雲に遮られ、星月の淡い光すら届かぬ昏い夜。
地面に座り込み、少女は一人空を見上げていた。
言葉もなく、表情もなく。微動だにしないその姿は、僅かに白く色づく吐息がなければ、生きているのか死んでいるのかの区別がつかない。
夜も更け、凍てつく寒さは体温を容赦なく奪っていく。しかし少女はその場から動く様子はなく、ただ見るともなしに見えぬ空を見ていた。
不意に、近づく足音が聞こえた。
ゆっくりとした足音は少女から数歩離れた場所で立ち止まる。周囲の暗がりより尚昏い大柄な影が、低い獣のような声音で少女に問いかけた。
「何をしている」
「別に、何も」
影に視線を向ける事もなく、少女は淡々と答える。
無感情なその声音に、影は低くうなりを上げた・
「なればその身。喰ろうてしまっても構わぬな」
「いいよ」
迷いのない返答。
空から影へと視線を移し、少女は無感情な目をしていいよ、と繰り返す。
「もう、何もかもがどうでもいい」
唇の端を上げて、笑みを形作る。
くしゃりと歪んだ不格好なそれは、泣いているようにも見えた。
「どうでもよいのか」
「うん。どうでもいい。疲れちゃったの。私を私として見てもらう事を期待しても無駄なんだって、分かっちゃった」
「無駄か」
「そう、無駄。結局皆にとって、私は妹の姉でしかないんだよ」
声に感情が乗る事はない。作った笑みも消え、少女は虚ろな目をして影に語り続ける。
「私はお姉ちゃんでいる限り、これからもずっと妹と比べられる。妹の添え物でしかないんだ」
どれだけ努力をし結果を出したとしても、それが認められる事はないと少女は言う。そして少女が不得意とする分野で、努力で補う事の難しい気質に対して、妹を引き合いに出されるのだ、と。
――お姉ちゃんなのだから、出来て当たり前。
――お姉ちゃんなのだから、もっと上を目指さないと。
――お姉ちゃんなのに、何故妹よりも不出来なのか。
――妹の方は、愛嬌があるのに。
――妹の方が、可愛いのに。
少女は周囲からかけられる無慈悲な言葉に一人耐え、只管に努力をし続けてきた。いつか認められると信じて、妹よりも上位の成績を維持し、苦手な愛想も振りまいた。
けれどもどれだけ少女が努力しても、それが認められる事はなく。
「もうお姉ちゃんでいる事に疲れたの。お父さんもお母さんも、友達や好きな人だって、妹しか見ていない。きっとこのまま私がいなくなっても、誰も気にする事なんてないから」
だから、と。
少女は冷え切り動かす事のままならない足に力を入れ、立ち上がる。
一歩、また一歩。影の元へ歩み寄る。
「終わらせてくれるなら、何だっていい。殺されても、食べられても、お姉ちゃんでなくなるならそれでいい」
「それほどまでに姉でいる事を拒むのか」
「そうだよ。お姉ちゃんはもういやなの」
無感情にそう告げて、少女は影へと手を伸ばす。
その手を取り、影は静かに問いかけた。
「誰に終わらせてほしい」
その言葉に少女はきょとり、と目を瞬かせ。
そこでようやく少女の表情に感情が乗った。
作られた笑みではない、今まで押し殺してきた少女の本心からの笑顔。
控えめな、ふわりと花咲くような。そんな暖かな微笑み。
「誰でもいいの?」
「ああ」
「それなら。妹に終わらせてほしいかな」
笑いながら、一筋涙を溢す。
その涙を影は拭い。
不意に雲が途切れ、月の光が二人を仄かに照らし出した。
「その望みに応えよう」
静かに応える声。
影の姿が揺らぎ、少女の妹の姿に変わる。
満開の花が咲き誇るような笑顔を浮かべ、少女の手をそっと離した。
数歩、少女から離れて。
「おやすみなさい、お姉ちゃん」
少女から伸びた影の手を取り、引き寄せる。
おやすみ。ありがとうの言葉を聞きながら。妹はその影の喉元に喰らいついた。
時を止めた少女の軀を前に、妹の姿をした妖は悩んでいた。
その手には、半透明の小さな石を乗せ。
「さて、どうするか」
石を見、軀を見た。
戻す事は出来ない。何より少女がそれを望まない。
