籠の中の蜜柑が消えた。
溜息を吐いて、縁側に続く障子戸を開ける。
縁側の隅。縮こまるようにして座る坊主に、蹴りを見舞う。
「人の蜜柑を盗むんじゃない。この糞坊主」
「何という惨い仕打ち。愚僧はただ、気づいて欲しかっただけだというのに」
「五月蠅い」
吐き捨てて見下ろせば、ひぃ、と情けない声が上がる。抱えていた蜜柑を恐る恐る差し出して、まろび転がるようにして坊主は去って行った。
「まったく」
短く息を吐き、座敷に戻る。ぴしゃん、と障子戸を鳴らし締めてしまったが、仕方がないと誰にでもなく言い訳をした。
籠に蜜柑を戻し、そのまま炬燵に足を入れる。暖かさにほぅ、と息を吐いて、徐に蜜柑に手を伸ばす。
「可哀想になぁ。蜜柑に嫉妬する柿の気持ちなんざ、お嬢には些事でしかないらしい」
「五月蠅いよ」
座敷の角。一升瓶を抱えたままげらげら笑う、赤ら顔の男を睨めつける。
おぉ、怖い、と笑いながら手酌で酒を注ぎ、一気に呷る。
だがそれが最後だったらしい。さらに継ぎ足そうと一升瓶を傾けるが、一滴すら出ては来ず。空の一升瓶を名残惜しく揺すり、やはり一滴も出ない事に肩を落とした。
「お嬢、蔵の鍵くれや」
ゆらり、と立ち上がり、赤ら顔の男は此方に近づき手を差し出す。
それを横目にしながらも、男を気にする事はなく、手にした蜜柑の皮を剥き始める。
「お嬢」
「断る。厨に残っている、いつもの酒でも飲んでいろ」
赤ら顔の男の眉間に皺が寄る。握り締めた一升瓶に罅が入り、そのまま砕けて辺りに散った。
「鍵を寄越せ。人間」
割れた瓶の欠片を眼前に向け、男は再度要望を口にする。
少しでも身じろぎすれば、鋭い切っ先が眼球を抉るのだろう。焦点も合わぬほど近距離の破片を見つめながらも、返す言葉は、やはり否だ。
「いやだね」
「糞餓鬼がっ」
破片が眼球を抉る、その寸前。男の手首に細い糸が絡みつき、強い力で背後に引かれた。
それとほぼ同時。縁側の障子戸が開かれ、藁を纏い手には鉈を持った男が入り込む。糸に手を引かれ体制を崩していた赤ら顔の男に詰め寄り、その頭を容赦なく鉈の柄で殴りつけた。
「こりゃ、三吉!おめ、童っこに何さしよとしでんだ。それに蔵ん酒ば年越しん時のもんだで言ったべや。わりぇ子には仕置ぎせんばねぁな」
「痛っ。やめろ、角を持って引き摺るんじゃねぇ。悪かった。悪かったっつってんだろ!」
藁を纏った男は、赤ら顔の男の額の角を持ち、引き摺りながら襖戸を開ける。痛がる赤ら顔の男を意にも介さず、そのまま隣の座敷に移動する。
ぱたん、と襖戸が閉められた後、ぎゃぁぁぁ、という断末魔の声を最後に、何も聞こえなくなった。
はぁ、と溜息を溢し。気を取り直すように、手にしたままの蜜柑を一房口に入れる。
「ん。美味い」
甘さと瑞々しさと、仄かな酸味に口元が綻ぶ。もう一房口に含み、その味を堪能していれば、す、と隣に湯飲みが置かれ、背後から頭を撫でられた。
「賢い。賢い」
「来てたの分かってたからね。助けてくれて、ありがと」
見上げれば、赤い八つの目を持つ男と視線が交わる。
礼を言えばふわり、と表情を綻ばせ。しかしその目はどこか咎めるように細まった。
「だが、言葉は穏便に」
「…善処します」
気まずさに視線を戻し、また一房蜜柑を口にする。残った蜜柑を置いて湯飲みに手を伸ばし、ずず、と音を立てて茶を啜れば、その温かさにほぅ、と声を漏らした。
「負けず嫌いなのは悪い事ではないけれど、酔っ払いを煽ってはいけないわ」
開いたままの障子戸から、箒とちり取りを持った骸骨が入ってくる。瓶の欠片を片付けながら、窘められて、ごめん、と素直に謝罪した。
「酒飲みなんて馬鹿しかいないのだから、適当にあしらっておけばいいのよ。そうすれば、怖い思いをしなくてすむのに」
「ごめんって。でも誰かは助けてくれるって分かっているから、怖くはないな。骨の姉さんだって、いつも助けてくれるしね」
湯飲みを置き、蜜柑を食べながらそう伝えれば、骸骨はかたかた、と機嫌良く骨を鳴らす。
片付けが終わったのだろう。箒とちり取りを手に立ち上がると、その場でくるり、と回って見せた。
「あなたは私をいつも褒めてくれる、優しい子だもの。ねぇ、今日の私は綺麗かしら?」
