「先生は、一体いつまで続けるんですかい?」
「何だ。急に」
赤い顔した子供の言葉に、無精髭を生やした男は至極面倒だと言いたげな顔をした。
六畳の和室。
男の周りを忙しく動き回る子供を一瞥し。子供が止まる様子がない事から、それ以上子供の言葉を気に留めず、男は視線を文机の上の原稿へと戻した。
暫しの沈黙。
子供も男も常と変わる様子はない。だが紙を纏める子供のてが一瞬止まり、いえね、と静かに口を開いた。
「何と言いますか。手前の話をこうして形にして下さるってのは、大変有り難い話ではありやすがねぃ。段々に不安になるってもんです」
「不満か。校正はさせているが。どこが違っている」
「先生自身の話でさぁ」
室内の整理をする手を止めず、男に視線を向ける事もなく、子供は不服を訴える。
その意図を察する事が出来なかったのだろう。男の手が止まり、深い溜息と共に筆を置いた。
子供へと向き直る。面倒だと顔は顰めているものの、男の目は雄弁に子供に語れと訴えかける。
それに気づき、子供は手を止めると同じように男へ向き直り、居住まいを正して座った。
「先生が手前に何も望まない事が、どうにも落ち着きやせん。ここらで一つくらいは望んじゃあくれませんかい?」
「何だ。そんな事か」
子供の訴えを、男は一蹴する。
時間の無駄だと、文机に戻りかける男を慌てて制止し、子供は懇願した。
「先生。後生ですから、望んで下さいよぅ。先生が父君の後を継いでいるだけだとしても、手前が落ち着かないんでさぁ」
「家事全般を任せ、話を強請り、校正までさせている。これ以上、何を望めと」
「釣り合いが取れやせん。先生の作品で、どれほどの妖が消えずに済んだとお思いですかい。特に手前のようなモノは先生がいなければ今頃消えて、跡形もなくなっていたんですから」
次第に熱く語り出す子供に、男はまたか、と顔を顰める。
何度も繰り返されてきたやり取りに、それでも子供を無下には出来ず、男は仕方がないと欠伸を噛み殺した。
「別に、消えるのが怖い訳ではないんです。人間が昔と比べ賢くなったのは、とても喜ばしい事だと手前も思いやす。一人で生きていける人間に、手前共は不必要で御座いやしょう」
目を細め、穏やかに微笑んで。
子供は書架に視線を向ける。
整然と収められている、男が書き記してきた書籍。それは、子供が見聞きし男に語った取り留めのない四方山話を、男が形にしたものであった。
「先生の物語が、手前共の終を先にする。その先延ばしにされた終を思いながら、先生と共に在るとですねぃ。どうしても考えてしまうんですよ。先生の終のその先を」
静かな呟き。
悲しむような。怖れるような。憎むような。
それでいて無感情な声音が、男の鼓膜を揺する。
男は何も言わない。しかし男の目は子供から逸らされる事はなく、紡がれる言葉を静かに聞いていた。
「先生のいない現世で、手前は後悔と孤独を抱えて在り続けるので御座いやしょう。先生のご恩に報いる事が出来ず、ただ先生の優しさに甘え続けた結果を呪い続ける事でしょう。それを思うとね、考えてしまうんでさぁ」
ふっと、電気が消える。
訪れた暗闇に、男は動じない。
変わらぬ男の様子に、子供は小さく笑みを溢し。手にした提灯に火を灯した。
「いっそ、暗い夜道で先生と共に永遠を歩けば。堕ちてしまえば楽になるのでは、と。望まれぬなら、妖も化生も変わりやせんからねぇ」
くすり、くすり、と子供は笑う。
その度に提灯が揺れ、境界を歪ませて行くかのよう。
男はそれでも、動じる事はない。
視線を逸らさず、身じろぎ一つせず。
揺れる灯りに目を細めながら、徐に口を開いた。
「阿呆か」
深い溜息。
仄かな灯りに照らされた男の表情は、至極面倒だと言いたげであった。
「まあいい。話のネタにはなる」
「先生は本当に酷いお人だ。手前の告白すら、物語の一つにしちまうんですかい」
提灯の灯り消え、電気が点く。
子供の手に提灯は既になく。代わりに中断していた整理途中の紙の束が、子供の小さな両手を塞いでいた。
「望みが足りぬというなら、もっとネタを寄越せ。親父には煙々羅に愛されたお袋がいたが、俺にはお前しかいないのだからな。何ならお袋の代わりになれ」
「先生。先生の物語で、手前がどんな名で呼ばれたかお忘れで?小僧ですよ。提灯小僧!母君になぞ、なれやせんて!」
「不満ならば、小娘に変えてやろう。俺としては何でも構わん。何せお前の取り留めない話に付き合って、時間を浪費したのだからな」
ふん、と男は鼻を鳴らし。くるり、と背を向け文机に向かう。先ほどから一枚も終わらぬ原稿に、鬱々とした気持ちで目頭を押さえた。
「茶でも入れてきやしょうか?それの締め切りは何日後なんで?」
「明日だ」
「…はい?」
男の返答に、子供の動きが止まる。
聞き間違いだと一縷の望みを抱いて聞き返せば、重苦しい溜息が聞き間違いではないと、現実を突きつけた。
「他の話を聞く余裕はない。お前の話を書かせてもらおう」
「何故に、そんな説破詰まっているんで?ここ数日余裕があったじゃあ、ありやせんか」
「お前がネタを寄越さんから、ネタを探して外に出ていただけだ。故にお前が全て悪い」
そんな殺生な、と悲鳴に似た叫びを上げて、子供は手にしていた資料を置くと、台所に向かい部屋を飛び出した。
今夜は徹夜になる事だろう。まずは茶の用意と、それから精の出る料理を作らなければ。
ばたばたと遠ざかる足音を聞きながら、男は小さく笑みを浮かべる。
男の書く話一つのために、こうも甲斐甲斐しく世話を焼かれるのは、悪くない。気恥ずかしさはまだあるが、何より孤独ではない事が良い。
穏やかな気持ちで筆をとる。物語の構成を考えながら、時計を一瞥し。
ふと、思う。
「締め切りをなくしてほしいと望んだら、応えてくれるだろうか」
取り留めのない事だとは思っている。だが一応、子供が戻ってきたら聞いてみるかと、疲れた思考で真剣に考えた。
20241218 『とりとめのない話』
12/19/2024, 1:16:14 AM