彼の左腕は動かない。
肩から先。自分の意思では動かす事は出来ず、触れる感覚さえないのだと言う。
「小さい頃に、事故にあったみたいでさ」
彼曰く、記憶にはないが雪崩に巻き込まれたらしい。
七つに満たない、幼い頃の出来事。覚えてないのも仕方がないのだろう。
「助からないだろう、って思われてたみたいだぜ。それが腕以外は問題ないってんだから、不思議だよな」
左腕に触れながら、彼はけらけら笑う。
触れている感覚はあるのに、触れられている感覚がない事が楽しいようだ。
「壊死とかじゃないんだってさ。ちゃんと血は巡ってるって。それでも動かないのは、医者でも原因不明」
「それは。まあ、そうだろうね」
「ん?何、原因でも見えた?」
ずい、と彼の顔が近づいて、思わず後退る。
不用意な事を言ってしまったと後悔するも、一度溢した言葉は取り消せない。
きらきらした目をして、それでそれでと答えを急かす彼を、取りあえず宥めて。
言葉を探すように視線を彷徨わせながら、伝えられる一つを口にした。
「手を、繋がれているから」
「手?」
きょとん、と目を瞬かせ、左腕に視線を向ける。
右手で左手を持ち上げ、何か見えはしないかと様々な角度に動かし。指を絡めて軽く揺すり。
だが結局は何も分からなかったのだろう。
手を離して、不満げにこちらを見つめ、ぼやきだした。
「何にも見えないし、感じないんだけどさ。一体誰と手を繋いでんの?」
「誰かの手に、繋がれてるよ」
「だから誰の手?」
誰、と言われても、誰か、としか答えられない。
何せ、手しか見えないのだから。
「もしかして、その手が俺を守ってくれたとか?守護霊とかってやつ?」
「守護霊ではないかな」
「それじゃあ誰の手?知らない奴が俺の事守ってくれてんの?」
どこか納得いかない顔をしながらも、彼はそれ以上は何も言わず。
席に座って、動く事のない左手をしばらく見ていた。
制服の裾を引かれる感覚に、視線を向けて顔を顰める。
左側。小さな手が引き止めるように制服を握り締めていた。
立ち止まる。それに気づいて一度離れた手は左手に移動して、するり、と指を絡め出した。
「やだな。もう」
溜息を一つ吐いて、手を引き剥がす。床に投げ捨て、そのまま踏み潰した。
彼と長く話していたせいで、どうやら着いてきてしまったようだ。
手。動かない、と笑って話していた彼の左腕に絡みついていたもののひとつ。
彼はきっと、左手と指を絡めて繋がれた手ひとつを想像しただろう。けれど現実は非情である。
左肩から先。無数の手が彼の腕を引いていた。
手首から先は見えなかった。断面が認識出来なかった事から、切り離された手が絡んでいるのではなく、どこか別の場所から彼の腕を引いているのだろう。
これからどうするか、と少し悩む。
急な席替えで、後ろの席になってしまった彼。今まで関わりがほとんどなかったが、話す機会が増えた事で面倒事に巻き込まれる予感しかしない。
「やだな」
一度話しただけで着いてきてしまった手を思い出し、気が重くなる。教室に戻るのが酷く億劫だった。
「あれ?こんなとこで何してんの?」
不意に聞こえた声に、僅かに肩が跳ねる。
げ、という言葉を呑み込んで、嫌々ながらも振り返った。
「大丈夫か?体調が悪いなら、保健室着いていこうか?」
心配そうな彼に、大丈夫だと首を振る。
相変わらず無数の手に絡まれている彼の左腕に先ほど踏み潰したはずの手を認め、さらに気分が降下した。
「顔色悪いぜ。無理すんなよ」
「少し考え事してただけだから。大丈夫」
無理矢理笑顔を貼り付けて、教室に戻るため歩き出す。
隣を歩く彼の左腕を見ないように、さりげなく視線を逸らし、早足で。
