「あれ?九重《ここのえ》じゃん」
聞き覚えのある声に、僅かに眉が寄る。
失敗した。外になど出るべきではなかった。
後悔が渦巻くが、今となっては意味がない。表情には出さぬよう気をつけながら、声のした方へと視線を向けた。
「お前、スマホとか持ってないし。冬休み中は会えないと思ってた」
会えてうれしい、と破顔する彼に、そうだな、と曖昧に笑ってみせる。視界の端でいくつもの手が揺れているのが見えて、思わず口元が引き攣った。
「なんで、こんな所に」
娯楽など一つもない、寂れた郊外の住宅街を彼が訪れる意味が分からない。
彼の家は、学校を挟んで反対側にある。この近辺に彼の親戚の類いがいる訳でもない。
口をついて出た言葉に、彼はきょとん、と目を瞬かせ、笑った。
「俺?おれは」
楽しそうな笑み。風が吹き抜け、周囲の音が消える。
「お前を探しに来たに決まっているだろう?奏《かなで》」
彼の左腕に絡みつくいくつもの手が、責め立てるように揺れ動いた。
「まったく。折角の休日なのだから、俺と遊んでくれてもいいだろうに。冷たい奴だ」
逃げようと下がる足は、彼の腕から離れた手に縫い止められて動かす事が出来ない。
ゆっくりと歩み寄る彼に左手を取られ、繋がれる。繋がれた事で足を縫い止める手は離れていったが、代わりにいくつかの手が左手を辿って腕に絡みついた。
以前の戯れで絡みついていた時よりも強く、しがみつく。
「離せ、って」
「駄目だ。奏は俺の友達なんだから、連絡手段は必要だろう。おれの可愛い眷属達の手を貸してやるってんだ。大事にしろよ」
ぞわり、と不快な感覚に顔を顰める。嫌だと腕を引けど全く離れる事のない手に、焦りが浮かぶ。
そんな自分の姿に、彼は表情の抜け落ちた目をして見つめ。腕を引き、歩き出した。
「ちょっ。どこに!」
「お前、暇だろ。俺と遊べ。何なら、俺の家に泊まりに来い」
「そんな、急に」
半ば引き摺られるようにして、歩いて行く。有無を言わさぬ強い力に、苛立ち眉が寄った。
「あぁ、だが」
不意に、足が止まる。突然の事にふらつく体を立て直し、非難の意味を込めて睨み付ければ、彼はにやり、と口元を歪めた。
「そう言えば、お前は買い出しに向かうんだったか。足りない材料があったらしいな」
「な、んで。それを」
「さて、なんでだろうな。まぁ、そんな些事より、これから俺とその買い出しに行って、そのまま鍋料理を振る舞ってくれ」
名案だと言わんばかりの彼の表情に呆れ、耐えられず重苦しい溜息が溢れ落ちる。
本当に面倒だ。だがこのまま手が離れる事はないのだろう。
痛む頭を右手で押さえ、さする。仕方がないと自身に言い聞かせ、僅かに高い彼を見上げた。
「お前と友達になった覚えはない。さっさと歪を戻して、鳴音《なおと》の中に引っ込め、悪趣味野郎」
「相変わらず口が悪いな。おれとも仲良くしてくれてもいいんだぞ、奏」
「気安く名前で呼ぶな。気持ち悪い」
「振られてしまったか。仕方がない。俺を頼むぞ」
彼は笑う。
風が吹きぬけ、一瞬の間に音が元に戻る。
「あれ?俺、いつの間に九重と手を繋いでたんだ?」
目を瞬かせ、不思議そうに手を見る彼に、ついさっき、と適当に答えた。
「それより。これから買い物に行くんだけど、一緒に来る?」
「買い物?」
「夕飯、鍋にしようと思って。何だったら、夕飯食べてく?」
「…いいの?」
不安そうに見つめる彼に、いいよ、と視線を逸らして答える。
彼と自分の左腕に絡んだ手がゆらゆら揺れて、早く行こうと急かしている。
あぁ、と隣から声が漏れた。微かに聞こえる嗚咽は、聞こえないふりをして歩き出した。
「俺、誰かと夕飯を食べるの、久しぶりだ」
「味の期待はするなよ」
手を繋いだまま、歩く。時折好奇の目が向けられるものの、今更気にする事もない。
学校の事、授業の事。時々、自分の事。取り留めのない話をしながら、小さく笑い合う。
誰かと話をしながら買い物に行くのも、たまにはいいものだ。
「あのさ」
「ん、何?」
足は止めぬまま、視線だけを彼に向ける。
不安と、遠慮と、恐れと。それからほんの少しの期待を混ぜた目が揺れて、また一つ透明な滴が溢れ落ちた。
「九重の事。奏って、呼んでもいい、かな?」
その涙を、綺麗だな、と思いながら、小さく笑って空を見た。
「じゃあ、代わりにお前の事、鳴音って呼ぶわ」
息を呑む音。怖ず怖ずと、奏、と呼ぶ声が擽ったい。
家族や、もう一人の彼とはまた違う、その優しい響きが心地好い。
悪くない。腕にしがみつく手は確かに不快で、もう一人の彼とは言葉を交わすだけでも嫌になる。
それでも友人と過ごす時間は、とても暖かだ。
「今度、泊まりに来る?何にもないけど、それでもよければ」
「っ。じゃっ、じゃあさ。俺の家にも泊まりに来なよ!一人暮らしだし、ずっといてくれて、も」
尻すぼみになる言葉に、声を上げて笑う。
それも悪くないと思える自分がいる事がすごく不思議で、とても可笑しかった。
「そんなら、いっそルームシェアする?生活費諸々半分になって、少ない仕送りとバイト代でひいひい言ってる身としては、ありがたいしかないな、それ」
「い、いいの?」
「おじさんたちに聞いてみなよ。こっちは何も言われないけど、そっちは一応保護者って事になってるんだろう?」
「うん…うん!聞いてみる」
破顔する友人に、落ち着いてきた笑いがまた、込み上げてくる。
雪で、自分以外を失った友人。
家が嫌で、逃げ出してきた自分。
一人と一人が出会って、二人でこうして手を繋いで歩いている。
逃げ出して捨ててきた温もりが、こうして再び繋がれて。
退屈なはずの冬休みも、今回は楽しくなりそうだ。
充足感に似た気持ちに、繋ぐ手に力を込めた。
20241229 『冬休み』
12/30/2024, 8:07:28 AM