まだ暗い空の先を、睨むようにして見上げていた。
「日の出はまだだ。そのような顔をするものじゃない」
「そんな顔って、どんな顔よ」
隣から聞こえる声に、憎まれ口を返す。
姿は見えない。もう見えなくなってしまった。
「いつにも増して機嫌が悪いな。何かあったか?」
「別に。ただ来年の事を思うと、ちょっと落ち着かないだけ」
「そうか。十八になるのか。もう巣立ちの時期なのだな」
感慨深げな声に、手を強く握り締める。
その声音は酷く穏やかで、別れを惜しむ感情は一切含まれていない。
私だけだ。別れを怖れ、泣いて縋ってしまいたいのは。
小さい頃から見えていた、人ではないモノ達が見えなくなり、声が聞こえなくなってきたのはいつからだろう。
最初は、祖母の家の奥座敷にいた少女だったように思う。
最初の友達。皆には見えないモノを見る、変わった子として周りから爪弾きにされていた私に優しくしてくれた、可愛い女の子。おはじきやかるたなど、昔の遊びをたくさん教えてくれた、優しい子。
彼女に手を引かれ、家の中や周囲の皆に紹介してもらったからこそ、一人の寂しさに耐える事が出来た。
それなのに、数年前から彼女の姿が見えなくなった。戸惑い泣く私に、仕方がない事だと宥めてくれた優しい声すら、今はもう思い出す事が出来ない。
彼女が消え、家の中にいた皆が次々に消えて、声を残して他のモノは見えなくなった。
きっと今年が最後だ。
「ね。あの子はまだ奥座敷にいてくれているの?」
「ああ。彼女はいつもお前の帰りを待ち、見守っているよ」
「いつもありがとうって、伝えてくれる?」
「それは直接伝えるといい。屋敷では常にお前の側にいるのだから」
声は優しく、それでいて何よりも残酷な事を言う。
姿が見えず、声も聞こえないのに、どこに向かって言えというのか。
鼻の奥がツンとする。気を抜けば直ぐにでも泣いてしまいそうだ。
「なんでそう、酷い事が言えるかな」
「酷い、か。そういうつもりではないのだが」
「そうね。これっぽっちも考えた事はないよね」
「やはり機嫌が悪いな。俺といるのは苦痛か?」
声はまた、酷い事を簡単に言葉にする。
耐えきれなくなり、膝を抱えて俯いた。
「少し、疲れた。日の出が近くなったら起こして」
声が何かを言うよりも早く、適当に言い訳をして目を閉じる。泣くなと自分自身に言い聞かせ、声が漏れないように唇を噛んだ。
声はすべて分かっているのかもしれない。泣くのを我慢している事も、別れを怖がっている事も。
これはただの強がりだ。私の精一杯の見栄だ。
それでも良い。
最後に残った声の主である彼には、弱い所は見せずにさよならを言いたかった。
ふと、呼ばれた気がして顔を上げる。
暗い空の向こう。一筋の白を認めて目を細めた。
日の出だ。新しい一年が始まったのだ。
「きれい」
「毎年見ているだろうに」
隣から呆れた声がして、ほっとする。
まだ聞こえている。彼が隣にいる事を感じられる。
こうして最後に一緒に彼と一緒にいられる事が、泣きたいくらいに幸せだった。
「今年で、きっと最後だ」
「すでに決めているのか?」
「まだ。進学も就職も、何にも決めてない。でも働く事になるだろうね。おばあちゃんはもういないから」
祖母は去年の秋に亡くなった。眠るように、穏やかに逝ってしまった。
両親から愛されなかった私を、唯一愛してくれた祖母。子供の私を守ってくれる大人は、もういないのだ。
「ごめんね。おばあちゃんが残してくれた家、きっとお母さん達に取られちゃう。私じゃ、守れないから」
祖母の遺志だとしても。
子供の私の言葉を、大人達は聞いてくれない。適当に宥めすかされ、言い聞かせられて大人の都合のいいように事を進めていくのだろう。
「気にするな。仕方のない事だ」
仕方がない。軋む心に手を当てた。
彼が冷たいのか、そう思えない私がおかしいのか。
白む空を見つめ、その先の昇る日を睨んだ。
朝が来る。泣いて嫌だと叫んだ所で、時は止まらない。
あぁ、嫌だ、と手を握りしめた。
好きなものを守れない私も。さよならに怯える私も。彼を酷いと思ってしまう私も。
弱い私が、私は大嫌いだ。
「夜が明けるな。そろそろ戻るとしようか」
「そうだね」
頷くも、視線は朝日に向けたまま。
丸く、欠けた所のない太陽に嫉妬した。
いいなぁ、と小さく溢し。嫌いな私と比較して、笑った。
大嫌いな私なんて、このまま消えてしまえばいいのに。
声を出さずに呟いた。
ぱちんっ。と。
何かの割れる音がした。代わりに周りの音が消えた。
「え?」
振り返る。そこにいた皆の姿を認めて、声が漏れた。
赤い振り袖をきたあの子。家を軋ませて笑っていた小さい子達。
近くの淵に引きこもってばかりだったはずの青年。踊るのが好きな猫や狸達。
そして、彼。
皆がいた。一人ぼっちの私を支えてくれた、優しい彼らがそこにいた。
焦ったように、困惑し必死で誰かを探している。声は聞こえないけれど、皆誰かの名前を呼んでいる。
