sairo

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12/29/2024, 7:12:03 AM

白の毛糸で編まれた手袋をした手を目の前にかざす。
だらしなく緩んだ唇から、ふへっ、と間の抜けた笑い声が漏れた。
愛しい妹が、兄のために編んでくれた手袋。
今朝方、朝食の後に妹に呼び止められ手渡されたものだ。
その時の頬を朱に染め、はにかむ妹は他の誰よりも可憐でいじらしいものであった。渦巻く激情を押し込め、ただ笑いかけ頭を撫でるだけでその場を去る事が出来たのは、偏に兄としての矜持を持っていたからだ。
誰もいない自室では、取り繕う必要もない。故に、こうして意味もなく手袋を嵌めた手を見ては、にやにや笑う事を繰り返し。
彼此半日が過ぎようとしていた。


「いつまでそうしているつもりですか」

不意に戸が開き、男が溜息と共に部屋の中へと足を踏み入れる。

「やらねぇよ」
「いりませんよ。私の分は先ほど頂きましたから」
「は?」

弾かれたように身を起こす。
男に視線を向ける。その手に嵌められた水浅黄色の手袋を認め、兄の表情が歪んだ。

「皆の元へ配り歩いておりました」
「俺だけじゃないのか」
「えぇ。皆、喜んでおりましたよ」

あからさまに落ち込み俯く兄に、男は呆れたように息を吐く。
背後を一瞥し、それと、と言葉を続けながら脇へと移動した。

「いい加減にそのだらけた格好を直して下さい。客人ですよ」
「は?一体誰、だ、よ」

至極面倒だと言わんばかりに視線を向ける兄の表情が、焦りを含んだものへと変わる。

「日和《ひより》」
「ごめん、なさい。すぐ戻るから」

服の裾を握り締めて視線を彷徨わせる妹に、慌てて立ち上がり側に寄る。今までの失態を全て見られていた事実に叫びそうになりながらも、その細い肩を引き寄せ部屋に招き入れた。

「どうした?何か嫌な事でもあったか?」

努めて穏やかに声をかける。
元いた場所に座ると、そのまま妹を膝に乗せ落ち着かせるように背を撫でた。

「その。手袋、やっぱり迷惑だったかな、って。思って、それで」

視線を逸らしながら、ぽつりぽつりと呟かれた言葉。手渡した際の兄の様子から、不安になったのだろう。
眉間に皺を寄せ、自身の朝の態度を反省していれば、でも、とか細い声が続いた。

「気に入って、もらえて。うれしい」

頬だけでなく耳まで朱に染め俯く妹に、兄は感情のままに抱きしめたくなる手を必死に堪える。
そうか、と兄は呟いて、そのまま黙り込む。妹もそれ以上何も言わず。沈黙が訪れた部屋で、男の呆れたような声が響いた。

「あの体たらくを見られて、今更取り繕う必要もないでしょうに」

顔を向け、男を睨めつける。

「あぁ、大丈夫ですよ。実際に姿を見せた訳ではありません。あの見るに堪えない締まりない顔は、さすがに見せられませんでしたから。まぁ、不気味に笑う声は聞こえていたでしょうがね」
「うそ、だろ」
「本当の事です」

告げられる残酷な事実に、絶句する。
恐る恐る妹を見る。気まずさで泣きそうに瞳を揺らした妹と視線が交わり、兄の口から呻く声が漏れた。

「どんなお兄ちゃんでも、かっこいい、と、思うよ」
「日和」

妹の拙い慰めの言葉に何とも言えない気持ちになりながら、兄は妹の体を抱きしめる。
もう半ば自棄になっていた。兄としての矜持など、全て見られてしまった今となっては意味を持たない。
それならば、と。今まで我慢してきた分も含めて、存分に妹を愛でる事にした。

「日和は本当に良い子だなぁ。可愛いし、優しいし、手先は器用だし。日和を隠せて、一緒にいられて、俺は幸せだ」
「え?お兄ちゃん?ちょっと。ねぇ、待って」

困惑し身じろぐ妹の頭を撫でる。
可愛い、可愛い、と口にしながら、さらに赤に染まる頬や耳を眺め、堪能しながら笑みを浮かべた。

「俺のために手袋を編んでくれてありがとうな。でも、他の奴らに気を遣うな。日和の優しさを勘違いする、阿呆な狐がいるかもしれないからな」
「勘違いはしていませんが、涙を流して拝み出すモノはおりましたね」
「誰だよ、それ。尾を毟ってやろうか」
「お兄ちゃんっ!」

不穏な言葉に、思わず妹は兄の胸を叩いた。
剣呑な光を帯びた眼は、妹を認めた瞬間に蕩けたような甘さに変わる。
その眼を間近で見てしまい、声にならない叫びを上げて兄の肩口に顔を押し当てる妹に、兄は優しく笑いその耳元に唇を寄せた。

