「あ、のっ!」
服の裾を軽く引かれ、声をかけられる。
見下ろせば、涙を湛えながら見上げる幼子と目が合った。
「何だ」
知らぬ幼子から、視線を逸らす。
見上げる空は快晴。雲一つなく、風も穏やかだ。
空に惹かれ、足を踏み出す。
一歩進み。だがそれ以上は、引き止める小さな紅葉の手によって阻まれる。
「だめ。飛ぶの、だめ!」
必死な様子に首を傾げ。
視線を幼子から空へ、空から地へと向け、あぁ、と納得した。
数歩歩けばそこに地はなく、深い谷底が広がっている。おそらくはこのまま落ちると思われているのだろう。
幼子に視線を向け。泣きながら裾を引く手に、そっと手を重ねた。
「落ちない。羽はある」
「だめ、なのっ!飛ぶの。だって、だって!」
「問題ない。大丈夫だ」
「大丈夫、違うぅ!だって、羽根!折れてる!」
飛べない。飛ぶのは駄目だと、ぐすぐす泣きながら幼子は訴える。
確かにそうだ。右翼は折れ、己の意思で動かす事は出来なくなっていた。
だが、飛ばなくては。春が来る前に、片翼だけで飛ぶ事を覚えなければならない。
それをどのように幼子に伝えるべきか。理解してもらえるのかを考え。
未だ泣き続ける幼子と視線を近く合わせるため、身を屈めた。
「安静、しなきゃ、だめなの!こんなに、たくさん、傷。無理、しないで!」
「だが」
「だめっ!」
存外強情な幼子に、困惑する。
無視し、飛ぶのは簡単だ。だが己のために泣くその優しさを、ないものとして扱うのは気が引けた。
「こっち!」
手を引かれ、促されて立ち上がる。手を引かれるままに崖から離され、離れた木の根元に座らされた。
折れた羽根の状態を確認するように、小さな手があちこちに触れる。
疾うに感覚を失った羽根がその手の熱を感じる事はない。
痛みがないのは良い事ではある。だが、今は何故かそれが惜しく思えた。
幼子の手が離れ、今度は服の裾を捲る。
露わになる怪我は、飛ぼうとして飛べずに落ちた際に出来たものだ。
その怪我に顔を顰める幼子は、それでもそれ以上泣く事はなく。
手を離し立ち上がると、深く息を吸い込んだ。
「にっちゃぁぁぁ!」
ざわり、と木々が揺れる。
ざわり、ざわり、と風が舞い。
「何です?そんなに大声を出して」
幼子に似た男が、風と共に舞い降りた。
抱きつく幼子の頭を撫で、此方を見下ろし。
己の様子から、幼子の言いたい事を察したのだろう。小さく息を吐いて幼子を離し、己の元まで歩み寄る。
「随分と無理をしたものだ。片翼では飛べぬでしょうに」
膝をつき、己の羽根に触れる男の目は厳しい。
「それでも飛ばねば。春が来るまでには」
「諦めなさい。これはもう元には戻らぬ」
男の無慈悲な言葉に、目を伏せる。
分かっていた事だ。気づかぬふりをしていた事実だ。
目を閉じる。きつく拳を握り、澱む想いを吐き出すように、深く呼吸をして。
「そうか。ありがとう」
目を開ける。顔を上げて男に微笑み、礼を告げた。
「手間をかけた。礼も出来ぬままなのはすまないと思うが、これ以上貴殿らの時間を消費させるわけにもいかない。失礼する」
「待ちなさい」
「だめっ!」
立ち上がりかけた体は、男と幼子の手により元に戻される。
引き止められる事の意味が分からず、二人を見る。
泣く幼子と、険しい顔の男。
何故己に対してそのような表情をするのだろうか。
「どこ、行くの!」
「終の場所を探しに」
さらに泣き出してしまった幼子に、どうしたものかと首を傾げる。
飛べぬのであれば、終わるだけだ。
それを分かっているだろうに、何故止めるのか。
羽根が折れ、それを認めず無駄に足掻いた無様な己には、終の場所を決める事は出来ぬのだろうか。
悪い方ばかりに、思考が向く。
出会って僅かだが、彼らがそのような非情さを持ち合わせていない事は分かっているというのに。
「たくさんの傷。治すのっ!だからにっちゃ、呼んだの!」
「弟がこう言っている事ですから、諦めてください」
