sairo

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12/26/2024, 8:55:20 AM

「何これ」

彼女の言葉に、口には出さずとも同じ事を思う。
色鮮やかに彩られ、飾り立てられた藤。
毛糸。色紙。所々に見える赤い実は南天だろうか。
誰かのいたずらだとは考え難い。この村に住む者は皆、藤に惹かれ帰ってきたのだ。
花の咲かぬ藤が、いつしか再び花を咲かす日が来る事を、皆心待ちにしている。
その藤を無意味に飾り付けるなど、出来るはずが。

「おや。見られてしまったか」

聞き覚えのない声がした。
視線を向ける。幼さを残した、少年とも少女ともつかぬ美しい容姿の子供が立っていた。
その腕には、種々の木の実や落ち葉の入った籠を抱えている。

「驚かせようと思ったのだが。残念だ」

肩を竦め、ゆったりとした足取りで、子供は藤へと向かう。見知らぬ子供。だが、記憶の片隅に微かに残る面影が子供に重なる。
愛でられる事を当然とし、面倒事を嫌う。あれは誰であったか。

不意に、隣から重苦しい溜息がした。

「何をしているの。藤」
「何だ。覚えているのか」

目を瞬き彼女を見る子供に倣い、隣を見る。
僅かに顔を顰める彼女に、よく似た誰かの面影が重なり見え、消えていく。

「思い出してしまったのよ。これは一体何」
「今日は聖なる夜だと聞いたからね」
「クリスマスイブね。それがどうしたの」

親しげに話す二人に、懐かしさを感じた。
呆れながらも優しく微笑む彼女と、自由な子供。
漸く帰ってきたのだと、この地で何度も思った感情に目を細めた。

「木を飾り立て、人の子の目を楽しませる日なのだろう。まだ咲けぬ藤《私》を愛でてくれる、二人を楽しませようと思ったのさ。途中で見つかってしまったが」
「藤をクリスマスツリーにするなんて、大分可笑しな事ね。楽しむよりも呆れてしまったわよ。全て思い出してしまうくらいには」
「驚かす事が出来たのなら、準備をした甲斐があった」
「相変わらずね。藤」

くすくすと鈴の音を転がすような声音で彼女は笑う。

「変わらないでいてくれて、安心したわ。私を覚えてくれていた事には驚いたけれど」
「鈴は特別だからね。妖が人の子に生まれるなど、初めての事だ。人の子の思いの強さには驚かされるよ。なあ、宮司」

笑いこちらを見る子供に、眉を寄せる。同意を求められても、二人の会話の内容は理解出来ない事ばかりだ。
藤。妖。人。記憶。
意味が分からない、と返そうと口を開き。
だがまったく別の言葉が溢れ落ちた。

「俺はまだ宮司ではないのだが」

理解できぬそれに、違和感はない。以前もこんなやりとりをしていたと、口元に笑みが浮かんだ。

「まだ言っているのか。藤《私》の手入れをするのはお前しかいないのだから、宮司で構わんだろう」
「だが」
「相変わらず堅苦しい男だね。何度繰り返しても変わらないな」

呆れたように笑われ、どうしたものかと彼女を見る。

「いいじゃない。白杜《あきと》が宮司だって、皆思っているわ。認めていないのは白杜だけよ」
「鈴も言っているんだ。それにお前が宮司の子として生き、死んだのは何百年も前の過去の事だぞ」

そこまで言われてしまっては、肯定するしかない。
嫌ではないが落ち着かぬのは、子供の言うかつての己が宮司ではなかったからだろう。

断片ではあるが、思い出した事がある。
かつて同じように、二人と共に生きていた事があった。
神楽鈴の付喪であった彼女と、藤の化身。
藤に愛され、藤を愛し。
そして何よりも深く、彼女を愛していた。


「鈴音《すずね》」
「どうしたの」

彼女の名を呼ぶ。
しかし続く言葉を迷い。何もないと首を振る。
伝えたい言葉があった。だがそれは、今の己には意味のない言葉でもあった。
かつては妖であった彼女は今、人として隣にいる。今更、彼女に望む必要はない。

「変な白杜」

微笑んで、寄り添う彼女の肩を引き寄せる。
冷えた体を暖めるように、その華奢な身をかき抱いた。

「随分と大胆なものだね。あの時より思っていたが、お前達は本当に夫婦のようだ」

楽しげな声に、はっとして視線を向ける。
穏やかな表情をした、藤の化身である子供と目が合った。
慌てて彼女を離しかけるが、彼女は胸元に擦り寄ったまま、離れる様子はない。
彼女の視線を向ける。くすり、と笑う楽しげな彼女と目が合った。