とは言え、軀を喰らうつもりは端からなく。このまま捨て置くのも忍びない。
家族の元へと返してもよいものか。
「何、しているの?」
「丁度良い所へ来た」
不意にかけられた声に、振り返る。
首を傾げる磯の香りのする女の元へ歩み寄ると、女の手に持っていた石を握らせた。
「姉である事に疲れたそうだ。甘やかしてやれ」
「魂を勝手に持ち出すのは御法度でしょう。怒られるのは嫌よ」
「何。刹那の夢を見せるだけだ。常世に渡った所で、その寂しさは満たされる事はない。永く眠り続けるよりは良いだろう」
勝手ね、と女は愚痴を溢しながら。
石をそっと包み込み、目を閉じる。
「人の子は随分と寂しくなってしまったのね」
「賢くなりすぎたのだろう。仕方のない事だ」
女の呟きに、妖は少女がしていたように空を見上げた。
月は見えない。再び雲に覆われて、光は遮られてしまっている。
この昏い空を見上げ、少女は何を思っていたのか。
詮無き事を考えながら、そうだなと一つの結論を出した。
「これでいいかしら?」
女の声に視線を向ける。
手にしていた石は形を変えて、安らかに眠る赤子の姿がそこにはあった。
「あぁ。それくらいが甘やかすには良いだろうな」
「迎えが来たら渡すわよ?それでいいでしょう」
女の言葉に否はなく、頷く。
「軀は家族に返すの?」
「連れて行く。姉であった娘は寂しいのだからな」
「甘いのね」
苦笑する女は、それでも否を唱える事はない。
同じ選択を女も考えているのだろうと、妖は気にかける事もなく、赤子の頬を優しく撫でる。
魂が、取り繕うものがなくなった少女の本心が叫び続けていた事。
気づいてほしい。認めてほしい。寂しいのだと。
それらの望みが、この先少しでも応えられれば、と妖は笑った。
「後は任せる」
「えぇ。任されてあげるわ」
女に背を向け、少女の軀に歩み寄る。
その姿が揺らぎ。
頭は牛、体は鬼の姿をした妖は、少女を抱き上げると、己の塒である淵へと去っていった。
20241220 『寂しさ』
くしゃみを一つ。
冷えた指先を温めるように息を吐けば、少し離れた場所にいる彼と目が合った。
彼を取り囲むように浮かぶ、いくつもの火が消える。一つ遅れて彼の姿も消え、次の瞬間には目の前に現れた彼に抱き竦められた。
「悪い。少し楽しくなっちゃった」
謝る声は、楽しげに弾んでいる。それに文句を言いかけ、意味のない事かと思い直す。小さく息を吐き、人よりも高いその温もりに擦り寄り、目を閉じた。
彼には自由が似合う。
初めて会ったその時から、彼の印象は変わらない。
神出鬼没で、何にも縛られず。形を変え、数すら変える、不思議な火。
どこまでも自由な彼に憧れて、差し出された彼の手を取ってからもうどれだけの時が経ったのだろう。
「じゃあ、そろそろ行くか」
離れ差し出された手に右手を重ねる。手を繋ぎ歩き出す道先にいくつもの火が現れ、暗がりに迷う事はない。
ゆらゆらと火は揺らいで、二つに分かれて一つに戻って。
思わず手を伸ばせば、触れる瞬間に消え、離れた場所に現れる。別の火が伸ばした手の周りをくるりと回り、いくつもに別れて離れていった。
まるで小さな子供達が遊んでいるようにも見えて、くすくす笑う。繋いだ手が態とらしく揺らされて、弾む気持ちで彼を見上げた。
「どうしたの?」
「また楽しくなってきちゃったから、手繋いでるの忘れないようにって」
離れて、風邪を引かせないように。
思いもかけない彼の言葉に、目を瞬く。
「星を見に誘ったのに、星見る前に風邪を引かせたら、つまらない」
「確かに」
「それに、今だけだからね。こうしてくっついても、文句を言われないのは」
にぱっ、と彼は笑い、繋いだ手を引いた。
突然の事に抵抗も出来ず、そのまま彼へと倒れ込む。ぶつかる寸前で抱き上げられて、その一瞬の出来事に理解が追いつかずに身を捩った。
「こら、危ないよ。落ちちゃったら怪我をする」
「ごめん?」
「気をつけて。歩くよ」
