夢を見ていた。
「近づかないで!」
叫ぶ彼女の、その目の鋭さに足が竦む。
止めなければいけない。それは意味のない事なのだと。
だが意思とは裏腹に、体は動こうとはせず。声をかける事すら出来ず。
「邪魔をするなら許さない。綺麗事ばかりで、あなた達ばかりに都合のいい言葉を聞くのはもううんざりなの!」
そうだろうな、と不謹慎ながらに思う。
彼女ばかりが苦しんだ。皆、可哀想にと言いながらも、彼女に本当の意味で寄り添うことはなかった。
大切なもの、全てを奪われて。たった一人きりで、誰かに縋る事も許されず。
仕方のない事、受け容れなければいけない事と強要されて来たのだから。
あぁ、と声が漏れた。
彼女の想いに気づいた。見ない振りをしてきたものに、気づいてしまった。
「来ないで。嘘つきのくせに、今更前みたいに近づこうとしないで」
気づいてしまえば、体は軽くなる。彼女の元へ歩き出して。
「ごめんなさい」
涙に濡れる彼女を、強く抱きしめた。
ふと、気づけば一人、傘を手に立ち尽くしていた。
何故か、胸が苦しい。悲しい夢を見ていたような。
傘を打つ雨の音が、どこか微睡む意識を現へと引き戻していく。
頭を軽く振り、歩き出した。
今まで何をしていたのか、これから何をしようとしていたのかは、分からない。
だがこの道の先には、彼女の家があるはずだ。ならば彼女に何か用事でもあったのだろう。
深く考える事もなく。足は彼女の家へと向かい出す。
彼女に会って目的を思い出せるのならば良し。思い出せずとも、彼女と共にいられるのならば、それだけでもいい。足取り軽く、道を行く。
彼女と会うのも久しぶりだ。会って何を話そうかと、考えるだけでも心が浮かれた。
だがそんな浮ついた気持ちは、遠く見えた光景に一瞬で凪いでしまう。
道の先。家の前で傘も差さずに佇む彼女が、いた。
慌てて駆け寄り、傘を差し掛ける。彼女の虚ろな目と視線が合い、その瞬間に意識が鮮明になった。
何故忘れていたのか。
彼女は先日、夫と子を失ったばかりではないか。
「みんな、いなくなっちゃった。どうして、置いていかれたの。一人は嫌いだっていったのに。いじわるだ」
薄く笑みを浮かべて、彼女は誰にでもなく呟く。
視線は合っているはずなのに、彼女は自分を見てはいなかった。
彼女の手を握る。指先の、その氷のような冷たさが悲しかった。
「あぁ、来てくれたんだ。久しぶり」
手に触れた事で、気づいたらしい。
虚ろな目が焦点を結んで、自分を見つめる。触れていない方の彼女の手に頬をなぞられ、肩が跳ねた。
「いなくなっちゃったの、みんな。一人は嫌いだって、あれだけ言ったのに。酷いよね」
酷い、と言いながらも彼女は笑みを深くする。頬をなぞる指がそのまま首筋を辿り、その度に冷たさに跳ねる肩を見てくすくすと笑う。
「ねぇ、これからは一緒にいてよ。もう置いていかないで」
首元に腕が回り、抱きつかれる。
握っていたはずの手は、いつの間にか指を絡められ、まるで逃がさないとでも言っているかのようだった。
目を閉じる。
手にしていた傘を放って、彼女の背に手を回した。
「うん。これからはまた一緒にいるよ。約束する」
何故だろうか。
その約束だけは、破ってはいけないと強く感じていた。
「ねえ、そろそろ起きなよ。いつまで寝てるの」
揺り起こされて、微睡んでいた意識が浮上する。
机に伏せていた体を起こし、辺りを見回した。
夕暮れに染まる教室。自分と彼女以外は誰もいない。
「やっと起きた。もうとっくに下校時間過ぎてるんだけど」
頬を膨らませて怒る彼女を見上げる。
彼女はいつもと変わらない。変わらないはずなのに。
何故か、その幼い仕草に違和感を覚えた。
「目を開けたまま寝ないでよ。さっさと帰る準備して帰ろうよ」
ぽすん、と頭に軽い衝撃。彼女の手が頭を軽く叩いて、そのまま左右に揺らされる。
まだ寝ているのだろうか。随分と意識がはっきりとしない。