「私は夫婦になってもよいのだけれど。白杜は何も言ってはくれないわね」
「そうなのか。早く契ってしまえばよいものを」
「今は私よりも藤の方が大切なのよ。焼けてしまうわ」

彼女の言葉に、藤の化身の咎めるような視線が刺さる。
何か言うべきではあるものの、今のこの場では何を言っても意味をもたないだろう。藤の化身の前で敢えて言葉にする彼女の心の内を察して、すまない、と謝罪の言葉が漏れた。

「鈴音」
「なにかしら」

名を呼べば、悪戯に笑う少女の目をして彼女が己を見る。
眉を寄せる。仕方がないと、一つ息を吐いた。

「この場で促されて言うものではないが…俺と夫婦になってくれないか」
「確かに格好はつかないな」
「そうね。でもまぁ、今夜はクリスマスイブだもの」
「聖なる夜には、奇跡とやらはつきものだな」

藤の化身と彼女が頷き合う。
仕方がないわ、と溜息を吐いて。彼女は藤の元へと歩み寄る。
くるり、と振り返り己を見る彼女は頬を染め、微笑む。

「特別に、その望みに応えてあげるわ」

それだけを告げて、彼女は藤の化身の抱えた籠の中から木の実を取り出し、藤を飾り付けていく。地に籠を置いた藤の化身も、同じように紅葉を藤の蔓に絡ませ始めた。

「何を、している」
「藤を飾り付けているの。白杜の告白は私が言わせたようで、面白くないもの。雰囲気だけでも良くしたいわ」
「そうだな。あれではさすがに鈴が可哀想だ」
「すまない」

視線を向けられる事もなく吐き出される二人の愚痴に、謝罪しか出てこない。
己の謝罪など聞こえていないかのような二人は、笑い合いながら藤を飾る。幻想的な藤なるものを目指し話す二人を見ながら、声には出さずに彼女の名を呼んだ。

彼女を愛していた。否、愛している。
鈴の音のように澄んだ声も、花開くように笑う姿も。何も言わずとも己を理解しているその聡明さも。
誰よりも、何よりも愛しい。
目を閉じる。彼女の声を聞きながら、緩く笑みを浮かべた。

「愛している、鈴音」
「その言葉は、私の目を見て言って欲しいものね」

思っていたよりも近く聞こえた彼女の声に、目を開く。
手を伸ばせば触れられるほど側に、彼女がいた。
藤の化身の姿はない。飾り立てられた藤の蔓が、風もないのにゆらりと揺れた。

「藤から伝言。次の春に、一房だけ藤の花を咲かせてくれるみたいよ」

伸ばされた彼女の腕を引き、抱きしめる。
己の名を呼ぶ彼女の鈴の音のような声を聞きながら、彼女の顎を掬い、目を合わせた。

「鈴音。愛している。藤の花が咲いたならば、誓う言葉をもう一度言わせてくれ。藤の花を見て微笑む、美しいお前に未来を誓わせてくれないか」

彼女には藤の花がよく似合う。
こうして赤や緑に飾られた目の前の藤よりも、淡く色づいた藤色が、彼女の美しさを際立たせる事だろう。

「馬鹿。本当に酷い男ね…でもそんな酷い男を愛してしまった私も、同じようなものかしら」

頬を朱に染めた彼女の手が頬に触れる。

「ねぇ、白杜。今夜はクリスマスイブよ。奇跡の他にプレゼントがほしいわ」

くすりと笑う。
それに笑みを返して、望まれるままに彼女の体を強く抱き寄せ口付けた。



20241225 『イブの夜』

12/24/2024, 4:13:26 PM

「これ、あげる」

手渡されたのは透明な石。
困惑する少女に笑って、少年はずい、と顔を近づけた。

「これは?どう。気に入った?」
「えっと。あの」
「やっぱ、気に入らない?」

このやり取りは、何度目になるのか。少女はもう覚えてはいない。
気づけば側にいた彼。常に笑顔を湛え、こうして時折プレゼントと称して少女に手渡してくる。
何を考えているのか。手渡す石に意味はあるのか。
少女がいくら訪ねても、少年は笑うだけで何も答えなかった。
少女は、少年の名前すら知らない。