「どうしたの?」
声をかけても、誰も私に気づかない。
そこでようやく理解した。
私は、いなくなってしまったのだ。
口元が無意識に緩む。くすくす、と声が漏れてしまう。
彼らが私を探してくれている。それが何より嬉しかった。
彼の側に寄る。久しぶりに見る事の出来た彼の姿に、初めて見る焦りを含んだその表情に、益々彼を好きになる。
大好き、と小さく呟いて、彼に手を伸ばす。
彼に触れる事なくすり抜けた手を、少しだけ残念に思いながら。手を引いて、数歩下がる。
彼を見て、皆の事を見て。
「ありがとう。さようなら」
笑う。皆が好きだと言ってくれた、とびきりの笑顔を浮かべた。
くるりと彼らに背を向けて、歩き出す。
これからどうすればいいのかは、何一つ分からない。けれど何とかなるだろう。
不思議と怖くはなかった。大丈夫、と弾む声音で囁いて、飛び跳ねるように道を行く。
何だか楽しくて仕方がない。
「こ、のっ!大丈夫なわけがあるか!」
ぐい、と腕を引かれた。バランスを崩して背後に倒れ込む体を、大きな影が包み込む。
「お前、日の出に何を望んだ!何を望めばこうなるんだ!馬鹿なのか?いや、馬鹿だからこうも気楽なのだろうが。あぁ、まったく!」
「え?えと、あれ?」
背後から降り注ぐ声に、訳も分からず目を瞬く。
「さっさと何を望んだのか説明しろ、この阿呆。呆けている暇があるなら、この消えかけている状況を何とかする努力をしろ。本当にお前は、昔から突拍子もない事ばかりするのだから」
「いや、そんな変な事ばかりしてないし。というか、何が起こっているのか私にも分からないし」
「おい、黙ってないで何とか言ったらどうだ。いつまで黙りを続けているつもりだ」
おや、と首を傾げる。
ねぇ、と体を抱き留めている彼の腕を叩き声をかけるが、反応はない。
伝わらない事にどうしようかと悩んでいれば、小さな手が腕に触れた。
はっとして視線を向ける。柔らかな、それでいてどこか哀しげな笑みを浮かべた赤い振り袖の少女が、腕から手首へと手を這わせ、そのまま強く手を繋いだ。確かめるように、離れないように繋がれた手に、思わずごめん、の言葉が零れる。
「声。聞こえていないのかも。さっきより姿も薄くなっている。わたしたちが分からないのかもしれない」
「そう、だな。先に隠してしまった方が良いか。また消えられてしまったら、探す事も叶わんからな」
「お屋敷は、こちらで隠しておくから。それじゃあ、彼方で」
「あぁ。後でな」
するり、と手が離れ、少女は背を向け去って行く。
名残惜しげに手が彼女を追うが、きゅっと強くなった彼の腕に、身じろぎして彼を見た。
目線は合っているはずなのに、視線が合わない。彼の目の中に私の姿が見えない。
「世話の焼ける子だ。精々、軽率に俺らに望む事の愚かさを、彼方で悔いる事だな」
呆れを乗せた声音で呟く彼の周りを、風が舞う。
ざわり、ざわ、と渦を巻いて、周りの景色を歪めていく。
怖くて彼にしがみつけば、小さく笑う気配がした。
「お前のほとんどが消えた原因の説明を聞いた後は、説教だな。言いたい事がある奴らで、順にしてやろう。足のしびれで立てなくなるだろうが、自業自得というやつだな」
久々に見る、彼の怒りの込められた凶悪な笑み。
最後に見たのは、夜の冒険に憧れて一人家を抜け出した時だったか。
あの時は泣いた。涙が涸れるくらい泣いて、謝って。一日二日で終わらない説教に、もうしませんと固く誓う程の恐怖は、決して忘れる事は出来ない。
ひぃ、と声が漏れる。逃げようと暴れる私に気づいて、彼の笑みがさらに深く、怖ろしくなっていく。
「今までは泣くお前が不憫になって、手心を加えてやっていたが、今回ばかりはそうもいかない。俺を含めた皆の説教が終わるまで何日かかるか分からんが、まあ気にするな。彼方は時の流れなど、あってないようなものだからな。存分に泣いて、叱られろ」
もうすでに涙目である。
彼の笑顔をこれ以上見ているのが怖くて、必死で顔を背け、目を瞑る。
「本当に、何を望めばこうなるんだか。これだけ狭間に近づいても、お前の姿がほとんど見えないとは。烏の気まぐれにも困ったものだ」
「からす?」
「まだいるな。折角だ。元に戻してくれと、望んでみたらどうだ?」
促されて目を開け、太陽を見る。
大分高く昇った太陽は、歪む周囲の景色に逆らって変わらずまん丸で綺麗だ。
かぁ、と鳴く声。僅かに残っていた木の一番高い枝に、一羽の烏が留まっていた。
こちらを見下ろしかぁ、と鳴き。金色の翼を広げて飛び上がる。
――嫌いなあなたはいなくなった。好きなあなたは好きなように生きればいい。
優しい声音でそれだけを告げ、太陽を目指し飛んでいく。
「嫌い?好き?一体何の事だ」
困惑する彼の声を聞きながら、歪んで消えていく太陽と烏をただ見つめていた。
20250104 『日の出』
1/5/2025, 6:28:50 AM