「これ、あげる」
手渡されたのは透明な石。
困惑する少女に笑って、少年はずい、と顔を近づけた。
「これは?どう。気に入った?」
「えっと。あの」
「やっぱ、気に入らない?」
このやり取りは、何度目になるのか。少女はもう覚えてはいない。
気づけば側にいた彼。常に笑顔を湛え、こうして時折プレゼントと称して少女に手渡してくる。
何を考えているのか。手渡す石に意味はあるのか。
少女がいくら訪ねても、少年は笑うだけで何も答えなかった。
少女は、少年の名前すら知らない。
「綺麗だと、思います」
「へぇ、気に入ったんだ。じゃあ、今度こそもらってくれる?」
少女の答えに、少年の笑みが深くなる。
「や。でも、それは」
「駄目なの?気に入ったのに?」
「そう、ですけど。でも」
戸惑い視線が彷徨う少女の手を、渡した石ごと軽く握る。そのまま上へと持ち上げて、少女の目の前にかざした。
「欲しい、と。一度でも思ったのならば、迷わずに受け取ればいい」
息を呑む音。僅かな怯えを浮かべた少女の目に、少年の浮かべる笑みが優しさを孕む。
改めて少女に石を握らせる。怖くはないのだと、震える少女の手を宥めるように撫ぜた。
「どうして。なんで、いつも」
「大切にしたい人に、プレゼントをあげたいと思うのは変?折角のプレゼントを、喜んでもらいたいとあれこれ考えるのは意味のない事?」
少年の言葉に、少女の頬に赤みが差す。
それ以上は何も言えなくなってしまう少女の手を一撫でして、手を離す。返される事のなくなった石を、少年は満足そうに見つめた。
「この石って、一体何なんですか?」
「これはね、本物だよ」
少女の問いに、少年は得意げに答える。
本物。その意味を分かりかねて少女は首を傾げれば、少年はくすくす笑いながら、口を開いた。
「今までは、近いものや似たものだったから、気に入らなかったんだね。やっぱり本物でないと駄目か」
「何、言って」
「だって今まで上げてきたやつは、全然嬉しそうじゃなかった」
少しだけ拗ねたような声に、少女は確かに、と今までの石を思い返す。
小さなもの。大きなもの。歪な形。様々あったが、そのどれもが、黒く濁っていた。
綺麗だと、ここまで強く惹かれたものはなく。この石を手渡されるまでは、どう断れば石を渡す事を止めてくれるのかばかりを少女は考えていた。
「え、と…ありがとう、ございます」
「どう致しまして。やっと喜んでくれた」
心から嬉しそうな少年の笑顔に気恥ずかしくなる。石を見る事で、少女は少年から視線を逸らした。
きらきらと、光を反射する。澄んだ水のように、透明さを保つ石に目を奪われる。
何故こうも心を奪われるのか。少女にも理由は分からない。
飽く事なく見つめ。手の中で転がして。
「綺麗」
思わず溢れ落ちた言葉に、少年の目が愛おしげに細められるのを見てしまい。少女ははっと、我に返る。
「あ。すみません。もらってばかりなのに、私何もお返しが出来なくて」
「いいよ。俺があげたいんだから、気にしないで」
「でも」
「君が飢える事も、病に苦しむ事もなく。笑ってくれているのが、俺にとっての一番のプレゼントだよ」
少女を見つめながらも、少年はどこか遠くの何かを見るようにして微笑む。
少年の手が頬に伸ばされるのを、少女はどこかぼんやりと、当然の事のように受け入れた。
「あぁ、少し冷えてしまっているね。そろそろ戻ろうか」
どこへ、と微かな疑問は直ぐに消え。少年に促されるままに、少女は歩き出す。
そもそも、ここは何処であるのか。少女は思い出す事はなく、少年に寄り添い歩く。
長い廊下の先。扉を開け入った部屋は、少女の私室であった。
手を引かれ、ベッドへと向かう。少年に促されるままに横になれば、優しい手が良い子と少女の髪を撫でた。
その手を、少女は知っている気がした。熱にうなされている時に、ずっと撫でてくれていた愛しい手。
目を細め擦り寄れば、撫でる手はさらに優しくなる。
「そういえば、今日はクリスマスイブだったね。良い子にはプレゼントをあげないと」
プレゼント。首を傾げ、少年を見上げた。