「そろそろ授業始まっちゃうから、急がないと」
「まだ大丈夫だと思うけど。まあ、いいか」
ふ、と笑う声。ひとつ遅れて、左手を引かれる感覚。
「え?は?」
突然の事に立ち止まり、手を見る。
彼の右手に、繋がれていた。
「俺の左手が、誰かの手と繋いでるって言ってたから。何かいいなって」
「意味が、分からない」
「おれが手を繋ぎたくなった。それだけ」
振り解こうにも、強い力で繋がれた手は解ける事はなく。
恐る恐る見上げた彼は、獣の眼で上機嫌に笑っていた。
「ずっと気になってたんだ。正しく見えるやつって、今じゃ貴重だから」
「見えてない。正しくは見えてないから。だからっ」
「見えてるだろ?折角仲良くなろうと手を繋いだのに、それを踏み潰そうなんて酷いよな」
口の端が引き攣っていく。
思っていた以上の面倒事に、目眩がしそうだ。
彼に繋がれた左手に、重なるようにしてひとつふたつと手が増えて行く。左手を辿って腕に絡みついた手が楽しげに揺れる。
またひとつ、手が増えて。
耐えきれずに彼の手を振り解き、距離を取った。
「キモい!」
絡みついた手を投げ捨てる。
「そんな酷い事言うなよ。加護はあるぜ?俺を今まで守って来たお墨付きってやつだ」
「こんなキモい加護なんかあるか!視界的によろしくないのは、加護じゃなくて最早呪いだろうが!」
思いの丈を叫ぶ。最後に残った手を彼の顔面めがけて投げつけた。
それを簡単に受け止め、彼は不本意だと言いたげに手を見て首を傾げた。
「おれの眷属の手だぞ。可愛くないか?」
「お前の眷属なんぞ知らん!」
知るわけがない。知ろうとも思わない。
彼の、正確には彼の左腕に絡んだ手の大本が一体何であるのか。面倒事の匂いしかしないそれに、関わるつもりは全くなかった。
「つれないな。末永く俺と仲良くしてもらいたいんだが」
「断る!」
「即答するなよ。俺が悲しむぞ。雪に埋まった時からずっと一人きりだったからな…友達が欲しいって望みに、これでようやく応えられると思ったんだが」
目を伏せる彼に、何も言えなくなる。
それは卑怯だ。騙されるわけにはいかないと思いながらも、否定する気持ちが凪いでいく。
酷いのはどちらだ、と口には出さずに悪態を吐いて。
彼を、見た。
「これ以上変なものを押しつけるようであれば、怒るぞ。あと、軽率に空間を歪めるな。さっさと元に戻せ」
「素直じゃないな。まあ、これから仲良くしてやってくれ」
けたけた笑い、いつの間にか閉じられてしまった空間を戻す彼に、小さく舌打ちして。
「どうした?やっぱり保健室行こうか?」
目を瞬かせ心配そうにこちらに寄る、元に戻った彼を作り笑いで誤魔化す。
「次の授業、面倒だなって」
「そう?俺は結構好きだけどな、科学」
他愛のない話をしながら、教室まで一緒に歩いていく。
彼の左手を繋いでいる手が機嫌良く揺れているのが、ちらりと見えて。
彼に気づかれないように、声には出さず悪態を吐いた。
20241210 『手を繋いで』
「ありがとう。ごめんね」
それが彼女の口癖だった。
お礼の言葉に、必ずついてくる謝罪の言葉。何度言っても、その謝る言葉は消えてはくれない。
「いつも言ってるけど、何でごめんもついてくるの」
「うん。ごめんね」
「ほら、また」
指摘する度に、ごめんが増えていく。ありがとうが、ごめんで埋もれてしまいそうだ。
思わず出かけた溜息を呑み込んで、彼女から視線を逸らし窓の外を見た。
一面の白。
音もなく降り続く雪が全てを白く染め上げて。相変わらず白以外のものは何一つ見えはしなかった。
彼女が膝をつき、足に巻かれた包帯を外していく。手袋越しでなくとも分からなくなってしまったその指の冷たさを、少しだけ懐かしく思った。
