
「一緒にいたいよ。今の私だけでなくて、前の私も御衣黄様と一緒にいさせて」
願う言葉に、彼は微笑む。
頬に触れる手を包んで、黄櫨、と優しい声音で名を呼んだ。
「お前の望みにはすべて応えよう」
どこかで鐘の音がする。
除夜の鐘だ。慌ただしかった一年が終わり、また新しい一年が始まる。
どこか懐かしいその音を聞きながら、改めて彼を見る。
「えっと。明けましておめでとう御座います?」
「それはまだ早いな。年は明けておらぬ故」
「じゃあ。良いお年を?」
「それは昨日までの言葉だ」
呆れて笑う彼に、何を言えばいいのか分からなくなり、首を傾げる。
「言葉は必要なかろう。年を越すといえど、何も変わらぬ。昨日が今日になり、今日が明日になるというだけの事だ」
混乱する私を宥めるように、優しい手が背中を撫でる。
額に唇を触れさせて、彼はだが、と呟く。
「人にとって、一年とは大事なものであるからな。暫くは騒がしくなるぞ」
くすり、と笑い。
刹那、賑やかな声があちらこちらから聞こえてくる。
周囲を見渡す。いくつもの灯りに照らされて、明るい境内にたくさんの人が列を成す。
賽銭を投げ入れる音。本坪鈴の音。柏手。
必死に願う人を見て、戸惑い彼を見上げた。
「初詣だ。早い者はこうして年が明ける前から訪れる」
「すごい、ね」
「俺は神様をせねばならぬから戻るが、騒がしさを厭うのであれば、このまま神域にいるとよい」
「…神様と、一緒がいい」
驚きはすれど、それを理由に彼から離れるのは嫌だった。
服を掴み擦り寄ると、小さく笑う声がして抱き上げられる。
「長くなる。疲れたのならば、遠慮なく眠れ」
頷いて、耳を澄ませる。
たくさんの願い事、たくさんの想いを聞きながら、どこか夢見心地で籤を引く人達を見ていた。
喜ぶ人。悲しむ人。何度も籤を見返す人。
「願いを聞き、ああして籤で伝える。我に出来るは、ささいな事よ」
優しい眼をした彼を見る。どこか哀しげにも見えるその表情に、彼のために一つの歌を口遊む。
願いのすべてに応える必要はないのだと。手の届く範囲だけでいいのだと、想いを込めて。
「黄櫨」
「皆にとって、いい一年であって欲しいとは思うけれど。でもそれ以上に、御衣黄様の一年が穏やかであって欲しいと思っているよ」
微笑み、彼の首に両手を回して。
優しい神様を、そっと抱きしめた。
20250101 『良いお年を』
1/2/2025, 7:04:10 AM