「明けましておめでとう!」
かんっ、と釜の鳴る音。
あまりの煩さに目が覚めた。
「まだ…早い」
視線だけを向けて見た窓は、カーテン越しであっても暗さがよく分かる。
まだ夜明け前だ。起きるには早い。
「正月だぞ!年が明けたのだ。早く起きろ」
かんかん、と釜の音が鳴り響く。
頭まで布団を被る。だが間近で釜を鳴らされ続ければ、その騒音を防ぎようがなく。
これでは二度寝が出来そうにない。
「…起きる。起きますよ」
「最初から起きればよいものを。ほら、早くしろ」
もぞもぞと名残惜しげに布団から出る。
釜を持つ大男と、その隣に寄り添う女性に視線を向け、おはよう、と気のない挨拶をした。
「馬鹿者。新年の挨拶くらいはしっかりしないか」
「明けましておめでとう御座います。さあ、準備をしましょうね」
呆れる男に、やはり気のないおめでとうを言い。女に手を引かれ、部屋を出る。
向かう先が、普段行かない納戸である事に、密かに気を落とす。
分かっている。新年なのだから、それなりの格好をしなくてはならない。
着付けを含めた準備は、すべて任せてしまえばいい。
去年もそうだった。何かをしようとする前に、すべてが終わっていた。
小さく息を吐く。
納戸の扉が開けられ、その先にいた数人の女性達を視界に入れて、この先の面倒な神事を思い、鬱々とした気持ちで部屋に足を踏み入れた。
新年に限った事ではないが、神事とは長く退屈なものだ。
単調な祝詞。ゆったりとした神楽舞。そして吉凶占術の儀。
着慣れない衣装を着て、長時間の正座に耐えるのは苦行でしかない。
足の痛みに耐え、早朝と言う事も加わり、度々訪れる睡魔に抗う。
此方を監視するような男の視線を、半眼で見返す。半ば睨み付けている形になってしまうのは、眠気が強すぎるからで仕方のない事だ。誰にでもなく胸中で言い訳をして、一つ瞬きをする。
もう一度。さらにもう一度と瞬きをする度に目を閉じている時間が長くなっている気がするが、きっと気のせいだろう。
もう一度、目を閉じる。そしてそのまま、
――かんっ。
釜の音。びくりと肩を跳ねさせ、目を開ける。
視線だけで辺りを窺うが、見える範囲に釜はない。男の手にも、だ。
男と視線が交わる。呆れたようでこちらの反応を愉しんでいるような、にたり、とした笑みに頬が引き攣った。
逃げるようにして、男から視線を逸らす。すっかり冴えてしまった目を擦り、諦めて奉納される神楽が終わるのをただ待っていた。
「神事の途中に居眠りをしようとするな、この馬鹿娘」
頭を小突かれ、窘められる。
それに言い返す事はせず。一瞥しただけで、回廊の先を行く。
正論に言い返した所で、さらに正論が帰ってくるだけだ。
回廊の終わり。一つ置かれた大きな竈に、男が釜を置く。
一つ遅れて竈に火が点いた。近くで遊んでいた風が近寄り、火の勢いを強めていく。
「いいぞ」
男に促されて、釜の上の蒸籠に米を入れる。
蓋を乗せ、しばらくすれば聞こえるのは、低く唸る声にも似た音。
釜の音が形を成す。鳥や蝶、葉や羽など様々になり、四方へ去って行く。
必要とするモノの所へ、必要な言葉を届けに行くのだろう。
次第に形を成す音の数が減り。やがて釜は沈黙する。
ふっ、と詰めていた息を吐く。これですべてが終わった。
「上出来だ」
大きな手で力強く、優しく頭を撫でられる。揺れる視界で、男が笑った。
「さて。戻って飯にしようか。俺もそろそろ酒が飲みたい」
「朝酒は、さすがに怒られるのでは?」
「正月の酒は、許されるだろう。これから客も大勢訪れる事だしな」