「いつもありがと」
「わたしのせいだから。ごめんね」
また一つ、ごめんが降る。
「もうそれはいいって。逆に私の方こそ、ごめんなさい」
こうして黒く色の変わった足を見ても、顔色一つ変えずに薬を塗り包帯を巻く。
足のせいで制限のある自分の代わりに、何もかもの世話をする。
礼を言うのは、謝るべきであるのはどちらなのか。
「謝らないで。優しくしないで」
「優しくはないでしょう?まるで使用人みたいに、こき使っているのに」
「わたしが好きでしているの。あなたの役に立てるのが、嬉しいと思っているから」
視線を向ければ、彼女は頬を染めて微笑んだ。
その目が、その表情が。彼女の言葉が本心からのものだと告げている。
「物好きめ」
気恥ずかしさを覚えて憎まれ口を叩くものの、彼女はやはり微笑むだけで。
それ以上は何も言えず。彼女が足に優しく触れ、新しい包帯を巻き始めるのをただ見つめていた。
片付けをしに部屋を出た彼女の背を見送って、小さく息を吐く。
彼女がいつまでも自分に縛られ続けている事が、苦しい。
仕方がない事だと、何度言っても彼女は理解してはくれなかった。時には逆に窘められもした。
足を奪った化生に対して、仕方がないと宥めるのはどういう了見なのか、と。
確かに彼女の言う通りではある。
しかし、仕方がないと割り切ってしまったのも事実ではあった。
化生と知らず、仲良くなり。
ずっと側にいてと、文字通り足を凍らされた。
もう二年にもなるだろうか。
「気にするなって、あと何回望んだら応えてくれるんだろう」
彼女の側で。彼女に世話を焼かれながら。
時折戯れにしてくれた話によれば、彼女は元は妖であったらしい。
気づけば化生に堕ちてしまったのだと。
そう悲しく笑う彼女のために、それから些細な望みを口にするようになり。それを全て彼女は応えてくれた。
化生に堕ちた妖が、再び妖に戻るのかは分からない。
彼女に出会うまで、妖と化生の存在すら知らなかった自分には、彼女が今も化生であるのか妖であるのか、分からない。
「ごめんねは、もういらないのに」
彼女はずっと謝り続けている。
側にいてくれる事への感謝の言葉を口にしながら、その代償に足を奪った事への謝罪の言葉を繰り返している。
彼女はずっと後悔に縛られたままだ。
いっそこの忌々しい足を切り落とせば、彼女は自由になれるだろうか。
疾うに壊死し、使い物にならない足だ。あってもなくても変わらない。
だが彼女は悲しむのだろう。なくなってしまった足を、自分のせいだと永遠に責め続けるのかもしれない。
それよりは今のまま、彼女の好きにさせているのが彼女にとっては良い事なのか。
何度も繰り返してきた堂々巡りに頭痛を感じ、頭を振る。自身を化生だと言いながらも、どこまでも心優しい彼女を思い、深い溜息を吐いた。
寝床の仕度を整えながら、彼女は昔を想い目を細める。
化生に堕ちる前。妖としての始まりを、彼女ははっきりと覚えていた。
降り続く雪。倒れ伏す人。雪を食み、懸命に生きようとした人の子の最期の望み。
――かえりたい。
帰りたかったのか、あるいは還りたいのか。今となっては知る術はない。
だがその望みに応えるために、彼女は目覚めた。
眠る人の子を抱き、故郷へと返した。
その日から彼女は、雪と共に在り続けている。
妖とは不安定なものだ。
人の認識で妖にも、化生にも、それこそ神にすら成れるのだから。
一度化生に堕ちた彼女は、それを正しく理解している。
人の望みに応え、人から怖れられ、認識が歪み存在が歪んだ。
そしてその歪みが、ただ一人の些細な望みによって再び元の形を取り戻そうとしている。
人は時に傲慢で、そして何よりも優しく愛おしい。
