鯛焼きの頭に齧り付く。
きらきらと輝く笑顔は、だがその瞬間に消え眉が寄る。
「味が違う」
もそもそと咀嚼し飲み込む子供は、さも不服だと言わんばかりに手にした鯛焼きを睨み付ける。
ほら、と押しつけられたそれを同じように一口囓る。しかし以前食べたものとの違いなど、分かりはしなかった。
「変わらないと思うが。小麦と小豆の味がする」
「おまえに聞いたのが間違いだった」
溜息を吐き。肩を竦めて呆れる子供に、首を傾げまた一口鯛焼きを囓る。
やはり、違いは分からない。
「それやる。もういらないから」
それだけ告げて、少し離れた場所で小石を蹴り出す子供の姿に、目を瞬いた。
随分と変わったものだ。以前はいらないなどと、食べ物を粗末にする事は決してしなかったというのに。
鯛焼きを咀嚼しながら、不思議に思う。随分と機嫌が悪いのも、関係があるのだろうか。
最後に残った尾を口の中に放り込む。微かな匂いに、おや、と包み紙に視線を落とす。
「以前のものと違うな」
「そうだよ!気づいた?」
「あぁ。匂いが違う。以前は日と、甘い土。風と、澄んだ水の匂いがしていたが、これからはまったく感じなかった。別の所で採れた小麦や小豆なのだろうな」
「おまえに期待したのが間違いだった。それと、獣じゃないんだから、そういう気持ち悪い事を言うなよな」
笑顔で駆け寄ってきたはずの子供の顔が引き攣り、数歩距離を取られた。
この表情も初めて見るものだ。会わない時で変化したものは数多いらしい。
それも当然か。声には出さずに呟いた。
時は絶えず流れていくものだ。変わらず留まり続けるものなど、現世にあるはずもない。
子供に視線を向け、先ほど鯛焼きを購入した店の方角を振り返る。
変わってしまったものの多さに、息を吐いた。
「それから、店の者も変わってしまったな。以前は穏やかな年配の婦人が作っていたが、先ほどは無愛想な男が作っていた」
「…そうだよ。ばあちゃん、死んじゃったからな」
唇を噛みしめ、吐き出す子供の言葉に、そうか、と答え、近寄り俯くその頭を乱雑に撫でる。
得心がいった。寂しがっているのか。
「ばあちゃんがいた時は、あのお店もにぎやかだったのに。息子になって寂しくなった。せめて味が変わらないんだったら良かったのに」
「あの男では難しいだろうな。目先の利益しか考えんのだから」
金を惜しみ、粗悪品を用いているのだから、子供でなくとも気づく者は気づく。愛想すら惜しめば、人は離れていくだけだ。
「なんで、みんな変わってくのかな。どうして人間は老いて死んでいくんだ。ずっと同じでいればいいのに」
「変わらないものなどないだろう。人は死に、物は壊れる。妖すら変わるのだから」
「おいらは変わらないよ」
自覚がない子供に、指摘しようとし、止める。
気づかないのであれば、敢えて伝える必要はない。
そうか、と無感情に答え、周囲を見回した。
忙しなく行き交う人。そこにかつての緩やかな時の流れはない。
「変わらないものなどない」
繰り返し、子供を見る。妖と成った、時の止まった子供。
視線が交わる。
歯を食いしばり、泣くのを耐えるかのような表情に、宥めるように頭を撫でた。
「おまえも、変わるのか」
「どうだろうな。自覚はないが、変わっているのだろう」
「そうか」
頭を撫でていた手を取られる。ぐい、と無遠慮に手を引いて、歩き出した。
「帰るぞ。一緒に」
「なんで。そんな急に」
「おまえが変わるのはいやだ。家に憑かない選択肢をゆるしてたのは、もうおしまい」
強い力に逆らう事も出来ず。困惑しながらも子供について歩く。
ぐにゃり、と周囲が歪む。立ち止まりそうになる足は、それでも手を引かれて止める事は出来ない。
歪む周囲の色が、一つ、また一つ剥がれ落ちる。黒と、申し訳程度の白を残して、落ちた色は地に溶けて消えていく。
「どうして」
「おまえを追って、ばあちゃんに会った。ばあちゃん、優しかったし、一緒にいると楽しかったけど、死んじゃった。おまえを見つけたし、ばあちゃんもいないここに、もう用はないから」