益々意味が分からない。
「いずれ消えるというのに。傷の手当てなど無駄だろう」
「むだじゃない。にっちゃの薬、良く効くもん」
「弟は一度決めた事は曲げません。おとなしくしていてください」
「いや。だが」
困惑する己に構わず、男に抱き上げられる。
ふわり、と薫る薬草の匂いに、傷つき消耗していた意識がくらり、と揺れた。
「眠ってしまってもかまいません」
「何故。迷惑、に」
くすり、と男が笑う。或いは幼子の方か。
微睡む意識では、もう目を開けている事すら困難だ。
「大丈夫。迷惑、違うよ」
「えぇ。それに」
何かを言いかけて、男は言葉を止め。
焦点の合わなくなってきた目を向ければ、緩く首を振られた。
薬草の匂いが強くなる。
気にはなるが、これ以上は無理だ。
「どちらにせよ。一度は僕達の姉に会うのです。話はその時にでも」
「おやすみなさい」
最後に聞こえたのは、幼子の声。
意識は深く沈み、彼らの会話の内容を聞く事はなかった。
意識のない白い小鳥を腕に抱いて、兄は僅かに眉を寄せた。
「この子でしょうかね」
「どうだろう?でも、折れてたから。違っても、助けてあげて」
「分かっていますよ」
片手で弟の頭を撫で、兄は淡く微笑んだ。
兄の笑みに弟も笑顔になる。頭を撫でる手に手を重ね、そのまま繋いで跳ねるように歩き出す。
弟の楽しげな姿に、兄の笑みは優しくなり。
だが不意に、浮かべた笑みが、消える。
「あの馬鹿姉には、当分酒を禁止してもらわなくては」
「酔っ払うの、だめ。ずっと禁止にして」
「そうですね。そうしましょう」
小鳥に視線を向ける。
二度と飛ぶ事の出来ぬその羽根は、小鳥の存在意義を奪い、いずれはその存在自体を消してしまう事だろう。
そうならないために手は尽くすつもりではある。しかし望みは薄く、動く可能性は限りなく低い。
はぁ、と息を吐く。
「酒に酔い。剰え、狐と張り合うとは情けない」
――どちらが先に、あの凩を撃ち落とせるか。
実に下らない勝負だ。それを嬉々として行う事もだが、その結果がこの小鳥であるとするならば、何という愚行であろうか。
それが実の姉であるというのだから、頭が痛い。
姉の話を元に、探し見つけた傷だらけの小鳥。
精々後悔すればいい、と。この場にいない姉に向けて、呟いた・
20241222 『大空』
しゃんしゃん、とベルの音。
軽やかに、高らかに鳴るそれに、鬱々とした気持ちで溜息を吐く。
クリスマスイブ。
あと数日で訪れる聖夜を前に、赤と緑に彩られた街はどこか浮き足立っていて。燦めく光が人々の心を弾ませていた。
一部を除いては。
「一人ぼっちのクリスマスって、マジやばいよね」
「うるせぇよ」
きゃらきゃら笑う声。視線を向けずとも誰か分かる、よく知ったその声音。
煩わしさに顔を顰めた。
「予定が詰まってんだよ。クリスマス如きに浮かれていられっか」
「予定がないから、予定を入れられるんでしょ?可哀想」
「だからうるせぇって」
耐えきれずに振り返る。
にやにやとした嫌な笑みを浮かべる彼女に向けて、追い払うように手を振った。
「さっさとどっか行け。これ以上邪魔すんなよ」
「ひっどいなぁ。一人で可哀想だったから、会いに来てあげたのに」
文句を言いながらも、彼女はこの場を去る様子はない。
しゃんしゃん、と音が聞こえる。
街からはベルの音。それとは別に、彼女が笑う度にしゃんしゃん、音が鳴る。
「余計なお世話だっての。可哀想ってんなら、これ以上仕事を増やすな」
増える面倒事に、思わず舌打ちした。
彼女は変わらずきゃらきゃら笑い。しゃんしゃんと音を鳴らす。
ベルの音。彼女の鳴らす音。
そして、もう一つ。
背後から近づいてくる、しゃんしゃん、と鳴る音。
「遅かったじゃん。このまま来てくれないかと思った」
背後で鳴る音に向けて、彼女が声をかける。
それに答える声はない。
しゃんしゃん、と鳴る音がして。左腕に細く白い腕が絡みついた。
「わお。大胆」
