sairo

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かた、と男は筆を置く。仕上がった原稿に、安堵の息が漏れた。

「お疲れ様で御座いやした。茶でも飲んで、ゆっくり休んで下せぇ」

ことり、と湯飲みを置かれ、代わりに仕上がったばかりの原稿を子供に取られる。男が横目で窺えば、真剣に原稿を読み込み、時折何かを書き付ける姿が見えた。
真面目だな、と湯飲みを手に取り茶を啜りながら、男はぼんやりと思う。
原稿を書き終えた今、何をするにも億劫だ。
仮眠でも取るべきかと思いながら、彷徨う視線が無造作に置かれたままの手帳を認めた。
湯飲みを片手に手帳を取る。見るとも無しに頁を捲り、男は懐かしさに目を細めた。

「この一年間、随分と騒がしかったみたいだな」
「そうですねぇ。消える妖より、堕ちた化生の方が多いなんぞ、世も末で御座いやすねぃ」

確かに、と頁を捲る。
この一年間、子供が語る話を殴り書いた手帳には、妖の話よりも化生の話の方が多い。特に妖が堕ちた化生の話が目についた。

「人の認識によって存在が歪み、化生に堕ちるんだったか。それにしては数が多いな」
「存在が歪んだだけでなく、妖自ら堕ちる事も増えてきやした。それだけ妖が人間に近くなってきた証拠でしょうなぁ」
「人に近くなってきた、ねぇ」

頁を捲る手を止め、ずず、と男は音を立てて茶を啜る。
そもそも妖とは何なのか。
人の望みに応え、認識される事で存在を保つモノ。人の認識により歪み、人に害をなすモノ。
人に近くなりすぎて、壊れてしまったモノ。

「人がいなけりゃ、妖も堕ちる事はないだろうに」
「何言ってるんですかい」

人知れず零れた男の言葉は、子供の呆れた溜息によって否定される。

「いいですかい、先生。まず人間がいなけりゃ、手前共みたいな妖は端から存在したりしやせん。人間がいて、求められて妖が存在するんでさぁ」
「お前もそうなのか」
「手前ですかい?」

顔を上げ、子供を見る。
きょとん、と目を瞬かせ男を見返す子供は、そのままつい、と空に視線を向ける。記憶を辿るように目を細め、穏やかに唇が弧を描いた。

「そうですねぇ。はっきりとは覚えていやせんが、声を聞きましたねぃ」
「声」
「えぇ。声です。男か女か。年寄りか子供か。今となっちゃあ誰かなんて分かりやせんが、声がしやした。暗い夜道に、灯りを求める声が」

灯り、と声には出さず呟いて、男は想像する。
遠い昔。夜の灯りなど、手にした提灯以外には月明かりしかない、暗い夜道。
一人きりで歩くのは、さぞ怖ろしかろう。灯りの届かぬ暗がりに、何かが蠢いているようで足が竦むのだろう。
もしも灯りがもう一つあれば。もう一人、誰かが隣を歩いてくれたのならば。
一人でなくば、暗い夜道も心細くはないだろう。

「随分と甘い事だ」
「先生には負けますよ。手前共に与えるだけ与えて、何一つ望んでくれやせん」
「望んだだろう。断られたが」

詳しく覚えていないが、少し前に疲れた頭で何かを望み、断られた気がする。
そう男がぼやけば、子供はあぁ、と原稿に視線を戻しながら相づちを打つ。

「それにはちゃあんと応えさせてもらいやした。きっちり締め切りに間に合わせて、締め切りをなくしたじゃあないですかい」
「屁理屈だな」

男の眉間に皺が寄る。
だがそれ以上何を言うでもなく。湯飲みに残った茶を飲み干すと、そのまま机に伏せ目を閉じた。

「先生。眠いなら座敷に床をしいていやすから、そこで寝てくだせぇ。こんな所で寝たら、風邪を引いちまいやさぁ」
「面倒だ」
「まったく。しようもないお人だ」

ふ、と息を吐き。子供は伏して微睡む男の背に毛布を掛ける。
いつもの事だ、と子供は笑みを浮かべ。
ふと思いついて、男の耳元に唇を寄せた。

「先生。あまり手前共を甘やかしてはいけやせん。欲が出て、堕ちてしまいやすよ」

男は答えない。規則正しい寝息に、子供の笑みが深くなる。

「人間と深く、長く関わるほど、妖というのは意思を持ちやす。情がわく、というやつでさぁ。意思を持てば欲が出る。欲が出れば、望みを持つ。触れ合いたい。離れたくない。失いたくない。永遠を共に」

灯りが消える。
暗闇の中。くすくす笑う子供の声が響く。

「妖が堕ちるのは、相手に永遠を望んでしまったからでさぁ。手順を踏まず、思いのままに人間の道理を歪めれば、当然堕ちるに決まっていやしょう?」
「手順…道理」
「おや?」

寝入ったはずの男の唇から言葉が溢れ落ちる。男の手が机の上を彷徨い、手帳に触れ引き寄せる様を見て、子供は目元を和らげる。
どこまでも仕事熱心な男に、子供は慈愛を目に浮かべ、幼子にするかのようにその背を撫ぜた。

「はいはい。仕事熱心なのはいいですが、半分以上寝てる今はおとなしく眠っていてくだせぇ。後でまた聞かせてあげやすからねぃ」

すうすう、とまた規則正しい寝息が聞こえ始め。子供は静かに男から離れた。
手には提灯が一つ。男を起こさぬよう、ゆったりとした足取りで部屋を出た。

「本当に、先生は困ったお人ですねぃ」

縁側を歩きながら独りごちる。
困った、困った、と言いながらも、子供の表情は酷く楽しげだ。
外を見る。月もなく灯りもない暗がりでナニかと目が合い、子供はゆらり、と提灯を揺らした。

「先生は今、お休み中でさぁ。静かに頼んますよ」

掃き出し窓が音もなく開く。ぞろぞろ入り込むのは、この一年間、男が書き留めた妖達だ。
手には酒や、食物を持ち。皆、それぞれに台所や茶の間へと移動する。
騒ぎ立てるモノは誰もなく。家の主である男を起こさぬよう、静かに準備をし始める。

「先生が起きた時が楽しみですねぃ。こんな賑やかな年越しなんて」

静かだが、どこか賑やかな室内に、子供は満足げに頷いて、自身も台所へと向かい歩き出す。
しばらくすれば目覚めるだろう男へ、新しい茶と甘味を用意をしなければならない。

「さて、今年もあと僅か。次の年には、どんな話を先生に聞かせられる事やら」

子供の足取りは軽い。
手にした提灯が新しい年のその先を思い、愉快だと言わんばかりにゆらゆら揺れていた。



20241231 『1年間を振り返る』

1/1/2025, 4:16:04 AM