「骨の姉さんはいつだって綺麗だよ。骨だけでも、そこに肉がついていたとしても」
「あら、嬉しい。いつもありがとう」
片付けてくるわ、とさらに骨を鳴らして、足取り軽く座敷を出ていく。
いつの間にか、赤い目の男もいなくなってしまったようだ。
自分以外誰もいなくなってしまった座敷で、蜜柑を食べつつ賑やかな音に耳を澄ませる。
ぎゃあ、と時折上がる半泣きの悲鳴は、先ほどの赤ら顔の男のものだろうか。ばたばた、と走り回る音はとても騒々しい。
遠くで、木を切り倒す音が聞こえる。少なくなってきた薪の足しにでもするのだろう。その合間に聞こえるのは、小豆を研ぐ音。楽しげに、だが時折外した調子の鼻歌に、耐え切れずくすくす笑いが漏れる。
ふと、障子戸の開けられる音がした。視線を向ければ、先ほど逃げていった坊主が、手に包みを抱えて此方の様子を窺っている。
「なに?」
「これを」
怖ず怖ずと座敷に入り、包みを開ける。
「柿?」
「あんぽ柿である。愚僧めが作り申した」
期待した目で見られ、苦笑する。一度茶を飲んでから、あんぽ柿に手を伸ばした。
一口囓る。干し柿と違う、柔らかさと瑞々しい甘さが口の中に広がり、目を細めて堪能する。
「美味しい」
「そうであろう。蜜柑などには引けを取らぬ旨さであろう」
「いや。蜜柑の方が好きかな」
正直な感想を言えば、なんと、と崩れ落ちる坊主に、楽しくなってけらけら笑う。
あんぽ柿を囓り、賑やかな屋敷の音を聞きながら。
こんな騒々しい年の瀬も悪いものではないな、と思った。
20241230 『みかん』
「あれ?九重《ここのえ》じゃん」
聞き覚えのある声に、僅かに眉が寄る。
失敗した。外になど出るべきではなかった。
後悔が渦巻くが、今となっては意味がない。表情には出さぬよう気をつけながら、声のした方へと視線を向けた。
「お前、スマホとか持ってないし。冬休み中は会えないと思ってた」
会えてうれしい、と破顔する彼に、そうだな、と曖昧に笑ってみせる。視界の端でいくつもの手が揺れているのが見えて、思わず口元が引き攣った。
「なんで、こんな所に」
娯楽など一つもない、寂れた郊外の住宅街を彼が訪れる意味が分からない。
彼の家は、学校を挟んで反対側にある。この近辺に彼の親戚の類いがいる訳でもない。
口をついて出た言葉に、彼はきょとん、と目を瞬かせ、笑った。
「俺?おれは」
楽しそうな笑み。風が吹き抜け、周囲の音が消える。
「お前を探しに来たに決まっているだろう?奏《かなで》」
彼の左腕に絡みつくいくつもの手が、責め立てるように揺れ動いた。
「まったく。折角の休日なのだから、俺と遊んでくれてもいいだろうに。冷たい奴だ」
逃げようと下がる足は、彼の腕から離れた手に縫い止められて動かす事が出来ない。
ゆっくりと歩み寄る彼に左手を取られ、繋がれる。繋がれた事で足を縫い止める手は離れていったが、代わりにいくつかの手が左手を辿って腕に絡みついた。
以前の戯れで絡みついていた時よりも強く、しがみつく。
「離せ、って」
「駄目だ。奏は俺の友達なんだから、連絡手段は必要だろう。おれの可愛い眷属達の手を貸してやるってんだ。大事にしろよ」
ぞわり、と不快な感覚に顔を顰める。嫌だと腕を引けど全く離れる事のない手に、焦りが浮かぶ。
そんな自分の姿に、彼は表情の抜け落ちた目をして見つめ。腕を引き、歩き出した。
「ちょっ。どこに!」
「お前、暇だろ。俺と遊べ。何なら、俺の家に泊まりに来い」
「そんな、急に」
半ば引き摺られるようにして、歩いて行く。有無を言わさぬ強い力に、苛立ち眉が寄った。
「あぁ、だが」
不意に、足が止まる。突然の事にふらつく体を立て直し、非難の意味を込めて睨み付ければ、彼はにやり、と口元を歪めた。
「そう言えば、お前は買い出しに向かうんだったか。足りない材料があったらしいな」
「な、んで。それを」
「さて、なんでだろうな。まぁ、そんな些事より、これから俺とその買い出しに行って、そのまま鍋料理を振る舞ってくれ」
名案だと言わんばかりの彼の表情に呆れ、耐えられず重苦しい溜息が溢れ落ちる。
本当に面倒だ。だがこのまま手が離れる事はないのだろう。