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
前と後ろで音が鳴る。
二つが重なり、響き合う。
「じゃあ、行こっか」
彼女が近づく。
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
響く音が歪み出す。
しゃんしゃん。しゃんじゃん。
――じゃんじゃん。と。
「あぁ、もう。うるせぇな」
絡みつく腕を振り払い、距離を取る。
呆然と座り込む、背後にいた少女に駆け寄りこちらを睨む彼女に、溜息しか出てこない。
「女の子に乱暴するなんて、最低」
「最低なのはお前らだろうが。年の瀬は忙しいって分かってるだろうに」
終わりの見えない予定を思い出す。
家業の手伝いと、学業。
散々だった試験結果に、乾いた笑いすら出てこない。
「大体何で飛び込んだ?お前ら、俺よりも勉強できるだろうが」
「馬鹿じゃないの。鈍感。最低」
強く睨み付ける彼女の周りに、いくつもの炎が浮かぶ。勢いよく向かってくるそれを避けながら、彼女の言葉の意味を考えるが、心当たりはまったくない。
「あと、クラスであんたよりも成績が悪い奴なんていないから」
残酷な現実を突きつけられ、声にならない呻きが漏れる。
僅かに判断が遅れ、顔の真横を過ぎる炎が髪を焦がす不快な匂いに、眉が寄った。
「意味が分かんねぇよ。詳しく話せ」
「少しは考えるって事したら?それだからいつまでも馬鹿なのよ」
「馬鹿言うな。考えても分かんねぇんだから仕方ないだろうが」
悪態を吐けば、それがさらに彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。
じゃんじゃん、と激しく音を立てながら数を増やした炎に、辺りを取り囲まれる。
面倒だ、と舌打ちし。炎を避けながら、ポケットに手を入れた。
「ほんと、察しの悪い奴」
「もう、いいよ」
少女の言葉に、炎が止まる。
じゃん、と音を立てて消える炎を横目に、少女を見る。
俯いて表情は見えない。先ほどの声も淡々としていて、何を思っているのか分からない。
だが、何となく。何となくではあるが、少女が泣いているように感じた。
「私が悪いの。逃げ出したかった。両親の事や、進路の事。自分の気持ちからも全部。なかった事にしたかったの」
「あんたは何も悪くないでしょうが。やりたい事を諦めさせて、望まない学校に進学させるのが正しいはずなんかない。自分で何一つ決められない人生って、ただの地獄じゃん」
少女を強く抱きしめて。吐き出す彼女の言葉は、重い。
自分には分からない感情だ。やりたい事がたまたま家業だった自分には、彼女達を理解する事は出来ない。
もしもすら想像できない自分には、慰めの言葉すら彼女達を傷つける刃になりかねない。
「変える事も、逃げ出す事も出来ないから。終わらせるしかなかったの」
「ねぇ。私達の事、可哀想って思う?同情とかしたりする?憐みひとつくれるなら、一緒に来てよ。反対も、否定も、比較もされないで、好きな事だけやってるあんたから、可哀想な私達にクリスマスプレゼントをちょうだいよ」
強い目をして手を伸ばす彼女に、一歩だけ近づく。
その手を取るつもりはない。憐みなど、真剣に生きて足掻いてきた彼女達には失礼でしかない事くらいは分かる。
「やだよ。今のお前らには、何もやらない」
彼女の睨む目を見据え、だから、と付け足す。
「さっさと戻ってこい。そしたら、お前らのために一日くらい時間を作ってやるよ」
「っ。それって」
「年の瀬はお前らみたいなのが多くて忙しいんだからな。それを時間作って、好きなもん何でも貢いでやるってんだ。一つどころか、これ以上ないくらいの好待遇だろ?」
首を傾げて笑ってみせる。
驚き見開かれた彼女の目と、弾かれたように顔を上げた少女の涙に濡れる目を見返した。
「そういう所が駄目なのよ。最低」
