白の毛糸で編まれた手袋をした手を目の前にかざす。
だらしなく緩んだ唇から、ふへっ、と間の抜けた笑い声が漏れた。
愛しい妹が、兄のために編んでくれた手袋。
今朝方、朝食の後に妹に呼び止められ手渡されたものだ。
その時の頬を朱に染め、はにかむ妹は他の誰よりも可憐でいじらしいものであった。渦巻く激情を押し込め、ただ笑いかけ頭を撫でるだけでその場を去る事が出来たのは、偏に兄としての矜持を持っていたからだ。
誰もいない自室では、取り繕う必要もない。故に、こうして意味もなく手袋を嵌めた手を見ては、にやにや笑う事を繰り返し。
彼此半日が過ぎようとしていた。
「いつまでそうしているつもりですか」
不意に戸が開き、男が溜息と共に部屋の中へと足を踏み入れる。
「やらねぇよ」
「いりませんよ。私の分は先ほど頂きましたから」
「は?」
弾かれたように身を起こす。
男に視線を向ける。その手に嵌められた水浅黄色の手袋を認め、兄の表情が歪んだ。
「皆の元へ配り歩いておりました」
「俺だけじゃないのか」
「えぇ。皆、喜んでおりましたよ」
あからさまに落ち込み俯く兄に、男は呆れたように息を吐く。
背後を一瞥し、それと、と言葉を続けながら脇へと移動した。
「いい加減にそのだらけた格好を直して下さい。客人ですよ」
「は?一体誰、だ、よ」
至極面倒だと言わんばかりに視線を向ける兄の表情が、焦りを含んだものへと変わる。
「日和《ひより》」
「ごめん、なさい。すぐ戻るから」
服の裾を握り締めて視線を彷徨わせる妹に、慌てて立ち上がり側に寄る。今までの失態を全て見られていた事実に叫びそうになりながらも、その細い肩を引き寄せ部屋に招き入れた。
「どうした?何か嫌な事でもあったか?」
努めて穏やかに声をかける。
元いた場所に座ると、そのまま妹を膝に乗せ落ち着かせるように背を撫でた。
「その。手袋、やっぱり迷惑だったかな、って。思って、それで」
視線を逸らしながら、ぽつりぽつりと呟かれた言葉。手渡した際の兄の様子から、不安になったのだろう。
眉間に皺を寄せ、自身の朝の態度を反省していれば、でも、とか細い声が続いた。
「気に入って、もらえて。うれしい」
頬だけでなく耳まで朱に染め俯く妹に、兄は感情のままに抱きしめたくなる手を必死に堪える。
そうか、と兄は呟いて、そのまま黙り込む。妹もそれ以上何も言わず。沈黙が訪れた部屋で、男の呆れたような声が響いた。
「あの体たらくを見られて、今更取り繕う必要もないでしょうに」
顔を向け、男を睨めつける。
「あぁ、大丈夫ですよ。実際に姿を見せた訳ではありません。あの見るに堪えない締まりない顔は、さすがに見せられませんでしたから。まぁ、不気味に笑う声は聞こえていたでしょうがね」
「うそ、だろ」
「本当の事です」
告げられる残酷な事実に、絶句する。
恐る恐る妹を見る。気まずさで泣きそうに瞳を揺らした妹と視線が交わり、兄の口から呻く声が漏れた。
「どんなお兄ちゃんでも、かっこいい、と、思うよ」
「日和」
妹の拙い慰めの言葉に何とも言えない気持ちになりながら、兄は妹の体を抱きしめる。
もう半ば自棄になっていた。兄としての矜持など、全て見られてしまった今となっては意味を持たない。
それならば、と。今まで我慢してきた分も含めて、存分に妹を愛でる事にした。
「日和は本当に良い子だなぁ。可愛いし、優しいし、手先は器用だし。日和を隠せて、一緒にいられて、俺は幸せだ」
「え?お兄ちゃん?ちょっと。ねぇ、待って」
困惑し身じろぐ妹の頭を撫でる。
可愛い、可愛い、と口にしながら、さらに赤に染まる頬や耳を眺め、堪能しながら笑みを浮かべた。
「俺のために手袋を編んでくれてありがとうな。でも、他の奴らに気を遣うな。日和の優しさを勘違いする、阿呆な狐がいるかもしれないからな」
「勘違いはしていませんが、涙を流して拝み出すモノはおりましたね」
「誰だよ、それ。尾を毟ってやろうか」
「お兄ちゃんっ!」
不穏な言葉に、思わず妹は兄の胸を叩いた。
剣呑な光を帯びた眼は、妹を認めた瞬間に蕩けたような甘さに変わる。
その眼を間近で見てしまい、声にならない叫びを上げて兄の肩口に顔を押し当てる妹に、兄は優しく笑いその耳元に唇を寄せた。
「なぁ、日和。我慢をしてないか。言いたい事、やりたい事を諦めてないか。俺はどんな日和も好きだが、素直な日和が一等好きだから、何でも言ってくれ」
「でも、私なんかが。迷惑になる。お兄ちゃんにも、我慢させてる」
「迷惑になんて誰も思ってねぇし、俺はもう我慢する事を止めるから。日和の格好いい兄ちゃんを目指してたけど、全部見られたからな」
呟いて、妹の頬を包み顔を上げさると、兄は額に唇を触れさせる。ひゃっ、と声を上げた妹にくすくす笑いを噛み殺し、兄は妹の目を覗き込みながら、言い聞かせるように囁いた。
「日和、今夜から俺と一緒に寝よう。夜這いにくる阿呆がいたら大変だからな。それから、手袋みたいにまた何か編んでくれ。他の奴にもじゃなくて、俺のためだけに編んでくれよ」
「あ、う」
「清々しいまでに気持ち悪いですね」
男の冷めた言葉に、兄は反応一つ見せる様子はない。完全に開き直ったらしい。
視線を逸らす事も、況してや逃げ出す事も出来ない妹は、羞恥に涙を湛えながらも、小さく頷いた。
「分かっ、た。分かったから、少し、離れて」
「そうか!絶対だからな。よし、今日は宴にしよう」
破顔しさらに強く妹を抱く兄に、男は仕方がないと呆れながらも笑った。
「すでに準備に取りかかっていますよ。手袋を頂いた祝いだと、皆浮かれていますから」
それだけを告げ、部屋を出る。
残された兄は複雑な表情を浮かべるも何も言わず、妹に視線を向け、その体を抱いたまま立ち上がる。
「ちょっ、と。私、自分で」
「俺がしたいからこうする。我慢するなと言われたからな。このまま大広間に向かうぞ」
身じろぐ妹を気にせず、兄は妹を抱き上げたまま部屋を出る。見られるのが恥ずかしいのか、顔を上げようとしない妹に兄は優しく囁いた。
「日和は俺らに愛されてる自覚をもっと持て。自分を卑下するんじゃない。それはお前を愛する俺らを否定し、軽んじる事になるのだから」
「お兄ちゃん」
「お前は愛されているんだ。お前は手袋一つ、と思うだろうがな。それがどれほど俺らにとって嬉しいものなのか、思い知ればいい」
何も言えなくなった妹の髪にそっと唇を触れさせ、兄は上機嫌に笑う。
大広間に近づくにつれ増える誰かの歓声に、顔を上げれぬまま、しかし小さく有難う、と妹は呟いた。
20241228 『手ぶくろ』
12/29/2024, 7:12:03 AM