機嫌良く歩き出す。けれどいつもの跳ねるような歩き方ではなく、とても静かだ。
落ちる不安がなくなって、強く掴んでいた彼の服を離し、彼を見る。ようやく理解が追いついて、文句代わりに彼の頬を軽くつまんだ。
「痛いよ」
「痛くしてない。急には止めてって、何回も言ってるのに」
「思いついちゃったんだから、仕方ない」
いつもの事だよ、と言われれば、いつもの事だな、と納得してしまう。
思いついて、直ぐに行動に移す。今日もそうだった。
急に現れて、手を引かれた。星を見に行こうと、とても嬉しそうに。
止めなければ、部屋着のままこの寒空の下に連れられる所だったのを思い出し。少しだけ彼の頬をつまむ手に力を込めれば、彼は痛いよ、と楽しそうに笑っていた。
「今夜は特に空気が澄んでいるから、星がよく見える。もうすぐ着くよ」
「どこに行くの?」
「まだ秘密」
上機嫌な彼に合わせて、周りの火がゆらり、くるりと動き回る。楽しみだ、と気持ちが伝わって、頬をつまむ手を離し仕方がないなと笑ってみせた。
「着いた」
「すごい。きれい」
彼に連れられた山の奥。見上げた空に、思わず感嘆の声が溢れ落ちる。
どこまでも続く、星の海。人工的な灯りがないこの場所では、とてもよく見える。
彼の周囲で遊んでいた火が消える。星の瞬きさえも見えて、届かないと知りながらも腕を伸ばした。
「気に入った?」
「うん。すごく」
「なら良かった」
いつもとは違う柔らかな彼の声。見下ろす彼の表情もまた柔らかい。
星を掴む事を諦めて、下ろした手で彼の頬を包んだ。
人よりも高く、火よりは低い、彼の温もり。心地好いその温度を堪能していると、くすくすと笑われる。
「可愛いね」
「笑わないでよ」
「それは無理」
笑いながら彼は腰を下ろし、膝に乗せられる。くるりと向きを変えられて、背後から抱き竦める形に収まった。
「こんなに着込まなくてもよかったのに」
「さっき人の事忘れて遊んでたのは誰だっけ?」
「そうだった」
他愛のない話をしながら、空を見上げる。
吐く息は白いけれど、寒さは感じない。背後の彼の温もりが、寒さを忘れさせてくれている。
「暖かくて眠くなりそう」
「家まで送るよ。それかこのままずっと一緒にいてあげる」
それはやだ、と嘯きながらも、それも悪くないと思ってしまい苦笑する。
彼の側にいられるのは、触れられるのは、この冬の寒い日だけ。
それ以外の季節では、熱くて彼に触れられない。夏の日は、側にすらいられなくなってしまう。
彼は火だ。何にも縛られない、自由な火。遊ぶ事が好きで、楽しい事が大好きな、変な妖。
「星もきれいだけど、さっきの遊んでる火もきれいだったよ」
彼に凭れそうつたえれば、周囲を取り囲むように現れるいくつもの火。
ゆらゆら揺れて、くるくる回って。別れて増えて、まとまって一つになる。
楽しそうに遊び出す火に、腕を伸ばす。触れるぎりぎりを漂う火に、熱さを感じない。彼と同じ優しい暖かさに、もっとと強請るように、手招いた。
「少し前までは近くに寄っただけで怒られたのに、現金だな」
「今年の夏は暑かったもん」
「涼しくなっても変わらなかった」
「涼しくても、こんな風に抱きしめられたら熱いよ」
「我が儘…やっぱり、最高だな。この時期は」
触れる事を拒まれない。
彼はそう言って笑う。
それに悪くはないかもね、と答えを返して。
誰かと触れあえる、この短い季節を愛おしく思う。
「ねえ。また連れてきてよ」
「いいよ。応えてあげよう」
「珍しい。いつもは人に応える事なんかしないのに」
「また来たいからね。星の綺麗な夜に、また誘いに行くよ」
分かった、と小指を差し出せば、それに絡まる彼の小指。
「約束ね」
声に出して指切りをして。ありがとう、と小さく呟いた。
お礼の言葉は、少し気恥ずかしい。
どういたしまして、と頭を撫でる彼の手にさらに恥ずかしくなるが、離れる事も出来なくて。
「嘘ついたら、針千本飲ますからね」
心にもない事を言って、彼の腕を軽く叩いた。