痛む頭を右手で押さえ、さする。仕方がないと自身に言い聞かせ、僅かに高い彼を見上げた。
「お前と友達になった覚えはない。さっさと歪を戻して、鳴音《なおと》の中に引っ込め、悪趣味野郎」
「相変わらず口が悪いな。おれとも仲良くしてくれてもいいんだぞ、奏」
「気安く名前で呼ぶな。気持ち悪い」
「振られてしまったか。仕方がない。俺を頼むぞ」
彼は笑う。
風が吹きぬけ、一瞬の間に音が元に戻る。
「あれ?俺、いつの間に九重と手を繋いでたんだ?」
目を瞬かせ、不思議そうに手を見る彼に、ついさっき、と適当に答えた。
「それより。これから買い物に行くんだけど、一緒に来る?」
「買い物?」
「夕飯、鍋にしようと思って。何だったら、夕飯食べてく?」
「…いいの?」
不安そうに見つめる彼に、いいよ、と視線を逸らして答える。
彼と自分の左腕に絡んだ手がゆらゆら揺れて、早く行こうと急かしている。
あぁ、と隣から声が漏れた。微かに聞こえる嗚咽は、聞こえないふりをして歩き出した。
「俺、誰かと夕飯を食べるの、久しぶりだ」
「味の期待はするなよ」
手を繋いだまま、歩く。時折好奇の目が向けられるものの、今更気にする事もない。
学校の事、授業の事。時々、自分の事。取り留めのない話をしながら、小さく笑い合う。
誰かと話をしながら買い物に行くのも、たまにはいいものだ。
「あのさ」
「ん、何?」
足は止めぬまま、視線だけを彼に向ける。
不安と、遠慮と、恐れと。それからほんの少しの期待を混ぜた目が揺れて、また一つ透明な滴が溢れ落ちた。
「九重の事。奏って、呼んでもいい、かな?」
その涙を、綺麗だな、と思いながら、小さく笑って空を見た。
「じゃあ、代わりにお前の事、鳴音って呼ぶわ」
息を呑む音。怖ず怖ずと、奏、と呼ぶ声が擽ったい。
家族や、もう一人の彼とはまた違う、その優しい響きが心地好い。
悪くない。腕にしがみつく手は確かに不快で、もう一人の彼とは言葉を交わすだけでも嫌になる。
それでも友人と過ごす時間は、とても暖かだ。
「今度、泊まりに来る?何にもないけど、それでもよければ」
「っ。じゃっ、じゃあさ。俺の家にも泊まりに来なよ!一人暮らしだし、ずっといてくれて、も」
尻すぼみになる言葉に、声を上げて笑う。
それも悪くないと思える自分がいる事がすごく不思議で、とても可笑しかった。
「そんなら、いっそルームシェアする?生活費諸々半分になって、少ない仕送りとバイト代でひいひい言ってる身としては、ありがたいしかないな、それ」
「い、いいの?」
「おじさんたちに聞いてみなよ。こっちは何も言われないけど、そっちは一応保護者って事になってるんだろう?」
「うん…うん!聞いてみる」
破顔する友人に、落ち着いてきた笑いがまた、込み上げてくる。
雪で、自分以外を失った友人。
家が嫌で、逃げ出してきた自分。
一人と一人が出会って、二人でこうして手を繋いで歩いている。
逃げ出して捨ててきた温もりが、こうして再び繋がれて。
退屈なはずの冬休みも、今回は楽しくなりそうだ。
充足感に似た気持ちに、繋ぐ手に力を込めた。
20241229 『冬休み』
白の毛糸で編まれた手袋をした手を目の前にかざす。
だらしなく緩んだ唇から、ふへっ、と間の抜けた笑い声が漏れた。
愛しい妹が、兄のために編んでくれた手袋。
今朝方、朝食の後に妹に呼び止められ手渡されたものだ。
その時の頬を朱に染め、はにかむ妹は他の誰よりも可憐でいじらしいものであった。渦巻く激情を押し込め、ただ笑いかけ頭を撫でるだけでその場を去る事が出来たのは、偏に兄としての矜持を持っていたからだ。
誰もいない自室では、取り繕う必要もない。故に、こうして意味もなく手袋を嵌めた手を見ては、にやにや笑う事を繰り返し。
彼此半日が過ぎようとしていた。
「いつまでそうしているつもりですか」
不意に戸が開き、男が溜息と共に部屋の中へと足を踏み入れる。
「やらねぇよ」
「いりませんよ。私の分は先ほど頂きましたから」
「は?」
弾かれたように身を起こす。
男に視線を向ける。その手に嵌められた水浅黄色の手袋を認め、兄の表情が歪んだ。
「皆の元へ配り歩いておりました」
「俺だけじゃないのか」