少女は既に石をもらっている。それ以上にもらう事は出来ないと、口を開きかけ。
「メリークリスマス。プレゼント代わりに、いい事を教えてあげようね」
しかし歌うような声と、いつの間にか少年の手に渡っていた石を唇に触れさせられて。少女の否定の言葉は声にならず消えた。
「今回は偶然手に入れる事が出来たけど、次はないかもしれない。だからよく味わって食べて」
触れた唇の熱で石が溶け、僅かに開いた隙間から少女の口腔内へ流れ込む。反射で飲み込んだ少女の目が、驚きと、苦しさと、怯えに見開かれた。
知っている味だった。
吐き出したくなるほど不味く、泣き叫んでしまいたくなるほど美味であるその味。
少女はよく知っていた。思い出してしまった。
綺麗だと思った石が、本当は何であるのか。
少年は誰だったのか。彼が何をしたのか。
「あの時は無理矢理だったけれど、気に入ってくれていたみたいで安心した」
触れているだけだった石が、押し込まれる。
拒もうと唇を閉ざそうとすれど、衰弱した体は思うように動かす事は出来ない。
唇を割り、舌を滑り、喉奥へと転がり落ちる石。
諦めて飲み込む。一筋零れた涙を指先で拭い、彼は笑った。
「今度はちゃんと年を越えられる。年を越して春になったら、きっと良くなるよ。そうしたら、また桜を見に行こう」
笑う少年の姿に、痩せぎすの男の姿が重なる。
あぁ、と掠れた声を漏らす。
狭く、寒い部屋。薄い布団。
部屋が変わる。時が反転していく。
「おやすみ。愛しい人」
冷たい手に目を覆われ、おとなしく目を閉じた。
20241224 『プレゼント』
「大変、申し訳御座いませんでしたぁぁぁ!」
目の前で綺麗な土下座を決める女性を見ながら、何故こんな事になっているのかを思い返す。
どこか他人事なのは、理解が全く追いついていないからだ。所謂、現実逃避というものである。
気がつけば、見知らぬ屋敷の布団の中。
質素だが、肌触りの良い布団から身を起こす。記憶にはない室内は、意識が落ちる前に出会った彼らの屋敷なのだろう。
そう己を納得させる。薬草の香りと、体の痛みが消えている事から、手当をされたようだった。
親切な二人に申し訳なく思う。全ては己の諦めの悪さが招いた事だというのに。
彼らに報いるにはどうすべきかを悩んでいれば、かたん、と襖の開く音がした。
視線を向ければ、最初に己を引き止めた幼子の姿。手には桶を持ったまま、きょとり、と目を瞬かせ。
その表情は、次第に満面の笑顔に変わる。
「あ。起きた!大丈夫?痛くない?苦しくない?」
ぱたぱた、と足早に寄り桶を置く。矢継ぎ早に問いかけられて何も答えられずにいる己を気にする事なく、額に手を当てられる。
幼子の冷えた手が心地よい。思わず目を細めた。
「ん。まだ熱い。寝てないと」
手が冷たく感じるのは、どうやら己が熱を持っているかららしい。
真剣な顔をして、寝るようにと促される。されるが儘に横になりながら、すまない、と小さく謝罪をする。
背を支える幼子の手の感覚に、つきり、と胸が痛むが、目を閉じて気づかない振りをした。
「大丈夫。今、にっちゃが治してくれているからね」
穏やかな声に、目を開ける。桶に張った水に手ぬぐいを浸しながら、幼子は大丈夫、と繰り返す。
治るの、だろうか。
また、大空を飛べるのだろうか。
もう一度。一度だけでもいい。あの青い澄んだ空を。
「おれは、にっちゃの薬を塗る事しか出来ないけど。にっちゃは、たくさん薬を作れるから。血止めの薬の他にも、痛みを止める薬とか、傷を治す薬や病気を治す薬とか」
だから、ね、と幼子は笑う。
固く絞った手ぬぐいを、己の額に乗せながら、歌うように囁いた。
「もうちょっと眠って、ちゃんと元気になろう?元気になったら、にっちゃと、ねっちゃに会おう?」
「……うん」
そこまで言われては仕方ない。
目を閉じる。訪れた暗闇に、意識を沈めて。
おやすみなさい、と掠れた声で呟いた。
次に目覚めた時。側にいたのは幼子ではなく、幼子に似た女性だった。
目が合った瞬間。くしゃり、と顔を歪め。
現在の、この理解できない状況が出来上がってしまった。
