「明けましておめでとう!」
かんっ、と釜の鳴る音。
あまりの煩さに目が覚めた。
「まだ…早い」
視線だけを向けて見た窓は、カーテン越しであっても暗さがよく分かる。
まだ夜明け前だ。起きるには早い。
「正月だぞ!年が明けたのだ。早く起きろ」
かんかん、と釜の音が鳴り響く。
頭まで布団を被る。だが間近で釜を鳴らされ続ければ、その騒音を防ぎようがなく。
これでは二度寝が出来そうにない。
「…起きる。起きますよ」
「最初から起きればよいものを。ほら、早くしろ」
もぞもぞと名残惜しげに布団から出る。
釜を持つ大男と、その隣に寄り添う女性に視線を向け、おはよう、と気のない挨拶をした。
「馬鹿者。新年の挨拶くらいはしっかりしないか」
「明けましておめでとう御座います。さあ、準備をしましょうね」
呆れる男に、やはり気のないおめでとうを言い。女に手を引かれ、部屋を出る。
向かう先が、普段行かない納戸である事に、密かに気を落とす。
分かっている。新年なのだから、それなりの格好をしなくてはならない。
着付けを含めた準備は、すべて任せてしまえばいい。
去年もそうだった。何かをしようとする前に、すべてが終わっていた。
小さく息を吐く。
納戸の扉が開けられ、その先にいた数人の女性達を視界に入れて、この先の面倒な神事を思い、鬱々とした気持ちで部屋に足を踏み入れた。
新年に限った事ではないが、神事とは長く退屈なものだ。
単調な祝詞。ゆったりとした神楽舞。そして吉凶占術の儀。
着慣れない衣装を着て、長時間の正座に耐えるのは苦行でしかない。
足の痛みに耐え、早朝と言う事も加わり、度々訪れる睡魔に抗う。
此方を監視するような男の視線を、半眼で見返す。半ば睨み付けている形になってしまうのは、眠気が強すぎるからで仕方のない事だ。誰にでもなく胸中で言い訳をして、一つ瞬きをする。
もう一度。さらにもう一度と瞬きをする度に目を閉じている時間が長くなっている気がするが、きっと気のせいだろう。
もう一度、目を閉じる。そしてそのまま、
――かんっ。
釜の音。びくりと肩を跳ねさせ、目を開ける。
視線だけで辺りを窺うが、見える範囲に釜はない。男の手にも、だ。
男と視線が交わる。呆れたようでこちらの反応を愉しんでいるような、にたり、とした笑みに頬が引き攣った。
逃げるようにして、男から視線を逸らす。すっかり冴えてしまった目を擦り、諦めて奉納される神楽が終わるのをただ待っていた。
「神事の途中に居眠りをしようとするな、この馬鹿娘」
頭を小突かれ、窘められる。
それに言い返す事はせず。一瞥しただけで、回廊の先を行く。
正論に言い返した所で、さらに正論が帰ってくるだけだ。
回廊の終わり。一つ置かれた大きな竈に、男が釜を置く。
一つ遅れて竈に火が点いた。近くで遊んでいた風が近寄り、火の勢いを強めていく。
「いいぞ」
男に促されて、釜の上の蒸籠に米を入れる。
蓋を乗せ、しばらくすれば聞こえるのは、低く唸る声にも似た音。
釜の音が形を成す。鳥や蝶、葉や羽など様々になり、四方へ去って行く。
必要とするモノの所へ、必要な言葉を届けに行くのだろう。
次第に形を成す音の数が減り。やがて釜は沈黙する。
ふっ、と詰めていた息を吐く。これですべてが終わった。
「上出来だ」
大きな手で力強く、優しく頭を撫でられる。揺れる視界で、男が笑った。
「さて。戻って飯にしようか。俺もそろそろ酒が飲みたい」
「朝酒は、さすがに怒られるのでは?」
「正月の酒は、許されるだろう。これから客も大勢訪れる事だしな」
呵々と笑う男の手から逃れ、乱れた髪を手で直す。
疲れて溜息を吐けば、男の笑みが柔らかくなった。
「今年こそは、探し人が見つかるとよいな」
「…はい」
探し人。誰かは分からない。ただ逢いたいと、その想いだけが身を焦がす。
そもそも、自身が誰なのかも覚えていない。
