sairo

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腕を伸ばす。
伸ばした先には何もなく。その腕すら視界に捉える事は出来ない。
暗闇。ただ一面の黒は輪郭を曖昧にして、己が今立っているのか横になっているのかすら分からなくさせる。
腕を伸ばしていた、はずだ。だがこの闇の中では、本当に腕を伸ばしたのか、伸ばしたと思っていただけなのか、判断がつかない。
そも、己は目を開けているのだろうか。

「――」

声を上げた、はずであった。
しかし声は形にならず、吐息すら音を伴う事はない。
静かだ。闇と相俟って、己の存在すら曖昧になっていくような錯覚を覚える。
このまま闇に解けていくような。己という存在が闇と混じり、広がっていくような。
不思議と恐怖はない。この闇は怖ろしいものではないのだと、知っている。
あるのはただ、安堵にも似た心地良さだけだ。

「――」

音にならぬ言葉を呟く。腕を伸ばして、身を委ねる。
暗く静かなこの闇は、とても暖かい。
ふと、気づく。
この闇は、似ているのだ。己を抱き上げる、あの優しい腕の温もりに。
口元が笑みの形に緩む。微睡みのような穏やかさに、目を閉じた。





「満月《みつき》」

柔らかな声が聞こえて、目を開けた。
暗闇の中。針のように細い光が一つ見えた。

「満理《みつり》」

呟いた声は、何故か遠く。
聞こえたのは確かに、己の声音であった。それが遠く聞こえるならば、己の声が己以外の唇から紡がれている事を示している。

「満理」

名を呼ぶ。
己の声音を持って己以外の唇から紡がれるその響きは、甘い熱を孕んで鼓膜を揺する。
くすり、と思わず笑みが溢れる。その声すら誰かの唇から溢れるのだから、面白い。

「満理」

繰り返す。その甘い響きを堪能する。
己が斯様な思いを込めて名を呼んでいる事が、何故だか嬉しいと感じていた。

かさり、と紙の音。
針のような細い光が広がり、合間から広がる星空が見えた。
かさり、びり、と何かを剥がす音がして、その度に空が広がっていく。
思わず腕を伸ばす。指先が星空の下、淡く微笑む彼の頬に確かに触れた。

「満理」

名を呼べば、彼の唇から己の声が紡がれる。
くすくすと、笑う声。己のそれとは異なる、綺麗な声音。

「斯様に呼ばずとも、私はここにおりますよ。満月」

ゆるく細まる深縹に、微睡んでいた意識が覚醒した。


「離してくれ」
「何故?求めていたのは満月ではありませぬか」
「頼む。しばらく一人にさせてくれ」

逃げだそうとした体は、それより早く術師の腕に引き寄せられる。
頬が熱い。羞恥に溶けてしまいそうだ。

「満月は私のものに御座いましょう。一人になぞなれぬと分かっているでしょうに」

抱き上げられて間近に見る深縹が、愉しげに歪む。
それでもどこか優しい色を湛えて、満月、と名を呼んだ。

「試しと符を張ってはみましたが、満月が寂しいと啼くのであれば他の手法を考えねばなりますまい」
「別に、私は寂しいなどとは」

目を逸らす。
寂しい訳ではないが、名を繰り返した理由を告げるのは気恥ずかしい。
横目で伺い見た術師は少女のような美しい笑みを浮かべて、己の言葉の続きを待っている。
全てを知って敢えて言わせようというのだから、本当に質が悪い。

「満理は随分と酷い男になったものだな。少し前までは母のようであったというのに」

機嫌を損ねると分かっていながらの戯れ言に、術師は何も言わず。
諦めて逸らしていた視線を向けた。
以前は抱き上げられて尚、見上げるしかなかった幼い己の体は、今こうして僅かに見下ろすまでに成長している。
その事実が、少しばかり惜しい。成長し、何れ抱き上げられなくなる事で離れていく、その距離を手放し難いと思っている。

「寂しい訳ではない。符を張られていた時は、寂しくはなかった」

暖かな暗闇。見えずとも、聞こえずとも、その温もりは他の何よりも己を心穏やかにさせる。開く距離と共に失っていくものの中で一等手放したくないものだ。

「もういいだろう。これで勘弁してくれ」

抱く腕を叩き、下ろせと伝える。
それでも一向に下ろす気配のない術師を睨めつければ、宥めるように背を撫でられ、そのままさらに引き寄せられた。
術師の首元に凭れる状態に離れようと藻掻くが、静かで柔らかな声に動きを止める。

「満月にその姿は、少々早かったのやもしれませぬね。戻す事は出来ぬ故、せめて今暫くは留めておく事に致しましょう」
「満理?何を言って」

言葉の意味を分かりかね、身を起こして術師を見る。
だが問う言葉は、最後まで形にはならず。
柔らかな深縹が揺らめく。静かに意識が沈んでいく。

「眠りなさい。深く、夢も見ぬほどに」

縋るように伸ばした手が繋がれる。その温もりにほぅ、と吐息が溢れ落ちた。
暖かい。
けれど温もりに安堵しながらも、何故かその触れ合う距離ですらもどかしいと、泣いてしまいたかった。





眠りについた少女の目尻をなぞる。指先を伝って落ちる滴を見つめ、息を吐く。
さて、どうしたものか。
妖の血を濃く継ぎ歪で眠り続けていた少女が、徒人より成長が早い事は分かっていた。だが精神は異なるらしい。
術師を度々母と呼ぶ事を、少女は嫌がらせだといった。だがその実、少女の目は強く母を求める幼子の色を湛えていた。
抱き上げる度に、安堵に蕩ける眼差し。背を、頭を撫ぜれば擦り寄り笑うその表情は、幼子が親に甘えている時のそれだ。

「満月」

幼子のような、それでいて時折大人びた言動を取る少女の名を呼ぶ。
それに答えるように僅かに口元を緩ませ、少女は無意識に術師へと擦り寄る。その幼い仕草に、術師は目を細めて微笑った。

「温もりを母と違えるほど幼い満月には、妖の血もその眼も、過ぎたるものに御座いましょう。負担にしかならぬのであれば、封じてしまうが最良か」

濡れ縁に少女を下ろし、その体に呪符を貼り付けていく。
封印符。しかし先ほど少女に貼り付けたものよりも強く、多く。

「まさか私の影の中を好むとは思わなんだ。本当に満月は見ていて飽きぬ」

そうして封じられた少女を優しく抱き上げて。
おやすみ、と声をかけ、少女の体を己の影へと沈めていく。

「機を見て式へと移しましょう。それまでゆるりと休むがよいでしょう」

沈んだ少女に声をかけ、術師は屋敷へと足を踏み入れる。
少女の眠る間に、彼女に見合う形代を作らなければならない。
部屋へと戻る道すがら、穏やかに眠る少女の気配を近く感じて、くすりと笑う。

「それにしても。満月も存外欲張りなのですね。触れ合う距離すら遠いと泣くくらいには」

少女が聞けば、間違いなく頬を染めて逃げ出すだろう戯れを呟いて。
己も然程変わらぬか、と術師は苦笑し己の影を見下ろした。



20241202 『距離』

12/3/2024, 1:04:31 AM