「ねっちゃ、うるさい」
いつの間にか部屋に入ってきていた幼子が、女性の横をすり抜け隣に座る。
その手には、湯気の立ち上る湯飲みが乗った漆の盆。はい、と手渡された湯飲みからは、柑橘類の爽やかな香りがした。
「柚子?」
「ん。他にも入ってるけど。落ち着くから」
飲んで、と促され、おとなしく湯飲みに口を付ける。
舌先に薬特有の苦みを感じるものの、柚子の爽やかな酸味に然程気にはならない。
ほぅ、と息を吐く。
「落ち着いた?」
「いや。まあ」
にこにこ笑う幼子の言葉に、曖昧な返事しか返せない。
落ち着く香りと味ではある。だが、頭を下げたまま微動だにしない女性が気になり、落ち着く事など出来そうにはない。
女性に視線が向いてしまう事に、幼子も気づいたのだろう。あぁ、と頷いて。気にしないで、と無慈悲に告げる。
「ねっちゃが悪いの。酔っ払いして、羽、折った」
「え?」
折った。その言葉に、ずきり、と心の臓が痛みを訴える。
女性を見る。彼女は何も言わず、動かない。
違う、と言いかける。しかし、言葉は紡がれず、掠れた吐息が溢れ落ちるのみだった。
「ねっちゃは悪い子。おしおき、する?」
首を振る。紡がれる事のない言葉の代わりに、否を示す。
女性は悪くない。確かに、急に吹いた風に煽られ、そのまま地に叩きつけられて羽は折れた。それでも違うのだ。
湯飲みを持つ手に力が籠もる。俯いて唇を噛みしめる。
否定の言葉一つ紡ぐ事の出来ない、己の弱さが情けない。
「そう?優しい子」
頭を撫でるその手の温かさに、泣いてしまいそうだ。
「羽、は。私が」
「いいえ。今回の責は全て私達にある」
嗚咽を耐え、絞り出した言葉は凜とした声音に遮られた。
顔を上げる。
いつの間にか幼子の隣に女性が座り、真っ直ぐに己を見つめていた。
「私達が、酒宴の席で凩を落とす事を競い合った。その事実は変わらない」
「けれど。でも」
「競い合う前の事など、全て些事だ。羽が折れなかったもしもを考えた所で、それは意味をなさない」
強く、残酷にも聞こえる言葉。女性の強い視線に耐えきれず、視線を逸らす。
如何して、と疑問ばかりが浮かぶ。何故を考えても、何一つ思いあたる事はない。
湯飲みの中で揺れる茶を見つめる。滴が落ちて波紋が広がった。
「ねっちゃ。これ以上はだめ。あっち行ってて」
静かな声。有無を言わさぬ強い言葉と何かを引き摺る音に、顔を上げた。
隣にいたはずの二人の姿は、そこになく。部屋の襖戸に向かい女性を引き摺りながら歩く、幼子の後ろ姿に目を瞬いた。
「当分、来ないで。次泣かせたら、にっちゃに切ってもらうから」
女性を外に放り出し冷たく言い捨てて、すぱん、と強く襖を閉める。
振り返る幼子の、その見慣れてきた笑顔との違いに、何も言葉が出てこない。
「ごめんね。もう大丈夫」
元いた位置に座り、未だ湯飲みを持ったままの手に手を重ねる。
手の両側から感じる温かさと、柚子の仄かな香りに深く息をした。
「今はね。これ飲んで元気になろう?」
にこにこと、優しく語りかける声に、黙って頷く。
「も少し元気になったら、おふろしよう。ゆずをたくさんいれたおふろ。おれ、たくさんとってくるから」
小さな手に促され、茶を口にする。先ほど感じた薬の苦みはもうなく。ただ柚子の甘さと僅かな酸味が喉を潤していった。
息を吐く。落ち着く香りを堪能しながら、幼子を見た。
「彼女は悪くない。折れる前から、上手く動かせなくなっていた」
先ほどは言えなかった言葉が、口をついて出る。
自由に動かせぬ羽。望んだ人の子は既にいないというのに、その望みを忘れられずに足掻いた結果だ。
人に認識されぬ妖は消える。分かっている。それでもあのか弱き人の子の望みだけに応え続けていたかった。
「過去に縋り続けた結果だ。私が弱く、先を否定し続けていたから。だから、」
「でも折ったのは、ねっちゃ。だから悪いのは全部ねっちゃたち」
穏やかな声が否定する。
でも、と言い募る唇は、幼子の指に止められる。
「何も言わないで。ねっちゃたちのせいにして。それで終るのは、さみしいけれど見送るよ。でも」