「なぁ、日和。我慢をしてないか。言いたい事、やりたい事を諦めてないか。俺はどんな日和も好きだが、素直な日和が一等好きだから、何でも言ってくれ」
「でも、私なんかが。迷惑になる。お兄ちゃんにも、我慢させてる」
「迷惑になんて誰も思ってねぇし、俺はもう我慢する事を止めるから。日和の格好いい兄ちゃんを目指してたけど、全部見られたからな」

呟いて、妹の頬を包み顔を上げさると、兄は額に唇を触れさせる。ひゃっ、と声を上げた妹にくすくす笑いを噛み殺し、兄は妹の目を覗き込みながら、言い聞かせるように囁いた。

「日和、今夜から俺と一緒に寝よう。夜這いにくる阿呆がいたら大変だからな。それから、手袋みたいにまた何か編んでくれ。他の奴にもじゃなくて、俺のためだけに編んでくれよ」
「あ、う」
「清々しいまでに気持ち悪いですね」

男の冷めた言葉に、兄は反応一つ見せる様子はない。完全に開き直ったらしい。
視線を逸らす事も、況してや逃げ出す事も出来ない妹は、羞恥に涙を湛えながらも、小さく頷いた。

「分かっ、た。分かったから、少し、離れて」
「そうか!絶対だからな。よし、今日は宴にしよう」

破顔しさらに強く妹を抱く兄に、男は仕方がないと呆れながらも笑った。

「すでに準備に取りかかっていますよ。手袋を頂いた祝いだと、皆浮かれていますから」

それだけを告げ、部屋を出る。
残された兄は複雑な表情を浮かべるも何も言わず、妹に視線を向け、その体を抱いたまま立ち上がる。

「ちょっ、と。私、自分で」
「俺がしたいからこうする。我慢するなと言われたからな。このまま大広間に向かうぞ」

身じろぐ妹を気にせず、兄は妹を抱き上げたまま部屋を出る。見られるのが恥ずかしいのか、顔を上げようとしない妹に兄は優しく囁いた。

「日和は俺らに愛されてる自覚をもっと持て。自分を卑下するんじゃない。それはお前を愛する俺らを否定し、軽んじる事になるのだから」
「お兄ちゃん」
「お前は愛されているんだ。お前は手袋一つ、と思うだろうがな。それがどれほど俺らにとって嬉しいものなのか、思い知ればいい」

何も言えなくなった妹の髪にそっと唇を触れさせ、兄は上機嫌に笑う。
大広間に近づくにつれ増える誰かの歓声に、顔を上げれぬまま、しかし小さく有難う、と妹は呟いた。



20241228 『手ぶくろ』

12/28/2024, 5:32:53 AM

鯛焼きの頭に齧り付く。
きらきらと輝く笑顔は、だがその瞬間に消え眉が寄る。

「味が違う」

もそもそと咀嚼し飲み込む子供は、さも不服だと言わんばかりに手にした鯛焼きを睨み付ける。
ほら、と押しつけられたそれを同じように一口囓る。しかし以前食べたものとの違いなど、分かりはしなかった。

「変わらないと思うが。小麦と小豆の味がする」
「おまえに聞いたのが間違いだった」

溜息を吐き。肩を竦めて呆れる子供に、首を傾げまた一口鯛焼きを囓る。
やはり、違いは分からない。

「それやる。もういらないから」

それだけ告げて、少し離れた場所で小石を蹴り出す子供の姿に、目を瞬いた。
随分と変わったものだ。以前はいらないなどと、食べ物を粗末にする事は決してしなかったというのに。
鯛焼きを咀嚼しながら、不思議に思う。随分と機嫌が悪いのも、関係があるのだろうか。
最後に残った尾を口の中に放り込む。微かな匂いに、おや、と包み紙に視線を落とす。

「以前のものと違うな」
「そうだよ!気づいた?」
「あぁ。匂いが違う。以前は日と、甘い土。風と、澄んだ水の匂いがしていたが、これからはまったく感じなかった。別の所で採れた小麦や小豆なのだろうな」
「おまえに期待したのが間違いだった。それと、獣じゃないんだから、そういう気持ち悪い事を言うなよな」

笑顔で駆け寄ってきたはずの子供の顔が引き攣り、数歩距離を取られた。
この表情も初めて見るものだ。会わない時で変化したものは数多いらしい。
それも当然か。声には出さずに呟いた。
時は絶えず流れていくものだ。変わらず留まり続けるものなど、現世にあるはずもない。
子供に視線を向け、先ほど鯛焼きを購入した店の方角を振り返る。
変わってしまったものの多さに、息を吐いた。

「それから、店の者も変わってしまったな。以前は穏やかな年配の婦人が作っていたが、先ほどは無愛想な男が作っていた」
「…そうだよ。ばあちゃん、死んじゃったからな」

唇を噛みしめ、吐き出す子供の言葉に、そうか、と答え、近寄り俯くその頭を乱雑に撫でる。
得心がいった。寂しがっているのか。

「ばあちゃんがいた時は、あのお店もにぎやかだったのに。息子になって寂しくなった。せめて味が変わらないんだったら良かったのに」
「あの男では難しいだろうな。目先の利益しか考えんのだから」

