sairo

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12/1/2024, 3:29:36 AM

「季は滞りなく移っている。目覚めの春が訪れるまで、確とこの壬《みずのえ》が全てを眠らせ留まらせよう」

内に灯る温もりが消え。秋から冬へと季が移った。
ほぅ、と息を吐く。此度も無事に役目を終えられた事に安堵した。

「また、ね。お役目、頑張って」
「あぁ。庚《かのえ》も、次の役儀まで休むといい」

淡々とした声音ではあるものの、頭を撫でるその手は変わらず優しい。
小さく笑みを溢し別れを告げて、くるり、と振り返った。けれどそこに在るはずのものは何処にも見えず。
息を呑む。こみ上げる不安に、ただ狼狽えるしか出来ない。

「何かあったか」
「帰り道が」

怪訝な声に、震える声で一言を返す。

「道が開かぬのか。まぁ、よくある事だ。心配せずとも時期に開く」
「でも」

落ち着いた声が、案ずるな、と宥めるように背を撫でる。
それでも不安は消える事なく胸の内に燻り続けて、耐えきれずに傍らの温もりに縋りついた。
初めての事だ。少なくとも己にとっては。
夏や冬とは違う。四節の中でも強いこの二季は、季を移しても影響が残りやすく、そのために道が開かない事は珍しくはない。
秋とは違うのだ。もたらした実りを、人間は収穫し終えている。あとはもう目覚めが来るまで眠るだけ。
秋はすでに役割を終えてしまっている。季も冬へと移っている。それなのに、帰るための道は開かない。

「このまま他の皆のように、わたしも消えてしまうのかな」

知らず溢れ落ちてしまった言葉に、はっとして口を塞ぐ。
考えないようにしていた事だった。けれどどうしても考えてしまう事でもあった。

「消えぬだろう。庚が最後の秋だ。秋が消えれば四節は崩壊し、世界が終わる」
「でも今までこんな事はなかった」

背を撫でる手が止まり、代わりに抱き上げられる。

「案ずるな。道が開くまでは壬が庚を守るのだから、不安に思う事はない」

間近で見るその目は、冬のように静かで優しい。
その目に写る己の不安そうな表情がその優しさに溶けて、少しだけ笑う事が出来た。

「ありがとう」
「庚のためだ。問題はない」

当然だと告げる言葉に、ありがとう、と繰り返す。
最後に残ったのが壬で本当によかった。不謹慎ながらにそう思う。
他の冬よりも己に甘く、何かと世話を焼いてくれていたのが壬だった。兄弟に手を引かれ、緊張しながらも初めて壬に季を移した事を、懐かしく思う。
ふふ、と小さく溢れた笑う声に、静かな目が問いかける。

「何でもない。昔の事を思い出していたの」
「そうか。壬も覚えている。庚はよく泣いていたな。今は泣かなくなったのだから、しっかりと成長している。喜ばしい事だ」
「それは忘れていて」

恥ずかしさで、頬が熱を持つ。
自覚はないのだろう。意味を分かりかねて首を傾げるその姿に、それ以上は何も言えなくなってしまう。

「庚は忙しないな。こうして長く語り合う事はなかった故、気づきもしなかった」
「今までは、季を移したらすぐに戻っていたから」
「そうだな。だが、悪い事ではないと壬は思っている」

意外な言葉に目を瞬く。
そのような酷い事を、己以外が思う事などないと思っていた。

「庚。望もうと、望むまいと世界は終わりを迎える。或いは既に終わっていたのかもしれん。壬ら、異端がなくば四節は疾うに停滞していた」
「異端?」

言っている意味が分からず、今度は己が首を傾げた。
己が異端であると言われるのは理解できる。役目に疑問を持つ己は、異端でしかない。
けれど壬は、他の残った季は役目に疑問を持つ事などないだろうに。