彼女を妖として目覚めさせ、化生に堕としたのは確かに人であり。
彼女を再び妖に戻そうとするのもまた、人であった。
優しい人の子。
自由を奪われながらも怖れる事なく己に接し、妖に戻そうと望みを口にする子。
自身の自由を諦めながら相手の自由を願う、哀しく尊い子。
その子を想い、口元を綻ばせた。
寝室を出て、愛しい子の元へと向かう。
ぼんやりと窓の外を見る子は、今何を思っているのだろうか。
「おかえり」
己に気づき笑いかける子に笑みを返し。
華奢なその体を抱き上げる。
「もう寝るの?」
「うん。ごめんね」
謝罪の言葉を口にすれば、僅かに眉を寄せる子に気づかない振りをした。
その望みには応える事は出来ない。
化生ではなくなったが、妖にも成れなかった彼女は、心の内で望み続けている。
――最期の時まで、こうして共に在りたい。
故に彼女は感謝の言葉と共に謝罪を口にする。
己には眩しすぎるほどの貴重な光と共に在るために。自由になってほしいというその望みを否定し続ける。
「有難う。御免ね」
20241209 『ありがとう、ごめんね』
部屋の隅。壁に背をつけて膝を抱える。
灯りを点けず、カーテンを開けたままの暗い室内。窓から差し込む月の光が、部屋の中央を白く染め上げていた。
ゆらり、と影が揺れる。
差し込む淡い光が、形を持ち始める。
白と黒。混じり合って、くるりくるりと回り始めて。
白い踊り子が可憐に舞い。黒の獣が雄々しく駆け回る。
まるで物語の一幕のように、美しく幻想的な光景。
時が経つのも忘れ、静かに魅入っていた。
「今宵も楽しんでもらえたようで」
不意に聞こえた声。
気がつけば、いつの間にか部屋の片隅に誰かが立っていた。光沢のある白の着物が、月の光を反射する。
きらきらと輝いているような錯覚を覚えて、思わず目を細めた。
「さて。此度は何があったかな」
低く静かな声に問われ、口を噤んで俯いた。
何もないと言うのは簡単だ。大丈夫だと、誤魔化す事にも慣れてしまっている。
「沈黙は、時に雄弁に物事を語る。家族の事で何かあったようだな」
びくり、と肩が震える。
「そうだな。弟の事か」
「あいつは関係ない。あいつのせいじゃないし、仕方がなかったんだ」
これでは認めているようなものだ。
そうは思いながらも、仕方がないのだと繰り返す。
分かっている。いつもの事だ。
家族で出かける予定があった。ずっと楽しみにしていた事だった。
けれど弟が朝から熱を出し。出かける予定は、当然のようになくなった。
今、この家には自分以外誰もいない。
朝から病院へと行った両親と弟は、このまま今夜は帰らないのだろう。
いつもの事だ。
こうして予定や約束がなくなる事も。
一人で過ごす夜も。
次の日に、帰ってきた弟や両親に謝られる事も。それに笑って大丈夫だと答える自分も。
繰り返し過ぎて、何も感じられなくなるくらいには。
「ありがとう、楽しかった。もう大丈夫だから」
顔を上げて笑ってみせる。
雲のない月の夜に見られる、この特別な舞台を楽しんだのは本当の事だ。
現にさっきまであったはずの、自分で消化しきれない心に溜まったどろどろとした気持ちが、今はもう消えてなくなっている。
嘘は言っていない。
だがその答えは、相手にとって満足のいくものではなかったようだ。
「幼子が物分かりのいい言葉を述べるものではない」
静かな声に叱られる。
音も立てずに近づいて、大きな手が頭を撫でた。
「幼子とは我が儘であるべきだ。何にも縛られず、自由勝手に笑っておればいい」
我が儘。自由。
自分が忘れてしまったもの。
兄になったのだからと、言い聞かせてなくしてしまったそれは、遠い国の言葉のように思えた。