「綺麗だと、思います」
「へぇ、気に入ったんだ。じゃあ、今度こそもらってくれる?」

少女の答えに、少年の笑みが深くなる。

「や。でも、それは」
「駄目なの?気に入ったのに?」
「そう、ですけど。でも」

戸惑い視線が彷徨う少女の手を、渡した石ごと軽く握る。そのまま上へと持ち上げて、少女の目の前にかざした。

「欲しい、と。一度でも思ったのならば、迷わずに受け取ればいい」

息を呑む音。僅かな怯えを浮かべた少女の目に、少年の浮かべる笑みが優しさを孕む。
改めて少女に石を握らせる。怖くはないのだと、震える少女の手を宥めるように撫ぜた。

「どうして。なんで、いつも」
「大切にしたい人に、プレゼントをあげたいと思うのは変?折角のプレゼントを、喜んでもらいたいとあれこれ考えるのは意味のない事?」

少年の言葉に、少女の頬に赤みが差す。
それ以上は何も言えなくなってしまう少女の手を一撫でして、手を離す。返される事のなくなった石を、少年は満足そうに見つめた。

「この石って、一体何なんですか?」
「これはね、本物だよ」

少女の問いに、少年は得意げに答える。
本物。その意味を分かりかねて少女は首を傾げれば、少年はくすくす笑いながら、口を開いた。

「今までは、近いものや似たものだったから、気に入らなかったんだね。やっぱり本物でないと駄目か」
「何、言って」
「だって今まで上げてきたやつは、全然嬉しそうじゃなかった」

少しだけ拗ねたような声に、少女は確かに、と今までの石を思い返す。
小さなもの。大きなもの。歪な形。様々あったが、そのどれもが、黒く濁っていた。
綺麗だと、ここまで強く惹かれたものはなく。この石を手渡されるまでは、どう断れば石を渡す事を止めてくれるのかばかりを少女は考えていた。

「え、と…ありがとう、ございます」
「どう致しまして。やっと喜んでくれた」

心から嬉しそうな少年の笑顔に気恥ずかしくなる。石を見る事で、少女は少年から視線を逸らした。
きらきらと、光を反射する。澄んだ水のように、透明さを保つ石に目を奪われる。
何故こうも心を奪われるのか。少女にも理由は分からない。
飽く事なく見つめ。手の中で転がして。

「綺麗」

思わず溢れ落ちた言葉に、少年の目が愛おしげに細められるのを見てしまい。少女ははっと、我に返る。

「あ。すみません。もらってばかりなのに、私何もお返しが出来なくて」
「いいよ。俺があげたいんだから、気にしないで」
「でも」
「君が飢える事も、病に苦しむ事もなく。笑ってくれているのが、俺にとっての一番のプレゼントだよ」

少女を見つめながらも、少年はどこか遠くの何かを見るようにして微笑む。
少年の手が頬に伸ばされるのを、少女はどこかぼんやりと、当然の事のように受け入れた。

「あぁ、少し冷えてしまっているね。そろそろ戻ろうか」

どこへ、と微かな疑問は直ぐに消え。少年に促されるままに、少女は歩き出す。
そもそも、ここは何処であるのか。少女は思い出す事はなく、少年に寄り添い歩く。

長い廊下の先。扉を開け入った部屋は、少女の私室であった。
手を引かれ、ベッドへと向かう。少年に促されるままに横になれば、優しい手が良い子と少女の髪を撫でた。
その手を、少女は知っている気がした。熱にうなされている時に、ずっと撫でてくれていた愛しい手。
目を細め擦り寄れば、撫でる手はさらに優しくなる。


「そういえば、今日はクリスマスイブだったね。良い子にはプレゼントをあげないと」

プレゼント。首を傾げ、少年を見上げた。
少女は既に石をもらっている。それ以上にもらう事は出来ないと、口を開きかけ。

「メリークリスマス。プレゼント代わりに、いい事を教えてあげようね」

しかし歌うような声と、いつの間にか少年の手に渡っていた石を唇に触れさせられて。少女の否定の言葉は声にならず消えた。

「今回は偶然手に入れる事が出来たけど、次はないかもしれない。だからよく味わって食べて」

触れた唇の熱で石が溶け、僅かに開いた隙間から少女の口腔内へ流れ込む。反射で飲み込んだ少女の目が、驚きと、苦しさと、怯えに見開かれた。

知っている味だった。
吐き出したくなるほど不味く、泣き叫んでしまいたくなるほど美味であるその味。
少女はよく知っていた。思い出してしまった。
綺麗だと思った石が、本当は何であるのか。
少年は誰だったのか。彼が何をしたのか。

「あの時は無理矢理だったけれど、気に入ってくれていたみたいで安心した」

触れているだけだった石が、押し込まれる。
拒もうと唇を閉ざそうとすれど、衰弱した体は思うように動かす事は出来ない。
唇を割り、舌を滑り、喉奥へと転がり落ちる石。
諦めて飲み込む。一筋零れた涙を指先で拭い、彼は笑った。