ここが夢なのか現実なのか。その境目が見えない。
「ねえ」
声をかける。
自分の声が遠い。そんな錯覚を覚えながら、動きを止めた彼女を見つめ。
「ここは現実?それともまだ夢の中?」
問いかけるその言葉に、彼女は声を上げて嗤い出した。
「ふふ、あはは。いいよ。夢でも現実でも、好きな方を選んで。どっちでも変わらない。そうでしょう?」
可笑しくて堪らないと、彼女は嗤う。
「どれがいい?どんなわたしが好き?憎まれたい?縋られたい?好かれたい?どれでもいいよ。どれを選んでも結末は変わらない!」
嗤う彼女の影が揺れる。
いくつもの彼女を無理矢理一つにしたような歪さに、吐き気を覚えて思わず体が逃げを打つ。
だが頭に触れていたままの彼女の手がそれを阻み。
嗤う事を止め、表情すらも消した彼女の鋭い目に射竦められ、声にならない悲鳴が漏れた。
「逃げるのは許さない。二度とわたしを見捨てさせはしない」
何を言っているのだろう。
彼女の言っている事が分からない。記憶にはない。
それとも思い出せないだけなのか。
それを問いたくても、混乱する思考では言葉一つ絞り出せず。
涙に滲む視界の中、ただ彼女の目を見つめ返す事しか出来はしなかった。
「一人になるのは嫌い。嘘つきはもっと嫌いなの。でも大好きなあなたのために、繰り返してあげるわ。今度は嘘つきにならないように」
頭に触れていた手が下り、瞼を辿って頬をなぞる。
いつかのような冷たい指に、さらに涙が零れ落ちた。
「わたし達は生まれた時から一緒だもの。最期まで一緒でないと駄目でしょう?」
窘める声は、ぞっとするような甘さを孕んで。
「そうだね。一緒にいるよ。これからもずっと」
目を閉じる。
この永遠に続く夢の終わりを待ちながら、彼女の抱擁をただ受け容れた。
20241205 『夢と現実』
大きな背。
それが少年の見た、彼女の最後の姿だった。
大人達の険しい話し声を、彼女の背越しに聞いていた。
何を話しているのかは分からない。けれど時折聞こえる怒鳴り声や彼女を責め立てる声から、その内容が決して穏やかではない事を少年は感じていた。
不意に会話が途切れる。振り向いた彼女は凪いだ微笑みを浮かべて身を屈め、少年の頭をそっと撫でた。
「巫女様?」
彼女は何も言わない。ただ微笑み一つを残して身を起こし、村の奥へと歩き出す。
誰も何も言わない。彼女を止める者もない。
急に怖くなり、少年は早足で彼女に追いついて袖を引く。今までならば気づいて止まってくれていた彼女は、何故か歩みを止める事はなかった。
不気味な静寂の中、彼女は迷いなく歩みを進める。袖を引く少年の歩幅に合わせ、幾分かその速さは穏やかになってはいるが、それでも立ち止まる様子はない。
彼女と少年の後。離れて大人達がついて歩く。複数の足音が、どこか耳障りに少年の鼓膜を揺すった。
彼女が立ち止まる。どうやら彼女の目指していた場所に着いたらしい。
俯いていた少年が彼女を見上げ、そして目の前の淵を見る。
ざあざあ、と奥の小さな滝が立てる音を、どこか夢心地で聞いていた。
彼女の手が袖を引いたままの少年の手を離す。名残惜しげに彼女を追う手に背を向けて。
「左様ならば、仕方ない」
凜とした別れの言葉と共に、彼女は躊躇いなく淵にその身を沈めた。
「どうしたの?」
柔らかな声に顔を上げる。
見上げた先には、少年の姿。蹲り泣く幼子よりは幾分か年上に見える彼は、心配そうに身を屈めて幼子に手を差し出した。
「麓の子かな?こんな所まで来てはいけないよ」
優しく窘められて、幼子の目からは新たな滴が溢れ落ちる。しゃくり上げながら、ごめんなさい、と謝れば、少年は小さく笑って大丈夫だと、頭を撫でた。
「おいで。麓まで送ってあげる」
少年に促され、幼子は少しよろけながらも立ち上がる。
手を引かれ、そのまま歩き出そうとして。
「?」
少年に引かれている手とは反対側。
袖を引かれた、気がした。