どこまでも優しい目をして、幼子は笑った。
「もしも、ちょっとでも前を向いてもいいって思えたら。おれはとてもうれしいよ。飛ぶのじゃなくて、歩いてもいいって言ってくれるなら、おれといっしょにゆずをとりに行こう?」
「柚子」
「そう。たくさん生ってるひみつの場所。特別に教えてあげる」
その言葉に、湯飲みを見る。大分少なくなってしまった残りを飲み干した。
先を考えるのは、まだ怖い。飛べぬ己を想像する事すら、出来そうにもない。
けれども今、飲み干したばかりの茶の味を、恋しいと思っている。この甘く爽やかな香りに浸りたいと、思い始めている。
目を閉じる。微かな残り香を、慈しむように吸い込んで。
「傷が、癒えたら。その時は、もう一度その言葉をもらってもいいだろうか」
目を開ける。
幼子を見据え、望んだ。
頷き笑う幼子に、あぁでも、と言葉を足して。
「上手く歩けるかは分からない。長く待たせる事になるかもしれないが」
苦笑し、首を傾げてみせる。
「その時は手をつなぐよ。大丈夫!」
空の湯飲みを取られ、手を繋がれる。
その温もりに、満面の笑顔に。
微笑んで、その手を握り返した。
20241223 『ゆずの香り』
「あ、のっ!」
服の裾を軽く引かれ、声をかけられる。
見下ろせば、涙を湛えながら見上げる幼子と目が合った。
「何だ」
知らぬ幼子から、視線を逸らす。
見上げる空は快晴。雲一つなく、風も穏やかだ。
空に惹かれ、足を踏み出す。
一歩進み。だがそれ以上は、引き止める小さな紅葉の手によって阻まれる。
「だめ。飛ぶの、だめ!」
必死な様子に首を傾げ。
視線を幼子から空へ、空から地へと向け、あぁ、と納得した。
数歩歩けばそこに地はなく、深い谷底が広がっている。おそらくはこのまま落ちると思われているのだろう。
幼子に視線を向け。泣きながら裾を引く手に、そっと手を重ねた。
「落ちない。羽はある」
「だめ、なのっ!飛ぶの。だって、だって!」
「問題ない。大丈夫だ」
「大丈夫、違うぅ!だって、羽根!折れてる!」
飛べない。飛ぶのは駄目だと、ぐすぐす泣きながら幼子は訴える。
確かにそうだ。右翼は折れ、己の意思で動かす事は出来なくなっていた。
だが、飛ばなくては。春が来る前に、片翼だけで飛ぶ事を覚えなければならない。
それをどのように幼子に伝えるべきか。理解してもらえるのかを考え。
未だ泣き続ける幼子と視線を近く合わせるため、身を屈めた。
「安静、しなきゃ、だめなの!こんなに、たくさん、傷。無理、しないで!」
「だが」
「だめっ!」
存外強情な幼子に、困惑する。
無視し、飛ぶのは簡単だ。だが己のために泣くその優しさを、ないものとして扱うのは気が引けた。
「こっち!」
手を引かれ、促されて立ち上がる。手を引かれるままに崖から離され、離れた木の根元に座らされた。
折れた羽根の状態を確認するように、小さな手があちこちに触れる。
疾うに感覚を失った羽根がその手の熱を感じる事はない。
痛みがないのは良い事ではある。だが、今は何故かそれが惜しく思えた。
幼子の手が離れ、今度は服の裾を捲る。
露わになる怪我は、飛ぼうとして飛べずに落ちた際に出来たものだ。
その怪我に顔を顰める幼子は、それでもそれ以上泣く事はなく。
手を離し立ち上がると、深く息を吸い込んだ。
「にっちゃぁぁぁ!」
ざわり、と木々が揺れる。
ざわり、ざわり、と風が舞い。
「何です?そんなに大声を出して」
幼子に似た男が、風と共に舞い降りた。
抱きつく幼子の頭を撫で、此方を見下ろし。
己の様子から、幼子の言いたい事を察したのだろう。小さく息を吐いて幼子を離し、己の元まで歩み寄る。
「随分と無理をしたものだ。片翼では飛べぬでしょうに」
膝をつき、己の羽根に触れる男の目は厳しい。
「それでも飛ばねば。春が来るまでには」
「諦めなさい。これはもう元には戻らぬ」
男の無慈悲な言葉に、目を伏せる。
分かっていた事だ。気づかぬふりをしていた事実だ。
目を閉じる。きつく拳を握り、澱む想いを吐き出すように、深く呼吸をして。
「そうか。ありがとう」
目を開ける。顔を上げて男に微笑み、礼を告げた。