「今度はちゃんと年を越えられる。年を越して春になったら、きっと良くなるよ。そうしたら、また桜を見に行こう」

笑う少年の姿に、痩せぎすの男の姿が重なる。
あぁ、と掠れた声を漏らす。

狭く、寒い部屋。薄い布団。

部屋が変わる。時が反転していく。

「おやすみ。愛しい人」

冷たい手に目を覆われ、おとなしく目を閉じた。



20241224 『プレゼント』

12/24/2024, 8:51:03 AM

「大変、申し訳御座いませんでしたぁぁぁ!」

目の前で綺麗な土下座を決める女性を見ながら、何故こんな事になっているのかを思い返す。
どこか他人事なのは、理解が全く追いついていないからだ。所謂、現実逃避というものである。


気がつけば、見知らぬ屋敷の布団の中。
質素だが、肌触りの良い布団から身を起こす。記憶にはない室内は、意識が落ちる前に出会った彼らの屋敷なのだろう。
そう己を納得させる。薬草の香りと、体の痛みが消えている事から、手当をされたようだった。
親切な二人に申し訳なく思う。全ては己の諦めの悪さが招いた事だというのに。
彼らに報いるにはどうすべきかを悩んでいれば、かたん、と襖の開く音がした。
視線を向ければ、最初に己を引き止めた幼子の姿。手には桶を持ったまま、きょとり、と目を瞬かせ。
その表情は、次第に満面の笑顔に変わる。

「あ。起きた!大丈夫?痛くない?苦しくない?」

ぱたぱた、と足早に寄り桶を置く。矢継ぎ早に問いかけられて何も答えられずにいる己を気にする事なく、額に手を当てられる。
幼子の冷えた手が心地よい。思わず目を細めた。

「ん。まだ熱い。寝てないと」

手が冷たく感じるのは、どうやら己が熱を持っているかららしい。
真剣な顔をして、寝るようにと促される。されるが儘に横になりながら、すまない、と小さく謝罪をする。
背を支える幼子の手の感覚に、つきり、と胸が痛むが、目を閉じて気づかない振りをした。

「大丈夫。今、にっちゃが治してくれているからね」

穏やかな声に、目を開ける。桶に張った水に手ぬぐいを浸しながら、幼子は大丈夫、と繰り返す。
治るの、だろうか。
また、大空を飛べるのだろうか。
もう一度。一度だけでもいい。あの青い澄んだ空を。

「おれは、にっちゃの薬を塗る事しか出来ないけど。にっちゃは、たくさん薬を作れるから。血止めの薬の他にも、痛みを止める薬とか、傷を治す薬や病気を治す薬とか」

だから、ね、と幼子は笑う。
固く絞った手ぬぐいを、己の額に乗せながら、歌うように囁いた。

「もうちょっと眠って、ちゃんと元気になろう?元気になったら、にっちゃと、ねっちゃに会おう?」
「……うん」

そこまで言われては仕方ない。
目を閉じる。訪れた暗闇に、意識を沈めて。
おやすみなさい、と掠れた声で呟いた。





次に目覚めた時。側にいたのは幼子ではなく、幼子に似た女性だった。
目が合った瞬間。くしゃり、と顔を歪め。

現在の、この理解できない状況が出来上がってしまった。


「ねっちゃ、うるさい」

いつの間にか部屋に入ってきていた幼子が、女性の横をすり抜け隣に座る。
その手には、湯気の立ち上る湯飲みが乗った漆の盆。はい、と手渡された湯飲みからは、柑橘類の爽やかな香りがした。

「柚子?」
「ん。他にも入ってるけど。落ち着くから」

飲んで、と促され、おとなしく湯飲みに口を付ける。
舌先に薬特有の苦みを感じるものの、柚子の爽やかな酸味に然程気にはならない。
ほぅ、と息を吐く。

「落ち着いた?」
「いや。まあ」

にこにこ笑う幼子の言葉に、曖昧な返事しか返せない。
落ち着く香りと味ではある。だが、頭を下げたまま微動だにしない女性が気になり、落ち着く事など出来そうにはない。
女性に視線が向いてしまう事に、幼子も気づいたのだろう。あぁ、と頷いて。気にしないで、と無慈悲に告げる。

「ねっちゃが悪いの。酔っ払いして、羽、折った」
「え?」

折った。その言葉に、ずきり、と心の臓が痛みを訴える。
女性を見る。彼女は何も言わず、動かない。
違う、と言いかける。しかし、言葉は紡がれず、掠れた吐息が溢れ落ちるのみだった。

「ねっちゃは悪い子。おしおき、する?」

首を振る。紡がれる事のない言葉の代わりに、否を示す。
女性は悪くない。確かに、急に吹いた風に煽られ、そのまま地に叩きつけられて羽は折れた。それでも違うのだ。
湯飲みを持つ手に力が籠もる。俯いて唇を噛みしめる。
否定の言葉一つ紡ぐ事の出来ない、己の弱さが情けない。

