「大変、申し訳御座いませんでしたぁぁぁ!」
目の前で綺麗な土下座を決める女性を見ながら、何故こんな事になっているのかを思い返す。
どこか他人事なのは、理解が全く追いついていないからだ。所謂、現実逃避というものである。
気がつけば、見知らぬ屋敷の布団の中。
質素だが、肌触りの良い布団から身を起こす。記憶にはない室内は、意識が落ちる前に出会った彼らの屋敷なのだろう。
そう己を納得させる。薬草の香りと、体の痛みが消えている事から、手当をされたようだった。
親切な二人に申し訳なく思う。全ては己の諦めの悪さが招いた事だというのに。
彼らに報いるにはどうすべきかを悩んでいれば、かたん、と襖の開く音がした。
視線を向ければ、最初に己を引き止めた幼子の姿。手には桶を持ったまま、きょとり、と目を瞬かせ。
その表情は、次第に満面の笑顔に変わる。
「あ。起きた!大丈夫?痛くない?苦しくない?」
ぱたぱた、と足早に寄り桶を置く。矢継ぎ早に問いかけられて何も答えられずにいる己を気にする事なく、額に手を当てられる。
幼子の冷えた手が心地よい。思わず目を細めた。
「ん。まだ熱い。寝てないと」
手が冷たく感じるのは、どうやら己が熱を持っているかららしい。
真剣な顔をして、寝るようにと促される。されるが儘に横になりながら、すまない、と小さく謝罪をする。
背を支える幼子の手の感覚に、つきり、と胸が痛むが、目を閉じて気づかない振りをした。
「大丈夫。今、にっちゃが治してくれているからね」
穏やかな声に、目を開ける。桶に張った水に手ぬぐいを浸しながら、幼子は大丈夫、と繰り返す。
治るの、だろうか。
また、大空を飛べるのだろうか。
もう一度。一度だけでもいい。あの青い澄んだ空を。
「おれは、にっちゃの薬を塗る事しか出来ないけど。にっちゃは、たくさん薬を作れるから。血止めの薬の他にも、痛みを止める薬とか、傷を治す薬や病気を治す薬とか」
だから、ね、と幼子は笑う。
固く絞った手ぬぐいを、己の額に乗せながら、歌うように囁いた。
「もうちょっと眠って、ちゃんと元気になろう?元気になったら、にっちゃと、ねっちゃに会おう?」
「……うん」
そこまで言われては仕方ない。
目を閉じる。訪れた暗闇に、意識を沈めて。
おやすみなさい、と掠れた声で呟いた。
次に目覚めた時。側にいたのは幼子ではなく、幼子に似た女性だった。
目が合った瞬間。くしゃり、と顔を歪め。
現在の、この理解できない状況が出来上がってしまった。
「ねっちゃ、うるさい」
いつの間にか部屋に入ってきていた幼子が、女性の横をすり抜け隣に座る。
その手には、湯気の立ち上る湯飲みが乗った漆の盆。はい、と手渡された湯飲みからは、柑橘類の爽やかな香りがした。
「柚子?」
「ん。他にも入ってるけど。落ち着くから」
飲んで、と促され、おとなしく湯飲みに口を付ける。
舌先に薬特有の苦みを感じるものの、柚子の爽やかな酸味に然程気にはならない。
ほぅ、と息を吐く。
「落ち着いた?」
「いや。まあ」
にこにこ笑う幼子の言葉に、曖昧な返事しか返せない。
落ち着く香りと味ではある。だが、頭を下げたまま微動だにしない女性が気になり、落ち着く事など出来そうにはない。
女性に視線が向いてしまう事に、幼子も気づいたのだろう。あぁ、と頷いて。気にしないで、と無慈悲に告げる。
「ねっちゃが悪いの。酔っ払いして、羽、折った」
「え?」
折った。その言葉に、ずきり、と心の臓が痛みを訴える。
女性を見る。彼女は何も言わず、動かない。
違う、と言いかける。しかし、言葉は紡がれず、掠れた吐息が溢れ落ちるのみだった。
「ねっちゃは悪い子。おしおき、する?」
首を振る。紡がれる事のない言葉の代わりに、否を示す。
女性は悪くない。確かに、急に吹いた風に煽られ、そのまま地に叩きつけられて羽は折れた。それでも違うのだ。
湯飲みを持つ手に力が籠もる。俯いて唇を噛みしめる。