黒と白が形を変える。褪せた色合いの、懐かしい場所を形作る。
「家や倉から出て、たくさん望みに応える事が出来ただろ?望みに応えるやり方を覚えさせるために、外に出したんだ。覚えた後は、帰らなきゃ」
「それは、そうだが」
「ほら、着いたぞ」
立ち止まる。
薄暗い、畳敷きの部屋。
布団と、文机と、小さな書架。そして、木の格子。
人として終わった、最初の場所にいた。
「なんで。だってここには、もう」
「そうだな。おまえの一族は、みんな死んだ。おいらがこの倉を出たから、傾いた」
「じゃあ、何故。今更」
「新しい人間が来た。それだけ」
あぁ、それと、と手を離して振り返る。両手で頬を包まれて、至近距離で目を覗き込まれる。
「おまえ、いい加減に元に戻れ。誰かに望まれたのかそうじゃないか知らないけど、帰って来たんだからおとなでいるのをやめろ」
子供の目の中の己の姿が縮む。身を屈めて見下ろしていたのが、同じ目線になり。そして僅かに見上げるまでになる。
子供の、彼の姿が滲む。戻った事で一緒に戻ってしまった感情が、ぐるぐると渦を巻いているようだ。
頬を包んでいた彼の両手が涙を拭う。それでも止まらない涙に、彼は小さく笑ったみたいだった。
「うん。変わってないみたいで良かった。好きなだけ泣きなよ」
「いや。やだぁ」
「だめ。変わってほしくなくて、引き込んだんだから。変わらせてなんかやらない…ほら、もっと泣いて。そんですっきりしたら、新しいともだちに会いに行こう」
涙を拭う手が背に回り、宥めるようにさすられる。
益々止める事の出来なくなった涙が、彼の服に染みを作っていく。
「いやだ。出して。ここはいやだ。おねがい。良い子にするからっ」
「怖くない。全部終わった事だぞ。もうお腹も空いて苦しかったり、体が痛くなったりしてないだろ?人間の時の嫌なのは、どこにもない。おいらがいるから、寂しくもないよ。おまえは人間じゃなくて妖に成って、変わったんだ」
言い聞かせるような、優しい声が止まる。
そっか、そうだな、と呟いて、彼はくすくす笑った。
「おまえ、変わったんだな。苦しくて痛いのに我慢して、おいらに僅かに与えられる食事を分けようとする優しい所を変えたくなくて、おまえの嫌なもの、なくしたくて変えたんだ」
彼の服を掴む手を解いて、手を繋がれる。促されて見る格子戸が、音もなく開いていく。
「おいらも変わった。倉が一番だったのに、おまえが一番になった。おまえのために倉を出る事だって出来るようになった。変わったんだ」
手を引かれて歩き出す。格子戸を潜るのに怖がる自分に、大丈夫だと笑いかけた。
一歩、足だけを格子戸の外に出し。
頭を出し、体を、手を出して。そして最後に、もう片方の足を出し、格子戸を抜ける。
「今度は持って行けるものは持って行こう。変わったんだから、怖いものはないよ。ここのともだちが嫌なら、この倉を出て、別の倉を探して、ともだちを見つけよう」
「でも、おこられる。いたいのは、もういやだ」
「変わったんだよ。おまえが言ったんだぞ。変わらないものはないって。だから怒られたり、痛い事されたりはもうないよ」
階段を上がる。天井の扉も格子戸のように音もなく開き、光が差し込んだ。
「おいで。行こう!」
手を引かれ、地下を出る。
薄暗く、埃っぽい倉の中は、それでも自分のいた地下よりはずっと居心地が良かった。
不意に扉の開く音。外からの光が差し込んで、誰かが入り込んでくる。
小さな影が二つ。ひそひそと、おどおどと、囁く声がする。
「来たよ。新しいともだちだ」
目を輝かせて、彼は影に近づいていく。気づかれぬようにひっそりと。だけど時折、わざと物音を立てて反応を楽しんでいる。
「ともだち」
感情が回る。今までのたくさんの記憶一つ一つに、抜け落ちていた感情が入り込んで、胸を締め付ける。
「変わらないものはない」
呟いて、彼を追って歩き出す。
手を伸ばす。いつかの終わりの時に縋った弱さではなくしっかりした強さで彼にしがみついた。
20241226 『変わらないものはない』
12/28/2024, 5:32:53 AM