「えぇ。皆、喜んでおりましたよ」
あからさまに落ち込み俯く兄に、男は呆れたように息を吐く。
背後を一瞥し、それと、と言葉を続けながら脇へと移動した。
「いい加減にそのだらけた格好を直して下さい。客人ですよ」
「は?一体誰、だ、よ」
至極面倒だと言わんばかりに視線を向ける兄の表情が、焦りを含んだものへと変わる。
「日和《ひより》」
「ごめん、なさい。すぐ戻るから」
服の裾を握り締めて視線を彷徨わせる妹に、慌てて立ち上がり側に寄る。今までの失態を全て見られていた事実に叫びそうになりながらも、その細い肩を引き寄せ部屋に招き入れた。
「どうした?何か嫌な事でもあったか?」
努めて穏やかに声をかける。
元いた場所に座ると、そのまま妹を膝に乗せ落ち着かせるように背を撫でた。
「その。手袋、やっぱり迷惑だったかな、って。思って、それで」
視線を逸らしながら、ぽつりぽつりと呟かれた言葉。手渡した際の兄の様子から、不安になったのだろう。
眉間に皺を寄せ、自身の朝の態度を反省していれば、でも、とか細い声が続いた。
「気に入って、もらえて。うれしい」
頬だけでなく耳まで朱に染め俯く妹に、兄は感情のままに抱きしめたくなる手を必死に堪える。
そうか、と兄は呟いて、そのまま黙り込む。妹もそれ以上何も言わず。沈黙が訪れた部屋で、男の呆れたような声が響いた。
「あの体たらくを見られて、今更取り繕う必要もないでしょうに」
顔を向け、男を睨めつける。
「あぁ、大丈夫ですよ。実際に姿を見せた訳ではありません。あの見るに堪えない締まりない顔は、さすがに見せられませんでしたから。まぁ、不気味に笑う声は聞こえていたでしょうがね」
「うそ、だろ」
「本当の事です」
告げられる残酷な事実に、絶句する。
恐る恐る妹を見る。気まずさで泣きそうに瞳を揺らした妹と視線が交わり、兄の口から呻く声が漏れた。
「どんなお兄ちゃんでも、かっこいい、と、思うよ」
「日和」
妹の拙い慰めの言葉に何とも言えない気持ちになりながら、兄は妹の体を抱きしめる。
もう半ば自棄になっていた。兄としての矜持など、全て見られてしまった今となっては意味を持たない。
それならば、と。今まで我慢してきた分も含めて、存分に妹を愛でる事にした。
「日和は本当に良い子だなぁ。可愛いし、優しいし、手先は器用だし。日和を隠せて、一緒にいられて、俺は幸せだ」
「え?お兄ちゃん?ちょっと。ねぇ、待って」
困惑し身じろぐ妹の頭を撫でる。
可愛い、可愛い、と口にしながら、さらに赤に染まる頬や耳を眺め、堪能しながら笑みを浮かべた。
「俺のために手袋を編んでくれてありがとうな。でも、他の奴らに気を遣うな。日和の優しさを勘違いする、阿呆な狐がいるかもしれないからな」
「勘違いはしていませんが、涙を流して拝み出すモノはおりましたね」
「誰だよ、それ。尾を毟ってやろうか」
「お兄ちゃんっ!」
不穏な言葉に、思わず妹は兄の胸を叩いた。
剣呑な光を帯びた眼は、妹を認めた瞬間に蕩けたような甘さに変わる。
その眼を間近で見てしまい、声にならない叫びを上げて兄の肩口に顔を押し当てる妹に、兄は優しく笑いその耳元に唇を寄せた。
「なぁ、日和。我慢をしてないか。言いたい事、やりたい事を諦めてないか。俺はどんな日和も好きだが、素直な日和が一等好きだから、何でも言ってくれ」
「でも、私なんかが。迷惑になる。お兄ちゃんにも、我慢させてる」
「迷惑になんて誰も思ってねぇし、俺はもう我慢する事を止めるから。日和の格好いい兄ちゃんを目指してたけど、全部見られたからな」
呟いて、妹の頬を包み顔を上げさると、兄は額に唇を触れさせる。ひゃっ、と声を上げた妹にくすくす笑いを噛み殺し、兄は妹の目を覗き込みながら、言い聞かせるように囁いた。
「日和、今夜から俺と一緒に寝よう。夜這いにくる阿呆がいたら大変だからな。それから、手袋みたいにまた何か編んでくれ。他の奴にもじゃなくて、俺のためだけに編んでくれよ」
「あ、う」
「清々しいまでに気持ち悪いですね」
男の冷めた言葉に、兄は反応一つ見せる様子はない。完全に開き直ったらしい。
視線を逸らす事も、況してや逃げ出す事も出来ない妹は、羞恥に涙を湛えながらも、小さく頷いた。