否定の言葉一つ紡ぐ事の出来ない、己の弱さが情けない。
「そう?優しい子」
頭を撫でるその手の温かさに、泣いてしまいそうだ。
「羽、は。私が」
「いいえ。今回の責は全て私達にある」
嗚咽を耐え、絞り出した言葉は凜とした声音に遮られた。
顔を上げる。
いつの間にか幼子の隣に女性が座り、真っ直ぐに己を見つめていた。
「私達が、酒宴の席で凩を落とす事を競い合った。その事実は変わらない」
「けれど。でも」
「競い合う前の事など、全て些事だ。羽が折れなかったもしもを考えた所で、それは意味をなさない」
強く、残酷にも聞こえる言葉。女性の強い視線に耐えきれず、視線を逸らす。
如何して、と疑問ばかりが浮かぶ。何故を考えても、何一つ思いあたる事はない。
湯飲みの中で揺れる茶を見つめる。滴が落ちて波紋が広がった。
「ねっちゃ。これ以上はだめ。あっち行ってて」
静かな声。有無を言わさぬ強い言葉と何かを引き摺る音に、顔を上げた。
隣にいたはずの二人の姿は、そこになく。部屋の襖戸に向かい女性を引き摺りながら歩く、幼子の後ろ姿に目を瞬いた。
「当分、来ないで。次泣かせたら、にっちゃに切ってもらうから」
女性を外に放り出し冷たく言い捨てて、すぱん、と強く襖を閉める。
振り返る幼子の、その見慣れてきた笑顔との違いに、何も言葉が出てこない。
「ごめんね。もう大丈夫」
元いた位置に座り、未だ湯飲みを持ったままの手に手を重ねる。
手の両側から感じる温かさと、柚子の仄かな香りに深く息をした。
「今はね。これ飲んで元気になろう?」
にこにこと、優しく語りかける声に、黙って頷く。
「も少し元気になったら、おふろしよう。ゆずをたくさんいれたおふろ。おれ、たくさんとってくるから」
小さな手に促され、茶を口にする。先ほど感じた薬の苦みはもうなく。ただ柚子の甘さと僅かな酸味が喉を潤していった。
息を吐く。落ち着く香りを堪能しながら、幼子を見た。
「彼女は悪くない。折れる前から、上手く動かせなくなっていた」
先ほどは言えなかった言葉が、口をついて出る。
自由に動かせぬ羽。望んだ人の子は既にいないというのに、その望みを忘れられずに足掻いた結果だ。
人に認識されぬ妖は消える。分かっている。それでもあのか弱き人の子の望みだけに応え続けていたかった。
「過去に縋り続けた結果だ。私が弱く、先を否定し続けていたから。だから、」
「でも折ったのは、ねっちゃ。だから悪いのは全部ねっちゃたち」
穏やかな声が否定する。
でも、と言い募る唇は、幼子の指に止められる。
「何も言わないで。ねっちゃたちのせいにして。それで終るのは、さみしいけれど見送るよ。でも」
どこまでも優しい目をして、幼子は笑った。
「もしも、ちょっとでも前を向いてもいいって思えたら。おれはとてもうれしいよ。飛ぶのじゃなくて、歩いてもいいって言ってくれるなら、おれといっしょにゆずをとりに行こう?」
「柚子」
「そう。たくさん生ってるひみつの場所。特別に教えてあげる」
その言葉に、湯飲みを見る。大分少なくなってしまった残りを飲み干した。
先を考えるのは、まだ怖い。飛べぬ己を想像する事すら、出来そうにもない。
けれども今、飲み干したばかりの茶の味を、恋しいと思っている。この甘く爽やかな香りに浸りたいと、思い始めている。
目を閉じる。微かな残り香を、慈しむように吸い込んで。
「傷が、癒えたら。その時は、もう一度その言葉をもらってもいいだろうか」
目を開ける。
幼子を見据え、望んだ。
頷き笑う幼子に、あぁでも、と言葉を足して。
「上手く歩けるかは分からない。長く待たせる事になるかもしれないが」
苦笑し、首を傾げてみせる。
「その時は手をつなぐよ。大丈夫!」
空の湯飲みを取られ、手を繋がれる。
その温もりに、満面の笑顔に。
微笑んで、その手を握り返した。
20241223 『ゆずの香り』
12/24/2024, 8:51:03 AM