「手間をかけた。礼も出来ぬままなのはすまないと思うが、これ以上貴殿らの時間を消費させるわけにもいかない。失礼する」
「待ちなさい」
「だめっ!」
立ち上がりかけた体は、男と幼子の手により元に戻される。
引き止められる事の意味が分からず、二人を見る。
泣く幼子と、険しい顔の男。
何故己に対してそのような表情をするのだろうか。
「どこ、行くの!」
「終の場所を探しに」
さらに泣き出してしまった幼子に、どうしたものかと首を傾げる。
飛べぬのであれば、終わるだけだ。
それを分かっているだろうに、何故止めるのか。
羽根が折れ、それを認めず無駄に足掻いた無様な己には、終の場所を決める事は出来ぬのだろうか。
悪い方ばかりに、思考が向く。
出会って僅かだが、彼らがそのような非情さを持ち合わせていない事は分かっているというのに。
「たくさんの傷。治すのっ!だからにっちゃ、呼んだの!」
「弟がこう言っている事ですから、諦めてください」
益々意味が分からない。
「いずれ消えるというのに。傷の手当てなど無駄だろう」
「むだじゃない。にっちゃの薬、良く効くもん」
「弟は一度決めた事は曲げません。おとなしくしていてください」
「いや。だが」
困惑する己に構わず、男に抱き上げられる。
ふわり、と薫る薬草の匂いに、傷つき消耗していた意識がくらり、と揺れた。
「眠ってしまってもかまいません」
「何故。迷惑、に」
くすり、と男が笑う。或いは幼子の方か。
微睡む意識では、もう目を開けている事すら困難だ。
「大丈夫。迷惑、違うよ」
「えぇ。それに」
何かを言いかけて、男は言葉を止め。
焦点の合わなくなってきた目を向ければ、緩く首を振られた。
薬草の匂いが強くなる。
気にはなるが、これ以上は無理だ。
「どちらにせよ。一度は僕達の姉に会うのです。話はその時にでも」
「おやすみなさい」
最後に聞こえたのは、幼子の声。
意識は深く沈み、彼らの会話の内容を聞く事はなかった。
意識のない白い小鳥を腕に抱いて、兄は僅かに眉を寄せた。
「この子でしょうかね」
「どうだろう?でも、折れてたから。違っても、助けてあげて」
「分かっていますよ」
片手で弟の頭を撫で、兄は淡く微笑んだ。
兄の笑みに弟も笑顔になる。頭を撫でる手に手を重ね、そのまま繋いで跳ねるように歩き出す。
弟の楽しげな姿に、兄の笑みは優しくなり。
だが不意に、浮かべた笑みが、消える。
「あの馬鹿姉には、当分酒を禁止してもらわなくては」
「酔っ払うの、だめ。ずっと禁止にして」
「そうですね。そうしましょう」
小鳥に視線を向ける。
二度と飛ぶ事の出来ぬその羽根は、小鳥の存在意義を奪い、いずれはその存在自体を消してしまう事だろう。
そうならないために手は尽くすつもりではある。しかし望みは薄く、動く可能性は限りなく低い。
はぁ、と息を吐く。
「酒に酔い。剰え、狐と張り合うとは情けない」
――どちらが先に、あの凩を撃ち落とせるか。
実に下らない勝負だ。それを嬉々として行う事もだが、その結果がこの小鳥であるとするならば、何という愚行であろうか。
それが実の姉であるというのだから、頭が痛い。
姉の話を元に、探し見つけた傷だらけの小鳥。
精々後悔すればいい、と。この場にいない姉に向けて、呟いた・
20241222 『大空』
しゃんしゃん、とベルの音。
軽やかに、高らかに鳴るそれに、鬱々とした気持ちで溜息を吐く。
クリスマスイブ。
あと数日で訪れる聖夜を前に、赤と緑に彩られた街はどこか浮き足立っていて。燦めく光が人々の心を弾ませていた。
一部を除いては。
「一人ぼっちのクリスマスって、マジやばいよね」
「うるせぇよ」
きゃらきゃら笑う声。視線を向けずとも誰か分かる、よく知ったその声音。
煩わしさに顔を顰めた。
「予定が詰まってんだよ。クリスマス如きに浮かれていられっか」
「予定がないから、予定を入れられるんでしょ?可哀想」
「だからうるせぇって」
耐えきれずに振り返る。
にやにやとした嫌な笑みを浮かべる彼女に向けて、追い払うように手を振った。