人か妖か。それすらも分からない。目の前の男にも、ここにいるモノの誰にも、それこそ常世に住まうモノにすら分からなかった。
ただ男は、己に似ていると言った。人が妖に成った気配に似ている、と。
男が妖に成った理由を詳しくは知らない。知っているのは、人でいた頃の名残で、こうして現世の神事の真似事をしている事と、妖と成るために禁術を使用したらしいという事だけだ。
「戻ろうか。朝餉の用意も出来ている頃合いだ」
男の差し出す手に、手を重ね。回廊に足を踏み入れる。
回廊を歩きながら横目で見る空は、どこまでも広く、青い。
「何故、神事を執り行っているのですか?」
「どうした?急に」
無意識に溢れ落ちた言葉に、男は立ち止まり首を傾げた。
聞くつもりはなかったが、一度口に出してしまったものは取り消せない。男を見上げ、答えを待つ。
「そうだな。最初は当てつけのつもりだったんだがな」
目を細め、遠い過去を懐かしむように、淡く微笑んで。
「釜の言葉を聞き取れぬ現世の奴らを、この狭間で真似事をして嗤っていたんだが。おまえが来て、真似事が本当の神事になったな」
手を引かれ、抱き上げられる。近くなった男の横顔はとても穏やかだ。
「急がんと朝餉が冷めてしまうな。しっかり捕まっていろ」
早足で回廊を戻る。落ちぬよう男の首元にしがみつきながら、過ぎていく景色を声もなく眺めた。
「新しき年だ。今は宴を楽しみ、目出度き日を祝おうぞ。直に釜の言葉を受け取ったモノらも訪れる事だろう。忙しくなるぞ」
速度が上がる。回廊を抜け、大広間へと駆け抜ける。
時折上がる、誰かの小さな悲鳴に声には出さずに謝罪した。
これは大広間に着くまで、止まる事はないだろう。
「何をなさっているのですか!」
「あ、やべっ!」
悲鳴に混じり聞こえた声に、男が焦りを見せる。
慌て立ち止まる衝撃に、そのまま飛ばされてしまいそうになるのを必死に耐える。
きゅっ、と床を鳴らし、静止する。飛ばされぬ事に安堵していれば、そっと地に下ろされた。
振り返れば、怒りを露わにした女の姿。その矛先は男に剥いていると分かっていながらも、ひ、と思わず声が漏れる。
「子供ではないのですよ!新年早々浮かれすぎないで下さいまし」
「すまん。つい」
「つい、ではありませぬ!危ないと何度申し上げたら、殿はお聞き下さるのですかっ!」
男の妻である女の言葉に気まずさを感じていれば、横から手を引かれた。そのまま二人から離れ、手を引かれるまま納戸に向かい歩き出す。
「お召し物が乱れております。朝餉の前に整えましょう」
「ありがとう」
礼を言えば、仕えの女は淡く微笑んだ。
背後ではまだ、男を叱る声が響いている。当分終わる事はないのだろう。
新年とはこうも騒がしいものだったか。去年を思い返し、同じような光景を見ていた記憶に、溜息が出る。
「如何なされましたか?」
「酒飲みとは、怖ろしいなと思って」
疲れた笑みを浮かべつつ、首を振る。
切り替えなければ。今から疲れていては、この三が日を耐えきる事が出来ない。
出かかる溜息を呑み込む。顔を上げて前を見た。
――かぁん、と。
騒がしい年の始まりに、どこかで釜の音が響いた。
20250102 『新年』
今年もあと少しで終わる。
社の上がり口に座り、ぼんやりと周囲を見る。
鳥居と、手水場、社務所。
社務所の裏、木々を抜けた先の草原が昼寝に最適だと教えてくれたのは誰だっただろうか。
暖かな記憶の欠片に、はっきりとは思い出せない事を歯痒く思う。後悔は一切ないというのに、未練がましい矛盾した感情に苦笑する。
彼と出会って、私も随分と我が儘になってしまったみたいだ。
「黄櫨《こうろ》」
背後から聞こえた声。優しい響きに目を細める。
伸ばされた腕に擦り寄り、そのまま胸に凭れれば、声のように優しい手に頭を撫でられた。
「神様」
「寂しいのか」
意外な言葉に、顔を上げて彼を見る。首を傾げれば、小娘の事だ、と僅かに顔を顰めて彼は言う。
