雲に遮られ、星月の淡い光すら届かぬ昏い夜。
地面に座り込み、少女は一人空を見上げていた。
言葉もなく、表情もなく。微動だにしないその姿は、僅かに白く色づく吐息がなければ、生きているのか死んでいるのかの区別がつかない。
夜も更け、凍てつく寒さは体温を容赦なく奪っていく。しかし少女はその場から動く様子はなく、ただ見るともなしに見えぬ空を見ていた。
不意に、近づく足音が聞こえた。
ゆっくりとした足音は少女から数歩離れた場所で立ち止まる。周囲の暗がりより尚昏い大柄な影が、低い獣のような声音で少女に問いかけた。
「何をしている」
「別に、何も」
影に視線を向ける事もなく、少女は淡々と答える。
無感情なその声音に、影は低くうなりを上げた・
「なればその身。喰ろうてしまっても構わぬな」
「いいよ」
迷いのない返答。
空から影へと視線を移し、少女は無感情な目をしていいよ、と繰り返す。
「もう、何もかもがどうでもいい」
唇の端を上げて、笑みを形作る。
くしゃりと歪んだ不格好なそれは、泣いているようにも見えた。
「どうでもよいのか」
「うん。どうでもいい。疲れちゃったの。私を私として見てもらう事を期待しても無駄なんだって、分かっちゃった」
「無駄か」
「そう、無駄。結局皆にとって、私は妹の姉でしかないんだよ」
声に感情が乗る事はない。作った笑みも消え、少女は虚ろな目をして影に語り続ける。
「私はお姉ちゃんでいる限り、これからもずっと妹と比べられる。妹の添え物でしかないんだ」
どれだけ努力をし結果を出したとしても、それが認められる事はないと少女は言う。そして少女が不得意とする分野で、努力で補う事の難しい気質に対して、妹を引き合いに出されるのだ、と。
――お姉ちゃんなのだから、出来て当たり前。
――お姉ちゃんなのだから、もっと上を目指さないと。
――お姉ちゃんなのに、何故妹よりも不出来なのか。
――妹の方は、愛嬌があるのに。
――妹の方が、可愛いのに。
少女は周囲からかけられる無慈悲な言葉に一人耐え、只管に努力をし続けてきた。いつか認められると信じて、妹よりも上位の成績を維持し、苦手な愛想も振りまいた。
けれどもどれだけ少女が努力しても、それが認められる事はなく。
「もうお姉ちゃんでいる事に疲れたの。お父さんもお母さんも、友達や好きな人だって、妹しか見ていない。きっとこのまま私がいなくなっても、誰も気にする事なんてないから」
だから、と。
少女は冷え切り動かす事のままならない足に力を入れ、立ち上がる。
一歩、また一歩。影の元へ歩み寄る。
「終わらせてくれるなら、何だっていい。殺されても、食べられても、お姉ちゃんでなくなるならそれでいい」
「それほどまでに姉でいる事を拒むのか」
「そうだよ。お姉ちゃんはもういやなの」
無感情にそう告げて、少女は影へと手を伸ばす。
その手を取り、影は静かに問いかけた。
「誰に終わらせてほしい」
その言葉に少女はきょとり、と目を瞬かせ。
そこでようやく少女の表情に感情が乗った。
作られた笑みではない、今まで押し殺してきた少女の本心からの笑顔。
控えめな、ふわりと花咲くような。そんな暖かな微笑み。
「誰でもいいの?」
「ああ」
「それなら。妹に終わらせてほしいかな」
笑いながら、一筋涙を溢す。
その涙を影は拭い。
不意に雲が途切れ、月の光が二人を仄かに照らし出した。
「その望みに応えよう」
静かに応える声。
影の姿が揺らぎ、少女の妹の姿に変わる。
満開の花が咲き誇るような笑顔を浮かべ、少女の手をそっと離した。
数歩、少女から離れて。
「おやすみなさい、お姉ちゃん」
少女から伸びた影の手を取り、引き寄せる。
おやすみ。ありがとうの言葉を聞きながら。妹はその影の喉元に喰らいついた。
時を止めた少女の軀を前に、妹の姿をした妖は悩んでいた。
その手には、半透明の小さな石を乗せ。
「さて、どうするか」
石を見、軀を見た。
戻す事は出来ない。何より少女がそれを望まない。
とは言え、軀を喰らうつもりは端からなく。このまま捨て置くのも忍びない。
家族の元へと返してもよいものか。
「何、しているの?」
「丁度良い所へ来た」
不意にかけられた声に、振り返る。
首を傾げる磯の香りのする女の元へ歩み寄ると、女の手に持っていた石を握らせた。
「姉である事に疲れたそうだ。甘やかしてやれ」
「魂を勝手に持ち出すのは御法度でしょう。怒られるのは嫌よ」
「何。刹那の夢を見せるだけだ。常世に渡った所で、その寂しさは満たされる事はない。永く眠り続けるよりは良いだろう」
勝手ね、と女は愚痴を溢しながら。
石をそっと包み込み、目を閉じる。
「人の子は随分と寂しくなってしまったのね」
「賢くなりすぎたのだろう。仕方のない事だ」
女の呟きに、妖は少女がしていたように空を見上げた。
月は見えない。再び雲に覆われて、光は遮られてしまっている。
この昏い空を見上げ、少女は何を思っていたのか。
詮無き事を考えながら、そうだなと一つの結論を出した。
「これでいいかしら?」
女の声に視線を向ける。
手にしていた石は形を変えて、安らかに眠る赤子の姿がそこにはあった。
「あぁ。それくらいが甘やかすには良いだろうな」
「迎えが来たら渡すわよ?それでいいでしょう」
女の言葉に否はなく、頷く。
「軀は家族に返すの?」
「連れて行く。姉であった娘は寂しいのだからな」
「甘いのね」
苦笑する女は、それでも否を唱える事はない。
同じ選択を女も考えているのだろうと、妖は気にかける事もなく、赤子の頬を優しく撫でる。
魂が、取り繕うものがなくなった少女の本心が叫び続けていた事。
気づいてほしい。認めてほしい。寂しいのだと。
それらの望みが、この先少しでも応えられれば、と妖は笑った。
「後は任せる」
「えぇ。任されてあげるわ」
女に背を向け、少女の軀に歩み寄る。
その姿が揺らぎ。
頭は牛、体は鬼の姿をした妖は、少女を抱き上げると、己の塒である淵へと去っていった。
20241220 『寂しさ』
12/20/2024, 11:07:01 PM