「何でだよ」
「あの。本当に、いいの?」
視線を逸らし悪態を吐く彼女とは対照的に、少女は怖ず怖ずと聞き返す。
反応はそれぞれ違うのに、そのどちらの頬も赤くなっているのが不思議で、可笑しかった。
「今、戻るならな。時間作るために徹夜しなきゃならないから、早くしてくれ」
「分かったわよ。急がせないで」
「ありが、とう」
おう、と軽く手を振り。
手を繋いだまま、霞み消えていく二人を見送って、深く息を吐いた。
クリスマスまでは地獄の日々を過ごす事になるだろう。
だが彼女達は、彼女達の地獄に戻ってくるというのだ。時間の限られた地獄など、極楽とそう変わりはない。
「まったく。しょうがないな」
しゃんしゃん、と鳴るベルの音を聞きながら、ポケットの中に手を突っ込む。
街は眠らない。明るい光が眩しいくらいだ。
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
ベルの音。それに紛れて、誰かが残念だ、と呟いた。
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
残念だ。残念だ。
「お小遣いは多めにしてもらおう」
煩いいくつもの声に、肩を竦めて振り返る。
ポケットから取り出した、水晶のブレスレットをくるくると弄びながら。
「そういうわけだから。さようなら」
恨めしげに見つめる亡者達に、ブレスレットを投げつけた。
20241221 『ベルの音』
雲に遮られ、星月の淡い光すら届かぬ昏い夜。
地面に座り込み、少女は一人空を見上げていた。
言葉もなく、表情もなく。微動だにしないその姿は、僅かに白く色づく吐息がなければ、生きているのか死んでいるのかの区別がつかない。
夜も更け、凍てつく寒さは体温を容赦なく奪っていく。しかし少女はその場から動く様子はなく、ただ見るともなしに見えぬ空を見ていた。
不意に、近づく足音が聞こえた。
ゆっくりとした足音は少女から数歩離れた場所で立ち止まる。周囲の暗がりより尚昏い大柄な影が、低い獣のような声音で少女に問いかけた。
「何をしている」
「別に、何も」
影に視線を向ける事もなく、少女は淡々と答える。
無感情なその声音に、影は低くうなりを上げた・
「なればその身。喰ろうてしまっても構わぬな」
「いいよ」
迷いのない返答。
空から影へと視線を移し、少女は無感情な目をしていいよ、と繰り返す。
「もう、何もかもがどうでもいい」
唇の端を上げて、笑みを形作る。
くしゃりと歪んだ不格好なそれは、泣いているようにも見えた。
「どうでもよいのか」
「うん。どうでもいい。疲れちゃったの。私を私として見てもらう事を期待しても無駄なんだって、分かっちゃった」
「無駄か」
「そう、無駄。結局皆にとって、私は妹の姉でしかないんだよ」
声に感情が乗る事はない。作った笑みも消え、少女は虚ろな目をして影に語り続ける。
「私はお姉ちゃんでいる限り、これからもずっと妹と比べられる。妹の添え物でしかないんだ」
どれだけ努力をし結果を出したとしても、それが認められる事はないと少女は言う。そして少女が不得意とする分野で、努力で補う事の難しい気質に対して、妹を引き合いに出されるのだ、と。
――お姉ちゃんなのだから、出来て当たり前。
――お姉ちゃんなのだから、もっと上を目指さないと。
――お姉ちゃんなのに、何故妹よりも不出来なのか。
――妹の方は、愛嬌があるのに。
――妹の方が、可愛いのに。
少女は周囲からかけられる無慈悲な言葉に一人耐え、只管に努力をし続けてきた。いつか認められると信じて、妹よりも上位の成績を維持し、苦手な愛想も振りまいた。
けれどもどれだけ少女が努力しても、それが認められる事はなく。
「もうお姉ちゃんでいる事に疲れたの。お父さんもお母さんも、友達や好きな人だって、妹しか見ていない。きっとこのまま私がいなくなっても、誰も気にする事なんてないから」
