sairo

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「あ、のっ!」

服の裾を軽く引かれ、声をかけられる。
見下ろせば、涙を湛えながら見上げる幼子と目が合った。

「何だ」

知らぬ幼子から、視線を逸らす。
見上げる空は快晴。雲一つなく、風も穏やかだ。
空に惹かれ、足を踏み出す。
一歩進み。だがそれ以上は、引き止める小さな紅葉の手によって阻まれる。

「だめ。飛ぶの、だめ!」

必死な様子に首を傾げ。
視線を幼子から空へ、空から地へと向け、あぁ、と納得した。
数歩歩けばそこに地はなく、深い谷底が広がっている。おそらくはこのまま落ちると思われているのだろう。
幼子に視線を向け。泣きながら裾を引く手に、そっと手を重ねた。

「落ちない。羽はある」
「だめ、なのっ!飛ぶの。だって、だって!」
「問題ない。大丈夫だ」
「大丈夫、違うぅ!だって、羽根!折れてる!」

飛べない。飛ぶのは駄目だと、ぐすぐす泣きながら幼子は訴える。
確かにそうだ。右翼は折れ、己の意思で動かす事は出来なくなっていた。
だが、飛ばなくては。春が来る前に、片翼だけで飛ぶ事を覚えなければならない。
それをどのように幼子に伝えるべきか。理解してもらえるのかを考え。
未だ泣き続ける幼子と視線を近く合わせるため、身を屈めた。

「安静、しなきゃ、だめなの!こんなに、たくさん、傷。無理、しないで!」
「だが」
「だめっ!」

存外強情な幼子に、困惑する。
無視し、飛ぶのは簡単だ。だが己のために泣くその優しさを、ないものとして扱うのは気が引けた。

「こっち!」

手を引かれ、促されて立ち上がる。手を引かれるままに崖から離され、離れた木の根元に座らされた。
折れた羽根の状態を確認するように、小さな手があちこちに触れる。
疾うに感覚を失った羽根がその手の熱を感じる事はない。
痛みがないのは良い事ではある。だが、今は何故かそれが惜しく思えた。
幼子の手が離れ、今度は服の裾を捲る。
露わになる怪我は、飛ぼうとして飛べずに落ちた際に出来たものだ。
その怪我に顔を顰める幼子は、それでもそれ以上泣く事はなく。
手を離し立ち上がると、深く息を吸い込んだ。

「にっちゃぁぁぁ!」

ざわり、と木々が揺れる。
ざわり、ざわり、と風が舞い。


「何です?そんなに大声を出して」

幼子に似た男が、風と共に舞い降りた。
抱きつく幼子の頭を撫で、此方を見下ろし。
己の様子から、幼子の言いたい事を察したのだろう。小さく息を吐いて幼子を離し、己の元まで歩み寄る。

「随分と無理をしたものだ。片翼では飛べぬでしょうに」

膝をつき、己の羽根に触れる男の目は厳しい。

「それでも飛ばねば。春が来るまでには」
「諦めなさい。これはもう元には戻らぬ」

男の無慈悲な言葉に、目を伏せる。
分かっていた事だ。気づかぬふりをしていた事実だ。
目を閉じる。きつく拳を握り、澱む想いを吐き出すように、深く呼吸をして。

「そうか。ありがとう」

目を開ける。顔を上げて男に微笑み、礼を告げた。

「手間をかけた。礼も出来ぬままなのはすまないと思うが、これ以上貴殿らの時間を消費させるわけにもいかない。失礼する」
「待ちなさい」
「だめっ!」

立ち上がりかけた体は、男と幼子の手により元に戻される。
引き止められる事の意味が分からず、二人を見る。
泣く幼子と、険しい顔の男。
何故己に対してそのような表情をするのだろうか。

「どこ、行くの!」
「終の場所を探しに」

さらに泣き出してしまった幼子に、どうしたものかと首を傾げる。
飛べぬのであれば、終わるだけだ。
それを分かっているだろうに、何故止めるのか。
羽根が折れ、それを認めず無駄に足掻いた無様な己には、終の場所を決める事は出来ぬのだろうか。
悪い方ばかりに、思考が向く。
出会って僅かだが、彼らがそのような非情さを持ち合わせていない事は分かっているというのに。

「たくさんの傷。治すのっ!だからにっちゃ、呼んだの!」
「弟がこう言っている事ですから、諦めてください」

益々意味が分からない。

「いずれ消えるというのに。傷の手当てなど無駄だろう」
「むだじゃない。にっちゃの薬、良く効くもん」
「弟は一度決めた事は曲げません。おとなしくしていてください」
「いや。だが」

困惑する己に構わず、男に抱き上げられる。
ふわり、と薫る薬草の匂いに、傷つき消耗していた意識がくらり、と揺れた。

「眠ってしまってもかまいません」
「何故。迷惑、に」

くすり、と男が笑う。或いは幼子の方か。
微睡む意識では、もう目を開けている事すら困難だ。

「大丈夫。迷惑、違うよ」
「えぇ。それに」

何かを言いかけて、男は言葉を止め。
焦点の合わなくなってきた目を向ければ、緩く首を振られた。
薬草の匂いが強くなる。
気にはなるが、これ以上は無理だ。

「どちらにせよ。一度は僕達の姉に会うのです。話はその時にでも」
「おやすみなさい」

最後に聞こえたのは、幼子の声。
意識は深く沈み、彼らの会話の内容を聞く事はなかった。





意識のない白い小鳥を腕に抱いて、兄は僅かに眉を寄せた。
「この子でしょうかね」
「どうだろう?でも、折れてたから。違っても、助けてあげて」
「分かっていますよ」

片手で弟の頭を撫で、兄は淡く微笑んだ。
兄の笑みに弟も笑顔になる。頭を撫でる手に手を重ね、そのまま繋いで跳ねるように歩き出す。
弟の楽しげな姿に、兄の笑みは優しくなり。
だが不意に、浮かべた笑みが、消える。

「あの馬鹿姉には、当分酒を禁止してもらわなくては」
「酔っ払うの、だめ。ずっと禁止にして」
「そうですね。そうしましょう」

小鳥に視線を向ける。
二度と飛ぶ事の出来ぬその羽根は、小鳥の存在意義を奪い、いずれはその存在自体を消してしまう事だろう。
そうならないために手は尽くすつもりではある。しかし望みは薄く、動く可能性は限りなく低い。
はぁ、と息を吐く。

「酒に酔い。剰え、狐と張り合うとは情けない」

――どちらが先に、あの凩を撃ち落とせるか。

実に下らない勝負だ。それを嬉々として行う事もだが、その結果がこの小鳥であるとするならば、何という愚行であろうか。
それが実の姉であるというのだから、頭が痛い。
姉の話を元に、探し見つけた傷だらけの小鳥。
精々後悔すればいい、と。この場にいない姉に向けて、呟いた・



20241222 『大空』

12/23/2024, 6:09:49 AM