「そう?優しい子」

頭を撫でるその手の温かさに、泣いてしまいそうだ。


「羽、は。私が」
「いいえ。今回の責は全て私達にある」

嗚咽を耐え、絞り出した言葉は凜とした声音に遮られた。
顔を上げる。
いつの間にか幼子の隣に女性が座り、真っ直ぐに己を見つめていた。

「私達が、酒宴の席で凩を落とす事を競い合った。その事実は変わらない」
「けれど。でも」
「競い合う前の事など、全て些事だ。羽が折れなかったもしもを考えた所で、それは意味をなさない」

強く、残酷にも聞こえる言葉。女性の強い視線に耐えきれず、視線を逸らす。
如何して、と疑問ばかりが浮かぶ。何故を考えても、何一つ思いあたる事はない。
湯飲みの中で揺れる茶を見つめる。滴が落ちて波紋が広がった。


「ねっちゃ。これ以上はだめ。あっち行ってて」

静かな声。有無を言わさぬ強い言葉と何かを引き摺る音に、顔を上げた。
隣にいたはずの二人の姿は、そこになく。部屋の襖戸に向かい女性を引き摺りながら歩く、幼子の後ろ姿に目を瞬いた。

「当分、来ないで。次泣かせたら、にっちゃに切ってもらうから」

女性を外に放り出し冷たく言い捨てて、すぱん、と強く襖を閉める。
振り返る幼子の、その見慣れてきた笑顔との違いに、何も言葉が出てこない。

「ごめんね。もう大丈夫」

元いた位置に座り、未だ湯飲みを持ったままの手に手を重ねる。
手の両側から感じる温かさと、柚子の仄かな香りに深く息をした。

「今はね。これ飲んで元気になろう?」

にこにこと、優しく語りかける声に、黙って頷く。

「も少し元気になったら、おふろしよう。ゆずをたくさんいれたおふろ。おれ、たくさんとってくるから」

小さな手に促され、茶を口にする。先ほど感じた薬の苦みはもうなく。ただ柚子の甘さと僅かな酸味が喉を潤していった。
息を吐く。落ち着く香りを堪能しながら、幼子を見た。

「彼女は悪くない。折れる前から、上手く動かせなくなっていた」

先ほどは言えなかった言葉が、口をついて出る。
自由に動かせぬ羽。望んだ人の子は既にいないというのに、その望みを忘れられずに足掻いた結果だ。
人に認識されぬ妖は消える。分かっている。それでもあのか弱き人の子の望みだけに応え続けていたかった。

「過去に縋り続けた結果だ。私が弱く、先を否定し続けていたから。だから、」
「でも折ったのは、ねっちゃ。だから悪いのは全部ねっちゃたち」

穏やかな声が否定する。
でも、と言い募る唇は、幼子の指に止められる。

「何も言わないで。ねっちゃたちのせいにして。それで終るのは、さみしいけれど見送るよ。でも」

どこまでも優しい目をして、幼子は笑った。

「もしも、ちょっとでも前を向いてもいいって思えたら。おれはとてもうれしいよ。飛ぶのじゃなくて、歩いてもいいって言ってくれるなら、おれといっしょにゆずをとりに行こう?」
「柚子」
「そう。たくさん生ってるひみつの場所。特別に教えてあげる」

その言葉に、湯飲みを見る。大分少なくなってしまった残りを飲み干した。
先を考えるのは、まだ怖い。飛べぬ己を想像する事すら、出来そうにもない。
けれども今、飲み干したばかりの茶の味を、恋しいと思っている。この甘く爽やかな香りに浸りたいと、思い始めている。
目を閉じる。微かな残り香を、慈しむように吸い込んで。

「傷が、癒えたら。その時は、もう一度その言葉をもらってもいいだろうか」

目を開ける。
幼子を見据え、望んだ。
頷き笑う幼子に、あぁでも、と言葉を足して。

「上手く歩けるかは分からない。長く待たせる事になるかもしれないが」

苦笑し、首を傾げてみせる。

「その時は手をつなぐよ。大丈夫!」

空の湯飲みを取られ、手を繋がれる。
その温もりに、満面の笑顔に。

微笑んで、その手を握り返した。



20241223 『ゆずの香り』

12/23/2024, 6:09:49 AM

「あ、のっ!」

服の裾を軽く引かれ、声をかけられる。
見下ろせば、涙を湛えながら見上げる幼子と目が合った。

「何だ」

知らぬ幼子から、視線を逸らす。
見上げる空は快晴。雲一つなく、風も穏やかだ。
空に惹かれ、足を踏み出す。
一歩進み。だがそれ以上は、引き止める小さな紅葉の手によって阻まれる。