だから、と。
少女は冷え切り動かす事のままならない足に力を入れ、立ち上がる。
一歩、また一歩。影の元へ歩み寄る。
「終わらせてくれるなら、何だっていい。殺されても、食べられても、お姉ちゃんでなくなるならそれでいい」
「それほどまでに姉でいる事を拒むのか」
「そうだよ。お姉ちゃんはもういやなの」
無感情にそう告げて、少女は影へと手を伸ばす。
その手を取り、影は静かに問いかけた。
「誰に終わらせてほしい」
その言葉に少女はきょとり、と目を瞬かせ。
そこでようやく少女の表情に感情が乗った。
作られた笑みではない、今まで押し殺してきた少女の本心からの笑顔。
控えめな、ふわりと花咲くような。そんな暖かな微笑み。
「誰でもいいの?」
「ああ」
「それなら。妹に終わらせてほしいかな」
笑いながら、一筋涙を溢す。
その涙を影は拭い。
不意に雲が途切れ、月の光が二人を仄かに照らし出した。
「その望みに応えよう」
静かに応える声。
影の姿が揺らぎ、少女の妹の姿に変わる。
満開の花が咲き誇るような笑顔を浮かべ、少女の手をそっと離した。
数歩、少女から離れて。
「おやすみなさい、お姉ちゃん」
少女から伸びた影の手を取り、引き寄せる。
おやすみ。ありがとうの言葉を聞きながら。妹はその影の喉元に喰らいついた。
時を止めた少女の軀を前に、妹の姿をした妖は悩んでいた。
その手には、半透明の小さな石を乗せ。
「さて、どうするか」
石を見、軀を見た。
戻す事は出来ない。何より少女がそれを望まない。
とは言え、軀を喰らうつもりは端からなく。このまま捨て置くのも忍びない。
家族の元へと返してもよいものか。
「何、しているの?」
「丁度良い所へ来た」
不意にかけられた声に、振り返る。
首を傾げる磯の香りのする女の元へ歩み寄ると、女の手に持っていた石を握らせた。
「姉である事に疲れたそうだ。甘やかしてやれ」
「魂を勝手に持ち出すのは御法度でしょう。怒られるのは嫌よ」
「何。刹那の夢を見せるだけだ。常世に渡った所で、その寂しさは満たされる事はない。永く眠り続けるよりは良いだろう」
勝手ね、と女は愚痴を溢しながら。
石をそっと包み込み、目を閉じる。
「人の子は随分と寂しくなってしまったのね」
「賢くなりすぎたのだろう。仕方のない事だ」
女の呟きに、妖は少女がしていたように空を見上げた。
月は見えない。再び雲に覆われて、光は遮られてしまっている。
この昏い空を見上げ、少女は何を思っていたのか。
詮無き事を考えながら、そうだなと一つの結論を出した。
「これでいいかしら?」
女の声に視線を向ける。
手にしていた石は形を変えて、安らかに眠る赤子の姿がそこにはあった。
「あぁ。それくらいが甘やかすには良いだろうな」
「迎えが来たら渡すわよ?それでいいでしょう」
女の言葉に否はなく、頷く。
「軀は家族に返すの?」
「連れて行く。姉であった娘は寂しいのだからな」
「甘いのね」
苦笑する女は、それでも否を唱える事はない。
同じ選択を女も考えているのだろうと、妖は気にかける事もなく、赤子の頬を優しく撫でる。
魂が、取り繕うものがなくなった少女の本心が叫び続けていた事。
気づいてほしい。認めてほしい。寂しいのだと。
それらの望みが、この先少しでも応えられれば、と妖は笑った。
「後は任せる」
「えぇ。任されてあげるわ」
女に背を向け、少女の軀に歩み寄る。
その姿が揺らぎ。
頭は牛、体は鬼の姿をした妖は、少女を抱き上げると、己の塒である淵へと去っていった。
20241220 『寂しさ』
くしゃみを一つ。
冷えた指先を温めるように息を吐けば、少し離れた場所にいる彼と目が合った。
彼を取り囲むように浮かぶ、いくつもの火が消える。一つ遅れて彼の姿も消え、次の瞬間には目の前に現れた彼に抱き竦められた。
「悪い。少し楽しくなっちゃった」