「分かっ、た。分かったから、少し、離れて」
「そうか!絶対だからな。よし、今日は宴にしよう」
破顔しさらに強く妹を抱く兄に、男は仕方がないと呆れながらも笑った。
「すでに準備に取りかかっていますよ。手袋を頂いた祝いだと、皆浮かれていますから」
それだけを告げ、部屋を出る。
残された兄は複雑な表情を浮かべるも何も言わず、妹に視線を向け、その体を抱いたまま立ち上がる。
「ちょっ、と。私、自分で」
「俺がしたいからこうする。我慢するなと言われたからな。このまま大広間に向かうぞ」
身じろぐ妹を気にせず、兄は妹を抱き上げたまま部屋を出る。見られるのが恥ずかしいのか、顔を上げようとしない妹に兄は優しく囁いた。
「日和は俺らに愛されてる自覚をもっと持て。自分を卑下するんじゃない。それはお前を愛する俺らを否定し、軽んじる事になるのだから」
「お兄ちゃん」
「お前は愛されているんだ。お前は手袋一つ、と思うだろうがな。それがどれほど俺らにとって嬉しいものなのか、思い知ればいい」
何も言えなくなった妹の髪にそっと唇を触れさせ、兄は上機嫌に笑う。
大広間に近づくにつれ増える誰かの歓声に、顔を上げれぬまま、しかし小さく有難う、と妹は呟いた。
20241228 『手ぶくろ』
鯛焼きの頭に齧り付く。
きらきらと輝く笑顔は、だがその瞬間に消え眉が寄る。
「味が違う」
もそもそと咀嚼し飲み込む子供は、さも不服だと言わんばかりに手にした鯛焼きを睨み付ける。
ほら、と押しつけられたそれを同じように一口囓る。しかし以前食べたものとの違いなど、分かりはしなかった。
「変わらないと思うが。小麦と小豆の味がする」
「おまえに聞いたのが間違いだった」
溜息を吐き。肩を竦めて呆れる子供に、首を傾げまた一口鯛焼きを囓る。
やはり、違いは分からない。
「それやる。もういらないから」
それだけ告げて、少し離れた場所で小石を蹴り出す子供の姿に、目を瞬いた。
随分と変わったものだ。以前はいらないなどと、食べ物を粗末にする事は決してしなかったというのに。
鯛焼きを咀嚼しながら、不思議に思う。随分と機嫌が悪いのも、関係があるのだろうか。
最後に残った尾を口の中に放り込む。微かな匂いに、おや、と包み紙に視線を落とす。
「以前のものと違うな」
「そうだよ!気づいた?」
「あぁ。匂いが違う。以前は日と、甘い土。風と、澄んだ水の匂いがしていたが、これからはまったく感じなかった。別の所で採れた小麦や小豆なのだろうな」
「おまえに期待したのが間違いだった。それと、獣じゃないんだから、そういう気持ち悪い事を言うなよな」
笑顔で駆け寄ってきたはずの子供の顔が引き攣り、数歩距離を取られた。
この表情も初めて見るものだ。会わない時で変化したものは数多いらしい。
それも当然か。声には出さずに呟いた。
時は絶えず流れていくものだ。変わらず留まり続けるものなど、現世にあるはずもない。
子供に視線を向け、先ほど鯛焼きを購入した店の方角を振り返る。
変わってしまったものの多さに、息を吐いた。
「それから、店の者も変わってしまったな。以前は穏やかな年配の婦人が作っていたが、先ほどは無愛想な男が作っていた」
「…そうだよ。ばあちゃん、死んじゃったからな」
唇を噛みしめ、吐き出す子供の言葉に、そうか、と答え、近寄り俯くその頭を乱雑に撫でる。
得心がいった。寂しがっているのか。
「ばあちゃんがいた時は、あのお店もにぎやかだったのに。息子になって寂しくなった。せめて味が変わらないんだったら良かったのに」
「あの男では難しいだろうな。目先の利益しか考えんのだから」
金を惜しみ、粗悪品を用いているのだから、子供でなくとも気づく者は気づく。愛想すら惜しめば、人は離れていくだけだ。
「なんで、みんな変わってくのかな。どうして人間は老いて死んでいくんだ。ずっと同じでいればいいのに」
「変わらないものなどないだろう。人は死に、物は壊れる。妖すら変わるのだから」
「おいらは変わらないよ」
自覚がない子供に、指摘しようとし、止める。
気づかないのであれば、敢えて伝える必要はない。
そうか、と無感情に答え、周囲を見回した。