彼の言う彼女は、今はいない。年越しは家族と過ごすのだと、申し訳なさそうに言っていたのを思い出す。
気にする事ではないだろうに。親友は本当に優しい人だ。
彼もそうだ。どこまでも優しい彼に、笑って首を振る。
「違うよ。神様がいるから寂しくはないよ」
「では何を考えていた」
「私、我が儘になっているな、って。色々、思い出しながら考えてた」
優しい人達に囲まれて。怖くなるくらいに甘やかされている自覚はある。それをもっとと、足りないとねだってしまうのは、何て我が儘なのだろうか。
けれどそれを伝えても、彼は何故か満足そうに笑うだけで。頭を撫でる手が一層優しくなった。
「それでいい。求める事を覚え、与えられるものを素直に享受しろ。お前は子供なのだから」
「でも」
「大人の真似事なぞ、黄櫨には不要なものだ。誰かに応え生きていくのではなく、己自身のために望み生きよ」
彼は時々難しい事を言う。たくさんを与えられている状況で、さらに望めと酷い言葉を告げる。今ですら返せる気がしないというのに。
「与えられたものに対して、それと同等を返そうとは思うな。笑っていろ。それだけでいい」
「さらに我が儘になってしまうよ」
「それでいいと言っている。お前は大人の欲により眠りを否定され、使われ続けているのだから」
それを言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。
社の奥でさらに厳重に縄に巻かれ、封じられた以前の躰を思う。
数え切れないほどの呪を取り込んで、黒く染まった躰。記憶にはほどんどないけれども、それが長い年月により取り込まれて来た事くらいは見ていて分かる。
「神様」
「どうした。黄櫨」
「前の私は、可哀想だったの?」
ふと気になって彼に尋ねる。その優しさは憐みなのだろうか。
ただの興味本位だった。答えに興味は然程ない。
けれど彼は、僅かに目を見開いて、それから静かに微笑んだ。
「お前の生は、お前にしか分からぬよ。他者が推し量るものではない。況してや可哀想などと、卑しき言葉一つで思い做す事は許されぬ」
強く抱き竦められて、息を呑む。
すまない、と微かな震える声が鼓膜を揺すり、落ち着かなくなる。
謝罪の言葉に乗る感情は後悔だ。けれど彼が何に後悔しているのか、検討もつかない。
「神様?」
「選択肢を一つ消した。俺の望みのため、最良をなくしたのだ。憐みや慈悲ではない。俺の望みの、せめてもの償いだ」
何を言いたいのだろう。選択肢が何か、償いとは何かは分からない。
顔を上げて彼を見る。何かに後悔し苦しむ、優しい彼に伝えたい事があった。
「神様が望んでもいいと思うよ」
「黄櫨」
「神様は、ずっと人の願いを叶え続けてきたのだから。御衣黄《ぎょいこう》様が望んだっていいはずだよ」
頬に触れる。揺れる金を見返して、微笑んだ。
「俺の望みが、黄櫨の眠りを否定するものだとしてもか?」
「神様が側にいてくれないと、眠りたくはないよ」
我が儘を言ってみる。終って新しく始まるための眠りだとしても、一人は嫌だ。彼と一緒がいい。
彼が手を引いてくれる事で、私は前へ進む事が出来るのだから。
「このままで、俺と共にいてくれるのか?」
冬休みが始まる前にいなくなってしまった転校生が、さよならの前に言っていた事を思い出した。
呪を解く事が出来る、と。
その提案を、彼は否定した。呪を解くのではなく、封じてしまう選択を、彼は後悔していたのか。
「一緒にいたいよ。今の私だけでなくて、前の私も御衣黄様と一緒にいさせて」
願う言葉に、彼は微笑む。
頬に触れる手を包んで、黄櫨、と優しい声音で名を呼んだ。
「お前の望みにはすべて応えよう」
どこかで鐘の音がする。
除夜の鐘だ。慌ただしかった一年が終わり、また新しい一年が始まる。
どこか懐かしいその音を聞きながら、改めて彼を見る。