「だめ。飛ぶの、だめ!」

必死な様子に首を傾げ。
視線を幼子から空へ、空から地へと向け、あぁ、と納得した。
数歩歩けばそこに地はなく、深い谷底が広がっている。おそらくはこのまま落ちると思われているのだろう。
幼子に視線を向け。泣きながら裾を引く手に、そっと手を重ねた。

「落ちない。羽はある」
「だめ、なのっ!飛ぶの。だって、だって!」
「問題ない。大丈夫だ」
「大丈夫、違うぅ!だって、羽根!折れてる!」

飛べない。飛ぶのは駄目だと、ぐすぐす泣きながら幼子は訴える。
確かにそうだ。右翼は折れ、己の意思で動かす事は出来なくなっていた。
だが、飛ばなくては。春が来る前に、片翼だけで飛ぶ事を覚えなければならない。
それをどのように幼子に伝えるべきか。理解してもらえるのかを考え。
未だ泣き続ける幼子と視線を近く合わせるため、身を屈めた。

「安静、しなきゃ、だめなの!こんなに、たくさん、傷。無理、しないで!」
「だが」
「だめっ!」

存外強情な幼子に、困惑する。
無視し、飛ぶのは簡単だ。だが己のために泣くその優しさを、ないものとして扱うのは気が引けた。

「こっち!」

手を引かれ、促されて立ち上がる。手を引かれるままに崖から離され、離れた木の根元に座らされた。
折れた羽根の状態を確認するように、小さな手があちこちに触れる。
疾うに感覚を失った羽根がその手の熱を感じる事はない。
痛みがないのは良い事ではある。だが、今は何故かそれが惜しく思えた。
幼子の手が離れ、今度は服の裾を捲る。
露わになる怪我は、飛ぼうとして飛べずに落ちた際に出来たものだ。
その怪我に顔を顰める幼子は、それでもそれ以上泣く事はなく。
手を離し立ち上がると、深く息を吸い込んだ。

「にっちゃぁぁぁ!」

ざわり、と木々が揺れる。
ざわり、ざわり、と風が舞い。


「何です?そんなに大声を出して」

幼子に似た男が、風と共に舞い降りた。
抱きつく幼子の頭を撫で、此方を見下ろし。
己の様子から、幼子の言いたい事を察したのだろう。小さく息を吐いて幼子を離し、己の元まで歩み寄る。

「随分と無理をしたものだ。片翼では飛べぬでしょうに」

膝をつき、己の羽根に触れる男の目は厳しい。

「それでも飛ばねば。春が来るまでには」
「諦めなさい。これはもう元には戻らぬ」

男の無慈悲な言葉に、目を伏せる。
分かっていた事だ。気づかぬふりをしていた事実だ。
目を閉じる。きつく拳を握り、澱む想いを吐き出すように、深く呼吸をして。

「そうか。ありがとう」

目を開ける。顔を上げて男に微笑み、礼を告げた。

「手間をかけた。礼も出来ぬままなのはすまないと思うが、これ以上貴殿らの時間を消費させるわけにもいかない。失礼する」
「待ちなさい」
「だめっ!」

立ち上がりかけた体は、男と幼子の手により元に戻される。
引き止められる事の意味が分からず、二人を見る。
泣く幼子と、険しい顔の男。
何故己に対してそのような表情をするのだろうか。

「どこ、行くの!」
「終の場所を探しに」

さらに泣き出してしまった幼子に、どうしたものかと首を傾げる。
飛べぬのであれば、終わるだけだ。
それを分かっているだろうに、何故止めるのか。
羽根が折れ、それを認めず無駄に足掻いた無様な己には、終の場所を決める事は出来ぬのだろうか。
悪い方ばかりに、思考が向く。
出会って僅かだが、彼らがそのような非情さを持ち合わせていない事は分かっているというのに。

「たくさんの傷。治すのっ!だからにっちゃ、呼んだの!」
「弟がこう言っている事ですから、諦めてください」

益々意味が分からない。

「いずれ消えるというのに。傷の手当てなど無駄だろう」
「むだじゃない。にっちゃの薬、良く効くもん」
「弟は一度決めた事は曲げません。おとなしくしていてください」
「いや。だが」

