部屋の隅。壁に背をつけて膝を抱える。
灯りを点けず、カーテンを開けたままの暗い室内。窓から差し込む月の光が、部屋の中央を白く染め上げていた。
ゆらり、と影が揺れる。
差し込む淡い光が、形を持ち始める。
白と黒。混じり合って、くるりくるりと回り始めて。
白い踊り子が可憐に舞い。黒の獣が雄々しく駆け回る。
まるで物語の一幕のように、美しく幻想的な光景。
時が経つのも忘れ、静かに魅入っていた。
「今宵も楽しんでもらえたようで」
不意に聞こえた声。
気がつけば、いつの間にか部屋の片隅に誰かが立っていた。光沢のある白の着物が、月の光を反射する。
きらきらと輝いているような錯覚を覚えて、思わず目を細めた。
「さて。此度は何があったかな」
低く静かな声に問われ、口を噤んで俯いた。
何もないと言うのは簡単だ。大丈夫だと、誤魔化す事にも慣れてしまっている。
「沈黙は、時に雄弁に物事を語る。家族の事で何かあったようだな」
びくり、と肩が震える。
「そうだな。弟の事か」
「あいつは関係ない。あいつのせいじゃないし、仕方がなかったんだ」
これでは認めているようなものだ。
そうは思いながらも、仕方がないのだと繰り返す。
分かっている。いつもの事だ。
家族で出かける予定があった。ずっと楽しみにしていた事だった。
けれど弟が朝から熱を出し。出かける予定は、当然のようになくなった。
今、この家には自分以外誰もいない。
朝から病院へと行った両親と弟は、このまま今夜は帰らないのだろう。
いつもの事だ。
こうして予定や約束がなくなる事も。
一人で過ごす夜も。
次の日に、帰ってきた弟や両親に謝られる事も。それに笑って大丈夫だと答える自分も。
繰り返し過ぎて、何も感じられなくなるくらいには。
「ありがとう、楽しかった。もう大丈夫だから」
顔を上げて笑ってみせる。
雲のない月の夜に見られる、この特別な舞台を楽しんだのは本当の事だ。
現にさっきまであったはずの、自分で消化しきれない心に溜まったどろどろとした気持ちが、今はもう消えてなくなっている。
嘘は言っていない。
だがその答えは、相手にとって満足のいくものではなかったようだ。
「幼子が物分かりのいい言葉を述べるものではない」
静かな声に叱られる。
音も立てずに近づいて、大きな手が頭を撫でた。
「幼子とは我が儘であるべきだ。何にも縛られず、自由勝手に笑っておればいい」
我が儘。自由。
自分が忘れてしまったもの。
兄になったのだからと、言い聞かせてなくしてしまったそれは、遠い国の言葉のように思えた。
「機は熟している。招き終わらせるよりも、意向を変えてこのまま拐かす方が良いか」
何を言っているのだろう。彼の言葉はいつも難しい。
「何?どういう事?」
聞いても、静かに笑うだけで答えはなく。
頭を撫でていた手が離れ、抱き上げられる。
間近で見る彼の、月のような目が穏やかに細まった。
「共に参るか。弟がおらねば、その笑みが陰る事はないだろう」
弟のいない世界。
想像して、それは嫌だと首を振った。
何もかも、弟中心ではあるけれど。それでも弟が笑っていられる世界が一番で、大切だった。
「そうか。なれば機を見て弟も手招こう。応えるかは分からぬ故、体は残しておかねばなるまいな」
呟く彼の大きな手に目を塞がれる。
急に何も見えなくなり、少しだけ不安を覚えるけれど。
ゆらゆらと、揺れる感覚と。
彼の歌う、澄んだ声に。
不安も、悲しみも、寂しさも。全部融かして。
何もかもを忘れて、眠りについた。
灯りを消して、カーテンを開けた。
部屋の片隅。壁を背にして座る。
数年前に、兄がそうしていたように。
家族で出かける予定の日の朝、熱を出した。
いつもの事だ。思い通りにならない自分の体に、嫌悪すら抱く。
兄がその予定を楽しみにしていた事を知っていた。知っていたはずであるのに、熱は一向に引く様子はなく。
結局あの日。暗い家に兄一人をおいて、病院で両親と共に一夜を明かした。
いつもの事。次の日に家に戻って兄に謝り、そして兄が作った笑顔で大丈夫だと答える。
その時も、変わらないと思っていた。
最初は眠っているのだと思った。
壁に背を預け。緩く微笑みを浮かべて。
だが触れた体は氷のように冷たく、硬く。
時を止めた兄の体が倒れていく様を、半狂乱になる母の姿を、ただ呆然とみている事しかできなかった。
兄の時が止まったあの日から、この家も時を止めた。
母は兄を喪った現実を受け入れる事が出来ず。父は受け入れたように見せかけてその実、この家に兄の幻を見続けている。
兄の部屋は、あの時のままだ。
ふ、と息を吐く。
あの夜。兄はここで最期に何を見ていたのだろうか。
兄はいつでも優しかった。
泣きわめく事も、我が儘を言うでもなく。家族に心配をかけまいと、笑顔で嘘をつく。
簡単に病に伏して兄を傷つける自分を、心の底から心配してくれた。
その兄が見た景色を、見てみたかった。
部屋の中央。月の光が差し込むその周りで、暗闇が蠢いた。
浸食するように光と混ざり合い。光でも闇でもない、歪な何かが形を作る。
その動きは手招いているようにも見えた。
こんな醜悪なものを、兄は見ていたのか。
顔を顰めて立ち上がる。
カーテンに手を伸ばして。
「お気に召さなかったかな」
低い声が聞こえて、振り返る。
部屋の片隅。
いつの間にか、白の直衣を身に纏った美しい男が。
虚ろな目をした子供を腕に抱いて、立っていた。
20241208 『部屋の片隅で』
12/8/2024, 4:23:33 PM