振り返る。けれどそこには誰もいない。
「どうしたの?」
少年が不思議そうに小首を傾げ問いかける。それに何でもないと首を振って、幼子は少年に連れられて歩き出した。
「ここはね、巫女様の眠る淵があるんだよ。だから巫女様の眠りの邪魔をしないように、誰も入ってはいけないんだ」
幼子の手を引きながら、少年は語る。
この先にある淵には巨大な毒蛇が住むと言われており、その毒蛇を鎮めるために、昔旅の巫女が人身御供として淵に身を沈めたのだと。
少年の話を聞いて、幼子は不思議に思う。
誰も入ってはいけないのならば、何故少年はこの場所にいたのだろうか。
それは聞いてもいい事なのか。幼子には判断がつかない。
不用意に聞いて、少年は怒りはしないだろうか。聞いた事でもしもこの場に置いていかれでもしたら。
そんな不安が幼子の口を閉ざす。少し前を歩き、手を引く少年の後ろ姿を静かに見つめていた。
その視線に気づいたのだろう。あぁ、と小さく頷いて、歩きながらも振り返り、幼子に笑いかける。
「きみみたいに、迷い込んでしまった人の案内をするのが、ぼくのお役目なんだ」
管理人みたいなものだよ、と少年は明るく告げてまた前を向くが、そういえば、と何かに気づき立ち止まった。
一歩遅れて幼子も立ち止まる。
「一つ言い忘れてた。ここでは別れの言葉を言ってはいけないよ」
振り返る少年の表情には、もう笑みはなく。真剣な眼差しに、どうして、と幼子は首を傾げる。
「巫女様にはね。大切にしていた子がいたのだけれど、その子のお別れの言葉を聞く前に眠ってしまったんだ。だから別れの言葉を聞くと、その子がお別れを言いに来たのだと勘違いをして巫女様が来てしまうよ」
そうなのか、と。あまりよく分からないままに幼子は頷く。
素直な幼子に笑みを返して、少年はまた幼子の手を引き歩き出した。
「このまま真っ直ぐ行けば、戻れるよ」
木々の合間を抜け、獣道を辿り。
少年に手を引かれ歩き続けて、ようやく広い場所に出た。
ほぅ、と安堵の息が漏れる。長い道のりは幼子の体力を大分削ってはいたが、あと少しだという思いが、幼子の足を前に進ませる。
手が離される。それが少しだけ寂しいと、幼子は名残惜しげに己の手を見つめた。
少年と出会ってから、さほど時間が経っている訳ではない。だが少年と過ごした時間は、幼子にとってとても楽しいものであった。
離れがたいと思ってしまうくらいには。
「気をつけて。もうここに来てはいけないよ」
柔らかく微笑んで背中を押す。
少年の言葉を寂しく思いながらも、おとなしく頷いた。
「左様なら。元気でね」
手を振る少年に、同じように手を振り替えして。
「ありがと。さよなら」
別れの言葉を、口にした。
ざわり、と響めく風の音。
ざわり、ぞわり、と木々を揺らし、草葉を鳴らして。
がらり、と空気を変えた周りに、幼子の唇から声にならない悲鳴が漏れた。
先ほどまで優しい笑みを浮かべていた少年から、表情が抜け落ちる。
「言ってしまったね」
静かな呟き。その声音は、今まで手を引いてくれていた少年のものとは思えぬほどに冷たく響いて。
ぞくり、とした恐怖がこみ上げて、逃げようと背後を振り返る。
「ぇ?」
そこに道はなかった。
鬱蒼とした木々が生い茂り、あったはずの帰り道はどこにも見えない。
呆然とする幼子の耳に、ざあざあ、と水の落ちる音が響く。
はっとして辺りを見回せば、そこは先ほどいた場所ではなくなっていた。
「別れの言葉は口にしてはいけないと、言ったはずなのに」
無感情な声が響く。
恐る恐る振り返り見た少年の背後。淵の奥にある滝がざあざあ、と音を立てる。
なんで、と震える唇で、幼子は声も出せずに呟いた。
なんで。どうして。
少年が先にさようならを言った。だから大丈夫なのだと思って。
疑問ばかりがこみ上げる。恐怖で滲む涙で、周囲がぼやけていく。