「えっと。明けましておめでとう御座います?」
「それはまだ早いな。年は明けておらぬ故」
「じゃあ。良いお年を?」
「それは昨日までの言葉だ」
呆れて笑う彼に、何を言えばいいのか分からなくなり、首を傾げる。
「言葉は必要なかろう。年を越すといえど、何も変わらぬ。昨日が今日になり、今日が明日になるというだけの事だ」
混乱する私を宥めるように、優しい手が背中を撫でる。
額に唇を触れさせて、彼はだが、と呟く。
「人にとって、一年とは大事なものであるからな。暫くは騒がしくなるぞ」
くすり、と笑い。
刹那、賑やかな声があちらこちらから聞こえてくる。
周囲を見渡す。いくつもの灯りに照らされて、明るい境内にたくさんの人が列を成す。
賽銭を投げ入れる音。本坪鈴の音。柏手。
必死に願う人を見て、戸惑い彼を見上げた。
「初詣だ。早い者はこうして年が明ける前から訪れる」
「すごい、ね」
「俺は神様をせねばならぬから戻るが、騒がしさを厭うのであれば、このまま神域にいるとよい」
「…神様と、一緒がいい」
驚きはすれど、それを理由に彼から離れるのは嫌だった。
服を掴み擦り寄ると、小さく笑う声がして抱き上げられる。
「長くなる。疲れたのならば、遠慮なく眠れ」
頷いて、耳を澄ませる。
たくさんの願い事、たくさんの想いを聞きながら、どこか夢見心地で籤を引く人達を見ていた。
喜ぶ人。悲しむ人。何度も籤を見返す人。
「願いを聞き、ああして籤で伝える。我に出来るは、ささいな事よ」
優しい眼をした彼を見る。どこか哀しげにも見えるその表情に、彼のために一つの歌を口遊む。
願いのすべてに応える必要はないのだと。手の届く範囲だけでいいのだと、想いを込めて。
「黄櫨」
「皆にとって、いい一年であって欲しいとは思うけれど。でもそれ以上に、御衣黄様の一年が穏やかであって欲しいと思っているよ」
微笑み、彼の首に両手を回して。
優しい神様を、そっと抱きしめた。
20250101 『良いお年を』
かた、と男は筆を置く。仕上がった原稿に、安堵の息が漏れた。
「お疲れ様で御座いやした。茶でも飲んで、ゆっくり休んで下せぇ」
ことり、と湯飲みを置かれ、代わりに仕上がったばかりの原稿を子供に取られる。男が横目で窺えば、真剣に原稿を読み込み、時折何かを書き付ける姿が見えた。
真面目だな、と湯飲みを手に取り茶を啜りながら、男はぼんやりと思う。
原稿を書き終えた今、何をするにも億劫だ。
仮眠でも取るべきかと思いながら、彷徨う視線が無造作に置かれたままの手帳を認めた。
湯飲みを片手に手帳を取る。見るとも無しに頁を捲り、男は懐かしさに目を細めた。
「この一年間、随分と騒がしかったみたいだな」
「そうですねぇ。消える妖より、堕ちた化生の方が多いなんぞ、世も末で御座いやすねぃ」
確かに、と頁を捲る。
この一年間、子供が語る話を殴り書いた手帳には、妖の話よりも化生の話の方が多い。特に妖が堕ちた化生の話が目についた。
「人の認識によって存在が歪み、化生に堕ちるんだったか。それにしては数が多いな」
「存在が歪んだだけでなく、妖自ら堕ちる事も増えてきやした。それだけ妖が人間に近くなってきた証拠でしょうなぁ」
「人に近くなってきた、ねぇ」
頁を捲る手を止め、ずず、と男は音を立てて茶を啜る。
そもそも妖とは何なのか。
人の望みに応え、認識される事で存在を保つモノ。人の認識により歪み、人に害をなすモノ。
人に近くなりすぎて、壊れてしまったモノ。
「人がいなけりゃ、妖も堕ちる事はないだろうに」
「何言ってるんですかい」
人知れず零れた男の言葉は、子供の呆れた溜息によって否定される。
「いいですかい、先生。まず人間がいなけりゃ、手前共みたいな妖は端から存在したりしやせん。人間がいて、求められて妖が存在するんでさぁ」
「お前もそうなのか」
「手前ですかい?」
顔を上げ、子供を見る。