謝る声は、楽しげに弾んでいる。それに文句を言いかけ、意味のない事かと思い直す。小さく息を吐き、人よりも高いその温もりに擦り寄り、目を閉じた。
彼には自由が似合う。
初めて会ったその時から、彼の印象は変わらない。
神出鬼没で、何にも縛られず。形を変え、数すら変える、不思議な火。
どこまでも自由な彼に憧れて、差し出された彼の手を取ってからもうどれだけの時が経ったのだろう。
「じゃあ、そろそろ行くか」
離れ差し出された手に右手を重ねる。手を繋ぎ歩き出す道先にいくつもの火が現れ、暗がりに迷う事はない。
ゆらゆらと火は揺らいで、二つに分かれて一つに戻って。
思わず手を伸ばせば、触れる瞬間に消え、離れた場所に現れる。別の火が伸ばした手の周りをくるりと回り、いくつもに別れて離れていった。
まるで小さな子供達が遊んでいるようにも見えて、くすくす笑う。繋いだ手が態とらしく揺らされて、弾む気持ちで彼を見上げた。
「どうしたの?」
「また楽しくなってきちゃったから、手繋いでるの忘れないようにって」
離れて、風邪を引かせないように。
思いもかけない彼の言葉に、目を瞬く。
「星を見に誘ったのに、星見る前に風邪を引かせたら、つまらない」
「確かに」
「それに、今だけだからね。こうしてくっついても、文句を言われないのは」
にぱっ、と彼は笑い、繋いだ手を引いた。
突然の事に抵抗も出来ず、そのまま彼へと倒れ込む。ぶつかる寸前で抱き上げられて、その一瞬の出来事に理解が追いつかずに身を捩った。
「こら、危ないよ。落ちちゃったら怪我をする」
「ごめん?」
「気をつけて。歩くよ」
機嫌良く歩き出す。けれどいつもの跳ねるような歩き方ではなく、とても静かだ。
落ちる不安がなくなって、強く掴んでいた彼の服を離し、彼を見る。ようやく理解が追いついて、文句代わりに彼の頬を軽くつまんだ。
「痛いよ」
「痛くしてない。急には止めてって、何回も言ってるのに」
「思いついちゃったんだから、仕方ない」
いつもの事だよ、と言われれば、いつもの事だな、と納得してしまう。
思いついて、直ぐに行動に移す。今日もそうだった。
急に現れて、手を引かれた。星を見に行こうと、とても嬉しそうに。
止めなければ、部屋着のままこの寒空の下に連れられる所だったのを思い出し。少しだけ彼の頬をつまむ手に力を込めれば、彼は痛いよ、と楽しそうに笑っていた。
「今夜は特に空気が澄んでいるから、星がよく見える。もうすぐ着くよ」
「どこに行くの?」
「まだ秘密」
上機嫌な彼に合わせて、周りの火がゆらり、くるりと動き回る。楽しみだ、と気持ちが伝わって、頬をつまむ手を離し仕方がないなと笑ってみせた。
「着いた」
「すごい。きれい」
彼に連れられた山の奥。見上げた空に、思わず感嘆の声が溢れ落ちる。
どこまでも続く、星の海。人工的な灯りがないこの場所では、とてもよく見える。
彼の周囲で遊んでいた火が消える。星の瞬きさえも見えて、届かないと知りながらも腕を伸ばした。
「気に入った?」
「うん。すごく」
「なら良かった」
いつもとは違う柔らかな彼の声。見下ろす彼の表情もまた柔らかい。
星を掴む事を諦めて、下ろした手で彼の頬を包んだ。
人よりも高く、火よりは低い、彼の温もり。心地好いその温度を堪能していると、くすくすと笑われる。
「可愛いね」
「笑わないでよ」
「それは無理」
笑いながら彼は腰を下ろし、膝に乗せられる。くるりと向きを変えられて、背後から抱き竦める形に収まった。
「こんなに着込まなくてもよかったのに」
「さっき人の事忘れて遊んでたのは誰だっけ?」
「そうだった」
他愛のない話をしながら、空を見上げる。
吐く息は白いけれど、寒さは感じない。背後の彼の温もりが、寒さを忘れさせてくれている。
「暖かくて眠くなりそう」
「家まで送るよ。それかこのままずっと一緒にいてあげる」
それはやだ、と嘯きながらも、それも悪くないと思ってしまい苦笑する。