ざり、と地を擦り、少年が一歩足を踏み出す。思わず後退る幼子の体は、けれど何かにぶつかり下がる事はなかった。
冷たい、濡れた感覚。頭に、肩に落ちる、いくつもの水滴。
「左様ならば、仕方ない…そうでしょう?巫女様」
少年が口元を歪めて嗤う。
背後から伸びた、鱗に覆われた白い腕が幼子を閉じ込め。
促されるようにして見上げる幼子の視線の先。
濡れた長い髪を無造作に垂らし、見下ろす表情の抜け落ちた美しい女と。
目があった。
「おいしかった?巫女様」
膝に頭を乗せ眠る大蛇を、少年は優しく撫でる。
二刻もあれば全て消化され、目を覚ます事だろう。
「人間はいつも約束を破ってばかりだね」
呟きながら、鬱蒼と生い茂る木々へと視線を向ける。
そこにはかつて道があり、その先には小さな村があった。
今は無い。村があった事すら覚えている者はいないだろう。
「巫女様との約束を破らなければ、今もあの村はあったのかな」
無理だろうな、と少年は嗤う。
村の者は約束を守るつもりなど、最初からなかったのだから。もしもを考えても意味のない事だ。
あの時。人身御供として立てられたのは、少年だった。
身寄りのない、悲しむ者のない子供。食い扶持を減らす、口実もあったのだろう。
――私が鎮めましょう。代わりに子を生かして下さい。
それを見越して、巫女は村の者と取引をした。彼らを信じて、子供を託した。
だが結局は。
数年後には、巫女と同じように子供は淵に沈められ。
巫女の怒りに触れた村は、一夜にして焼き尽くされた。
「仕方がない。約束を破ってしまったのだから」
村の者も。先ほどの幼子も。
約束を、契約を違えたのだから、その咎を受けるのは仕方のない事だ。
くすり、と嗤う。
少しだけ、可哀想だな、と他人事のように思った。
「最初から帰す気なんてなかったって知ったら、あの子は何を思うかな。帰り道のふりをして巫女様の所へ連れてきて、わざと別れの言葉を口にさせたなんて」
ねぇ、と隣に視線を向ける。
少年と同じ見目をした幻が、声なく泣いていた。
20241204 『さよならは言わないで』
窓から差し込む夕陽の朱を横目に、妹は眠る姉の頬に触れる。
血の気を失った頬は、温もりの欠片一つなく。触れる指先を掠める息と、僅かに上下する胸の動きが、姉がまだ生きているのだと示していた。
「おねえちゃん」
呼びかけても、姉が目を覚ます事はない。それが無性に怖くて、頬に触れていた手を滑らせ、存在を確かめるように肩から腕へと指先で辿り、その先の冷えた指に己のそれを絡めた。
「約束したっておにいちゃんが言ってたもの。ずっと一緒って、おねえちゃんが約束したんだから」
妹にはその約束の記憶はない。赤子の時にされたというそれは、すべては兄から聞いた話だ。
姉はとても寂しがりな子供だったのだという。いつも兄の後ろを付いて回る、気弱で泣き虫な子だったのだと。
記憶にある姉の姿とは異なるその昔話を、妹はどこか遠い物語のように、けれども縋るような思いで聞いていた。
それ以前に、妹には姉との記憶は数える程にしかない。特に幼い頃の記憶は断片しかなく、それすら掠れて曖昧だ。
唯一はっきりと思い出せるのは、無邪気に笑い合えていた最後の記憶。姉と引き離された、忌まわしい呪いの記憶だった。
あの日、ずっと何かに呼ばれていた。行かなければという衝動だけで、姉の手を引きながら森に足を踏み入れた。
引き止める姉の表情は、とても必死だったのを覚えている。それでも呼ぶ声に抗えず、手を振りほどいて駆けだしたのを、今も後悔していた。
その後の記憶はほとんどない。崩れた社と古木。そして姉の声。
高熱に浮かされ、意識がはっきりとする事はなかった。夢と現を彷徨い、光と闇の狭間を漂っていた。
気づけば数年の月日が経ち。
意識が戻った時、その場いたのは涙を流して喜ぶ両親と、大人びた兄。
姉の姿はどこにもなかった。
「まほら」
微かな呼ぶ声に、はっとして姉を見る。