金を惜しみ、粗悪品を用いているのだから、子供でなくとも気づく者は気づく。愛想すら惜しめば、人は離れていくだけだ。

「なんで、みんな変わってくのかな。どうして人間は老いて死んでいくんだ。ずっと同じでいればいいのに」
「変わらないものなどないだろう。人は死に、物は壊れる。妖すら変わるのだから」
「おいらは変わらないよ」

自覚がない子供に、指摘しようとし、止める。
気づかないのであれば、敢えて伝える必要はない。
そうか、と無感情に答え、周囲を見回した。
忙しなく行き交う人。そこにかつての緩やかな時の流れはない。

「変わらないものなどない」

繰り返し、子供を見る。妖と成った、時の止まった子供。
視線が交わる。
歯を食いしばり、泣くのを耐えるかのような表情に、宥めるように頭を撫でた。

「おまえも、変わるのか」
「どうだろうな。自覚はないが、変わっているのだろう」
「そうか」

頭を撫でていた手を取られる。ぐい、と無遠慮に手を引いて、歩き出した。

「帰るぞ。一緒に」
「なんで。そんな急に」
「おまえが変わるのはいやだ。家に憑かない選択肢をゆるしてたのは、もうおしまい」

強い力に逆らう事も出来ず。困惑しながらも子供について歩く。
ぐにゃり、と周囲が歪む。立ち止まりそうになる足は、それでも手を引かれて止める事は出来ない。
歪む周囲の色が、一つ、また一つ剥がれ落ちる。黒と、申し訳程度の白を残して、落ちた色は地に溶けて消えていく。

「どうして」
「おまえを追って、ばあちゃんに会った。ばあちゃん、優しかったし、一緒にいると楽しかったけど、死んじゃった。おまえを見つけたし、ばあちゃんもいないここに、もう用はないから」

黒と白が形を変える。褪せた色合いの、懐かしい場所を形作る。

「家や倉から出て、たくさん望みに応える事が出来ただろ?望みに応えるやり方を覚えさせるために、外に出したんだ。覚えた後は、帰らなきゃ」
「それは、そうだが」
「ほら、着いたぞ」

立ち止まる。
薄暗い、畳敷きの部屋。
布団と、文机と、小さな書架。そして、木の格子。
人として終わった、最初の場所にいた。

「なんで。だってここには、もう」
「そうだな。おまえの一族は、みんな死んだ。おいらがこの倉を出たから、傾いた」
「じゃあ、何故。今更」
「新しい人間が来た。それだけ」

あぁ、それと、と手を離して振り返る。両手で頬を包まれて、至近距離で目を覗き込まれる。

「おまえ、いい加減に元に戻れ。誰かに望まれたのかそうじゃないか知らないけど、帰って来たんだからおとなでいるのをやめろ」

子供の目の中の己の姿が縮む。身を屈めて見下ろしていたのが、同じ目線になり。そして僅かに見上げるまでになる。
子供の、彼の姿が滲む。戻った事で一緒に戻ってしまった感情が、ぐるぐると渦を巻いているようだ。
頬を包んでいた彼の両手が涙を拭う。それでも止まらない涙に、彼は小さく笑ったみたいだった。

「うん。変わってないみたいで良かった。好きなだけ泣きなよ」
「いや。やだぁ」
「だめ。変わってほしくなくて、引き込んだんだから。変わらせてなんかやらない…ほら、もっと泣いて。そんですっきりしたら、新しいともだちに会いに行こう」

涙を拭う手が背に回り、宥めるようにさすられる。
益々止める事の出来なくなった涙が、彼の服に染みを作っていく。

「いやだ。出して。ここはいやだ。おねがい。良い子にするからっ」
「怖くない。全部終わった事だぞ。もうお腹も空いて苦しかったり、体が痛くなったりしてないだろ?人間の時の嫌なのは、どこにもない。おいらがいるから、寂しくもないよ。おまえは人間じゃなくて妖に成って、変わったんだ」

言い聞かせるような、優しい声が止まる。
そっか、そうだな、と呟いて、彼はくすくす笑った。

「おまえ、変わったんだな。苦しくて痛いのに我慢して、おいらに僅かに与えられる食事を分けようとする優しい所を変えたくなくて、おまえの嫌なもの、なくしたくて変えたんだ」

彼の服を掴む手を解いて、手を繋がれる。促されて見る格子戸が、音もなく開いていく。

「おいらも変わった。倉が一番だったのに、おまえが一番になった。おまえのために倉を出る事だって出来るようになった。変わったんだ」

手を引かれて歩き出す。格子戸を潜るのに怖がる自分に、大丈夫だと笑いかけた。
一歩、足だけを格子戸の外に出し。
頭を出し、体を、手を出して。そして最後に、もう片方の足を出し、格子戸を抜ける。