「さっさとどっか行け。これ以上邪魔すんなよ」
「ひっどいなぁ。一人で可哀想だったから、会いに来てあげたのに」
文句を言いながらも、彼女はこの場を去る様子はない。
しゃんしゃん、と音が聞こえる。
街からはベルの音。それとは別に、彼女が笑う度にしゃんしゃん、音が鳴る。
「余計なお世話だっての。可哀想ってんなら、これ以上仕事を増やすな」
増える面倒事に、思わず舌打ちした。
彼女は変わらずきゃらきゃら笑い。しゃんしゃんと音を鳴らす。
ベルの音。彼女の鳴らす音。
そして、もう一つ。
背後から近づいてくる、しゃんしゃん、と鳴る音。
「遅かったじゃん。このまま来てくれないかと思った」
背後で鳴る音に向けて、彼女が声をかける。
それに答える声はない。
しゃんしゃん、と鳴る音がして。左腕に細く白い腕が絡みついた。
「わお。大胆」
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
前と後ろで音が鳴る。
二つが重なり、響き合う。
「じゃあ、行こっか」
彼女が近づく。
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
響く音が歪み出す。
しゃんしゃん。しゃんじゃん。
――じゃんじゃん。と。
「あぁ、もう。うるせぇな」
絡みつく腕を振り払い、距離を取る。
呆然と座り込む、背後にいた少女に駆け寄りこちらを睨む彼女に、溜息しか出てこない。
「女の子に乱暴するなんて、最低」
「最低なのはお前らだろうが。年の瀬は忙しいって分かってるだろうに」
終わりの見えない予定を思い出す。
家業の手伝いと、学業。
散々だった試験結果に、乾いた笑いすら出てこない。
「大体何で飛び込んだ?お前ら、俺よりも勉強できるだろうが」
「馬鹿じゃないの。鈍感。最低」
強く睨み付ける彼女の周りに、いくつもの炎が浮かぶ。勢いよく向かってくるそれを避けながら、彼女の言葉の意味を考えるが、心当たりはまったくない。
「あと、クラスであんたよりも成績が悪い奴なんていないから」
残酷な現実を突きつけられ、声にならない呻きが漏れる。
僅かに判断が遅れ、顔の真横を過ぎる炎が髪を焦がす不快な匂いに、眉が寄った。
「意味が分かんねぇよ。詳しく話せ」
「少しは考えるって事したら?それだからいつまでも馬鹿なのよ」
「馬鹿言うな。考えても分かんねぇんだから仕方ないだろうが」
悪態を吐けば、それがさらに彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。
じゃんじゃん、と激しく音を立てながら数を増やした炎に、辺りを取り囲まれる。
面倒だ、と舌打ちし。炎を避けながら、ポケットに手を入れた。
「ほんと、察しの悪い奴」
「もう、いいよ」
少女の言葉に、炎が止まる。
じゃん、と音を立てて消える炎を横目に、少女を見る。
俯いて表情は見えない。先ほどの声も淡々としていて、何を思っているのか分からない。
だが、何となく。何となくではあるが、少女が泣いているように感じた。
「私が悪いの。逃げ出したかった。両親の事や、進路の事。自分の気持ちからも全部。なかった事にしたかったの」
「あんたは何も悪くないでしょうが。やりたい事を諦めさせて、望まない学校に進学させるのが正しいはずなんかない。自分で何一つ決められない人生って、ただの地獄じゃん」
少女を強く抱きしめて。吐き出す彼女の言葉は、重い。
自分には分からない感情だ。やりたい事がたまたま家業だった自分には、彼女達を理解する事は出来ない。
もしもすら想像できない自分には、慰めの言葉すら彼女達を傷つける刃になりかねない。
「変える事も、逃げ出す事も出来ないから。終わらせるしかなかったの」
「ねぇ。私達の事、可哀想って思う?同情とかしたりする?憐みひとつくれるなら、一緒に来てよ。反対も、否定も、比較もされないで、好きな事だけやってるあんたから、可哀想な私達にクリスマスプレゼントをちょうだいよ」
強い目をして手を伸ばす彼女に、一歩だけ近づく。