きょとん、と目を瞬かせ男を見返す子供は、そのままつい、と空に視線を向ける。記憶を辿るように目を細め、穏やかに唇が弧を描いた。
「そうですねぇ。はっきりとは覚えていやせんが、声を聞きましたねぃ」
「声」
「えぇ。声です。男か女か。年寄りか子供か。今となっちゃあ誰かなんて分かりやせんが、声がしやした。暗い夜道に、灯りを求める声が」
灯り、と声には出さず呟いて、男は想像する。
遠い昔。夜の灯りなど、手にした提灯以外には月明かりしかない、暗い夜道。
一人きりで歩くのは、さぞ怖ろしかろう。灯りの届かぬ暗がりに、何かが蠢いているようで足が竦むのだろう。
もしも灯りがもう一つあれば。もう一人、誰かが隣を歩いてくれたのならば。
一人でなくば、暗い夜道も心細くはないだろう。
「随分と甘い事だ」
「先生には負けますよ。手前共に与えるだけ与えて、何一つ望んでくれやせん」
「望んだだろう。断られたが」
詳しく覚えていないが、少し前に疲れた頭で何かを望み、断られた気がする。
そう男がぼやけば、子供はあぁ、と原稿に視線を戻しながら相づちを打つ。
「それにはちゃあんと応えさせてもらいやした。きっちり締め切りに間に合わせて、締め切りをなくしたじゃあないですかい」
「屁理屈だな」
男の眉間に皺が寄る。
だがそれ以上何を言うでもなく。湯飲みに残った茶を飲み干すと、そのまま机に伏せ目を閉じた。
「先生。眠いなら座敷に床をしいていやすから、そこで寝てくだせぇ。こんな所で寝たら、風邪を引いちまいやさぁ」
「面倒だ」
「まったく。しようもないお人だ」
ふ、と息を吐き。子供は伏して微睡む男の背に毛布を掛ける。
いつもの事だ、と子供は笑みを浮かべ。
ふと思いついて、男の耳元に唇を寄せた。
「先生。あまり手前共を甘やかしてはいけやせん。欲が出て、堕ちてしまいやすよ」
男は答えない。規則正しい寝息に、子供の笑みが深くなる。
「人間と深く、長く関わるほど、妖というのは意思を持ちやす。情がわく、というやつでさぁ。意思を持てば欲が出る。欲が出れば、望みを持つ。触れ合いたい。離れたくない。失いたくない。永遠を共に」
灯りが消える。
暗闇の中。くすくす笑う子供の声が響く。
「妖が堕ちるのは、相手に永遠を望んでしまったからでさぁ。手順を踏まず、思いのままに人間の道理を歪めれば、当然堕ちるに決まっていやしょう?」
「手順…道理」
「おや?」
寝入ったはずの男の唇から言葉が溢れ落ちる。男の手が机の上を彷徨い、手帳に触れ引き寄せる様を見て、子供は目元を和らげる。
どこまでも仕事熱心な男に、子供は慈愛を目に浮かべ、幼子にするかのようにその背を撫ぜた。
「はいはい。仕事熱心なのはいいですが、半分以上寝てる今はおとなしく眠っていてくだせぇ。後でまた聞かせてあげやすからねぃ」
すうすう、とまた規則正しい寝息が聞こえ始め。子供は静かに男から離れた。
手には提灯が一つ。男を起こさぬよう、ゆったりとした足取りで部屋を出た。
「本当に、先生は困ったお人ですねぃ」
縁側を歩きながら独りごちる。
困った、困った、と言いながらも、子供の表情は酷く楽しげだ。
外を見る。月もなく灯りもない暗がりでナニかと目が合い、子供はゆらり、と提灯を揺らした。
「先生は今、お休み中でさぁ。静かに頼んますよ」
掃き出し窓が音もなく開く。ぞろぞろ入り込むのは、この一年間、男が書き留めた妖達だ。
手には酒や、食物を持ち。皆、それぞれに台所や茶の間へと移動する。
騒ぎ立てるモノは誰もなく。家の主である男を起こさぬよう、静かに準備をし始める。
「先生が起きた時が楽しみですねぃ。こんな賑やかな年越しなんて」
静かだが、どこか賑やかな室内に、子供は満足げに頷いて、自身も台所へと向かい歩き出す。
しばらくすれば目覚めるだろう男へ、新しい茶と甘味を用意をしなければならない。
「さて、今年もあと僅か。次の年には、どんな話を先生に聞かせられる事やら」