「今度は持って行けるものは持って行こう。変わったんだから、怖いものはないよ。ここのともだちが嫌なら、この倉を出て、別の倉を探して、ともだちを見つけよう」
「でも、おこられる。いたいのは、もういやだ」
「変わったんだよ。おまえが言ったんだぞ。変わらないものはないって。だから怒られたり、痛い事されたりはもうないよ」

階段を上がる。天井の扉も格子戸のように音もなく開き、光が差し込んだ。

「おいで。行こう!」

手を引かれ、地下を出る。
薄暗く、埃っぽい倉の中は、それでも自分のいた地下よりはずっと居心地が良かった。

不意に扉の開く音。外からの光が差し込んで、誰かが入り込んでくる。
小さな影が二つ。ひそひそと、おどおどと、囁く声がする。

「来たよ。新しいともだちだ」

目を輝かせて、彼は影に近づいていく。気づかれぬようにひっそりと。だけど時折、わざと物音を立てて反応を楽しんでいる。

「ともだち」

感情が回る。今までのたくさんの記憶一つ一つに、抜け落ちていた感情が入り込んで、胸を締め付ける。

「変わらないものはない」

呟いて、彼を追って歩き出す。
手を伸ばす。いつかの終わりの時に縋った弱さではなくしっかりした強さで彼にしがみついた。



20241226 『変わらないものはない』

12/26/2024, 8:55:20 AM

「何これ」

彼女の言葉に、口には出さずとも同じ事を思う。
色鮮やかに彩られ、飾り立てられた藤。
毛糸。色紙。所々に見える赤い実は南天だろうか。
誰かのいたずらだとは考え難い。この村に住む者は皆、藤に惹かれ帰ってきたのだ。
花の咲かぬ藤が、いつしか再び花を咲かす日が来る事を、皆心待ちにしている。
その藤を無意味に飾り付けるなど、出来るはずが。

「おや。見られてしまったか」

聞き覚えのない声がした。
視線を向ける。幼さを残した、少年とも少女ともつかぬ美しい容姿の子供が立っていた。
その腕には、種々の木の実や落ち葉の入った籠を抱えている。

「驚かせようと思ったのだが。残念だ」

肩を竦め、ゆったりとした足取りで、子供は藤へと向かう。見知らぬ子供。だが、記憶の片隅に微かに残る面影が子供に重なる。
愛でられる事を当然とし、面倒事を嫌う。あれは誰であったか。

不意に、隣から重苦しい溜息がした。

「何をしているの。藤」
「何だ。覚えているのか」

目を瞬き彼女を見る子供に倣い、隣を見る。
僅かに顔を顰める彼女に、よく似た誰かの面影が重なり見え、消えていく。

「思い出してしまったのよ。これは一体何」
「今日は聖なる夜だと聞いたからね」
「クリスマスイブね。それがどうしたの」

親しげに話す二人に、懐かしさを感じた。
呆れながらも優しく微笑む彼女と、自由な子供。
漸く帰ってきたのだと、この地で何度も思った感情に目を細めた。

「木を飾り立て、人の子の目を楽しませる日なのだろう。まだ咲けぬ藤《私》を愛でてくれる、二人を楽しませようと思ったのさ。途中で見つかってしまったが」
「藤をクリスマスツリーにするなんて、大分可笑しな事ね。楽しむよりも呆れてしまったわよ。全て思い出してしまうくらいには」
「驚かす事が出来たのなら、準備をした甲斐があった」
「相変わらずね。藤」

くすくすと鈴の音を転がすような声音で彼女は笑う。

「変わらないでいてくれて、安心したわ。私を覚えてくれていた事には驚いたけれど」
「鈴は特別だからね。妖が人の子に生まれるなど、初めての事だ。人の子の思いの強さには驚かされるよ。なあ、宮司」

笑いこちらを見る子供に、眉を寄せる。同意を求められても、二人の会話の内容は理解出来ない事ばかりだ。
藤。妖。人。記憶。
意味が分からない、と返そうと口を開き。
だがまったく別の言葉が溢れ落ちた。

「俺はまだ宮司ではないのだが」

理解できぬそれに、違和感はない。以前もこんなやりとりをしていたと、口元に笑みが浮かんだ。

「まだ言っているのか。藤《私》の手入れをするのはお前しかいないのだから、宮司で構わんだろう」
「だが」
「相変わらず堅苦しい男だね。何度繰り返しても変わらないな」

呆れたように笑われ、どうしたものかと彼女を見る。

「いいじゃない。白杜《あきと》が宮司だって、皆思っているわ。認めていないのは白杜だけよ」
「鈴も言っているんだ。それにお前が宮司の子として生き、死んだのは何百年も前の過去の事だぞ」

