籠の中の蜜柑が消えた。
溜息を吐いて、縁側に続く障子戸を開ける。
縁側の隅。縮こまるようにして座る坊主に、蹴りを見舞う。
「人の蜜柑を盗むんじゃない。この糞坊主」
「何という惨い仕打ち。愚僧はただ、気づいて欲しかっただけだというのに」
「五月蠅い」
吐き捨てて見下ろせば、ひぃ、と情けない声が上がる。抱えていた蜜柑を恐る恐る差し出して、まろび転がるようにして坊主は去って行った。
「まったく」
短く息を吐き、座敷に戻る。ぴしゃん、と障子戸を鳴らし締めてしまったが、仕方がないと誰にでもなく言い訳をした。
籠に蜜柑を戻し、そのまま炬燵に足を入れる。暖かさにほぅ、と息を吐いて、徐に蜜柑に手を伸ばす。
「可哀想になぁ。蜜柑に嫉妬する柿の気持ちなんざ、お嬢には些事でしかないらしい」
「五月蠅いよ」
座敷の角。一升瓶を抱えたままげらげら笑う、赤ら顔の男を睨めつける。
おぉ、怖い、と笑いながら手酌で酒を注ぎ、一気に呷る。
だがそれが最後だったらしい。さらに継ぎ足そうと一升瓶を傾けるが、一滴すら出ては来ず。空の一升瓶を名残惜しく揺すり、やはり一滴も出ない事に肩を落とした。
「お嬢、蔵の鍵くれや」
ゆらり、と立ち上がり、赤ら顔の男は此方に近づき手を差し出す。
それを横目にしながらも、男を気にする事はなく、手にした蜜柑の皮を剥き始める。
「お嬢」
「断る。厨に残っている、いつもの酒でも飲んでいろ」
赤ら顔の男の眉間に皺が寄る。握り締めた一升瓶に罅が入り、そのまま砕けて辺りに散った。
「鍵を寄越せ。人間」
割れた瓶の欠片を眼前に向け、男は再度要望を口にする。
少しでも身じろぎすれば、鋭い切っ先が眼球を抉るのだろう。焦点も合わぬほど近距離の破片を見つめながらも、返す言葉は、やはり否だ。
「いやだね」
「糞餓鬼がっ」
破片が眼球を抉る、その寸前。男の手首に細い糸が絡みつき、強い力で背後に引かれた。
それとほぼ同時。縁側の障子戸が開かれ、藁を纏い手には鉈を持った男が入り込む。糸に手を引かれ体制を崩していた赤ら顔の男に詰め寄り、その頭を容赦なく鉈の柄で殴りつけた。
「こりゃ、三吉!おめ、童っこに何さしよとしでんだ。それに蔵ん酒ば年越しん時のもんだで言ったべや。わりぇ子には仕置ぎせんばねぁな」
「痛っ。やめろ、角を持って引き摺るんじゃねぇ。悪かった。悪かったっつってんだろ!」
藁を纏った男は、赤ら顔の男の額の角を持ち、引き摺りながら襖戸を開ける。痛がる赤ら顔の男を意にも介さず、そのまま隣の座敷に移動する。
ぱたん、と襖戸が閉められた後、ぎゃぁぁぁ、という断末魔の声を最後に、何も聞こえなくなった。
はぁ、と溜息を溢し。気を取り直すように、手にしたままの蜜柑を一房口に入れる。
「ん。美味い」
甘さと瑞々しさと、仄かな酸味に口元が綻ぶ。もう一房口に含み、その味を堪能していれば、す、と隣に湯飲みが置かれ、背後から頭を撫でられた。
「賢い。賢い」
「来てたの分かってたからね。助けてくれて、ありがと」
見上げれば、赤い八つの目を持つ男と視線が交わる。
礼を言えばふわり、と表情を綻ばせ。しかしその目はどこか咎めるように細まった。
「だが、言葉は穏便に」
「…善処します」
気まずさに視線を戻し、また一房蜜柑を口にする。残った蜜柑を置いて湯飲みに手を伸ばし、ずず、と音を立てて茶を啜れば、その温かさにほぅ、と声を漏らした。
「負けず嫌いなのは悪い事ではないけれど、酔っ払いを煽ってはいけないわ」
開いたままの障子戸から、箒とちり取りを持った骸骨が入ってくる。瓶の欠片を片付けながら、窘められて、ごめん、と素直に謝罪した。
「酒飲みなんて馬鹿しかいないのだから、適当にあしらっておけばいいのよ。そうすれば、怖い思いをしなくてすむのに」
「ごめんって。でも誰かは助けてくれるって分かっているから、怖くはないな。骨の姉さんだって、いつも助けてくれるしね」
湯飲みを置き、蜜柑を食べながらそう伝えれば、骸骨はかたかた、と機嫌良く骨を鳴らす。
片付けが終わったのだろう。箒とちり取りを手に立ち上がると、その場でくるり、と回って見せた。
「あなたは私をいつも褒めてくれる、優しい子だもの。ねぇ、今日の私は綺麗かしら?」
「骨の姉さんはいつだって綺麗だよ。骨だけでも、そこに肉がついていたとしても」
「あら、嬉しい。いつもありがとう」
片付けてくるわ、とさらに骨を鳴らして、足取り軽く座敷を出ていく。
いつの間にか、赤い目の男もいなくなってしまったようだ。
自分以外誰もいなくなってしまった座敷で、蜜柑を食べつつ賑やかな音に耳を澄ませる。
ぎゃあ、と時折上がる半泣きの悲鳴は、先ほどの赤ら顔の男のものだろうか。ばたばた、と走り回る音はとても騒々しい。
遠くで、木を切り倒す音が聞こえる。少なくなってきた薪の足しにでもするのだろう。その合間に聞こえるのは、小豆を研ぐ音。楽しげに、だが時折外した調子の鼻歌に、耐え切れずくすくす笑いが漏れる。
ふと、障子戸の開けられる音がした。視線を向ければ、先ほど逃げていった坊主が、手に包みを抱えて此方の様子を窺っている。
「なに?」
「これを」
怖ず怖ずと座敷に入り、包みを開ける。
「柿?」
「あんぽ柿である。愚僧めが作り申した」
期待した目で見られ、苦笑する。一度茶を飲んでから、あんぽ柿に手を伸ばした。
一口囓る。干し柿と違う、柔らかさと瑞々しい甘さが口の中に広がり、目を細めて堪能する。
「美味しい」
「そうであろう。蜜柑などには引けを取らぬ旨さであろう」
「いや。蜜柑の方が好きかな」
正直な感想を言えば、なんと、と崩れ落ちる坊主に、楽しくなってけらけら笑う。
あんぽ柿を囓り、賑やかな屋敷の音を聞きながら。
こんな騒々しい年の瀬も悪いものではないな、と思った。
20241230 『みかん』
12/31/2024, 12:24:37 AM