「機は熟している。招き終わらせるよりも、意向を変えてこのまま拐かす方が良いか」
何を言っているのだろう。彼の言葉はいつも難しい。
「何?どういう事?」
聞いても、静かに笑うだけで答えはなく。
頭を撫でていた手が離れ、抱き上げられる。
間近で見る彼の、月のような目が穏やかに細まった。
「共に参るか。弟がおらねば、その笑みが陰る事はないだろう」
弟のいない世界。
想像して、それは嫌だと首を振った。
何もかも、弟中心ではあるけれど。それでも弟が笑っていられる世界が一番で、大切だった。
「そうか。なれば機を見て弟も手招こう。応えるかは分からぬ故、体は残しておかねばなるまいな」
呟く彼の大きな手に目を塞がれる。
急に何も見えなくなり、少しだけ不安を覚えるけれど。
ゆらゆらと、揺れる感覚と。
彼の歌う、澄んだ声に。
不安も、悲しみも、寂しさも。全部融かして。
何もかもを忘れて、眠りについた。
灯りを消して、カーテンを開けた。
部屋の片隅。壁を背にして座る。
数年前に、兄がそうしていたように。
家族で出かける予定の日の朝、熱を出した。
いつもの事だ。思い通りにならない自分の体に、嫌悪すら抱く。
兄がその予定を楽しみにしていた事を知っていた。知っていたはずであるのに、熱は一向に引く様子はなく。
結局あの日。暗い家に兄一人をおいて、病院で両親と共に一夜を明かした。
いつもの事。次の日に家に戻って兄に謝り、そして兄が作った笑顔で大丈夫だと答える。
その時も、変わらないと思っていた。
最初は眠っているのだと思った。
壁に背を預け。緩く微笑みを浮かべて。
だが触れた体は氷のように冷たく、硬く。
時を止めた兄の体が倒れていく様を、半狂乱になる母の姿を、ただ呆然とみている事しかできなかった。
兄の時が止まったあの日から、この家も時を止めた。
母は兄を喪った現実を受け入れる事が出来ず。父は受け入れたように見せかけてその実、この家に兄の幻を見続けている。
兄の部屋は、あの時のままだ。
ふ、と息を吐く。
あの夜。兄はここで最期に何を見ていたのだろうか。
兄はいつでも優しかった。
泣きわめく事も、我が儘を言うでもなく。家族に心配をかけまいと、笑顔で嘘をつく。
簡単に病に伏して兄を傷つける自分を、心の底から心配してくれた。
その兄が見た景色を、見てみたかった。
部屋の中央。月の光が差し込むその周りで、暗闇が蠢いた。
浸食するように光と混ざり合い。光でも闇でもない、歪な何かが形を作る。
その動きは手招いているようにも見えた。
こんな醜悪なものを、兄は見ていたのか。
顔を顰めて立ち上がる。
カーテンに手を伸ばして。
「お気に召さなかったかな」
低い声が聞こえて、振り返る。
部屋の片隅。
いつの間にか、白の直衣を身に纏った美しい男が。
虚ろな目をした子供を腕に抱いて、立っていた。
20241208 『部屋の片隅で』
朽ちた鳥居をくぐり抜ける。
一変する周囲を気にも留めず。奥へと向かい、ただ歩き続けた。
妹達の記憶を縁に、漸く辿り着ける場所。
崩れ落ちた社。枯れる事のない古木。
ぎり、と唇を噛みしめる。
男が今まで思っていた事とは、真逆の記憶を見た。だがそれは、大人になり多くを知る内に、ある程度予想はしていた事だった。
時が経つにつれて元気になっていく下の妹と、それに反するように静かに衰弱していく上の妹。
部屋の中、力なく倒れ伏していた妹の姿を、今もはっきりと思い出せる。あの時小さな違和感に部屋を訪れなければ、今頃上の妹は家から姿を消し。
おそらくはこの忌まわしい場所で、他と同じように吊られていたのだろう。
妹の記憶と違わぬ、古木。吊られた者の中によく知る顔を見て。男の目が鋭さを増す。