そこまで言われてしまっては、肯定するしかない。
嫌ではないが落ち着かぬのは、子供の言うかつての己が宮司ではなかったからだろう。

断片ではあるが、思い出した事がある。
かつて同じように、二人と共に生きていた事があった。
神楽鈴の付喪であった彼女と、藤の化身。
藤に愛され、藤を愛し。
そして何よりも深く、彼女を愛していた。


「鈴音《すずね》」
「どうしたの」

彼女の名を呼ぶ。
しかし続く言葉を迷い。何もないと首を振る。
伝えたい言葉があった。だがそれは、今の己には意味のない言葉でもあった。
かつては妖であった彼女は今、人として隣にいる。今更、彼女に望む必要はない。

「変な白杜」

微笑んで、寄り添う彼女の肩を引き寄せる。
冷えた体を暖めるように、その華奢な身をかき抱いた。

「随分と大胆なものだね。あの時より思っていたが、お前達は本当に夫婦のようだ」

楽しげな声に、はっとして視線を向ける。
穏やかな表情をした、藤の化身である子供と目が合った。
慌てて彼女を離しかけるが、彼女は胸元に擦り寄ったまま、離れる様子はない。
彼女の視線を向ける。くすり、と笑う楽しげな彼女と目が合った。

「私は夫婦になってもよいのだけれど。白杜は何も言ってはくれないわね」
「そうなのか。早く契ってしまえばよいものを」
「今は私よりも藤の方が大切なのよ。焼けてしまうわ」

彼女の言葉に、藤の化身の咎めるような視線が刺さる。
何か言うべきではあるものの、今のこの場では何を言っても意味をもたないだろう。藤の化身の前で敢えて言葉にする彼女の心の内を察して、すまない、と謝罪の言葉が漏れた。

「鈴音」
「なにかしら」

名を呼べば、悪戯に笑う少女の目をして彼女が己を見る。
眉を寄せる。仕方がないと、一つ息を吐いた。

「この場で促されて言うものではないが…俺と夫婦になってくれないか」
「確かに格好はつかないな」
「そうね。でもまぁ、今夜はクリスマスイブだもの」
「聖なる夜には、奇跡とやらはつきものだな」

藤の化身と彼女が頷き合う。
仕方がないわ、と溜息を吐いて。彼女は藤の元へと歩み寄る。
くるり、と振り返り己を見る彼女は頬を染め、微笑む。

「特別に、その望みに応えてあげるわ」

それだけを告げて、彼女は藤の化身の抱えた籠の中から木の実を取り出し、藤を飾り付けていく。地に籠を置いた藤の化身も、同じように紅葉を藤の蔓に絡ませ始めた。

「何を、している」
「藤を飾り付けているの。白杜の告白は私が言わせたようで、面白くないもの。雰囲気だけでも良くしたいわ」
「そうだな。あれではさすがに鈴が可哀想だ」
「すまない」

視線を向けられる事もなく吐き出される二人の愚痴に、謝罪しか出てこない。
己の謝罪など聞こえていないかのような二人は、笑い合いながら藤を飾る。幻想的な藤なるものを目指し話す二人を見ながら、声には出さずに彼女の名を呼んだ。

彼女を愛していた。否、愛している。
鈴の音のように澄んだ声も、花開くように笑う姿も。何も言わずとも己を理解しているその聡明さも。
誰よりも、何よりも愛しい。
目を閉じる。彼女の声を聞きながら、緩く笑みを浮かべた。

「愛している、鈴音」
「その言葉は、私の目を見て言って欲しいものね」

思っていたよりも近く聞こえた彼女の声に、目を開く。
手を伸ばせば触れられるほど側に、彼女がいた。
藤の化身の姿はない。飾り立てられた藤の蔓が、風もないのにゆらりと揺れた。

「藤から伝言。次の春に、一房だけ藤の花を咲かせてくれるみたいよ」

伸ばされた彼女の腕を引き、抱きしめる。
己の名を呼ぶ彼女の鈴の音のような声を聞きながら、彼女の顎を掬い、目を合わせた。

「鈴音。愛している。藤の花が咲いたならば、誓う言葉をもう一度言わせてくれ。藤の花を見て微笑む、美しいお前に未来を誓わせてくれないか」

彼女には藤の花がよく似合う。
こうして赤や緑に飾られた目の前の藤よりも、淡く色づいた藤色が、彼女の美しさを際立たせる事だろう。

「馬鹿。本当に酷い男ね…でもそんな酷い男を愛してしまった私も、同じようなものかしら」

頬を朱に染めた彼女の手が頬に触れる。

「ねぇ、白杜。今夜はクリスマスイブよ。奇跡の他にプレゼントがほしいわ」

くすりと笑う。
それに笑みを返して、望まれるままに彼女の体を強く抱き寄せ口付けた。



20241225 『イブの夜』

12/24/2024, 4:13:26 PM

「これ、あげる」

手渡されたのは透明な石。
困惑する少女に笑って、少年はずい、と顔を近づけた。

「これは?どう。気に入った?」
「えっと。あの」
「やっぱ、気に入らない?」

このやり取りは、何度目になるのか。少女はもう覚えてはいない。
気づけば側にいた彼。常に笑顔を湛え、こうして時折プレゼントと称して少女に手渡してくる。
何を考えているのか。手渡す石に意味はあるのか。
少女がいくら訪ねても、少年は笑うだけで何も答えなかった。
少女は、少年の名前すら知らない。