彼の側にいられるのは、触れられるのは、この冬の寒い日だけ。
それ以外の季節では、熱くて彼に触れられない。夏の日は、側にすらいられなくなってしまう。
彼は火だ。何にも縛られない、自由な火。遊ぶ事が好きで、楽しい事が大好きな、変な妖。
「星もきれいだけど、さっきの遊んでる火もきれいだったよ」
彼に凭れそうつたえれば、周囲を取り囲むように現れるいくつもの火。
ゆらゆら揺れて、くるくる回って。別れて増えて、まとまって一つになる。
楽しそうに遊び出す火に、腕を伸ばす。触れるぎりぎりを漂う火に、熱さを感じない。彼と同じ優しい暖かさに、もっとと強請るように、手招いた。
「少し前までは近くに寄っただけで怒られたのに、現金だな」
「今年の夏は暑かったもん」
「涼しくなっても変わらなかった」
「涼しくても、こんな風に抱きしめられたら熱いよ」
「我が儘…やっぱり、最高だな。この時期は」
触れる事を拒まれない。
彼はそう言って笑う。
それに悪くはないかもね、と答えを返して。
誰かと触れあえる、この短い季節を愛おしく思う。
「ねえ。また連れてきてよ」
「いいよ。応えてあげよう」
「珍しい。いつもは人に応える事なんかしないのに」
「また来たいからね。星の綺麗な夜に、また誘いに行くよ」
分かった、と小指を差し出せば、それに絡まる彼の小指。
「約束ね」
声に出して指切りをして。ありがとう、と小さく呟いた。
お礼の言葉は、少し気恥ずかしい。
どういたしまして、と頭を撫でる彼の手にさらに恥ずかしくなるが、離れる事も出来なくて。
「嘘ついたら、針千本飲ますからね」
心にもない事を言って、彼の腕を軽く叩いた。
大げさに痛がる彼に、馬鹿、と呟き。
大好き、と心の中で囁いた。
その言葉は、ありがとうすらまともに言えない自分には、きっとまだ早い。
いつか言える日を夢見て、誤魔化すように星空を見上げた。
20241219 『冬は一緒に』
「先生は、一体いつまで続けるんですかい?」
「何だ。急に」
赤い顔した子供の言葉に、無精髭を生やした男は至極面倒だと言いたげな顔をした。
六畳の和室。
男の周りを忙しく動き回る子供を一瞥し。子供が止まる様子がない事から、それ以上子供の言葉を気に留めず、男は視線を文机の上の原稿へと戻した。
暫しの沈黙。
子供も男も常と変わる様子はない。だが紙を纏める子供のてが一瞬止まり、いえね、と静かに口を開いた。
「何と言いますか。手前の話をこうして形にして下さるってのは、大変有り難い話ではありやすがねぃ。段々に不安になるってもんです」
「不満か。校正はさせているが。どこが違っている」
「先生自身の話でさぁ」
室内の整理をする手を止めず、男に視線を向ける事もなく、子供は不服を訴える。
その意図を察する事が出来なかったのだろう。男の手が止まり、深い溜息と共に筆を置いた。
子供へと向き直る。面倒だと顔は顰めているものの、男の目は雄弁に子供に語れと訴えかける。
それに気づき、子供は手を止めると同じように男へ向き直り、居住まいを正して座った。
「先生が手前に何も望まない事が、どうにも落ち着きやせん。ここらで一つくらいは望んじゃあくれませんかい?」
「何だ。そんな事か」
子供の訴えを、男は一蹴する。
時間の無駄だと、文机に戻りかける男を慌てて制止し、子供は懇願した。
「先生。後生ですから、望んで下さいよぅ。先生が父君の後を継いでいるだけだとしても、手前が落ち着かないんでさぁ」
「家事全般を任せ、話を強請り、校正までさせている。これ以上、何を望めと」
「釣り合いが取れやせん。先生の作品で、どれほどの妖が消えずに済んだとお思いですかい。特に手前のようなモノは先生がいなければ今頃消えて、跡形もなくなっていたんですから」
次第に熱く語り出す子供に、男はまたか、と顔を顰める。
何度も繰り返されてきたやり取りに、それでも子供を無下には出来ず、男は仕方がないと欠伸を噛み殺した。