男達の両親が、虚ろな目をして笑っていた。
「オマエはお呼びじゃないよ」
「ムスメ達を寄越せ」
「どちらかでいい。上のムスメで構わない」
「アレは器として使い勝手が良さそうだ」
けらけら。けたけた。
耳障りな笑い声が響く。ゆらゆらと吊られながら揺れている。
その異様な光景に、けれども男は表情一つ変える事はなく。
「うるせぇよ。俺の可愛い妹をやるわけねぇだろうが」
忌々しいと吐き捨てて、足を踏み出した。
轟々と燃えさかる炎を一瞥し、男は地に横たわる両親を見下ろした。
「最初から全部分かっていたんだな」
呟く声に、答えはない。
二人の胸の傷跡が、彼らが二度と目覚める事はないと示していた。
両親は妹達の様子から、全てを悟っていたのだろう。
何も知らなかったのは、知らずに誤った選択をし続けてきたのは男の方だった。
いつかの母と妹の様子を思い出す。
眠る下の妹に上の妹が近づく事を、母は良しとしなかった。
「何をしているの!出て行きなさい!」
その言葉は全てを知る前と後で、逆の印象を男に与えた。
子供だったあの時。母は、下の妹を上の妹から守ろうとしたのだと思っていた。思っていたからこそ、部屋から出され呆然とする妹を、半ば引き摺る形で彼女の部屋に押し込めたのだ。
だが母はおそらくあの時、妹を守ろうとしたのだろう。下の妹の形代として澱みを受け入れようとしていた彼女を引き離し、澱みにその身が晒されるのを防ごうとした。
その後、祖父母の家に上の妹だけが預けられた事も、彼女の身を守るためだった。
目覚めた下の妹にそれを告げたのは、彼女が形代になってしまった事を下の妹も知っていると思っていたからだ。
大丈夫だと。目覚めたのは彼女が形代として澱みを受け入れたからではないのだと、そう伝えたかったのだろう。
「言わなきゃ、分かんねぇだろうが」
両親はただ妹達をどちらも等しく愛し、守ろうと手を尽くしてきた。
それを踏みにじったのは、男の無知さだ。
下の妹の話を聞いて、祖父母の家から上の妹を連れ戻した。
だが連れ戻さなくても、結果は変わらなかったのかもしれない。
両親は何も言わなかった。祖父母から妹の様子を聞いていたのだろう。
彼女が緩やかに澱みに浸食されていた事を。今目の前で横たわる両親の胸の傷跡と同じものが、彼女の胸にもある事を。
彼女の時は、既に止まってしまっている事を。
――助ける事が出来ないのであれば、せめて人として終わらせてあげたい。
それが両親の願いだったのだろう。
だからこそ根源を絶とうとした。
けれどもそれは叶わず。古木に吊される結果となった。
「悪ぃな。最期まで親不孝のままで」
両親の最期の願いを、叶える事は出来ない。
自嘲し、手にした木片に視線を向ける。
全て燃やす前に、古木から抜き取った核。今のままを続ける事が出来る、唯一の方法。
人として終わるのではなく。化生の元で永遠に澱みの器として吊られるのでもなく。
兄妹として、共にいられるために。
「約束だから。ずっと一緒だって、つきひが言ったんだ」
下の妹が生まれ一人になって泣く彼女が、宥める男に小指を差し出しながら願った約束。
それを言い訳にして、男はここまで来た。化生の核を手に入れるための口実を彼女のせいにした。
兄としては最低だと、分かっている。
何も知らずに妹を忌避し、約束などないものとしていたはずが、全てを知った今約束を理由に、妹の穏やかな眠りを否定して側に留めようとしているのだから。
口の端を歪めて笑う。笑っていなければ、泣いてしまいそうだった。
上の妹とはもう、約束をした幼い頃のような関係には戻れない。優しい彼女の事だ。表面上は男を慕ってくれるのだろう。それでも彼女の目に浮かぶ恐怖を消す事は出来ない。