「そうだ。壬は己を壬と認識している。そして庚や甲《きのえ》を季ではなく、個として認識している。庚や甲、おそらくは丙《ひのえ》も同じだろう」
「個として、認識」
「故に人間から認識されずとも、壬は消える事なくここに在る…だがそれも限界なのだろう」

あぁ、と限界の言葉の意味を理解して、目を伏せる。
ひとりきりでは限りがある。帰る道も開かない。


世界は緩やかに、静かに、終わってしまったのか。


「庚。話をしよう。壬は庚を知りたい。その絶えず変化する感情の意味を教えてくれ」
「お話」
「道が開くまでで構わない。庚は何に泣くのか気になっていた。壬に聞かせてくれ」

何を話せばいいのだろう。泣いていた昔を思い返す。
あの時はただ不安だった。己に季を移す事など出来るのか、怖かったのだ。

「泣いていたのは、昔の話だから。あの時はひとりで季を移す事になれていなかったから、不安だっただけで。今は、泣いてない」

今は泣かなくなった。少なくとも誰かの前では泣いてはいない。
誰かがいれば淋しくはないのだから。

伏せていた目を上げる。近い目が優しく細められて、庚、と呼んだ。
適わないな、と諦めて笑う。

「ひとりになると淋しくなって、このままひとりきりで消えてしまうような気がして怖くなって、泣くの。誰かといれば泣かない。もしそこで消えてしまっても、ひとりじゃないから」
「淋しいのは怖いか」
「怖いし、嫌だ。昔も、今も。ずっと」
「そうか」

ではこうしよう、と静かな声が囁く。

「このまま道が開かぬのならば、消える前に壬が庚を眠らせよう。眠る庚と共にいよう」
「ずっと一緒?」
「あぁ、そうだ。淋しくはないだろう」

確かに、一緒ならば淋しくはない。
その優しさが嬉しくて、少しだけ気恥ずかしくて。誤魔化すように首に腕を回して擦り寄った。

「ありがとう。壬」

お礼を言えば、頭を優しく撫でられる。

「庚は淋しがりなのだな。新しく庚が知れた」

穏やかな声に気恥ずかしさが増すが、撫でる手の心地よさに聞こえないふりをした。

「他にも教えてくれ。庚が知りたい」
「いいよ。その代わり、壬の事も教えて」

知りたいと思っていたのは、己も同じだ。
答えの代わりに、頭を撫でていた手が離れ、くるり、と指先で宙に円を描く。
ひゅう、と風が吹き抜ける。
秋とは違う、その鋭い冷たさと匂いに。
初めて、冬を知った。



20241130 『冬の始まり』

11/29/2024, 11:03:10 PM

くらり、と歪む世界。
近づいてくる終わりに、あと少しと歯を食いしばり耐える。
ここで終わる訳にはいかない。せめてあと一月耐えなければ意味がない。
途切れそうになる意識を繋ぎ止めながら、ゆっくりとベッドを抜け出した。

「何してんのよ!」

がちゃり、とドアの開く音とほぼ同時に、強く憤る声がした。
ベッドから抜け出し、そのまま崩れ落ちていた自分の元へ駆け寄ると、華奢な白い手が強く肩を掴む。

「そんな死にそうな顔して、どこに行こうとしたのよ!」

顔を上げる。怒りに歪んだ表情をした妹に大丈夫だと、必死に笑ってみせた。
だがそれがさらに彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。眦をきつく吊り上げ、許さない、と睨めつけられる。

「勝手に抜け出そうとした事、おにいちゃんに言いつけてやるんだからっ!」

それは止めてほしい。
震える指で、妹の服を掴んで引き止める。簡単に振りほどけるだろうか細い力ではあったが、立ち上がりかけていた妹を留める事が出来た事に安堵した。
兄の事は、少しだけ苦手だ。
強い目が、あの全てを見通すような鋭い眼差しが、怖い。
家族の中で、一番最初に自分のこれに気づいてしまったのが兄だった。気づかれなければ、きっと今頃終わるための用意が出来ていたはずだったのに。