「綺麗だと、思います」
「へぇ、気に入ったんだ。じゃあ、今度こそもらってくれる?」

少女の答えに、少年の笑みが深くなる。

「や。でも、それは」
「駄目なの?気に入ったのに?」
「そう、ですけど。でも」

戸惑い視線が彷徨う少女の手を、渡した石ごと軽く握る。そのまま上へと持ち上げて、少女の目の前にかざした。

「欲しい、と。一度でも思ったのならば、迷わずに受け取ればいい」

息を呑む音。僅かな怯えを浮かべた少女の目に、少年の浮かべる笑みが優しさを孕む。
改めて少女に石を握らせる。怖くはないのだと、震える少女の手を宥めるように撫ぜた。

「どうして。なんで、いつも」
「大切にしたい人に、プレゼントをあげたいと思うのは変?折角のプレゼントを、喜んでもらいたいとあれこれ考えるのは意味のない事?」

少年の言葉に、少女の頬に赤みが差す。
それ以上は何も言えなくなってしまう少女の手を一撫でして、手を離す。返される事のなくなった石を、少年は満足そうに見つめた。

「この石って、一体何なんですか?」
「これはね、本物だよ」

少女の問いに、少年は得意げに答える。
本物。その意味を分かりかねて少女は首を傾げれば、少年はくすくす笑いながら、口を開いた。

「今までは、近いものや似たものだったから、気に入らなかったんだね。やっぱり本物でないと駄目か」
「何、言って」
「だって今まで上げてきたやつは、全然嬉しそうじゃなかった」

少しだけ拗ねたような声に、少女は確かに、と今までの石を思い返す。
小さなもの。大きなもの。歪な形。様々あったが、そのどれもが、黒く濁っていた。
綺麗だと、ここまで強く惹かれたものはなく。この石を手渡されるまでは、どう断れば石を渡す事を止めてくれるのかばかりを少女は考えていた。

「え、と…ありがとう、ございます」
「どう致しまして。やっと喜んでくれた」

心から嬉しそうな少年の笑顔に気恥ずかしくなる。石を見る事で、少女は少年から視線を逸らした。
きらきらと、光を反射する。澄んだ水のように、透明さを保つ石に目を奪われる。
何故こうも心を奪われるのか。少女にも理由は分からない。
飽く事なく見つめ。手の中で転がして。

「綺麗」

思わず溢れ落ちた言葉に、少年の目が愛おしげに細められるのを見てしまい。少女ははっと、我に返る。

「あ。すみません。もらってばかりなのに、私何もお返しが出来なくて」
「いいよ。俺があげたいんだから、気にしないで」
「でも」
「君が飢える事も、病に苦しむ事もなく。笑ってくれているのが、俺にとっての一番のプレゼントだよ」

少女を見つめながらも、少年はどこか遠くの何かを見るようにして微笑む。
少年の手が頬に伸ばされるのを、少女はどこかぼんやりと、当然の事のように受け入れた。

「あぁ、少し冷えてしまっているね。そろそろ戻ろうか」

どこへ、と微かな疑問は直ぐに消え。少年に促されるままに、少女は歩き出す。
そもそも、ここは何処であるのか。少女は思い出す事はなく、少年に寄り添い歩く。

長い廊下の先。扉を開け入った部屋は、少女の私室であった。
手を引かれ、ベッドへと向かう。少年に促されるままに横になれば、優しい手が良い子と少女の髪を撫でた。
その手を、少女は知っている気がした。熱にうなされている時に、ずっと撫でてくれていた愛しい手。
目を細め擦り寄れば、撫でる手はさらに優しくなる。


「そういえば、今日はクリスマスイブだったね。良い子にはプレゼントをあげないと」

プレゼント。首を傾げ、少年を見上げた。
少女は既に石をもらっている。それ以上にもらう事は出来ないと、口を開きかけ。

「メリークリスマス。プレゼント代わりに、いい事を教えてあげようね」

しかし歌うような声と、いつの間にか少年の手に渡っていた石を唇に触れさせられて。少女の否定の言葉は声にならず消えた。

「今回は偶然手に入れる事が出来たけど、次はないかもしれない。だからよく味わって食べて」

触れた唇の熱で石が溶け、僅かに開いた隙間から少女の口腔内へ流れ込む。反射で飲み込んだ少女の目が、驚きと、苦しさと、怯えに見開かれた。

知っている味だった。
吐き出したくなるほど不味く、泣き叫んでしまいたくなるほど美味であるその味。
少女はよく知っていた。思い出してしまった。
綺麗だと思った石が、本当は何であるのか。
少年は誰だったのか。彼が何をしたのか。

