sairo

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雪を待っていた。
雪の降る夜にだけ訪れる、彼女に逢うために。
周囲を見渡しても、空を見上げても、雪の一欠片も見る事が出来ない。

今夜もまた駄目なのだろうか。

ずっと待っていた。一年は自分には長すぎる。
春が来る事を怖れ、夏の訪れを忌々しく思い。秋が過ぎるのを待ち望んでいた。
ようやく冬が来た。
後は雪が降るのを待つだけだというのに。

「早く、逢いたい」

雪を待つ自分の姿は、まるで恋する乙女のようだ。
だが仕方がない事なのだと、誰にでもなく胸中で言い訳をする。
もうこの雪の夜にしか逢えないのだから。限られた時間の中、出来るだけ長く側にいて、たくさんの話をしたかった。
一年経って少しは成長した自分を見てもらいたい。出来る事が増えたのだと伝えて、たくさん褒めてもらいたかった。
彼女はきっと笑ってくれるのだろう。偉いね、頑張ったんだね、と優しく頭を撫でて、抱きしめてくれるのだ。
それを思うだけで心が弾む。彼女に逢えるまでの寂しいだけの夜を、一時でも忘れられる。
そして叶うならば、今度こそ。

不意に、冷たい風が吹き抜けた。
見上げた空から、白の雪が音もなく降っている。
あぁ、と声が漏れる。待ち望んだ白を両手を広げ受け入れた。

「また逢えたね」

柔らかな声に、振り返る。淡く笑みを浮かべた彼女と目が合い。
弾かれるようにして、走り出した。
逢って何を話そうかなど、考えていたはずの事は全て忘れて走る。
逢いたかった。ずっと逢いたかったのだ。
込み上げる想いは涙になって零れ出し、目や頬を凍らせ痛いほどだ。
息が苦しい。凍てついた空気が肺を突き刺して、上手く呼吸が出来ない。
それでも足は止まらない。止めるつもりなどあるはずがない。

「あぁ。逢い、た、かった!」

腕を伸ばす。
冷え切った指先が、彼女の腕に、触れ。

腕を、引かれた。

後ろに引く強い力に、バランスを崩す。
彼女へと伸ばした腕は空を切り、そのまま背後に倒れ込んだ。

「ぁ、いやだ。お姉ちゃん」

慌てて起き上がろうとするも、地面についた足も腕も動かす事が出来ない。
何故。どうして。
混乱する思考で、必死に身を捩る。動いてくれと、強く念じながら手足に力を込めた。
それでも体は言う事を聞かず。
目の前の姉は、困ったように笑うだけだった。


「何してんだ!」

背後から、強い声と駆け寄る音が聞こえた。

「皆探してたんだそ!」
「ぃや、いやだ。行かないで。お願い」

肩を掴む従兄弟に目もくれず、只管姉に視線を向けて願った。
行かないで欲しい。それが駄目だと言うのなら、今度こそ。

「お姉ちゃん。連れてって。僕も、一緒に連れていってよぉ!」

無理矢理に体を動かし。必死で腕を伸ばす。
けれどその腕が取られる事はない。
姉は笑う。哀しげに。寂しげに。

そんな顔をさせたいわけではないのに。

「いい加減にしろっ!あの子はここにはいない。お前の前には誰もいない。誰も、いないんだよ!」
「嘘だ!お姉ちゃんは、ここにいる。雪の夜に逢いに来てくれる」
「目を覚ませよ。現実を見ろ。目の前には誰一人いない。あの子は、お前の姉さんは五年前に死んだんだよ!」

肩を掴まれ、従兄弟と目を合わせられる。

「死んだ人は還ってこない。お前が見ているのは、お前が創り出した幻だ」

噛みしめるような彼の言葉に、いやだ、と首を振る。
認めたくない、と泣き叫んだ。
それでも肩を掴む力は緩まず。視線を逸らす事も出来ない。

「俺だって逢いたいさ。でももう逢えないんだ」

従兄弟の声が震える。
涙で歪む世界の中。従兄弟もまた泣いていた。

「帰ろう。お前まで雪に攫われちまったら、皆が雪を嫌いになる。前を向けなくなっちまう。だから、さ。一緒に帰ろう」

帰ろう、と従兄弟は繰り返す。
それに首を振ろうとして、戸惑い。
悩んで、苦しんで、怖れて。

「うん。帰る。一緒に帰るよ」

小さく頷いた。





互いに寄り添って家路に就く二人に、安堵の息を漏らす。
彼は大丈夫だ。今年も雪に引かれる事はないだろう。
二人の背を見送って。その姿が見えなくなったのを認め。
振り返り、彼の求めた彼女を強く睨み付けた。