「言いつける必要はねぇな。ここにいるから」

ドアの前。聞こえた静かな声に、思わず肩が跳ねる。

「おにいちゃん」

振り返る妹が嬉しそうに立ち上がる。移動した事で近づく兄の姿が視界に入り、ひ、と声にならない呻きが漏れた。

「また抜け出そうとしたのか。今度はどこに行くつもりだったんだ?」

優しい声音。笑みを浮かべながらも、その目は鋭さを湛えて。
その目に怯えて後ずさりしそうになる体は、しかし背後に回った妹に抱き竦められて動けない。

「どうした?何がしたかったんだ?」

身を屈めた兄の冷たい手が頬に触れる。
引き攣った喉から声は出せず。僅かに首を振って何もないと答えれば、そうか、と兄は愉しそうに笑った。

「そういや。お前のそれ、ようやく原因が分かったぜ」

触れるだけだった兄の両手が頬を包み、視線を合わせられる。笑みを浮かべながらも、その目には隠しきれない怒りの感情が渦巻いていて、ただ怖かった。

「形代」

目を見開いて、息を呑んだ。

「お前の事だから、家族の中の誰かだろうなぁ。俺ではないし、お袋や親父も違う…なら、残りは一人だけだなぁ」

額を合わせて、静かに言い聞かせるようにして囁かれる。
言い逃れは出来ない。それが出来る段階は、疾うに過ぎてしまっていた。

「たしか、十年くらい前だったか?お前らが神隠しにあったのは。戻ってはきたが、お前は泣いて話も出来ねぇし、こいつはずっと眠ったまんまだったし…一体、あの時何があったんだろうなぁ」
「ぁ…ごめ、な、さ……」

兄の鋭い視線に耐えかねて、謝罪の言葉が口から溢れ落ちる。
意味がないと知っている。けれど恐怖に混乱する思考では、それしかもう言葉には出来なかった。

「何謝ってんだ?悪い事でもしていたのか?なら、お兄ちゃんに何したか、全部教えてくれるよな」

兄の瞳孔が猫のように広がっていく。焦点も合わぬ程近いその目の中で、あの時の自分達の姿が浮かび上がる。
妹に手を引かれて入り込む森の中。止めようと引いた手は逆に振り払われ、駆けだしていく妹の小さな背中。追いかけるその先にあった、朽ちた鳥居。
まるで映画のように、あの日の記憶が兄の目の中で流れて行く。その先を見たくはないのに、目を逸らす事も閉じる事も許されない。
鳥居を抜けた先。急に訪れた夜の暗闇を手探りで進んで、辿り着いた場所。朽ちて形を留めていない社と、その奥にある巨大な古木。
たくさんの誰かが吊されて、取り込まれているのが見えた。
そしてその古木の根元にいた、意識のない妹の姿。
駆け寄って、肩を揺すっても起きない妹を必死に抱え上げた。来た道を戻るために、数歩歩き出し。
最後に見えたのは、妹に向かい伸びる鋭い枝。
咄嗟に妹に覆い被さって、そこで何も見えなくなった。


「良い子だ。怖かったなぁ」

離れていく兄をただ見つめる。離れても焦点が合わない事を不思議に思っていれば、ぐい、と後ろに体が引かれ今度は妹と目を合わせられる。

「ちょっと、おにいちゃん。あんまりおねえちゃんを泣かせないでよ」

目尻を拭われ、妹の唇が触れる。焦点が合わないのは、泣いていたからだと気づいた。

「可哀想なおねえちゃん。大好きよ…でも、許さないから」

激しい怒りを湛えた目をして、妹は笑う。

「おねえちゃんはもう、あたしとおにいちゃんのものにするわ。だからその命、勝手に終わらせようとする事は許さないから」
「そうだなぁ。俺らが何にも言わないのをいい事に、ここまでぼろぼろにしちまったんだ。寂しがりのくせにこのまま一人きりで終わらせるってなら、俺らがもらって終わらないように大事にしまって置くしかないわなぁ」