「あの時は無理矢理だったけれど、気に入ってくれていたみたいで安心した」

触れているだけだった石が、押し込まれる。
拒もうと唇を閉ざそうとすれど、衰弱した体は思うように動かす事は出来ない。
唇を割り、舌を滑り、喉奥へと転がり落ちる石。
諦めて飲み込む。一筋零れた涙を指先で拭い、彼は笑った。

「今度はちゃんと年を越えられる。年を越して春になったら、きっと良くなるよ。そうしたら、また桜を見に行こう」

笑う少年の姿に、痩せぎすの男の姿が重なる。
あぁ、と掠れた声を漏らす。

狭く、寒い部屋。薄い布団。

部屋が変わる。時が反転していく。

「おやすみ。愛しい人」

冷たい手に目を覆われ、おとなしく目を閉じた。



20241224 『プレゼント』

12/24/2024, 8:51:03 AM

「大変、申し訳御座いませんでしたぁぁぁ!」

目の前で綺麗な土下座を決める女性を見ながら、何故こんな事になっているのかを思い返す。
どこか他人事なのは、理解が全く追いついていないからだ。所謂、現実逃避というものである。


気がつけば、見知らぬ屋敷の布団の中。
質素だが、肌触りの良い布団から身を起こす。記憶にはない室内は、意識が落ちる前に出会った彼らの屋敷なのだろう。
そう己を納得させる。薬草の香りと、体の痛みが消えている事から、手当をされたようだった。
親切な二人に申し訳なく思う。全ては己の諦めの悪さが招いた事だというのに。
彼らに報いるにはどうすべきかを悩んでいれば、かたん、と襖の開く音がした。
視線を向ければ、最初に己を引き止めた幼子の姿。手には桶を持ったまま、きょとり、と目を瞬かせ。
その表情は、次第に満面の笑顔に変わる。

「あ。起きた!大丈夫?痛くない?苦しくない?」

ぱたぱた、と足早に寄り桶を置く。矢継ぎ早に問いかけられて何も答えられずにいる己を気にする事なく、額に手を当てられる。
幼子の冷えた手が心地よい。思わず目を細めた。

「ん。まだ熱い。寝てないと」

手が冷たく感じるのは、どうやら己が熱を持っているかららしい。
真剣な顔をして、寝るようにと促される。されるが儘に横になりながら、すまない、と小さく謝罪をする。
背を支える幼子の手の感覚に、つきり、と胸が痛むが、目を閉じて気づかない振りをした。

「大丈夫。今、にっちゃが治してくれているからね」

穏やかな声に、目を開ける。桶に張った水に手ぬぐいを浸しながら、幼子は大丈夫、と繰り返す。
治るの、だろうか。
また、大空を飛べるのだろうか。
もう一度。一度だけでもいい。あの青い澄んだ空を。

「おれは、にっちゃの薬を塗る事しか出来ないけど。にっちゃは、たくさん薬を作れるから。血止めの薬の他にも、痛みを止める薬とか、傷を治す薬や病気を治す薬とか」

だから、ね、と幼子は笑う。
固く絞った手ぬぐいを、己の額に乗せながら、歌うように囁いた。

「もうちょっと眠って、ちゃんと元気になろう?元気になったら、にっちゃと、ねっちゃに会おう?」
「……うん」

そこまで言われては仕方ない。
目を閉じる。訪れた暗闇に、意識を沈めて。
おやすみなさい、と掠れた声で呟いた。





次に目覚めた時。側にいたのは幼子ではなく、幼子に似た女性だった。
目が合った瞬間。くしゃり、と顔を歪め。

現在の、この理解できない状況が出来上がってしまった。


「ねっちゃ、うるさい」

いつの間にか部屋に入ってきていた幼子が、女性の横をすり抜け隣に座る。
その手には、湯気の立ち上る湯飲みが乗った漆の盆。はい、と手渡された湯飲みからは、柑橘類の爽やかな香りがした。

「柚子?」
「ん。他にも入ってるけど。落ち着くから」

飲んで、と促され、おとなしく湯飲みに口を付ける。
舌先に薬特有の苦みを感じるものの、柚子の爽やかな酸味に然程気にはならない。
ほぅ、と息を吐く。

「落ち着いた?」
「いや。まあ」

にこにこ笑う幼子の言葉に、曖昧な返事しか返せない。
落ち着く香りと味ではある。だが、頭を下げたまま微動だにしない女性が気になり、落ち着く事など出来そうにはない。
女性に視線が向いてしまう事に、幼子も気づいたのだろう。あぁ、と頷いて。気にしないで、と無慈悲に告げる。