焦点の合わぬ虚ろな瞳が、不安に揺れながら妹のいるであろう場所を見つめていた。
「おねえちゃん、おはよう。でもまだ寝てていいわよ。おにいちゃんが帰ってくるのは、当分先の事だもの」
努めて優しく、静かに告げる。
目覚めてくれた事に嬉しさがこみ上げるものの、兄が戻るまでは姉は苦しいままだ。ならば少しでも眠っていて欲しいと、片手で姉の目を塞ぐ。
妹には姉がどうしてこんなにも衰弱しているのか、詳しくは分からない。兄の言う形代や澱みの意味も知らない。ただ漠然と、姉は己の身代わりになったのだと感じていた。
「大丈夫よ、おねえちゃん。おにいちゃんが戻ってきたら、きっとすぐに苦しいのはなくなるわ。そうしたら、三人でずっと一緒にいましょう」
姉に、己自身に言い聞かせるように囁く。
手の下でゆっくりと瞼を落とす姉の首が僅かに横に振られたのを、気づかない振りをして笑った。
「大丈夫。おねえちゃんをあの闇に連れて行かせはしないから。おねえちゃんは、ここでずっとあたしとおにいちゃんと一緒にいるんだから」
約束。
それが妹を留まらせている。記憶にはない一緒だという約束に縋る事で、人として妹は生きる事が出来ていた。
「約束。守ってよ」
それがなくば、妹は目覚めたあの日に化生に堕ちた。
姿の見えない姉。
遠く、祖父母の元に預けたのだと、笑って告げた両親。何も言わない兄。
こみ上げたのは、激しい怒りだ。兄が止めなければ、約束を教えなければ、妹は怒りにまかせ化生に堕ちていたのだろう。
息を吐く。軽く頭を振り、姉の目を覆ったままの手を外した。
「おねえちゃん?何か言った?」
目を閉じたままの姉の唇が何かを呟くのを見て、耳元を寄せる。
消え入りそうなほど微かに、途切れ途切れに呟くその言葉に、妹の表情が怒りに染まった。
――父さんと、母さんは。
それは妹が憎むほどに嫌う、両親を心配する言葉だった。
「あんなやつらの事なんか忘れて!おねえちゃんを二度も捨てるような最低なやつらなんて、知らなくていい」
ぎり、と噛みしめた唇から血が滴り、さらに気分が悪くなる。
姉は知らないのだ。両親は姉を見捨てる選択をした事を。
一度目は、祖父母の家に預けられた。
二度目は、衰弱していくその身を救う事を諦めた。
姉に対して贖罪ではなく、疵とする事を選択した。切り捨てた罪を抱えていくのだと言った。
言葉で取り繕っても、結局は姉をなかった事にしたかったのだろう。罪を抱えると言った所で、すぐに忘れてしまうのは目に見えていた。
「おねえちゃんに必要なのは、あたしとおにいちゃんだけよ。それ以外はいらない」
だから両親を切り捨てた。
最初から両親などいなかったのだと。そう言って笑う妹に、何を思ったのか。姉は暫くの沈黙の後に、ただごめんなさい、と声なく告げた。
「謝るくらいなら一緒にいて。終わろうなんて考えないで」
切望する妹の言葉に、姉は今度は肯定も否定も返さず。
やがて聞こえた緩やかな呼吸の音に、眠ってしまったのだと気づいた。
「おねえちゃん」
変わらずその呼吸はとても弱い。
今はまだ光と闇の狭間を彷徨う姉が、いつ闇に誘われてしまうのか。その恐怖にいっそ泣き喚いてしまいたかった。
「おにいちゃん。早く帰ってきて」
繋いだままの手を引き、額に触れさせる。
どうか連れて行かないで、と。祈りに似た想いで目を閉じた。
20241203 『光と闇の狭間で』
腕を伸ばす。
伸ばした先には何もなく。その腕すら視界に捉える事は出来ない。
暗闇。ただ一面の黒は輪郭を曖昧にして、己が今立っているのか横になっているのかすら分からなくさせる。
腕を伸ばしていた、はずだ。だがこの闇の中では、本当に腕を伸ばしたのか、伸ばしたと思っていただけなのか、判断がつかない。
そも、己は目を開けているのだろうか。
「――」
声を上げた、はずであった。
しかし声は形にならず、吐息すら音を伴う事はない。