だが下の妹は違う。
まだ何も知らないのだ。純粋に己の姉が助かる方法を信じて今も男を待っている。
全てを知ってしまった時、何を思うのかは分からない。
男と同じように、約束に縋り続けるのか。それとも両親のように終わりを願うのか。
どちらにしても、全てを知るその時までは。どうか妹達だけは以前の穏やかな関係であってほしいと、密かに願う。
「そのためなら、何にだってなってやるさ」
両親を喪った今、彼女達を守れるのは男だけだ。
ふと気づけば、炎は燃やす糧をなくして勢いを失い。
古木も吊られた者も、両親すらも灰となって空へと舞っていた。
それを見上げながら、もしもを夢想する。
吊られていた者のように逆さまに見る世界では、結果は変わっていたのだろうか。
逆しまの世界の中で、妹達は神隠しに会う事はなく。兄妹が離れてしまう事もなく。
両親と妹達と共に、今も笑っていられたのだろうか。
馬鹿らしい、と一笑する。
意味のない事だ。今のこの現実が変わる事は決してない。
「早く戻らねぇとな」
呟いて、踵を返し。
手にしていた木片を、躊躇いもなく呑み込んだ。
20241207 『逆さま』
窓を開ける。
深夜。全てが眠る丑三つ時。
それでも遠く見える灯りは、いつまでも潰える事はなく。
不意にどこかで、声が聞こえた。
楽しそうに、夜を歌っている。
寂しそうに、誰かを求めて啼いている。
それに惹かれるようにして、窓から外へと飛び出した。
「あ、夜更かしさんだ」
くすくすと背後から笑い声。
振り返れば、にんまり笑う子供が一人。木の枝に腰掛けて、足を揺らしながらこちらを見下ろしていた。
「安眠妨害しておいて、何を言う」
睨み付けるが、特に堪える様子はなく。
「こんな遠くまで来ておいて、よく言う」
笑いながら返された言葉に、思い切り顔を顰めてみせた。
「キミはいつも優しい。こんな遠くで啼いていても、必ず駆けつけてくれる」
「偶々、だよ。偶々、寝ようとした時に声が聞こえたから。気になってしまっただけの事」
子供に手を引かれて進む、獣道。
純粋な好意の言葉に、そんな事はない、と否定する。
ただ遠くの灯りが、今夜は何故か気になってしまっただけ。
窓を開けたら、偶然啼く声が聞こえただけ。
聞こえないふりも出来た。けれども聞こえぬふりをするには、あまりにも必死に啼いているものだから。
決して子供のためではないのだと、素直になれない言葉は、それでも、と笑う声に静かに解けていく。
「こうして来てくれたのだから。優しい事に、変わりはない」
ありがとう、と感謝を告げられて、それ以上何も言えず。
まぁ、うん、と。間の抜けた自分の声に、何とも言えない気持ちになった。
「今回は、何に啼いていたの?」
気まずい心境に耐えられず、話題を変える。
それに気づいたのだろう。ふふ、と漏れる声に、見えてはいないと分かっていても、熱くなる頬を誤魔化すように俯いた。
「夜が明るくなってしまったからね」
歌うように子供は囁く。
「人間は気づかなくなってしまったね。暗闇を怖れなくなった。遠くない先に、ボクらは皆消えてしまうのだろう」
声は酷く穏やかだ。変わらず笑っているのか、それとも泣いているのか。
手を引かれている今、声だけでは子供が何を思っているのか察する事は出来ない。
「だから昔を思い出していた。暗い暖かな夜を懐かしんで、歌っていたんだよ」
受け入れてしまっているのか。終わりを。
夜に在るモノ達にとって、それは悲しい事ではないのだろう。必然だと、最初から理解してしまっている。
しかし人である自分にとって。