その手を取るつもりはない。憐みなど、真剣に生きて足掻いてきた彼女達には失礼でしかない事くらいは分かる。
「やだよ。今のお前らには、何もやらない」
彼女の睨む目を見据え、だから、と付け足す。
「さっさと戻ってこい。そしたら、お前らのために一日くらい時間を作ってやるよ」
「っ。それって」
「年の瀬はお前らみたいなのが多くて忙しいんだからな。それを時間作って、好きなもん何でも貢いでやるってんだ。一つどころか、これ以上ないくらいの好待遇だろ?」
首を傾げて笑ってみせる。
驚き見開かれた彼女の目と、弾かれたように顔を上げた少女の涙に濡れる目を見返した。
「そういう所が駄目なのよ。最低」
「何でだよ」
「あの。本当に、いいの?」
視線を逸らし悪態を吐く彼女とは対照的に、少女は怖ず怖ずと聞き返す。
反応はそれぞれ違うのに、そのどちらの頬も赤くなっているのが不思議で、可笑しかった。
「今、戻るならな。時間作るために徹夜しなきゃならないから、早くしてくれ」
「分かったわよ。急がせないで」
「ありが、とう」
おう、と軽く手を振り。
手を繋いだまま、霞み消えていく二人を見送って、深く息を吐いた。
クリスマスまでは地獄の日々を過ごす事になるだろう。
だが彼女達は、彼女達の地獄に戻ってくるというのだ。時間の限られた地獄など、極楽とそう変わりはない。
「まったく。しょうがないな」
しゃんしゃん、と鳴るベルの音を聞きながら、ポケットの中に手を突っ込む。
街は眠らない。明るい光が眩しいくらいだ。
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
ベルの音。それに紛れて、誰かが残念だ、と呟いた。
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
残念だ。残念だ。
「お小遣いは多めにしてもらおう」
煩いいくつもの声に、肩を竦めて振り返る。
ポケットから取り出した、水晶のブレスレットをくるくると弄びながら。
「そういうわけだから。さようなら」
恨めしげに見つめる亡者達に、ブレスレットを投げつけた。
20241221 『ベルの音』
雲に遮られ、星月の淡い光すら届かぬ昏い夜。
地面に座り込み、少女は一人空を見上げていた。
言葉もなく、表情もなく。微動だにしないその姿は、僅かに白く色づく吐息がなければ、生きているのか死んでいるのかの区別がつかない。
夜も更け、凍てつく寒さは体温を容赦なく奪っていく。しかし少女はその場から動く様子はなく、ただ見るともなしに見えぬ空を見ていた。
不意に、近づく足音が聞こえた。
ゆっくりとした足音は少女から数歩離れた場所で立ち止まる。周囲の暗がりより尚昏い大柄な影が、低い獣のような声音で少女に問いかけた。
「何をしている」
「別に、何も」
影に視線を向ける事もなく、少女は淡々と答える。
無感情なその声音に、影は低くうなりを上げた・
「なればその身。喰ろうてしまっても構わぬな」
「いいよ」
迷いのない返答。
空から影へと視線を移し、少女は無感情な目をしていいよ、と繰り返す。
「もう、何もかもがどうでもいい」
唇の端を上げて、笑みを形作る。
くしゃりと歪んだ不格好なそれは、泣いているようにも見えた。
「どうでもよいのか」
「うん。どうでもいい。疲れちゃったの。私を私として見てもらう事を期待しても無駄なんだって、分かっちゃった」
「無駄か」
「そう、無駄。結局皆にとって、私は妹の姉でしかないんだよ」
声に感情が乗る事はない。作った笑みも消え、少女は虚ろな目をして影に語り続ける。
「私はお姉ちゃんでいる限り、これからもずっと妹と比べられる。妹の添え物でしかないんだ」
どれだけ努力をし結果を出したとしても、それが認められる事はないと少女は言う。そして少女が不得意とする分野で、努力で補う事の難しい気質に対して、妹を引き合いに出されるのだ、と。
――お姉ちゃんなのだから、出来て当たり前。
――お姉ちゃんなのだから、もっと上を目指さないと。
――お姉ちゃんなのに、何故妹よりも不出来なのか。