「ねっちゃが悪いの。酔っ払いして、羽、折った」
「え?」

折った。その言葉に、ずきり、と心の臓が痛みを訴える。
女性を見る。彼女は何も言わず、動かない。
違う、と言いかける。しかし、言葉は紡がれず、掠れた吐息が溢れ落ちるのみだった。

「ねっちゃは悪い子。おしおき、する?」

首を振る。紡がれる事のない言葉の代わりに、否を示す。
女性は悪くない。確かに、急に吹いた風に煽られ、そのまま地に叩きつけられて羽は折れた。それでも違うのだ。
湯飲みを持つ手に力が籠もる。俯いて唇を噛みしめる。
否定の言葉一つ紡ぐ事の出来ない、己の弱さが情けない。

「そう?優しい子」

頭を撫でるその手の温かさに、泣いてしまいそうだ。


「羽、は。私が」
「いいえ。今回の責は全て私達にある」

嗚咽を耐え、絞り出した言葉は凜とした声音に遮られた。
顔を上げる。
いつの間にか幼子の隣に女性が座り、真っ直ぐに己を見つめていた。

「私達が、酒宴の席で凩を落とす事を競い合った。その事実は変わらない」
「けれど。でも」
「競い合う前の事など、全て些事だ。羽が折れなかったもしもを考えた所で、それは意味をなさない」

強く、残酷にも聞こえる言葉。女性の強い視線に耐えきれず、視線を逸らす。
如何して、と疑問ばかりが浮かぶ。何故を考えても、何一つ思いあたる事はない。
湯飲みの中で揺れる茶を見つめる。滴が落ちて波紋が広がった。


「ねっちゃ。これ以上はだめ。あっち行ってて」

静かな声。有無を言わさぬ強い言葉と何かを引き摺る音に、顔を上げた。
隣にいたはずの二人の姿は、そこになく。部屋の襖戸に向かい女性を引き摺りながら歩く、幼子の後ろ姿に目を瞬いた。

「当分、来ないで。次泣かせたら、にっちゃに切ってもらうから」

女性を外に放り出し冷たく言い捨てて、すぱん、と強く襖を閉める。
振り返る幼子の、その見慣れてきた笑顔との違いに、何も言葉が出てこない。

「ごめんね。もう大丈夫」

元いた位置に座り、未だ湯飲みを持ったままの手に手を重ねる。
手の両側から感じる温かさと、柚子の仄かな香りに深く息をした。

「今はね。これ飲んで元気になろう?」

にこにこと、優しく語りかける声に、黙って頷く。

「も少し元気になったら、おふろしよう。ゆずをたくさんいれたおふろ。おれ、たくさんとってくるから」

小さな手に促され、茶を口にする。先ほど感じた薬の苦みはもうなく。ただ柚子の甘さと僅かな酸味が喉を潤していった。
息を吐く。落ち着く香りを堪能しながら、幼子を見た。

「彼女は悪くない。折れる前から、上手く動かせなくなっていた」

先ほどは言えなかった言葉が、口をついて出る。
自由に動かせぬ羽。望んだ人の子は既にいないというのに、その望みを忘れられずに足掻いた結果だ。
人に認識されぬ妖は消える。分かっている。それでもあのか弱き人の子の望みだけに応え続けていたかった。

「過去に縋り続けた結果だ。私が弱く、先を否定し続けていたから。だから、」
「でも折ったのは、ねっちゃ。だから悪いのは全部ねっちゃたち」

穏やかな声が否定する。
でも、と言い募る唇は、幼子の指に止められる。

「何も言わないで。ねっちゃたちのせいにして。それで終るのは、さみしいけれど見送るよ。でも」

どこまでも優しい目をして、幼子は笑った。

「もしも、ちょっとでも前を向いてもいいって思えたら。おれはとてもうれしいよ。飛ぶのじゃなくて、歩いてもいいって言ってくれるなら、おれといっしょにゆずをとりに行こう?」
「柚子」
「そう。たくさん生ってるひみつの場所。特別に教えてあげる」

その言葉に、湯飲みを見る。大分少なくなってしまった残りを飲み干した。
先を考えるのは、まだ怖い。飛べぬ己を想像する事すら、出来そうにもない。
けれども今、飲み干したばかりの茶の味を、恋しいと思っている。この甘く爽やかな香りに浸りたいと、思い始めている。
目を閉じる。微かな残り香を、慈しむように吸い込んで。

「傷が、癒えたら。その時は、もう一度その言葉をもらってもいいだろうか」

目を開ける。
幼子を見据え、望んだ。
頷き笑う幼子に、あぁでも、と言葉を足して。

「上手く歩けるかは分からない。長く待たせる事になるかもしれないが」

苦笑し、首を傾げてみせる。

「その時は手をつなぐよ。大丈夫!」

空の湯飲みを取られ、手を繋がれる。
その温もりに、満面の笑顔に。

微笑んで、その手を握り返した。



20241223 『ゆずの香り』

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