sairo

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墨をする。
心を落ち着かせる、この静かな時間を堪能する。
半紙の位置と、文鎮。それから筆。視線だけで確認して。
ことり、と墨を置く。
筆を手にし、筆先に墨を付ける。
年が明ける前から考えていた言葉を思い描きながら、半紙の白に力強く筆を押しつけた。





「で。これが今年の抱負、か」
「はい。これ以外はありえません」
「そう、か」

満面たる笑みを浮かべる少女に、少年は何とも言えぬ表情を浮かべた。
彼が手にしている半紙には、辿々しくも力強い字が書き付けてある。

――見敵必殺。

溢れ落ちそうになる溜息を押し殺し、引き攣る口角を上げ笑みを必死で形作る。

「意味は、知っている?」
「以前、当主様が仰っておられました。敵を見つけ次第、必ず殺す。さーちあんどですとろい、というのだそうです」
「そっか」

年端の行かぬ少女からは、聞きたくない言葉である。

「これ以外では、駄目なの?」
「逆にこれ以外の抱負などあるのですか」
「あ。うん。あるんじゃ、ないかな」

心底不思議だと言わんばかりの表情に、少年は視線を逸らし、胸中で重苦しい溜息を吐く。
これは駄目だ。自分の手には負えない。
とはいえ、このまま知らぬ振りをするわけにもいかず。適当な感想を言うわけにもいかず。
冷や汗を掻きながらどう説得すべきかを悩んでいれば、こんこん、と扉を叩く音が聞こえた。

「如何したの?悩み事かい」

低く落ち着いた響きの声が鼓膜を揺する。
部屋に入ってきた男を見て、助かった、と少年は安堵の息を吐いた。

「今年の抱負だってさ」
「おや。これは」

少年に手渡された半紙の文字に、男の眉が僅かに寄る。だがそれは直ぐに優しい微笑みに変わり、褒めるように少女の頭を優しく撫でた。

「上手に書けているね。この言葉は当主殿に教えてもらったのかな」
「はい。昨年の三が日の時に、不思議な匂いを纏われ上機嫌でいらした当主様から教えて頂きました」
「うわぁ」

去年、というよりも毎年三が日は、無礼講の如く朝から酒浸りで大騒ぎをするのが恒例行事だ。
今も母屋では、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎとなっている事だろう。
酒に酔い、上機嫌で少女に余計な言葉を教えた当主が簡単に想像でき、少年は口元をさらに引き攣らせた。
男の表情は変わらない。優しげな笑みを浮かべたまま、少女の目線に合わせて身を屈め、手にした半紙を少女へと手渡す。

「気持ちが込められた良い字ではあると思うよ。けれど残念ながら、これは課題として提出する事は難しいな」
「いけませんか?」

少女の言葉に、男の笑みが僅かに陰る。憂いを帯びた微笑みに、少女だけでなく男の真意を知る少年ですら、息を呑んで続く言葉を待った。

「先生方というのは、平穏を好み争い事を憂うものだからね。これは屋敷の中に飾る事にして、課題には別の言葉を書くといいよ」

嘘は何一つ言っていない。ただ男の表情と含みを持たせた言葉に、少女は何かを察したのか、あぁ、とか細い声を溢した。

「そうでしたか。先生方のお心を煩わせる事は本意ではありませんし、別の抱負を考える事と致します。教えて頂きありがとうございます」

悲しみを湛えた目を伏せて、少女は失礼します、と一礼し部屋を去って行く。
ぱたん、と扉が閉まる音に、少年は危機が去った事を実感し、深く息を吐いた。

「助かった」
「当主殿には、しっかりと話をしておくよ」

苦笑する男に、よろしく、とだけ告げて、少年はふらふらとベッドに歩み寄り、そのまま倒れ込んだ。
疲れた。まだ昼時も過ぎていない事は分かっていたが、少女をどう思い留ませるか考えすぎてしまった。
目を閉じる。このまま少し眠ってしまうのもいいのもしれない。

「大丈夫かい?水を持ってこようか」
「平気。少し疲れただけ」

ぎ、とベッドが軋む。男が座った気配に、少年はそのまま落ちていきそうな意識を手繰り寄せ、目を開けた。
顔だけを向けて男を見る。

「何か用があったんだろ?何?」
「いつものだよ」

少年の髪を指先で梳きながら、男は目を細める。
いつもの、の言葉に、少年は男から視線を逸らして、いつものか、と呟いた。

「年も明けた事だから、そろそろどちらにするか決めてくれたかと思ってね」
「あいつか俺か。どちらかじゃなきゃ駄目なのかよ。ばあさんでもいいだろ?当主なんだし」
「僕が従いたいと思うのが、二人なんだよ」

何度も繰り返されてきたやりとりに、少年は何も言葉を返さず目を閉じる。

「あの子はまだ幼いけれども、その気概はとても美しい。僕を十分に使役してくれるだろう」
「物好きが」

悪態を吐く少年を男は困ったように、だが愛おしそうに微笑み見つめる。拗ねてしまった子を宥める親のような慈しみを込めて、でもね、と男は言葉を続けた。

「僕としては、君に従いたいと思っているんだよ。君が頷かないから、こうして候補を広げているだけさ」
「俺は管なんていらない。一人で問題ない」
「困った子だね。強情な所は、本当に彼女にそっくりだ」

きゅっ、と唇を噛みしめる少年に、男は苦笑してその体を抱き上げる。膝に乗せその背をさすれば、次第に少年の抵抗は弱くなり、微かな嗚咽が混じり始めた。

「優しく、すんなっ!本当は、俺の事、嫌いなくせに。母さんっ、俺のせい、で、いなくなった、からっ!」
「嫌いにはなっていないし、況してや恨んでもいないと何度も言っているだろう?彼女は我が子を守ろうとしただけだ」

少年の耳元に唇を寄せて、男は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。それでも尚、首を振り否定する少年に、男は困ったね、と然程困っている訳でもない表情で呟いた。

「親が子を守るのは、当然の事だ。だから僕にも君を守らせてくれないかい?」
「やだ。いなくなるのは、もう、やだ」
「やれやれ。信用がないな。これでも猛助《もうすけ》と呼ばれ、人間達から怖れられている妖なのだけれどね」

くすり、と男は笑う。
分かっている。少年が男を信用していないのではなく、目の前で母を化生に奪われた幼き日の疵が、彼を今なお苦しめている事を。
失う事を怖れ、故に飯綱使いの家系に生まれながらも、未だに管の一つも使役しようとしていない事を。
かつて少年の母を己が主としていた男は、すべてを知って少年に語りかける。

「愛しい子。今年こそは君の管として、その身を守らせてくれないかい」



20250103 『新年の抱負』

1/4/2025, 12:34:16 AM