――妹の方は、愛嬌があるのに。
――妹の方が、可愛いのに。
少女は周囲からかけられる無慈悲な言葉に一人耐え、只管に努力をし続けてきた。いつか認められると信じて、妹よりも上位の成績を維持し、苦手な愛想も振りまいた。
けれどもどれだけ少女が努力しても、それが認められる事はなく。
「もうお姉ちゃんでいる事に疲れたの。お父さんもお母さんも、友達や好きな人だって、妹しか見ていない。きっとこのまま私がいなくなっても、誰も気にする事なんてないから」
だから、と。
少女は冷え切り動かす事のままならない足に力を入れ、立ち上がる。
一歩、また一歩。影の元へ歩み寄る。
「終わらせてくれるなら、何だっていい。殺されても、食べられても、お姉ちゃんでなくなるならそれでいい」
「それほどまでに姉でいる事を拒むのか」
「そうだよ。お姉ちゃんはもういやなの」
無感情にそう告げて、少女は影へと手を伸ばす。
その手を取り、影は静かに問いかけた。
「誰に終わらせてほしい」
その言葉に少女はきょとり、と目を瞬かせ。
そこでようやく少女の表情に感情が乗った。
作られた笑みではない、今まで押し殺してきた少女の本心からの笑顔。
控えめな、ふわりと花咲くような。そんな暖かな微笑み。
「誰でもいいの?」
「ああ」
「それなら。妹に終わらせてほしいかな」
笑いながら、一筋涙を溢す。
その涙を影は拭い。
不意に雲が途切れ、月の光が二人を仄かに照らし出した。
「その望みに応えよう」
静かに応える声。
影の姿が揺らぎ、少女の妹の姿に変わる。
満開の花が咲き誇るような笑顔を浮かべ、少女の手をそっと離した。
数歩、少女から離れて。
「おやすみなさい、お姉ちゃん」
少女から伸びた影の手を取り、引き寄せる。
おやすみ。ありがとうの言葉を聞きながら。妹はその影の喉元に喰らいついた。
時を止めた少女の軀を前に、妹の姿をした妖は悩んでいた。
その手には、半透明の小さな石を乗せ。
「さて、どうするか」
石を見、軀を見た。
戻す事は出来ない。何より少女がそれを望まない。
とは言え、軀を喰らうつもりは端からなく。このまま捨て置くのも忍びない。
家族の元へと返してもよいものか。
「何、しているの?」
「丁度良い所へ来た」
不意にかけられた声に、振り返る。
首を傾げる磯の香りのする女の元へ歩み寄ると、女の手に持っていた石を握らせた。
「姉である事に疲れたそうだ。甘やかしてやれ」
「魂を勝手に持ち出すのは御法度でしょう。怒られるのは嫌よ」
「何。刹那の夢を見せるだけだ。常世に渡った所で、その寂しさは満たされる事はない。永く眠り続けるよりは良いだろう」
勝手ね、と女は愚痴を溢しながら。
石をそっと包み込み、目を閉じる。
「人の子は随分と寂しくなってしまったのね」
「賢くなりすぎたのだろう。仕方のない事だ」
女の呟きに、妖は少女がしていたように空を見上げた。
月は見えない。再び雲に覆われて、光は遮られてしまっている。
この昏い空を見上げ、少女は何を思っていたのか。
詮無き事を考えながら、そうだなと一つの結論を出した。
「これでいいかしら?」
女の声に視線を向ける。
手にしていた石は形を変えて、安らかに眠る赤子の姿がそこにはあった。
「あぁ。それくらいが甘やかすには良いだろうな」
「迎えが来たら渡すわよ?それでいいでしょう」
女の言葉に否はなく、頷く。
「軀は家族に返すの?」
「連れて行く。姉であった娘は寂しいのだからな」
「甘いのね」
苦笑する女は、それでも否を唱える事はない。
同じ選択を女も考えているのだろうと、妖は気にかける事もなく、赤子の頬を優しく撫でる。
魂が、取り繕うものがなくなった少女の本心が叫び続けていた事。
気づいてほしい。認めてほしい。寂しいのだと。
それらの望みが、この先少しでも応えられれば、と妖は笑った。
「後は任せる」
「えぇ。任されてあげるわ」
女に背を向け、少女の軀に歩み寄る。
その姿が揺らぎ。
頭は牛、体は鬼の姿をした妖は、少女を抱き上げると、己の塒である淵へと去っていった。
20241220 『寂しさ』