sairo

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目が覚めると、世界が滲んでいた。

子供の落書きのように、水に濡れた絵のように。ぐにゃり、と歪んだ全てに、訳も分からず首をひねる。
目を擦る。けれども世界が元に戻る事はない。
仕方がないと体を起こす。見るもの全てが滲んでいるが、触れた布団の感触は確かに布団の柔らかさがあった。
布団から抜け出し、立ち上がる。
くらり、と強い目眩。ふらつかぬように足に力を入れて耐えれば、直ぐにその波は引いていく。
ほっと、安堵の息を吐く。軽く頭を振って部屋を出た。



「何処へ行こうと言うんだ」

不意に聞こえた声に、辺りを見回す。
姿は見えない。声だけがする。

「何処にも行く場所などはない。行き着く先など、結局は地の底だ」

気がつけば、目の前に一本の太い柱。
声はその柱から聞こえてくるようであった。

「天に向かい伸びたはずが、地の底へと埋まってしまう。よくある事。実によくある事だ」

低くもなく、高くもない。淡々とした、それでいて複数を一つにしたかのような声音が、鼓膜を揺らす。
反響する。木霊する。
目眩に似た視界の揺らぎに、思わず目を閉じた。

「故に誰も外へは出られぬ。外への扉は内へと開き。内への扉は外へと閉じる。全ては逆しまで、全ては正常だ」

目を開けると、部屋の中。
世界の滲みは収まり輪郭を取り戻したが、今度は部屋の全ての部位が可笑しかった。
扉は天井で煌めき、窓は床に埋もれている。床板が壁に張り付いて、机や椅子を呑み込んでいた。
部屋の中央には、先ほどの太い柱。
けたけた、しくしく。
様々な感情を集めて。笑い、泣いていた。

「あぁ、何という喜劇。如何する事も出来ない悲劇。内へは何処へだって行けるというのに、外へは一つも辿り着けない」

声は何が言いたいのだろうか。
ふわふわと、ぼんやりとする意識で考える。
内側。外側。矛盾した世界。
外には出られないと言っていた。
天井の扉を見上げる。確かに此処からでは、あの扉には手が届かない。
床の窓を見下ろした。埋め込まれて、開きそうもなく。開いたとしてもその先は地面しかなさそうだ。

「伸びる先は、地だ。天は遠く、去って行く。何処でもない。何処でもある」

やはり何を言っているのか、分からない。
柱へと近づく。
触れて初めて、その違和感に気づいた。

「逆?」
「あぁ、逆だ」

柱は逆さまに立てられていた。


「全ては逆だ。天が地に、地が天になり、真が嘘に、嘘が真になる」

けたけた、ぎいぎい。
柱の上から笑う声と木を揺する音がする。
見上げれば、鴨居に結ばれた縄に足を括られ吊された誰かが、ゆらゆら揺れながら此方を見上げていた。

「悲劇は喜劇に変わる。攫われる者はなく、失うものもない。喜劇は悲劇になるのだろう。細やかな幸福は永遠に訪れないのだ」

ゆらり、ゆらり。ぎい、ぎしり。
誰かが揺れる。
流した涙が辺りに降り注ぎ、軋む鴨居が耳障りな音を立てる。
変わらず、誰かの言葉の意味は理解出来ない。
この柱が逆に立っているから、全てが逆になるのだろうか。
それならば、柱を正しく立てればよいとは思うが、その方法はやはり分からない。
分からない事ばかりだ。考えすぎたのか軽い頭痛を覚えて、こめかみを押さえた。

「どうすればいいんだろう」
「さ、逆さに、すれ、ば、いい、と、思いますっ!」

呟いた言葉に、自分のものでも柱のものでもない声が返る。
隣を見れば、いつの間にか小さな子供が、おどおどしながらも、自分と柱を交互に見ていた。

「あ、えと、あの、ですねっ。さ、逆さ、なので、逆さに、返すのが、いい、と、あの、その、はいっ」

おどおどとつかえながらも必死で伝えてくれた事は、柱の言葉のように意味が分からない。
それでもその真剣な様子に、そうだね、と同意してみれば、ぱあっと、満面の笑みが溢れ落ちた。

「でも逆さにするにしても、どうやって?」
「あ、はいっ。全部、返しますっ。この部屋ごと、ひっくり返しますっ!」

任せて下さい、と子供は胸を張る。
それならば、と様子を窺えば、子供はどこからともなく白の枕を取り出した。

「枕?」
「はいっ。枕ですっ!」

枕で何をするのだろうか。
首を傾げながらも黙って見ていれば、笑顔の子供は取り出した枕を大きく振りかぶり。

「悪夢、退散!ですっ」

吊られた誰かの顔面めがけ、投げつけた。





「…ん。あれ?」

目を開ければ、いつもの見慣れた天井が目についた。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
そもそもいつ部屋に戻って来たのだろうか。

「戻れたようだな」

寝起きでぼんやりしていれば、不意に影が出来る。

「落暉《らっき》、さん?」
「あぁ、勝手に邪魔させてもらったぞ」

穏やかに笑みを浮かべる彼に首を傾げる。
彼が急に訪れるのは珍しい事ではない。しかし寝ている間に訪れたのは初めての事だ。
何かあっただろうかと疑問に思い。さすがにこのまま寝ているのは失礼かと、体を起こして。
くらり、と世界が揺れた。

「まだ寝ているといい。熱は大分下がったが、それでもまだ高いのだから」
「ね、つ?」
「そうだ。どこぞの風に吹かれ、病をもらってきたようだな」

熱。病。
重く怠さのある体。はっきりとしない思考。
そうか。風邪を引いてしまったのか。

「もうすぐ父御が戻ってくるぞ。それまでは儂らが側にいてやろうなぁ」

彼に支えられ、ベッドに横になる。
彼の手が額に触れ、その冷たい心地よさに目を細めた。

「夢を、見ていた気がします」
「そうだな。随分と可笑しな夢を見ていたものだ」
「逆さの柱がある。どこにも行けない夢…助けてくれた、子が、いました」

さっきまで見ていた夢を、彼に話す。
悪夢は誰かに話すといいと、昔母が言っていた事を思い出していた。
小さな両手に、手を握られた気がした。確認しようにも、一度閉じてしまった瞼は、もう開く事を拒んでいる。

「枕を返したからな。眠っても問題ないぞ。儂らも就いている事だからな」

額に触れていた彼の手が、目を覆う感覚。
優しい声に促されて、そのまま眠りに落ちていった。

穏やかな眠りの中。
両親と、友人と。庭にいる彼らと共に。笑い合いながら、お茶会をする。
そんな夢を見た。



20241217 『風邪』

12/17/2024, 10:22:09 PM