静かだ。闇と相俟って、己の存在すら曖昧になっていくような錯覚を覚える。
このまま闇に解けていくような。己という存在が闇と混じり、広がっていくような。
不思議と恐怖はない。この闇は怖ろしいものではないのだと、知っている。
あるのはただ、安堵にも似た心地良さだけだ。
「――」
音にならぬ言葉を呟く。腕を伸ばして、身を委ねる。
暗く静かなこの闇は、とても暖かい。
ふと、気づく。
この闇は、似ているのだ。己を抱き上げる、あの優しい腕の温もりに。
口元が笑みの形に緩む。微睡みのような穏やかさに、目を閉じた。
「満月《みつき》」
柔らかな声が聞こえて、目を開けた。
暗闇の中。針のように細い光が一つ見えた。
「満理《みつり》」
呟いた声は、何故か遠く。
聞こえたのは確かに、己の声音であった。それが遠く聞こえるならば、己の声が己以外の唇から紡がれている事を示している。
「満理」
名を呼ぶ。
己の声音を持って己以外の唇から紡がれるその響きは、甘い熱を孕んで鼓膜を揺する。
くすり、と思わず笑みが溢れる。その声すら誰かの唇から溢れるのだから、面白い。
「満理」
繰り返す。その甘い響きを堪能する。
己が斯様な思いを込めて名を呼んでいる事が、何故だか嬉しいと感じていた。
かさり、と紙の音。
針のような細い光が広がり、合間から広がる星空が見えた。
かさり、びり、と何かを剥がす音がして、その度に空が広がっていく。
思わず腕を伸ばす。指先が星空の下、淡く微笑む彼の頬に確かに触れた。
「満理」
名を呼べば、彼の唇から己の声が紡がれる。
くすくすと、笑う声。己のそれとは異なる、綺麗な声音。
「斯様に呼ばずとも、私はここにおりますよ。満月」
ゆるく細まる深縹に、微睡んでいた意識が覚醒した。
「離してくれ」
「何故?求めていたのは満月ではありませぬか」
「頼む。しばらく一人にさせてくれ」
逃げだそうとした体は、それより早く術師の腕に引き寄せられる。
頬が熱い。羞恥に溶けてしまいそうだ。
「満月は私のものに御座いましょう。一人になぞなれぬと分かっているでしょうに」
抱き上げられて間近に見る深縹が、愉しげに歪む。
それでもどこか優しい色を湛えて、満月、と名を呼んだ。
「試しと符を張ってはみましたが、満月が寂しいと啼くのであれば他の手法を考えねばなりますまい」
「別に、私は寂しいなどとは」
目を逸らす。
寂しい訳ではないが、名を繰り返した理由を告げるのは気恥ずかしい。
横目で伺い見た術師は少女のような美しい笑みを浮かべて、己の言葉の続きを待っている。
全てを知って敢えて言わせようというのだから、本当に質が悪い。
「満理は随分と酷い男になったものだな。少し前までは母のようであったというのに」
機嫌を損ねると分かっていながらの戯れ言に、術師は何も言わず。
諦めて逸らしていた視線を向けた。
以前は抱き上げられて尚、見上げるしかなかった幼い己の体は、今こうして僅かに見下ろすまでに成長している。
その事実が、少しばかり惜しい。成長し、何れ抱き上げられなくなる事で離れていく、その距離を手放し難いと思っている。
「寂しい訳ではない。符を張られていた時は、寂しくはなかった」
暖かな暗闇。見えずとも、聞こえずとも、その温もりは他の何よりも己を心穏やかにさせる。開く距離と共に失っていくものの中で一等手放したくないものだ。
「もういいだろう。これで勘弁してくれ」
抱く腕を叩き、下ろせと伝える。
それでも一向に下ろす気配のない術師を睨めつければ、宥めるように背を撫でられ、そのままさらに引き寄せられた。
術師の首元に凭れる状態に離れようと藻掻くが、静かで柔らかな声に動きを止める。
「満月にその姿は、少々早かったのやもしれませぬね。戻す事は出来ぬ故、せめて今暫くは留めておく事に致しましょう」
「満理?何を言って」
言葉の意味を分かりかね、身を起こして術師を見る。
だが問う言葉は、最後まで形にはならず。