困惑する己に構わず、男に抱き上げられる。
ふわり、と薫る薬草の匂いに、傷つき消耗していた意識がくらり、と揺れた。

「眠ってしまってもかまいません」
「何故。迷惑、に」

くすり、と男が笑う。或いは幼子の方か。
微睡む意識では、もう目を開けている事すら困難だ。

「大丈夫。迷惑、違うよ」
「えぇ。それに」

何かを言いかけて、男は言葉を止め。
焦点の合わなくなってきた目を向ければ、緩く首を振られた。
薬草の匂いが強くなる。
気にはなるが、これ以上は無理だ。

「どちらにせよ。一度は僕達の姉に会うのです。話はその時にでも」
「おやすみなさい」

最後に聞こえたのは、幼子の声。
意識は深く沈み、彼らの会話の内容を聞く事はなかった。





意識のない白い小鳥を腕に抱いて、兄は僅かに眉を寄せた。
「この子でしょうかね」
「どうだろう?でも、折れてたから。違っても、助けてあげて」
「分かっていますよ」

片手で弟の頭を撫で、兄は淡く微笑んだ。
兄の笑みに弟も笑顔になる。頭を撫でる手に手を重ね、そのまま繋いで跳ねるように歩き出す。
弟の楽しげな姿に、兄の笑みは優しくなり。
だが不意に、浮かべた笑みが、消える。

「あの馬鹿姉には、当分酒を禁止してもらわなくては」
「酔っ払うの、だめ。ずっと禁止にして」
「そうですね。そうしましょう」

小鳥に視線を向ける。
二度と飛ぶ事の出来ぬその羽根は、小鳥の存在意義を奪い、いずれはその存在自体を消してしまう事だろう。
そうならないために手は尽くすつもりではある。しかし望みは薄く、動く可能性は限りなく低い。
はぁ、と息を吐く。

「酒に酔い。剰え、狐と張り合うとは情けない」

――どちらが先に、あの凩を撃ち落とせるか。

実に下らない勝負だ。それを嬉々として行う事もだが、その結果がこの小鳥であるとするならば、何という愚行であろうか。
それが実の姉であるというのだから、頭が痛い。
姉の話を元に、探し見つけた傷だらけの小鳥。
精々後悔すればいい、と。この場にいない姉に向けて、呟いた・



20241222 『大空』

12/22/2024, 2:47:02 AM

しゃんしゃん、とベルの音。
軽やかに、高らかに鳴るそれに、鬱々とした気持ちで溜息を吐く。
クリスマスイブ。
あと数日で訪れる聖夜を前に、赤と緑に彩られた街はどこか浮き足立っていて。燦めく光が人々の心を弾ませていた。
一部を除いては。

「一人ぼっちのクリスマスって、マジやばいよね」
「うるせぇよ」

きゃらきゃら笑う声。視線を向けずとも誰か分かる、よく知ったその声音。
煩わしさに顔を顰めた。

「予定が詰まってんだよ。クリスマス如きに浮かれていられっか」
「予定がないから、予定を入れられるんでしょ?可哀想」
「だからうるせぇって」

耐えきれずに振り返る。
にやにやとした嫌な笑みを浮かべる彼女に向けて、追い払うように手を振った。

「さっさとどっか行け。これ以上邪魔すんなよ」
「ひっどいなぁ。一人で可哀想だったから、会いに来てあげたのに」

文句を言いながらも、彼女はこの場を去る様子はない。
しゃんしゃん、と音が聞こえる。
街からはベルの音。それとは別に、彼女が笑う度にしゃんしゃん、音が鳴る。

「余計なお世話だっての。可哀想ってんなら、これ以上仕事を増やすな」

増える面倒事に、思わず舌打ちした。
彼女は変わらずきゃらきゃら笑い。しゃんしゃんと音を鳴らす。
ベルの音。彼女の鳴らす音。
そして、もう一つ。
背後から近づいてくる、しゃんしゃん、と鳴る音。

「遅かったじゃん。このまま来てくれないかと思った」

背後で鳴る音に向けて、彼女が声をかける。
それに答える声はない。
しゃんしゃん、と鳴る音がして。左腕に細く白い腕が絡みついた。

「わお。大胆」

しゃんしゃん。しゃんしゃん。
前と後ろで音が鳴る。
二つが重なり、響き合う。

「じゃあ、行こっか」

彼女が近づく。
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
響く音が歪み出す。
しゃんしゃん。しゃんじゃん。