忙しなく行き交う人。そこにかつての緩やかな時の流れはない。
「変わらないものなどない」
繰り返し、子供を見る。妖と成った、時の止まった子供。
視線が交わる。
歯を食いしばり、泣くのを耐えるかのような表情に、宥めるように頭を撫でた。
「おまえも、変わるのか」
「どうだろうな。自覚はないが、変わっているのだろう」
「そうか」
頭を撫でていた手を取られる。ぐい、と無遠慮に手を引いて、歩き出した。
「帰るぞ。一緒に」
「なんで。そんな急に」
「おまえが変わるのはいやだ。家に憑かない選択肢をゆるしてたのは、もうおしまい」
強い力に逆らう事も出来ず。困惑しながらも子供について歩く。
ぐにゃり、と周囲が歪む。立ち止まりそうになる足は、それでも手を引かれて止める事は出来ない。
歪む周囲の色が、一つ、また一つ剥がれ落ちる。黒と、申し訳程度の白を残して、落ちた色は地に溶けて消えていく。
「どうして」
「おまえを追って、ばあちゃんに会った。ばあちゃん、優しかったし、一緒にいると楽しかったけど、死んじゃった。おまえを見つけたし、ばあちゃんもいないここに、もう用はないから」
黒と白が形を変える。褪せた色合いの、懐かしい場所を形作る。
「家や倉から出て、たくさん望みに応える事が出来ただろ?望みに応えるやり方を覚えさせるために、外に出したんだ。覚えた後は、帰らなきゃ」
「それは、そうだが」
「ほら、着いたぞ」
立ち止まる。
薄暗い、畳敷きの部屋。
布団と、文机と、小さな書架。そして、木の格子。
人として終わった、最初の場所にいた。
「なんで。だってここには、もう」
「そうだな。おまえの一族は、みんな死んだ。おいらがこの倉を出たから、傾いた」
「じゃあ、何故。今更」
「新しい人間が来た。それだけ」
あぁ、それと、と手を離して振り返る。両手で頬を包まれて、至近距離で目を覗き込まれる。
「おまえ、いい加減に元に戻れ。誰かに望まれたのかそうじゃないか知らないけど、帰って来たんだからおとなでいるのをやめろ」
子供の目の中の己の姿が縮む。身を屈めて見下ろしていたのが、同じ目線になり。そして僅かに見上げるまでになる。
子供の、彼の姿が滲む。戻った事で一緒に戻ってしまった感情が、ぐるぐると渦を巻いているようだ。
頬を包んでいた彼の両手が涙を拭う。それでも止まらない涙に、彼は小さく笑ったみたいだった。
「うん。変わってないみたいで良かった。好きなだけ泣きなよ」
「いや。やだぁ」
「だめ。変わってほしくなくて、引き込んだんだから。変わらせてなんかやらない…ほら、もっと泣いて。そんですっきりしたら、新しいともだちに会いに行こう」
涙を拭う手が背に回り、宥めるようにさすられる。
益々止める事の出来なくなった涙が、彼の服に染みを作っていく。
「いやだ。出して。ここはいやだ。おねがい。良い子にするからっ」
「怖くない。全部終わった事だぞ。もうお腹も空いて苦しかったり、体が痛くなったりしてないだろ?人間の時の嫌なのは、どこにもない。おいらがいるから、寂しくもないよ。おまえは人間じゃなくて妖に成って、変わったんだ」
言い聞かせるような、優しい声が止まる。
そっか、そうだな、と呟いて、彼はくすくす笑った。
「おまえ、変わったんだな。苦しくて痛いのに我慢して、おいらに僅かに与えられる食事を分けようとする優しい所を変えたくなくて、おまえの嫌なもの、なくしたくて変えたんだ」
彼の服を掴む手を解いて、手を繋がれる。促されて見る格子戸が、音もなく開いていく。
「おいらも変わった。倉が一番だったのに、おまえが一番になった。おまえのために倉を出る事だって出来るようになった。変わったんだ」
手を引かれて歩き出す。格子戸を潜るのに怖がる自分に、大丈夫だと笑いかけた。
一歩、足だけを格子戸の外に出し。
頭を出し、体を、手を出して。そして最後に、もう片方の足を出し、格子戸を抜ける。
「今度は持って行けるものは持って行こう。変わったんだから、怖いものはないよ。ここのともだちが嫌なら、この倉を出て、別の倉を探して、ともだちを見つけよう」
「でも、おこられる。いたいのは、もういやだ」