柔らかな深縹が揺らめく。静かに意識が沈んでいく。
「眠りなさい。深く、夢も見ぬほどに」
縋るように伸ばした手が繋がれる。その温もりにほぅ、と吐息が溢れ落ちた。
暖かい。
けれど温もりに安堵しながらも、何故かその触れ合う距離ですらもどかしいと、泣いてしまいたかった。
眠りについた少女の目尻をなぞる。指先を伝って落ちる滴を見つめ、息を吐く。
さて、どうしたものか。
妖の血を濃く継ぎ歪で眠り続けていた少女が、徒人より成長が早い事は分かっていた。だが精神は異なるらしい。
術師を度々母と呼ぶ事を、少女は嫌がらせだといった。だがその実、少女の目は強く母を求める幼子の色を湛えていた。
抱き上げる度に、安堵に蕩ける眼差し。背を、頭を撫ぜれば擦り寄り笑うその表情は、幼子が親に甘えている時のそれだ。
「満月」
幼子のような、それでいて時折大人びた言動を取る少女の名を呼ぶ。
それに答えるように僅かに口元を緩ませ、少女は無意識に術師へと擦り寄る。その幼い仕草に、術師は目を細めて微笑った。
「温もりを母と違えるほど幼い満月には、妖の血もその眼も、過ぎたるものに御座いましょう。負担にしかならぬのであれば、封じてしまうが最良か」
濡れ縁に少女を下ろし、その体に呪符を貼り付けていく。
封印符。しかし先ほど少女に貼り付けたものよりも強く、多く。
「まさか私の影の中を好むとは思わなんだ。本当に満月は見ていて飽きぬ」
そうして封じられた少女を優しく抱き上げて。
おやすみ、と声をかけ、少女の体を己の影へと沈めていく。
「機を見て式へと移しましょう。それまでゆるりと休むがよいでしょう」
沈んだ少女に声をかけ、術師は屋敷へと足を踏み入れる。
少女の眠る間に、彼女に見合う形代を作らなければならない。
部屋へと戻る道すがら、穏やかに眠る少女の気配を近く感じて、くすりと笑う。
「それにしても。満月も存外欲張りなのですね。触れ合う距離すら遠いと泣くくらいには」
少女が聞けば、間違いなく頬を染めて逃げ出すだろう戯れを呟いて。
己も然程変わらぬか、と術師は苦笑し己の影を見下ろした。
20241202 『距離』
「どうして」
「ごめんね」
問いかければ、眉を下げ困ったように微笑みながら謝られる。
謝ってほしいわけではなかった。逆に謝らなければいけないのは自分の方だったのに。
恐る恐る触れる指先は、氷のように冷たくて。
泣きたいのは彼なのに、どうしても泣く事を止められなかった。
「泣けよ。泣いてくれよ」
しゃくり上げながら願っても、彼は微笑んだままだ。
「泣きたいのはお前だろ!なんで」
「ごめんね」
謝る声に、違う、と唇を噛みしめる。
彼は泣かないんじゃない。泣けないのだ。
自分が、そうした。
昔、泣き虫だった彼に、泣くなと何度も言い聞かせた。
彼を庇って事故にあった時だって、目の前で泣き続ける彼に対して泣くなと言って。
自分のせいだ。
あの時から彼が泣いた所を見た事はなかった。
「俺が悪かったから。なあ、だから泣いてくれよ」
ごめん、と彼がまた繰り返しそうになるのを、手を強く握る事で止める。
「こんな時くらい泣けよ。泣かないんだったら、諦めないでくれ。生きる事を、そんな簡単に笑って諦めるな」
無茶を言っている自覚はある。
呆れるくらい我が儘なのも分かっている。
泣くなと言い続けてきたのに、今更泣けなどなんて酷い事を言っているのか。
それでも願わずにはいられなかった。彼が怒らない事に甘えて、ひたすらに泣いてくれ、と繰り返した。
「泣かないで」
静かな声に、肩が跳ねる。
恐る恐る見上げる彼の表情はとても穏やかだ。それがとても悲しくて、また涙がこみ上げる。
「ごめんね。でも泣きたいとは思わないんだ」
「それ、は。俺がっ」
「ううん。今ね、本当に穏やかなんだ。僕のためにこうして泣いてくれる親友がいて、最期まで一人じゃないのがすごく幸せで」
だから泣けないのだと。