大げさに痛がる彼に、馬鹿、と呟き。
大好き、と心の中で囁いた。
その言葉は、ありがとうすらまともに言えない自分には、きっとまだ早い。
いつか言える日を夢見て、誤魔化すように星空を見上げた。
20241219 『冬は一緒に』
「先生は、一体いつまで続けるんですかい?」
「何だ。急に」
赤い顔した子供の言葉に、無精髭を生やした男は至極面倒だと言いたげな顔をした。
六畳の和室。
男の周りを忙しく動き回る子供を一瞥し。子供が止まる様子がない事から、それ以上子供の言葉を気に留めず、男は視線を文机の上の原稿へと戻した。
暫しの沈黙。
子供も男も常と変わる様子はない。だが紙を纏める子供のてが一瞬止まり、いえね、と静かに口を開いた。
「何と言いますか。手前の話をこうして形にして下さるってのは、大変有り難い話ではありやすがねぃ。段々に不安になるってもんです」
「不満か。校正はさせているが。どこが違っている」
「先生自身の話でさぁ」
室内の整理をする手を止めず、男に視線を向ける事もなく、子供は不服を訴える。
その意図を察する事が出来なかったのだろう。男の手が止まり、深い溜息と共に筆を置いた。
子供へと向き直る。面倒だと顔は顰めているものの、男の目は雄弁に子供に語れと訴えかける。
それに気づき、子供は手を止めると同じように男へ向き直り、居住まいを正して座った。
「先生が手前に何も望まない事が、どうにも落ち着きやせん。ここらで一つくらいは望んじゃあくれませんかい?」
「何だ。そんな事か」
子供の訴えを、男は一蹴する。
時間の無駄だと、文机に戻りかける男を慌てて制止し、子供は懇願した。
「先生。後生ですから、望んで下さいよぅ。先生が父君の後を継いでいるだけだとしても、手前が落ち着かないんでさぁ」
「家事全般を任せ、話を強請り、校正までさせている。これ以上、何を望めと」
「釣り合いが取れやせん。先生の作品で、どれほどの妖が消えずに済んだとお思いですかい。特に手前のようなモノは先生がいなければ今頃消えて、跡形もなくなっていたんですから」
次第に熱く語り出す子供に、男はまたか、と顔を顰める。
何度も繰り返されてきたやり取りに、それでも子供を無下には出来ず、男は仕方がないと欠伸を噛み殺した。
「別に、消えるのが怖い訳ではないんです。人間が昔と比べ賢くなったのは、とても喜ばしい事だと手前も思いやす。一人で生きていける人間に、手前共は不必要で御座いやしょう」
目を細め、穏やかに微笑んで。
子供は書架に視線を向ける。
整然と収められている、男が書き記してきた書籍。それは、子供が見聞きし男に語った取り留めのない四方山話を、男が形にしたものであった。
「先生の物語が、手前共の終を先にする。その先延ばしにされた終を思いながら、先生と共に在るとですねぃ。どうしても考えてしまうんですよ。先生の終のその先を」
静かな呟き。
悲しむような。怖れるような。憎むような。
それでいて無感情な声音が、男の鼓膜を揺する。
男は何も言わない。しかし男の目は子供から逸らされる事はなく、紡がれる言葉を静かに聞いていた。
「先生のいない現世で、手前は後悔と孤独を抱えて在り続けるので御座いやしょう。先生のご恩に報いる事が出来ず、ただ先生の優しさに甘え続けた結果を呪い続ける事でしょう。それを思うとね、考えてしまうんでさぁ」
ふっと、電気が消える。
訪れた暗闇に、男は動じない。
変わらぬ男の様子に、子供は小さく笑みを溢し。手にした提灯に火を灯した。
「いっそ、暗い夜道で先生と共に永遠を歩けば。堕ちてしまえば楽になるのでは、と。望まれぬなら、妖も化生も変わりやせんからねぇ」
くすり、くすり、と子供は笑う。
その度に提灯が揺れ、境界を歪ませて行くかのよう。
男はそれでも、動じる事はない。
視線を逸らさず、身じろぎ一つせず。
揺れる灯りに目を細めながら、徐に口を開いた。
「阿呆か」
深い溜息。
仄かな灯りに照らされた男の表情は、至極面倒だと言いたげであった。