「変わったんだよ。おまえが言ったんだぞ。変わらないものはないって。だから怒られたり、痛い事されたりはもうないよ」
階段を上がる。天井の扉も格子戸のように音もなく開き、光が差し込んだ。
「おいで。行こう!」
手を引かれ、地下を出る。
薄暗く、埃っぽい倉の中は、それでも自分のいた地下よりはずっと居心地が良かった。
不意に扉の開く音。外からの光が差し込んで、誰かが入り込んでくる。
小さな影が二つ。ひそひそと、おどおどと、囁く声がする。
「来たよ。新しいともだちだ」
目を輝かせて、彼は影に近づいていく。気づかれぬようにひっそりと。だけど時折、わざと物音を立てて反応を楽しんでいる。
「ともだち」
感情が回る。今までのたくさんの記憶一つ一つに、抜け落ちていた感情が入り込んで、胸を締め付ける。
「変わらないものはない」
呟いて、彼を追って歩き出す。
手を伸ばす。いつかの終わりの時に縋った弱さではなくしっかりした強さで彼にしがみついた。
20241226 『変わらないものはない』
「何これ」
彼女の言葉に、口には出さずとも同じ事を思う。
色鮮やかに彩られ、飾り立てられた藤。
毛糸。色紙。所々に見える赤い実は南天だろうか。
誰かのいたずらだとは考え難い。この村に住む者は皆、藤に惹かれ帰ってきたのだ。
花の咲かぬ藤が、いつしか再び花を咲かす日が来る事を、皆心待ちにしている。
その藤を無意味に飾り付けるなど、出来るはずが。
「おや。見られてしまったか」
聞き覚えのない声がした。
視線を向ける。幼さを残した、少年とも少女ともつかぬ美しい容姿の子供が立っていた。
その腕には、種々の木の実や落ち葉の入った籠を抱えている。
「驚かせようと思ったのだが。残念だ」
肩を竦め、ゆったりとした足取りで、子供は藤へと向かう。見知らぬ子供。だが、記憶の片隅に微かに残る面影が子供に重なる。
愛でられる事を当然とし、面倒事を嫌う。あれは誰であったか。
不意に、隣から重苦しい溜息がした。
「何をしているの。藤」
「何だ。覚えているのか」
目を瞬き彼女を見る子供に倣い、隣を見る。
僅かに顔を顰める彼女に、よく似た誰かの面影が重なり見え、消えていく。
「思い出してしまったのよ。これは一体何」
「今日は聖なる夜だと聞いたからね」
「クリスマスイブね。それがどうしたの」
親しげに話す二人に、懐かしさを感じた。
呆れながらも優しく微笑む彼女と、自由な子供。
漸く帰ってきたのだと、この地で何度も思った感情に目を細めた。
「木を飾り立て、人の子の目を楽しませる日なのだろう。まだ咲けぬ藤《私》を愛でてくれる、二人を楽しませようと思ったのさ。途中で見つかってしまったが」
「藤をクリスマスツリーにするなんて、大分可笑しな事ね。楽しむよりも呆れてしまったわよ。全て思い出してしまうくらいには」
「驚かす事が出来たのなら、準備をした甲斐があった」
「相変わらずね。藤」
くすくすと鈴の音を転がすような声音で彼女は笑う。
「変わらないでいてくれて、安心したわ。私を覚えてくれていた事には驚いたけれど」
「鈴は特別だからね。妖が人の子に生まれるなど、初めての事だ。人の子の思いの強さには驚かされるよ。なあ、宮司」
笑いこちらを見る子供に、眉を寄せる。同意を求められても、二人の会話の内容は理解出来ない事ばかりだ。
藤。妖。人。記憶。
意味が分からない、と返そうと口を開き。
だがまったく別の言葉が溢れ落ちた。
「俺はまだ宮司ではないのだが」
理解できぬそれに、違和感はない。以前もこんなやりとりをしていたと、口元に笑みが浮かんだ。
「まだ言っているのか。藤《私》の手入れをするのはお前しかいないのだから、宮司で構わんだろう」
「だが」
「相変わらず堅苦しい男だね。何度繰り返しても変わらないな」
呆れたように笑われ、どうしたものかと彼女を見る。
「いいじゃない。白杜《あきと》が宮司だって、皆思っているわ。認めていないのは白杜だけよ」
「鈴も言っているんだ。それにお前が宮司の子として生き、死んだのは何百年も前の過去の事だぞ」
そこまで言われてしまっては、肯定するしかない。
嫌ではないが落ち着かぬのは、子供の言うかつての己が宮司ではなかったからだろう。