妹の指に顎を掬われ、兄に向けて喉を晒される。嫌な予感に逃れようと藻掻くものの、弱りきって自由にならない体は妹の細い指一つ振りほどく事が出来ない。

「そんなに怯えんな。少し痛いが、今よりは楽になるから」

兄の指が喉を撫で上げ、唇を寄せる。止めて、と願う声は形にはならず、悲鳴に成り代わった。
痛い。食い破られてしまいそうな、痛み。そして体に溜まった澱みを吸い上げられていく感覚。
耐えられず目を閉じる。止めようと、縋ろうと彷徨う手はそれぞれ二人に繋がれて、もう離れる事が出来ない。


「まあ、こんなもんか。時間稼ぎにはなるだろ」

兄が離れていく気配がする。けれどもう目を開ける気も、況してや逃げる気力もなく、そのまま妹にもたれ掛かった。
幾分か楽になった体が睡眠を欲しがって、意識を落としていく。

「しばらく戻れねぇが、良い子にしてろよ?」
「大丈夫よ、おにいちゃん。でも早く帰ってきてね。でないと、おねえちゃんだけじゃなくて、あたしも悪い子になってしまいそうだもの」

二人の声が遠い。
触れる熱が、微睡んだ意識をさらに深く沈めていく。

「あたしのためとか、終わるための言い訳は許さない。終わらせてなんかあげないわ。おねえちゃんはこれからずっとあたしとおにいちゃんのものだから」
「そうだな。これまでも、これからも三人一緒だ。約束したからな」

笑う声がする。
遠い昔。幼い頃の自分が寂しさに耐えかねて、泣きながら差し出した小指が。
酔いそうな熱を持ち始めた、そんな気がした。



20241129 『終わらせないで』

11/29/2024, 1:51:51 AM

母は子供達を皆平等に愛していた。
誰か一人を愛でる訳でも、蔑ろにするでもなく。母は持てる全てを子供達に与え続けていた。
だが母である前に、彼女はただの弱き人であった。与えられるものは限りがあり、その両の手は子供達を守るにはあまりにも小さい。
だからこそ、時に取りこぼし切り捨てなければならない事は仕方がないと、誰もがそう思っていた。
母である、彼女以外は。



今日もまた彷徨い歩く彼女を見下ろして、彼は小さく息を吐く。
じゃら、じゃらり、と体に巻き付く鎖を鳴らしながら、腕を上げて風を起こす。風に体を押し留められ、木々の騒めく音に気づいた彼女の子供達に連れ戻されていく彼女を見届けて、いい加減諦めてほしい、とぼやいた。

彼女は子供達を愛している。それは痛いくらいに分かっている。
愛情だけで救い守れるものなど、ほんの僅かしかない。それも分かりきった事だ。

よくある話。
彼も零れ落ち終わってしまった者の一人だ。
仕方がない事だと、彼自身も分かっていた。
今でも思い出せる。
笑い合い、話す声。母と兄を上の兄と妹と一緒に待っていた。
どこかで響く爆発音。停電。悲鳴。
崩れ落ちてきた天井から、咄嗟に妹を庇えたのは奇跡に近かった。
妹を突き飛ばし、代わりに崩れた天井に巻き込まれた。
隣で泣きじゃくる妹と、瓦礫の向こう側の弟。
まだ子供の兄には酷な選択だった。けれど聡明な兄だったからこそ、正しく選ぶ事が出来たのだろう。

――助けにくるから。必ず戻ってくるから。それまで頑張れ!