「まあいい。話のネタにはなる」
「先生は本当に酷いお人だ。手前の告白すら、物語の一つにしちまうんですかい」
提灯の灯り消え、電気が点く。
子供の手に提灯は既になく。代わりに中断していた整理途中の紙の束が、子供の小さな両手を塞いでいた。
「望みが足りぬというなら、もっとネタを寄越せ。親父には煙々羅に愛されたお袋がいたが、俺にはお前しかいないのだからな。何ならお袋の代わりになれ」
「先生。先生の物語で、手前がどんな名で呼ばれたかお忘れで?小僧ですよ。提灯小僧!母君になぞ、なれやせんて!」
「不満ならば、小娘に変えてやろう。俺としては何でも構わん。何せお前の取り留めない話に付き合って、時間を浪費したのだからな」
ふん、と男は鼻を鳴らし。くるり、と背を向け文机に向かう。先ほどから一枚も終わらぬ原稿に、鬱々とした気持ちで目頭を押さえた。
「茶でも入れてきやしょうか?それの締め切りは何日後なんで?」
「明日だ」
「…はい?」
男の返答に、子供の動きが止まる。
聞き間違いだと一縷の望みを抱いて聞き返せば、重苦しい溜息が聞き間違いではないと、現実を突きつけた。
「他の話を聞く余裕はない。お前の話を書かせてもらおう」
「何故に、そんな説破詰まっているんで?ここ数日余裕があったじゃあ、ありやせんか」
「お前がネタを寄越さんから、ネタを探して外に出ていただけだ。故にお前が全て悪い」
そんな殺生な、と悲鳴に似た叫びを上げて、子供は手にしていた資料を置くと、台所に向かい部屋を飛び出した。
今夜は徹夜になる事だろう。まずは茶の用意と、それから精の出る料理を作らなければ。
ばたばたと遠ざかる足音を聞きながら、男は小さく笑みを浮かべる。
男の書く話一つのために、こうも甲斐甲斐しく世話を焼かれるのは、悪くない。気恥ずかしさはまだあるが、何より孤独ではない事が良い。
穏やかな気持ちで筆をとる。物語の構成を考えながら、時計を一瞥し。
ふと、思う。
「締め切りをなくしてほしいと望んだら、応えてくれるだろうか」
取り留めのない事だとは思っている。だが一応、子供が戻ってきたら聞いてみるかと、疲れた思考で真剣に考えた。
20241218 『とりとめのない話』
目が覚めると、世界が滲んでいた。
子供の落書きのように、水に濡れた絵のように。ぐにゃり、と歪んだ全てに、訳も分からず首をひねる。
目を擦る。けれども世界が元に戻る事はない。
仕方がないと体を起こす。見るもの全てが滲んでいるが、触れた布団の感触は確かに布団の柔らかさがあった。
布団から抜け出し、立ち上がる。
くらり、と強い目眩。ふらつかぬように足に力を入れて耐えれば、直ぐにその波は引いていく。
ほっと、安堵の息を吐く。軽く頭を振って部屋を出た。
「何処へ行こうと言うんだ」
不意に聞こえた声に、辺りを見回す。
姿は見えない。声だけがする。
「何処にも行く場所などはない。行き着く先など、結局は地の底だ」
気がつけば、目の前に一本の太い柱。
声はその柱から聞こえてくるようであった。
「天に向かい伸びたはずが、地の底へと埋まってしまう。よくある事。実によくある事だ」
低くもなく、高くもない。淡々とした、それでいて複数を一つにしたかのような声音が、鼓膜を揺らす。
反響する。木霊する。
目眩に似た視界の揺らぎに、思わず目を閉じた。
「故に誰も外へは出られぬ。外への扉は内へと開き。内への扉は外へと閉じる。全ては逆しまで、全ては正常だ」
目を開けると、部屋の中。
世界の滲みは収まり輪郭を取り戻したが、今度は部屋の全ての部位が可笑しかった。
扉は天井で煌めき、窓は床に埋もれている。床板が壁に張り付いて、机や椅子を呑み込んでいた。
部屋の中央には、先ほどの太い柱。
けたけた、しくしく。
様々な感情を集めて。笑い、泣いていた。
「あぁ、何という喜劇。如何する事も出来ない悲劇。内へは何処へだって行けるというのに、外へは一つも辿り着けない」
声は何が言いたいのだろうか。