子供の足取りは軽い。
手にした提灯が新しい年のその先を思い、愉快だと言わんばかりにゆらゆら揺れていた。
20241231 『1年間を振り返る』
籠の中の蜜柑が消えた。
溜息を吐いて、縁側に続く障子戸を開ける。
縁側の隅。縮こまるようにして座る坊主に、蹴りを見舞う。
「人の蜜柑を盗むんじゃない。この糞坊主」
「何という惨い仕打ち。愚僧はただ、気づいて欲しかっただけだというのに」
「五月蠅い」
吐き捨てて見下ろせば、ひぃ、と情けない声が上がる。抱えていた蜜柑を恐る恐る差し出して、まろび転がるようにして坊主は去って行った。
「まったく」
短く息を吐き、座敷に戻る。ぴしゃん、と障子戸を鳴らし締めてしまったが、仕方がないと誰にでもなく言い訳をした。
籠に蜜柑を戻し、そのまま炬燵に足を入れる。暖かさにほぅ、と息を吐いて、徐に蜜柑に手を伸ばす。
「可哀想になぁ。蜜柑に嫉妬する柿の気持ちなんざ、お嬢には些事でしかないらしい」
「五月蠅いよ」
座敷の角。一升瓶を抱えたままげらげら笑う、赤ら顔の男を睨めつける。
おぉ、怖い、と笑いながら手酌で酒を注ぎ、一気に呷る。
だがそれが最後だったらしい。さらに継ぎ足そうと一升瓶を傾けるが、一滴すら出ては来ず。空の一升瓶を名残惜しく揺すり、やはり一滴も出ない事に肩を落とした。
「お嬢、蔵の鍵くれや」
ゆらり、と立ち上がり、赤ら顔の男は此方に近づき手を差し出す。
それを横目にしながらも、男を気にする事はなく、手にした蜜柑の皮を剥き始める。
「お嬢」
「断る。厨に残っている、いつもの酒でも飲んでいろ」
赤ら顔の男の眉間に皺が寄る。握り締めた一升瓶に罅が入り、そのまま砕けて辺りに散った。
「鍵を寄越せ。人間」
割れた瓶の欠片を眼前に向け、男は再度要望を口にする。
少しでも身じろぎすれば、鋭い切っ先が眼球を抉るのだろう。焦点も合わぬほど近距離の破片を見つめながらも、返す言葉は、やはり否だ。
「いやだね」
「糞餓鬼がっ」
破片が眼球を抉る、その寸前。男の手首に細い糸が絡みつき、強い力で背後に引かれた。
それとほぼ同時。縁側の障子戸が開かれ、藁を纏い手には鉈を持った男が入り込む。糸に手を引かれ体制を崩していた赤ら顔の男に詰め寄り、その頭を容赦なく鉈の柄で殴りつけた。
「こりゃ、三吉!おめ、童っこに何さしよとしでんだ。それに蔵ん酒ば年越しん時のもんだで言ったべや。わりぇ子には仕置ぎせんばねぁな」
「痛っ。やめろ、角を持って引き摺るんじゃねぇ。悪かった。悪かったっつってんだろ!」
藁を纏った男は、赤ら顔の男の額の角を持ち、引き摺りながら襖戸を開ける。痛がる赤ら顔の男を意にも介さず、そのまま隣の座敷に移動する。
ぱたん、と襖戸が閉められた後、ぎゃぁぁぁ、という断末魔の声を最後に、何も聞こえなくなった。
はぁ、と溜息を溢し。気を取り直すように、手にしたままの蜜柑を一房口に入れる。
「ん。美味い」
甘さと瑞々しさと、仄かな酸味に口元が綻ぶ。もう一房口に含み、その味を堪能していれば、す、と隣に湯飲みが置かれ、背後から頭を撫でられた。
「賢い。賢い」
「来てたの分かってたからね。助けてくれて、ありがと」
見上げれば、赤い八つの目を持つ男と視線が交わる。
礼を言えばふわり、と表情を綻ばせ。しかしその目はどこか咎めるように細まった。
「だが、言葉は穏便に」
「…善処します」
気まずさに視線を戻し、また一房蜜柑を口にする。残った蜜柑を置いて湯飲みに手を伸ばし、ずず、と音を立てて茶を啜れば、その温かさにほぅ、と声を漏らした。
「負けず嫌いなのは悪い事ではないけれど、酔っ払いを煽ってはいけないわ」
開いたままの障子戸から、箒とちり取りを持った骸骨が入ってくる。瓶の欠片を片付けながら、窘められて、ごめん、と素直に謝罪した。
「酒飲みなんて馬鹿しかいないのだから、適当にあしらっておけばいいのよ。そうすれば、怖い思いをしなくてすむのに」