呵々と笑う男の手から逃れ、乱れた髪を手で直す。
疲れて溜息を吐けば、男の笑みが柔らかくなった。
「今年こそは、探し人が見つかるとよいな」
「…はい」
探し人。誰かは分からない。ただ逢いたいと、その想いだけが身を焦がす。
そもそも、自身が誰なのかも覚えていない。
人か妖か。それすらも分からない。目の前の男にも、ここにいるモノの誰にも、それこそ常世に住まうモノにすら分からなかった。
ただ男は、己に似ていると言った。人が妖に成った気配に似ている、と。
男が妖に成った理由を詳しくは知らない。知っているのは、人でいた頃の名残で、こうして現世の神事の真似事をしている事と、妖と成るために禁術を使用したらしいという事だけだ。
「戻ろうか。朝餉の用意も出来ている頃合いだ」
男の差し出す手に、手を重ね。回廊に足を踏み入れる。
回廊を歩きながら横目で見る空は、どこまでも広く、青い。
「何故、神事を執り行っているのですか?」
「どうした?急に」
無意識に溢れ落ちた言葉に、男は立ち止まり首を傾げた。
聞くつもりはなかったが、一度口に出してしまったものは取り消せない。男を見上げ、答えを待つ。
「そうだな。最初は当てつけのつもりだったんだがな」
目を細め、遠い過去を懐かしむように、淡く微笑んで。
「釜の言葉を聞き取れぬ現世の奴らを、この狭間で真似事をして嗤っていたんだが。おまえが来て、真似事が本当の神事になったな」
手を引かれ、抱き上げられる。近くなった男の横顔はとても穏やかだ。
「急がんと朝餉が冷めてしまうな。しっかり捕まっていろ」
早足で回廊を戻る。落ちぬよう男の首元にしがみつきながら、過ぎていく景色を声もなく眺めた。
「新しき年だ。今は宴を楽しみ、目出度き日を祝おうぞ。直に釜の言葉を受け取ったモノらも訪れる事だろう。忙しくなるぞ」
速度が上がる。回廊を抜け、大広間へと駆け抜ける。
時折上がる、誰かの小さな悲鳴に声には出さずに謝罪した。
これは大広間に着くまで、止まる事はないだろう。
「何をなさっているのですか!」
「あ、やべっ!」
悲鳴に混じり聞こえた声に、男が焦りを見せる。
慌て立ち止まる衝撃に、そのまま飛ばされてしまいそうになるのを必死に耐える。
きゅっ、と床を鳴らし、静止する。飛ばされぬ事に安堵していれば、そっと地に下ろされた。
振り返れば、怒りを露わにした女の姿。その矛先は男に剥いていると分かっていながらも、ひ、と思わず声が漏れる。
「子供ではないのですよ!新年早々浮かれすぎないで下さいまし」
「すまん。つい」
「つい、ではありませぬ!危ないと何度申し上げたら、殿はお聞き下さるのですかっ!」
男の妻である女の言葉に気まずさを感じていれば、横から手を引かれた。そのまま二人から離れ、手を引かれるまま納戸に向かい歩き出す。
「お召し物が乱れております。朝餉の前に整えましょう」
「ありがとう」
礼を言えば、仕えの女は淡く微笑んだ。
背後ではまだ、男を叱る声が響いている。当分終わる事はないのだろう。
新年とはこうも騒がしいものだったか。去年を思い返し、同じような光景を見ていた記憶に、溜息が出る。
「如何なされましたか?」
「酒飲みとは、怖ろしいなと思って」
疲れた笑みを浮かべつつ、首を振る。
切り替えなければ。今から疲れていては、この三が日を耐えきる事が出来ない。
出かかる溜息を呑み込む。顔を上げて前を見た。
――かぁん、と。
騒がしい年の始まりに、どこかで釜の音が響いた。
20250102 『新年』
1/3/2025, 7:09:32 AM