ふわふわと、ぼんやりとする意識で考える。
内側。外側。矛盾した世界。
外には出られないと言っていた。
天井の扉を見上げる。確かに此処からでは、あの扉には手が届かない。
床の窓を見下ろした。埋め込まれて、開きそうもなく。開いたとしてもその先は地面しかなさそうだ。
「伸びる先は、地だ。天は遠く、去って行く。何処でもない。何処でもある」
やはり何を言っているのか、分からない。
柱へと近づく。
触れて初めて、その違和感に気づいた。
「逆?」
「あぁ、逆だ」
柱は逆さまに立てられていた。
「全ては逆だ。天が地に、地が天になり、真が嘘に、嘘が真になる」
けたけた、ぎいぎい。
柱の上から笑う声と木を揺する音がする。
見上げれば、鴨居に結ばれた縄に足を括られ吊された誰かが、ゆらゆら揺れながら此方を見上げていた。
「悲劇は喜劇に変わる。攫われる者はなく、失うものもない。喜劇は悲劇になるのだろう。細やかな幸福は永遠に訪れないのだ」
ゆらり、ゆらり。ぎい、ぎしり。
誰かが揺れる。
流した涙が辺りに降り注ぎ、軋む鴨居が耳障りな音を立てる。
変わらず、誰かの言葉の意味は理解出来ない。
この柱が逆に立っているから、全てが逆になるのだろうか。
それならば、柱を正しく立てればよいとは思うが、その方法はやはり分からない。
分からない事ばかりだ。考えすぎたのか軽い頭痛を覚えて、こめかみを押さえた。
「どうすればいいんだろう」
「さ、逆さに、すれ、ば、いい、と、思いますっ!」
呟いた言葉に、自分のものでも柱のものでもない声が返る。
隣を見れば、いつの間にか小さな子供が、おどおどしながらも、自分と柱を交互に見ていた。
「あ、えと、あの、ですねっ。さ、逆さ、なので、逆さに、返すのが、いい、と、あの、その、はいっ」
おどおどとつかえながらも必死で伝えてくれた事は、柱の言葉のように意味が分からない。
それでもその真剣な様子に、そうだね、と同意してみれば、ぱあっと、満面の笑みが溢れ落ちた。
「でも逆さにするにしても、どうやって?」
「あ、はいっ。全部、返しますっ。この部屋ごと、ひっくり返しますっ!」
任せて下さい、と子供は胸を張る。
それならば、と様子を窺えば、子供はどこからともなく白の枕を取り出した。
「枕?」
「はいっ。枕ですっ!」
枕で何をするのだろうか。
首を傾げながらも黙って見ていれば、笑顔の子供は取り出した枕を大きく振りかぶり。
「悪夢、退散!ですっ」
吊られた誰かの顔面めがけ、投げつけた。
「…ん。あれ?」
目を開ければ、いつもの見慣れた天井が目についた。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
そもそもいつ部屋に戻って来たのだろうか。
「戻れたようだな」
寝起きでぼんやりしていれば、不意に影が出来る。
「落暉《らっき》、さん?」
「あぁ、勝手に邪魔させてもらったぞ」
穏やかに笑みを浮かべる彼に首を傾げる。
彼が急に訪れるのは珍しい事ではない。しかし寝ている間に訪れたのは初めての事だ。
何かあっただろうかと疑問に思い。さすがにこのまま寝ているのは失礼かと、体を起こして。
くらり、と世界が揺れた。
「まだ寝ているといい。熱は大分下がったが、それでもまだ高いのだから」
「ね、つ?」
「そうだ。どこぞの風に吹かれ、病をもらってきたようだな」
熱。病。
重く怠さのある体。はっきりとしない思考。
そうか。風邪を引いてしまったのか。
「もうすぐ父御が戻ってくるぞ。それまでは儂らが側にいてやろうなぁ」
彼に支えられ、ベッドに横になる。
彼の手が額に触れ、その冷たい心地よさに目を細めた。
「夢を、見ていた気がします」
「そうだな。随分と可笑しな夢を見ていたものだ」
「逆さの柱がある。どこにも行けない夢…助けてくれた、子が、いました」
さっきまで見ていた夢を、彼に話す。
悪夢は誰かに話すといいと、昔母が言っていた事を思い出していた。