――じゃんじゃん。と。


「あぁ、もう。うるせぇな」

絡みつく腕を振り払い、距離を取る。
呆然と座り込む、背後にいた少女に駆け寄りこちらを睨む彼女に、溜息しか出てこない。

「女の子に乱暴するなんて、最低」
「最低なのはお前らだろうが。年の瀬は忙しいって分かってるだろうに」

終わりの見えない予定を思い出す。
家業の手伝いと、学業。
散々だった試験結果に、乾いた笑いすら出てこない。

「大体何で飛び込んだ?お前ら、俺よりも勉強できるだろうが」
「馬鹿じゃないの。鈍感。最低」

強く睨み付ける彼女の周りに、いくつもの炎が浮かぶ。勢いよく向かってくるそれを避けながら、彼女の言葉の意味を考えるが、心当たりはまったくない。

「あと、クラスであんたよりも成績が悪い奴なんていないから」

残酷な現実を突きつけられ、声にならない呻きが漏れる。
僅かに判断が遅れ、顔の真横を過ぎる炎が髪を焦がす不快な匂いに、眉が寄った。

「意味が分かんねぇよ。詳しく話せ」
「少しは考えるって事したら?それだからいつまでも馬鹿なのよ」
「馬鹿言うな。考えても分かんねぇんだから仕方ないだろうが」

悪態を吐けば、それがさらに彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。
じゃんじゃん、と激しく音を立てながら数を増やした炎に、辺りを取り囲まれる。
面倒だ、と舌打ちし。炎を避けながら、ポケットに手を入れた。

「ほんと、察しの悪い奴」
「もう、いいよ」

少女の言葉に、炎が止まる。
じゃん、と音を立てて消える炎を横目に、少女を見る。
俯いて表情は見えない。先ほどの声も淡々としていて、何を思っているのか分からない。
だが、何となく。何となくではあるが、少女が泣いているように感じた。

「私が悪いの。逃げ出したかった。両親の事や、進路の事。自分の気持ちからも全部。なかった事にしたかったの」
「あんたは何も悪くないでしょうが。やりたい事を諦めさせて、望まない学校に進学させるのが正しいはずなんかない。自分で何一つ決められない人生って、ただの地獄じゃん」

少女を強く抱きしめて。吐き出す彼女の言葉は、重い。
自分には分からない感情だ。やりたい事がたまたま家業だった自分には、彼女達を理解する事は出来ない。
もしもすら想像できない自分には、慰めの言葉すら彼女達を傷つける刃になりかねない。

「変える事も、逃げ出す事も出来ないから。終わらせるしかなかったの」
「ねぇ。私達の事、可哀想って思う?同情とかしたりする?憐みひとつくれるなら、一緒に来てよ。反対も、否定も、比較もされないで、好きな事だけやってるあんたから、可哀想な私達にクリスマスプレゼントをちょうだいよ」

強い目をして手を伸ばす彼女に、一歩だけ近づく。
その手を取るつもりはない。憐みなど、真剣に生きて足掻いてきた彼女達には失礼でしかない事くらいは分かる。

「やだよ。今のお前らには、何もやらない」

彼女の睨む目を見据え、だから、と付け足す。

「さっさと戻ってこい。そしたら、お前らのために一日くらい時間を作ってやるよ」
「っ。それって」
「年の瀬はお前らみたいなのが多くて忙しいんだからな。それを時間作って、好きなもん何でも貢いでやるってんだ。一つどころか、これ以上ないくらいの好待遇だろ?」

首を傾げて笑ってみせる。
驚き見開かれた彼女の目と、弾かれたように顔を上げた少女の涙に濡れる目を見返した。

「そういう所が駄目なのよ。最低」
「何でだよ」
「あの。本当に、いいの?」

視線を逸らし悪態を吐く彼女とは対照的に、少女は怖ず怖ずと聞き返す。
反応はそれぞれ違うのに、そのどちらの頬も赤くなっているのが不思議で、可笑しかった。

「今、戻るならな。時間作るために徹夜しなきゃならないから、早くしてくれ」
「分かったわよ。急がせないで」
「ありが、とう」

おう、と軽く手を振り。
手を繋いだまま、霞み消えていく二人を見送って、深く息を吐いた。
クリスマスまでは地獄の日々を過ごす事になるだろう。
だが彼女達は、彼女達の地獄に戻ってくるというのだ。時間の限られた地獄など、極楽とそう変わりはない。

「まったく。しょうがないな」

しゃんしゃん、と鳴るベルの音を聞きながら、ポケットの中に手を突っ込む。
街は眠らない。明るい光が眩しいくらいだ。

しゃんしゃん。しゃんしゃん。
ベルの音。それに紛れて、誰かが残念だ、と呟いた。
しゃんしゃん。しゃんしゃん。
残念だ。残念だ。

「お小遣いは多めにしてもらおう」

煩いいくつもの声に、肩を竦めて振り返る。
ポケットから取り出した、水晶のブレスレットをくるくると弄びながら。

「そういうわけだから。さようなら」

恨めしげに見つめる亡者達に、ブレスレットを投げつけた。



20241221 『ベルの音』

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