断片ではあるが、思い出した事がある。
かつて同じように、二人と共に生きていた事があった。
神楽鈴の付喪であった彼女と、藤の化身。
藤に愛され、藤を愛し。
そして何よりも深く、彼女を愛していた。
「鈴音《すずね》」
「どうしたの」
彼女の名を呼ぶ。
しかし続く言葉を迷い。何もないと首を振る。
伝えたい言葉があった。だがそれは、今の己には意味のない言葉でもあった。
かつては妖であった彼女は今、人として隣にいる。今更、彼女に望む必要はない。
「変な白杜」
微笑んで、寄り添う彼女の肩を引き寄せる。
冷えた体を暖めるように、その華奢な身をかき抱いた。
「随分と大胆なものだね。あの時より思っていたが、お前達は本当に夫婦のようだ」
楽しげな声に、はっとして視線を向ける。
穏やかな表情をした、藤の化身である子供と目が合った。
慌てて彼女を離しかけるが、彼女は胸元に擦り寄ったまま、離れる様子はない。
彼女の視線を向ける。くすり、と笑う楽しげな彼女と目が合った。
「私は夫婦になってもよいのだけれど。白杜は何も言ってはくれないわね」
「そうなのか。早く契ってしまえばよいものを」
「今は私よりも藤の方が大切なのよ。焼けてしまうわ」
彼女の言葉に、藤の化身の咎めるような視線が刺さる。
何か言うべきではあるものの、今のこの場では何を言っても意味をもたないだろう。藤の化身の前で敢えて言葉にする彼女の心の内を察して、すまない、と謝罪の言葉が漏れた。
「鈴音」
「なにかしら」
名を呼べば、悪戯に笑う少女の目をして彼女が己を見る。
眉を寄せる。仕方がないと、一つ息を吐いた。
「この場で促されて言うものではないが…俺と夫婦になってくれないか」
「確かに格好はつかないな」
「そうね。でもまぁ、今夜はクリスマスイブだもの」
「聖なる夜には、奇跡とやらはつきものだな」
藤の化身と彼女が頷き合う。
仕方がないわ、と溜息を吐いて。彼女は藤の元へと歩み寄る。
くるり、と振り返り己を見る彼女は頬を染め、微笑む。
「特別に、その望みに応えてあげるわ」
それだけを告げて、彼女は藤の化身の抱えた籠の中から木の実を取り出し、藤を飾り付けていく。地に籠を置いた藤の化身も、同じように紅葉を藤の蔓に絡ませ始めた。
「何を、している」
「藤を飾り付けているの。白杜の告白は私が言わせたようで、面白くないもの。雰囲気だけでも良くしたいわ」
「そうだな。あれではさすがに鈴が可哀想だ」
「すまない」
視線を向けられる事もなく吐き出される二人の愚痴に、謝罪しか出てこない。
己の謝罪など聞こえていないかのような二人は、笑い合いながら藤を飾る。幻想的な藤なるものを目指し話す二人を見ながら、声には出さずに彼女の名を呼んだ。
彼女を愛していた。否、愛している。
鈴の音のように澄んだ声も、花開くように笑う姿も。何も言わずとも己を理解しているその聡明さも。
誰よりも、何よりも愛しい。
目を閉じる。彼女の声を聞きながら、緩く笑みを浮かべた。
「愛している、鈴音」
「その言葉は、私の目を見て言って欲しいものね」
思っていたよりも近く聞こえた彼女の声に、目を開く。
手を伸ばせば触れられるほど側に、彼女がいた。
藤の化身の姿はない。飾り立てられた藤の蔓が、風もないのにゆらりと揺れた。
「藤から伝言。次の春に、一房だけ藤の花を咲かせてくれるみたいよ」
伸ばされた彼女の腕を引き、抱きしめる。
己の名を呼ぶ彼女の鈴の音のような声を聞きながら、彼女の顎を掬い、目を合わせた。
「鈴音。愛している。藤の花が咲いたならば、誓う言葉をもう一度言わせてくれ。藤の花を見て微笑む、美しいお前に未来を誓わせてくれないか」
彼女には藤の花がよく似合う。
こうして赤や緑に飾られた目の前の藤よりも、淡く色づいた藤色が、彼女の美しさを際立たせる事だろう。
「馬鹿。本当に酷い男ね…でもそんな酷い男を愛してしまった私も、同じようなものかしら」
頬を朱に染めた彼女の手が頬に触れる。
「ねぇ、白杜。今夜はクリスマスイブよ。奇跡の他にプレゼントがほしいわ」
くすりと笑う。
それに笑みを返して、望まれるままに彼女の体を強く抱き寄せ口付けた。
20241225 『イブの夜』