「別に、消えるのが怖い訳ではないんです。人間が昔と比べ賢くなったのは、とても喜ばしい事だと手前も思いやす。一人で生きていける人間に、手前共は不必要で御座いやしょう」
目を細め、穏やかに微笑んで。
子供は書架に視線を向ける。
整然と収められている、男が書き記してきた書籍。それは、子供が見聞きし男に語った取り留めのない四方山話を、男が形にしたものであった。
「先生の物語が、手前共の終を先にする。その先延ばしにされた終を思いながら、先生と共に在るとですねぃ。どうしても考えてしまうんですよ。先生の終のその先を」
静かな呟き。
悲しむような。怖れるような。憎むような。
それでいて無感情な声音が、男の鼓膜を揺する。
男は何も言わない。しかし男の目は子供から逸らされる事はなく、紡がれる言葉を静かに聞いていた。
「先生のいない現世で、手前は後悔と孤独を抱えて在り続けるので御座いやしょう。先生のご恩に報いる事が出来ず、ただ先生の優しさに甘え続けた結果を呪い続ける事でしょう。それを思うとね、考えてしまうんでさぁ」
ふっと、電気が消える。
訪れた暗闇に、男は動じない。
変わらぬ男の様子に、子供は小さく笑みを溢し。手にした提灯に火を灯した。
「いっそ、暗い夜道で先生と共に永遠を歩けば。堕ちてしまえば楽になるのでは、と。望まれぬなら、妖も化生も変わりやせんからねぇ」
くすり、くすり、と子供は笑う。
その度に提灯が揺れ、境界を歪ませて行くかのよう。
男はそれでも、動じる事はない。
視線を逸らさず、身じろぎ一つせず。
揺れる灯りに目を細めながら、徐に口を開いた。
「阿呆か」
深い溜息。
仄かな灯りに照らされた男の表情は、至極面倒だと言いたげであった。
「まあいい。話のネタにはなる」
「先生は本当に酷いお人だ。手前の告白すら、物語の一つにしちまうんですかい」
提灯の灯り消え、電気が点く。
子供の手に提灯は既になく。代わりに中断していた整理途中の紙の束が、子供の小さな両手を塞いでいた。
「望みが足りぬというなら、もっとネタを寄越せ。親父には煙々羅に愛されたお袋がいたが、俺にはお前しかいないのだからな。何ならお袋の代わりになれ」
「先生。先生の物語で、手前がどんな名で呼ばれたかお忘れで?小僧ですよ。提灯小僧!母君になぞ、なれやせんて!」
「不満ならば、小娘に変えてやろう。俺としては何でも構わん。何せお前の取り留めない話に付き合って、時間を浪費したのだからな」
ふん、と男は鼻を鳴らし。くるり、と背を向け文机に向かう。先ほどから一枚も終わらぬ原稿に、鬱々とした気持ちで目頭を押さえた。
「茶でも入れてきやしょうか?それの締め切りは何日後なんで?」
「明日だ」
「…はい?」
男の返答に、子供の動きが止まる。
聞き間違いだと一縷の望みを抱いて聞き返せば、重苦しい溜息が聞き間違いではないと、現実を突きつけた。
「他の話を聞く余裕はない。お前の話を書かせてもらおう」
「何故に、そんな説破詰まっているんで?ここ数日余裕があったじゃあ、ありやせんか」
「お前がネタを寄越さんから、ネタを探して外に出ていただけだ。故にお前が全て悪い」
そんな殺生な、と悲鳴に似た叫びを上げて、子供は手にしていた資料を置くと、台所に向かい部屋を飛び出した。
今夜は徹夜になる事だろう。まずは茶の用意と、それから精の出る料理を作らなければ。
ばたばたと遠ざかる足音を聞きながら、男は小さく笑みを浮かべる。
男の書く話一つのために、こうも甲斐甲斐しく世話を焼かれるのは、悪くない。気恥ずかしさはまだあるが、何より孤独ではない事が良い。
穏やかな気持ちで筆をとる。物語の構成を考えながら、時計を一瞥し。
ふと、思う。
「締め切りをなくしてほしいと望んだら、応えてくれるだろうか」
取り留めのない事だとは思っている。だが一応、子供が戻ってきたら聞いてみるかと、疲れた思考で真剣に考えた。
20241218 『とりとめのない話』