「もう少しだったのに。邪魔をしないで」

にたり、と唇を歪め、嗤う。その表情は先ほどの微笑みとは比べものにならない程に醜悪だ。

「あの子が望んでいるの。それに応えてあげないといけないのに」

紡がれる言葉は毒のように甘さを孕み。伸ばされた白い指先は、彼らの去って行った方向へ向け、引き止めるようにゆるりと招いた。
ざり、と土を踏み締め前に出る。その音に視線を向けた彼女は、難くて堪らないと顔を歪めた。

「今度こそ閉じる事が出来たのに。何故引き止めたの。あんなに強く腕を引いたら、痛いじゃない」
「煩い」
「アナタは本当に酷いヒトね。あの子が可哀想。ワタシなら、二度と手を離したりしないのに」
「黙れ」

腕を伸ばす。
しかしその腕は彼女をすり抜け、触れる事は叶わない。
それを見て彼女は嗤い、哀れむようにその腕を、掴んだ。

「無駄な事。これで分かったでしょう。アナタはただの残り滓。あの子の姉にはアナタよりもワタシの方が相応しいって」
「黙れ。私の体を返せ、化け物」
「嫌よ。この軀でなければ、あの子に姉だと認識してもらえないもの」

彼女は嗤う。歪に顔を歪め、悍ましい嗤い声を上げる。
それに動じる事なく、もう一人の彼女は――姉は自身の軀を奪った彼女を、強く睨み付けていた。

不意に彼女の姿が揺らぐ。
いつの間にか雪が、止んでいた。

「ここまでか」

無感情に呟いて、彼女は姉の腕を放す。

「まぁ、良いわ。また雪は降るもの」

次こそはきっと。
くすくすと少女の声音で笑い、恍惚に頬を染めながら。
彼女の姿は、雪のように解けて消えていく。
残るのは、軀を奪われた姉、一人。

目を閉じる。短く息を吐き、微かに震える手を胸元で強く握りしめた。

「どうすれば」

呟く声は、か細く震えている。
どうすれば、彼女を止められるのか。軀を取り戻す事が出来るのか、何一つ分からなかった。

姉が弟を庇い、雪の下に埋もれて死んだのは、もう五年も前の事だ。雪解けを待って捜索が開始されはしたものの、姉の軀を見つける事は出来なかった。
それ故に、弟は未だに姉を求め続けているのだろう。
そしてその想いを利用して、彼女が姉の軀を纏って彼の元に現れた。
弟を引き込もうと、優しい笑顔を貼り付けて手招く。その度に必死で引き戻してはいたが、それもいつまで続けられるのか分からない。
彼女は何度でも現れる。姉の軀がある限り、それを止める事は出来ない。
雪の夜に死んだためか、雪の降る夜にしか現れる事が出来ないのが、せめてもの救いだった。

「それでも、必ず守るから」

目を開ける。
恐怖に、不安に震える気持ちを叱咤するように、強く言葉を紡ぐ。

かつては弟を守るために手を離した。そして今度は守るために腕を引く。
弟を守る。ただそれだけが、姉をここに留まらせていた。

「大丈夫。守るよ。だって私はお姉ちゃんなんだから」

呟いて歩き出す。彼らが去って行った方へ。
姉として、弟を守るために。



姉は気づかない。
その想いが、姉だけでなく弟を、彼女を縛り付けている事を。
雪の下。薄れる意識の中で、望んだそれに応えたモノがいた事を。
姉の望みのために、その軀を纏い弟に近づき、一時の夢を見せ。姉の望む悪役を演じる、一羽の妖がいる事を。
子供のまま死んだ姉は、きっと気づく事は出来ないのだろう。


そんな姉の小さな背を見下ろして。
鶴に似た黒の鳥が、羽を震わせて甲高く鳴いた。



20241216 『雪を待つ』

12/16/2024, 11:37:46 PM