小さな両手に、手を握られた気がした。確認しようにも、一度閉じてしまった瞼は、もう開く事を拒んでいる。
「枕を返したからな。眠っても問題ないぞ。儂らも就いている事だからな」
額に触れていた彼の手が、目を覆う感覚。
優しい声に促されて、そのまま眠りに落ちていった。
穏やかな眠りの中。
両親と、友人と。庭にいる彼らと共に。笑い合いながら、お茶会をする。
そんな夢を見た。
20241217 『風邪』
雪を待っていた。
雪の降る夜にだけ訪れる、彼女に逢うために。
周囲を見渡しても、空を見上げても、雪の一欠片も見る事が出来ない。
今夜もまた駄目なのだろうか。
ずっと待っていた。一年は自分には長すぎる。
春が来る事を怖れ、夏の訪れを忌々しく思い。秋が過ぎるのを待ち望んでいた。
ようやく冬が来た。
後は雪が降るのを待つだけだというのに。
「早く、逢いたい」
雪を待つ自分の姿は、まるで恋する乙女のようだ。
だが仕方がない事なのだと、誰にでもなく胸中で言い訳をする。
もうこの雪の夜にしか逢えないのだから。限られた時間の中、出来るだけ長く側にいて、たくさんの話をしたかった。
一年経って少しは成長した自分を見てもらいたい。出来る事が増えたのだと伝えて、たくさん褒めてもらいたかった。
彼女はきっと笑ってくれるのだろう。偉いね、頑張ったんだね、と優しく頭を撫でて、抱きしめてくれるのだ。
それを思うだけで心が弾む。彼女に逢えるまでの寂しいだけの夜を、一時でも忘れられる。
そして叶うならば、今度こそ。
不意に、冷たい風が吹き抜けた。
見上げた空から、白の雪が音もなく降っている。
あぁ、と声が漏れる。待ち望んだ白を両手を広げ受け入れた。
「また逢えたね」
柔らかな声に、振り返る。淡く笑みを浮かべた彼女と目が合い。
弾かれるようにして、走り出した。
逢って何を話そうかなど、考えていたはずの事は全て忘れて走る。
逢いたかった。ずっと逢いたかったのだ。
込み上げる想いは涙になって零れ出し、目や頬を凍らせ痛いほどだ。
息が苦しい。凍てついた空気が肺を突き刺して、上手く呼吸が出来ない。
それでも足は止まらない。止めるつもりなどあるはずがない。
「あぁ。逢い、た、かった!」
腕を伸ばす。
冷え切った指先が、彼女の腕に、触れ。
腕を、引かれた。
後ろに引く強い力に、バランスを崩す。
彼女へと伸ばした腕は空を切り、そのまま背後に倒れ込んだ。
「ぁ、いやだ。お姉ちゃん」
慌てて起き上がろうとするも、地面についた足も腕も動かす事が出来ない。
何故。どうして。
混乱する思考で、必死に身を捩る。動いてくれと、強く念じながら手足に力を込めた。
それでも体は言う事を聞かず。
目の前の姉は、困ったように笑うだけだった。
「何してんだ!」
背後から、強い声と駆け寄る音が聞こえた。
「皆探してたんだそ!」
「ぃや、いやだ。行かないで。お願い」
肩を掴む従兄弟に目もくれず、只管姉に視線を向けて願った。
行かないで欲しい。それが駄目だと言うのなら、今度こそ。
「お姉ちゃん。連れてって。僕も、一緒に連れていってよぉ!」
無理矢理に体を動かし。必死で腕を伸ばす。
けれどその腕が取られる事はない。
姉は笑う。哀しげに。寂しげに。
そんな顔をさせたいわけではないのに。
「いい加減にしろっ!あの子はここにはいない。お前の前には誰もいない。誰も、いないんだよ!」
「嘘だ!お姉ちゃんは、ここにいる。雪の夜に逢いに来てくれる」
「目を覚ませよ。現実を見ろ。目の前には誰一人いない。あの子は、お前の姉さんは五年前に死んだんだよ!」
肩を掴まれ、従兄弟と目を合わせられる。
「死んだ人は還ってこない。お前が見ているのは、お前が創り出した幻だ」
噛みしめるような彼の言葉に、いやだ、と首を振る。
認めたくない、と泣き叫んだ。
それでも肩を掴む力は緩まず。視線を逸らす事も出来ない。
「俺だって逢いたいさ。でももう逢えないんだ」
従兄弟の声が震える。
涙で歪む世界の中。従兄弟もまた泣いていた。