「ごめんって。でも誰かは助けてくれるって分かっているから、怖くはないな。骨の姉さんだって、いつも助けてくれるしね」
湯飲みを置き、蜜柑を食べながらそう伝えれば、骸骨はかたかた、と機嫌良く骨を鳴らす。
片付けが終わったのだろう。箒とちり取りを手に立ち上がると、その場でくるり、と回って見せた。
「あなたは私をいつも褒めてくれる、優しい子だもの。ねぇ、今日の私は綺麗かしら?」
「骨の姉さんはいつだって綺麗だよ。骨だけでも、そこに肉がついていたとしても」
「あら、嬉しい。いつもありがとう」
片付けてくるわ、とさらに骨を鳴らして、足取り軽く座敷を出ていく。
いつの間にか、赤い目の男もいなくなってしまったようだ。
自分以外誰もいなくなってしまった座敷で、蜜柑を食べつつ賑やかな音に耳を澄ませる。
ぎゃあ、と時折上がる半泣きの悲鳴は、先ほどの赤ら顔の男のものだろうか。ばたばた、と走り回る音はとても騒々しい。
遠くで、木を切り倒す音が聞こえる。少なくなってきた薪の足しにでもするのだろう。その合間に聞こえるのは、小豆を研ぐ音。楽しげに、だが時折外した調子の鼻歌に、耐え切れずくすくす笑いが漏れる。
ふと、障子戸の開けられる音がした。視線を向ければ、先ほど逃げていった坊主が、手に包みを抱えて此方の様子を窺っている。
「なに?」
「これを」
怖ず怖ずと座敷に入り、包みを開ける。
「柿?」
「あんぽ柿である。愚僧めが作り申した」
期待した目で見られ、苦笑する。一度茶を飲んでから、あんぽ柿に手を伸ばした。
一口囓る。干し柿と違う、柔らかさと瑞々しい甘さが口の中に広がり、目を細めて堪能する。
「美味しい」
「そうであろう。蜜柑などには引けを取らぬ旨さであろう」
「いや。蜜柑の方が好きかな」
正直な感想を言えば、なんと、と崩れ落ちる坊主に、楽しくなってけらけら笑う。
あんぽ柿を囓り、賑やかな屋敷の音を聞きながら。
こんな騒々しい年の瀬も悪いものではないな、と思った。
20241230 『みかん』
「あれ?九重《ここのえ》じゃん」
聞き覚えのある声に、僅かに眉が寄る。
失敗した。外になど出るべきではなかった。
後悔が渦巻くが、今となっては意味がない。表情には出さぬよう気をつけながら、声のした方へと視線を向けた。
「お前、スマホとか持ってないし。冬休み中は会えないと思ってた」
会えてうれしい、と破顔する彼に、そうだな、と曖昧に笑ってみせる。視界の端でいくつもの手が揺れているのが見えて、思わず口元が引き攣った。
「なんで、こんな所に」
娯楽など一つもない、寂れた郊外の住宅街を彼が訪れる意味が分からない。
彼の家は、学校を挟んで反対側にある。この近辺に彼の親戚の類いがいる訳でもない。
口をついて出た言葉に、彼はきょとん、と目を瞬かせ、笑った。
「俺?おれは」
楽しそうな笑み。風が吹き抜け、周囲の音が消える。
「お前を探しに来たに決まっているだろう?奏《かなで》」
彼の左腕に絡みつくいくつもの手が、責め立てるように揺れ動いた。
「まったく。折角の休日なのだから、俺と遊んでくれてもいいだろうに。冷たい奴だ」
逃げようと下がる足は、彼の腕から離れた手に縫い止められて動かす事が出来ない。
ゆっくりと歩み寄る彼に左手を取られ、繋がれる。繋がれた事で足を縫い止める手は離れていったが、代わりにいくつかの手が左手を辿って腕に絡みついた。
以前の戯れで絡みついていた時よりも強く、しがみつく。
「離せ、って」
「駄目だ。奏は俺の友達なんだから、連絡手段は必要だろう。おれの可愛い眷属達の手を貸してやるってんだ。大事にしろよ」
ぞわり、と不快な感覚に顔を顰める。嫌だと腕を引けど全く離れる事のない手に、焦りが浮かぶ。
そんな自分の姿に、彼は表情の抜け落ちた目をして見つめ。腕を引き、歩き出した。
「ちょっ。どこに!」