幸せそうな笑顔に、何も言葉が出てこない。
「でも何だかすごく不思議。泣いてくれるのがとても嬉しいって思うのに、それと同じくらい泣いてほしくないって思ってる。あの時、泣くなって言われたのはこんな気持ちだったからなのかな」
笑顔のまま彼は首を傾げる。
違うのだと、言ってしまえればよかった。あの時のはただの八つ当たりだったのだから。
二度と会えなくなるかも知れない事に、不安で、怖くて。
だから今のその、優しい気持ちでは決してないのだと。
けれど伝えようとしても、口から溢れるのは泣く声ばかりで。違う、の一言すら出てはこない。
「泣かないで」
柔らかな声が繰り返す。
冷たい指先が、涙を拭っていく。
「もう僕の事は忘れていいよ。今の涙だけで十分なんだ。これ以上はもっと、って夢を見たくなっちゃう」
「いいじゃん。夢、見ろよ。諦めないでくれよ」
諦めないでほしい。
そのために出来る事があるならば、どんな事だって協力するのに。
そう思いを込めて見上げれば、彼はやはり困った顔をしながら笑った。
「俺。頑張ったんだ。もう二度と歩けなくなるかもしれないって言われて、すごく怖かった。でも、もう一度お前の隣に立ちたかったから、頑張ったんだよ」
「うん、知ってる。僕のせいなのに何も出来なくてごめん」
「謝ってほしいわけじゃない。でも俺に悪いって思うんなら、諦めるなよ」
酷い言い方だ。これでは脅しと変わらない。
けれど仕方がない、と。笑って諦めてしまう彼を繋ぎ止めるのなら、手段を選ぶつもりはなかった。
睨むようにして彼を見る。
冷たい手を、強く握った。
「諦めなくても、元通りにはならないんだ。たぶん一生このまま。もう隣に立つ事は出来ないんだよ」
「じゃあ、会いに来るよ。元通りでなくてもいい。足りないなら、その部分を俺が補うから」
息を呑む音がした。
笑顔が崩れて、ようやくくしゃり、と泣くように顔が歪む。
「駄目だよ。それじゃあ、僕に縛りつける事になる。それは嫌だ」
「一緒にいたいんだよ。嫌なんて言わないでくれ」
泣きそうな顔をしながら、彼は首を振る。
嫌だ、と繰り返す彼に、どうして、と縋り付いた。
「だって諦めない限り、不安になるよ。明日が怖くなる。もう会いに来てくれないかもしれない、って考えるだけで、苦しくて。離れられなくなる」
「そんな事ない!絶対に会いに来る。誓ってもいい」
彼の小指に、小指を絡める。
指切り。こんな子供だまし、約束にもならないのかもしれないけれど、これしか伝える方法を知らなかった。
「なんでそこまでしてくれるの?僕、奪ってばっかなのに」
ぽつり、と。呟いた彼の言葉に、目を瞬く。
彼は自分から何か奪っていっただろうか。思い返しても、記憶にはない。
「なんでって…俺ら親友だし。ライバルだし。奪われた事もないし」
「足。奪いそうになったよ。それから、時間」
確かに。理解はしたが、納得は出来ず。
奪われたつもりはない。戻るために諦めなかった時間も、そしてこれからの時間も、自分で決めて選んだ結果だ。
「馬鹿。そんな変な事考えているなら、いっそ泣いちゃえよ」
泣きそうな顔をしながらも涙を見せない彼に、笑って告げる。
「俺はこれまでも、これからもお前を一人にしない。絶対にだ。だからお前も諦めるな」
涙のない彼の目を見て、はっきりと言葉にする。
泣くように笑う彼は、やはり涙を流さなかった。
「酷いな。でもそこまで言われたら仕方ないや。もう少し、頑張ってみるよ」
「おう。頑張れ。それで泣いてしまえ」
「泣かないよ。目の前でずっと泣かれると泣けないものだからね」
くすくすと笑う声。
涙を拭う指が、自分がまだ泣いていた事を教えていた。
「泣かないで。会いに来てくれる限りは頑張るから」
「分かってる。泣き止むから、そしたらちゃんと泣けよ」
目をこする。それでも止まる事のない涙に。
彼が声を上げて、楽しそうに笑った。
20241201 『泣かないで』