「帰ろう。お前まで雪に攫われちまったら、皆が雪を嫌いになる。前を向けなくなっちまう。だから、さ。一緒に帰ろう」
帰ろう、と従兄弟は繰り返す。
それに首を振ろうとして、戸惑い。
悩んで、苦しんで、怖れて。
「うん。帰る。一緒に帰るよ」
小さく頷いた。
互いに寄り添って家路に就く二人に、安堵の息を漏らす。
彼は大丈夫だ。今年も雪に引かれる事はないだろう。
二人の背を見送って。その姿が見えなくなったのを認め。
振り返り、彼の求めた彼女を強く睨み付けた。
「もう少しだったのに。邪魔をしないで」
にたり、と唇を歪め、嗤う。その表情は先ほどの微笑みとは比べものにならない程に醜悪だ。
「あの子が望んでいるの。それに応えてあげないといけないのに」
紡がれる言葉は毒のように甘さを孕み。伸ばされた白い指先は、彼らの去って行った方向へ向け、引き止めるようにゆるりと招いた。
ざり、と土を踏み締め前に出る。その音に視線を向けた彼女は、難くて堪らないと顔を歪めた。
「今度こそ閉じる事が出来たのに。何故引き止めたの。あんなに強く腕を引いたら、痛いじゃない」
「煩い」
「アナタは本当に酷いヒトね。あの子が可哀想。ワタシなら、二度と手を離したりしないのに」
「黙れ」
腕を伸ばす。
しかしその腕は彼女をすり抜け、触れる事は叶わない。
それを見て彼女は嗤い、哀れむようにその腕を、掴んだ。
「無駄な事。これで分かったでしょう。アナタはただの残り滓。あの子の姉にはアナタよりもワタシの方が相応しいって」
「黙れ。私の体を返せ、化け物」
「嫌よ。この軀でなければ、あの子に姉だと認識してもらえないもの」
彼女は嗤う。歪に顔を歪め、悍ましい嗤い声を上げる。
それに動じる事なく、もう一人の彼女は――姉は自身の軀を奪った彼女を、強く睨み付けていた。
不意に彼女の姿が揺らぐ。
いつの間にか雪が、止んでいた。
「ここまでか」
無感情に呟いて、彼女は姉の腕を放す。
「まぁ、良いわ。また雪は降るもの」
次こそはきっと。
くすくすと少女の声音で笑い、恍惚に頬を染めながら。
彼女の姿は、雪のように解けて消えていく。
残るのは、軀を奪われた姉、一人。
目を閉じる。短く息を吐き、微かに震える手を胸元で強く握りしめた。
「どうすれば」
呟く声は、か細く震えている。
どうすれば、彼女を止められるのか。軀を取り戻す事が出来るのか、何一つ分からなかった。
姉が弟を庇い、雪の下に埋もれて死んだのは、もう五年も前の事だ。雪解けを待って捜索が開始されはしたものの、姉の軀を見つける事は出来なかった。
それ故に、弟は未だに姉を求め続けているのだろう。
そしてその想いを利用して、彼女が姉の軀を纏って彼の元に現れた。
弟を引き込もうと、優しい笑顔を貼り付けて手招く。その度に必死で引き戻してはいたが、それもいつまで続けられるのか分からない。
彼女は何度でも現れる。姉の軀がある限り、それを止める事は出来ない。
雪の夜に死んだためか、雪の降る夜にしか現れる事が出来ないのが、せめてもの救いだった。
「それでも、必ず守るから」
目を開ける。
恐怖に、不安に震える気持ちを叱咤するように、強く言葉を紡ぐ。
かつては弟を守るために手を離した。そして今度は守るために腕を引く。
弟を守る。ただそれだけが、姉をここに留まらせていた。
「大丈夫。守るよ。だって私はお姉ちゃんなんだから」
呟いて歩き出す。彼らが去って行った方へ。
姉として、弟を守るために。
姉は気づかない。
その想いが、姉だけでなく弟を、彼女を縛り付けている事を。
雪の下。薄れる意識の中で、望んだそれに応えたモノがいた事を。
姉の望みのために、その軀を纏い弟に近づき、一時の夢を見せ。姉の望む悪役を演じる、一羽の妖がいる事を。
子供のまま死んだ姉は、きっと気づく事は出来ないのだろう。
そんな姉の小さな背を見下ろして。
鶴に似た黒の鳥が、羽を震わせて甲高く鳴いた。
20241216 『雪を待つ』