「お前、暇だろ。俺と遊べ。何なら、俺の家に泊まりに来い」
「そんな、急に」
半ば引き摺られるようにして、歩いて行く。有無を言わさぬ強い力に、苛立ち眉が寄った。
「あぁ、だが」
不意に、足が止まる。突然の事にふらつく体を立て直し、非難の意味を込めて睨み付ければ、彼はにやり、と口元を歪めた。
「そう言えば、お前は買い出しに向かうんだったか。足りない材料があったらしいな」
「な、んで。それを」
「さて、なんでだろうな。まぁ、そんな些事より、これから俺とその買い出しに行って、そのまま鍋料理を振る舞ってくれ」
名案だと言わんばかりの彼の表情に呆れ、耐えられず重苦しい溜息が溢れ落ちる。
本当に面倒だ。だがこのまま手が離れる事はないのだろう。
痛む頭を右手で押さえ、さする。仕方がないと自身に言い聞かせ、僅かに高い彼を見上げた。
「お前と友達になった覚えはない。さっさと歪を戻して、鳴音《なおと》の中に引っ込め、悪趣味野郎」
「相変わらず口が悪いな。おれとも仲良くしてくれてもいいんだぞ、奏」
「気安く名前で呼ぶな。気持ち悪い」
「振られてしまったか。仕方がない。俺を頼むぞ」
彼は笑う。
風が吹きぬけ、一瞬の間に音が元に戻る。
「あれ?俺、いつの間に九重と手を繋いでたんだ?」
目を瞬かせ、不思議そうに手を見る彼に、ついさっき、と適当に答えた。
「それより。これから買い物に行くんだけど、一緒に来る?」
「買い物?」
「夕飯、鍋にしようと思って。何だったら、夕飯食べてく?」
「…いいの?」
不安そうに見つめる彼に、いいよ、と視線を逸らして答える。
彼と自分の左腕に絡んだ手がゆらゆら揺れて、早く行こうと急かしている。
あぁ、と隣から声が漏れた。微かに聞こえる嗚咽は、聞こえないふりをして歩き出した。
「俺、誰かと夕飯を食べるの、久しぶりだ」
「味の期待はするなよ」
手を繋いだまま、歩く。時折好奇の目が向けられるものの、今更気にする事もない。
学校の事、授業の事。時々、自分の事。取り留めのない話をしながら、小さく笑い合う。
誰かと話をしながら買い物に行くのも、たまにはいいものだ。
「あのさ」
「ん、何?」
足は止めぬまま、視線だけを彼に向ける。
不安と、遠慮と、恐れと。それからほんの少しの期待を混ぜた目が揺れて、また一つ透明な滴が溢れ落ちた。
「九重の事。奏って、呼んでもいい、かな?」
その涙を、綺麗だな、と思いながら、小さく笑って空を見た。
「じゃあ、代わりにお前の事、鳴音って呼ぶわ」
息を呑む音。怖ず怖ずと、奏、と呼ぶ声が擽ったい。
家族や、もう一人の彼とはまた違う、その優しい響きが心地好い。
悪くない。腕にしがみつく手は確かに不快で、もう一人の彼とは言葉を交わすだけでも嫌になる。
それでも友人と過ごす時間は、とても暖かだ。
「今度、泊まりに来る?何にもないけど、それでもよければ」
「っ。じゃっ、じゃあさ。俺の家にも泊まりに来なよ!一人暮らしだし、ずっといてくれて、も」
尻すぼみになる言葉に、声を上げて笑う。
それも悪くないと思える自分がいる事がすごく不思議で、とても可笑しかった。
「そんなら、いっそルームシェアする?生活費諸々半分になって、少ない仕送りとバイト代でひいひい言ってる身としては、ありがたいしかないな、それ」
「い、いいの?」
「おじさんたちに聞いてみなよ。こっちは何も言われないけど、そっちは一応保護者って事になってるんだろう?」
「うん…うん!聞いてみる」
破顔する友人に、落ち着いてきた笑いがまた、込み上げてくる。
雪で、自分以外を失った友人。
家が嫌で、逃げ出してきた自分。
一人と一人が出会って、二人でこうして手を繋いで歩いている。
逃げ出して捨ててきた温もりが、こうして再び繋がれて。
退屈なはずの冬休みも、今回は楽しくなりそうだ。
充足感に似た気持ちに、繋ぐ手に力を込めた。
20241229 『冬休み』