その終わりは、どうしようもなく寂しい事だと思ってしまった。
立ち止まる。引かれていた手を解いた。
「優しい子。不快にさせてしまったかな」
振り返る子供の表情は、声と同じく穏やかで。
少しだけ視線を逸らして、馬鹿、と呟く。拗ねて見せれば、小さな手が宥めるように離した手を包み込んだ。
「ここに啼く声を聞いて姿を見れるのがいるのに、いないように話をしないでほしい」
「そんなつもりではなかったのだけれど。でも、そうだね。キミの前で話してはいけない事だったね」
ごめん、と。謝罪の言葉を口にして。
「行こうか」
静かな声に促され、小さく頷いた。
手を引かれ、再び歩き出す。
話題を振ったのは自分の方であるのに、謝らせてしまった事を心苦しく思いながらも。
今は何も言う気にはなれず、俯いてただ促されるままに暗い道を歩いていた。
「ほら、着いたよ」
立ち止まりかけられた声に、同じように立ち止まり顔を上げる。
いつの間にか、境界を越えていたようだ。
木の上で鳥達が久しぶり、と歌う。
獣達がこちらに駆け寄り、鼻先を押しつける。
背を押され、繋いでいた手を離して促されるままに歩き出す。
月明かりの下。白い花の咲き乱れるその中央に座る、彼女の元へと。
「また呼ばれてしまったのだね。まったく、仕方のない子らだ」
「ひいばあちゃん」
腕を伸ばして彼女に抱きつく。軽く目を見張った彼女は、それでも優しく受け入れてくれ、小さく安堵の息を吐いた。
「どうした?子らに何か言われたか?」
「別に、何も。夜に啼く声を聞いただけ。眠れないほどに啼くから来てみただけ。いつも通り」
背を撫でられて、その温もりに目を閉じる。
「現世は生き難いか?」
「分からない。もうどうでも良いのかもしれない」
「そうか。すまないな」
彼女が謝る事ではない。
この体に妖の血が流れていてもいなくても、それほど変わりはなかったのだろうから。
周りに興味を持てないのは、きっと性分だ。
「ボクらの終わる先の話をして、悲しませてしまったんだ」
「別に、大丈夫」
背後から聞こえた声に、目を開ける。
視線だけを向けて首を振り、否定した。
「いつも通り。さっきの話なんて気にしていない。大丈夫だから」
「相も変わらず、素直でない事だ」
「別に、そんな事はない。優しい子だと言われたばかりだし」
素直になれないのも性分だ。
素直であったならば、とは常に思っている。けれどどうしてもなれないのだから仕方ない。
くすり、と笑われる。
くすくす、くすり。笑い声が響く。
「笑わないで」
「笑いたくもなるさ。お前は言葉だけが素直でないのだから」
言葉以外は、とても素直だと言うのに。
笑う周りに耐えきれず、ぺちぺちと彼女の胸を何度も叩く。肩口に額を擦り寄せれば、背を撫でる手が一層優しくなった。
「すまんすまん。詫びにはならんが、可愛いひ孫に一つ言っておこう」
「…何?」
「近く、南に住まう狸が祝言を挙げるらしい。それを冷やかしに行こうと思っているのだが」
急に何を言っているのか。
顔を上げれば、愉しげに笑う彼女と目が合った。
何故か、とても嫌な予感がした。
「お前も来い。彼方よりもお前の方が美しい花嫁になるのだと、自慢させてくれ」
本当に、何を、言っているのか。
彼女から離れ、数歩下がる。背を撫でていた手が簡単に離れてしまった事が、逆に怖ろしい。
彼女はそれ以上何も言わず。ただ愉しげにこちらの反応を伺っている。
また一歩、後ろに下がりかけ。
けれど何かに背中が当たり、それ以上は下がれなかった。
恐る恐る振り返る。
虚を衝かれたように瞬く目と、視線が交わり。
今は子供の姿をしている彼が、照れたように微笑んだ。
20241206 『眠れないほど』