泣きながらも告げた兄の言葉に何と答えたのか、彼はもう覚えてはいない。答える事すら出来なかったのかもしれない。
しかし引き止める事だけはしなかったと、それだけは断言できた。激痛に霞む意識の中、どうか戻ってこないでと願い続けていたのだから。
そのまま彼は終わりを迎えた。迎えたのだと思っている。今際に聞こえた母の声は、一人の不安が作り出した幻聴であると願っている。
たとえそれが、普段の母とは似つかぬ強く荒々しい言葉だったとしても。


皆が戻っていった事を確認して、ゆっくりと地に降りる。
じゃらじゃらと音を立てる鎖が煩わしい。肉体を失い魂だけとなった彼が未だにこうして現世に留まっているのは、この全身に巻き付く鎖が留めているからだった。
何度か訪れた迎えも鎖を解く事は出来ず、こうして今も彼はこの場所で一人鎖が解ける日を待ち続けていた。


「こんにちは」
「あぁ、また来てくれたんだ」

聞こえた声に振り返れば、いつも訪れてくれる常世の迎えのモノ。しかし今日はその傍らに見た事のない黒い男の姿があった。

「なんだこれは」

眉間に深く皺を刻み、男は不機嫌を隠しもせずに吐き捨てる。男の視線が鎖に向けられているのを見て、確かにこれは見苦しいものだな、と苦笑した。

「解けない。鋏にも切れなかった」
「当然だ。鋏で鎖は切れん」

嘆息し、男は彼に近づいていく。その手にはいつの間にか黒い刀が握られており、躊躇いもなく男は刀の鯉口を切った。
だが男の動きが止まる。眉間の皺はそのままに怪訝を浮かべた目が鎖の先、彼女達が去って行った方を見遣り細くなる。

「腕が足りんな」

腕、と言われ、彼は己の腕を見下ろす。そこに腕はある。しかし左腕だけだ。
言われて、初めて腕が一本足りない事を彼は認識した。

「鎖の先?」
「そうだ。ただの執着かと思ったが、これは反魂だろう」

反魂。魂を呼び戻し、死者を蘇らせる術。
何故、と彼は首を傾げる。そこまで求められる理由が、彼には思い当たらなかった。
あれは仕方がない事だった。時折聞こえてきていた大人の声も何度も言っていた。
仕方がない事だ。兄の判断は正しかった。残った子供達を大切にしてほしい。
最近は聞こえなくなっていたが、それはつまり納得したからだと思っていた。
少なくとも母以外は彼の死を乗り越えているだろうに、一体誰が。

「切るのは容易いが、最悪術師が死ぬな」
「それは、だめ」
「分かっている。人間の死に我らが関わるわけにいかぬのだから、しばらくはこのままにするしかないだろう」

舌打ちして男は踵を返す。咄嗟に引き止めようと伸ばした彼の腕は男に届く事はなかったものの、じゃらり、と耳障りな鎖の音に、男の足が止まる。

「あの。誰が、ぼくを」

やはり、母なのだろうか。
母は子供達を愛している。それは今も変わらない。
彼を取り戻そうと手を尽くしてくれるような存在は、母以外に思いつかなかった。

「貴様の血に連なる者だ。それも複数のな」

え、と。気の抜けた声が漏れた。

「貴様の一部は術師の元にある。それを縁に戻るのも、この地に留まるのも好きにしろ」
「術が解けたら、また迎えにくる」
「術師が死ぬまでの時間だ。そう長くはないだろう。もしも術師が化生に堕ちたのならば、その時は切り捨ててやろう」

そう言って、常世のモノ達は去って行く。
一人残された彼は、受け容れがたい事実に呆然と立ち尽くし。


「見つけた」
「お母さん!おお兄ちゃん!こっちだよ」

鎖を引かれた。
突然の事によろける体を支えるように、逃がさないと閉じ込めるようにして背後から大きな腕に抱き留められる。

「ちぃ兄ちゃん。わたしよりも小さくなっちゃった」
「あの時から変わんないんだろ。ま、これくらいが丁度いいよな。抱き心地いいし、可愛いし」

大人になった下の兄と妹がくすくすと笑う。二人のその右手に巻き付く鎖を見て、彼はびくり、と肩を震わせた。
何故、と混乱する思考で彼は必死に考える。意味が分からなかった。優しかったはずの二人に巻き付く赤色の鎖の先が、己の左右の足にそれぞれ巻き付いている事を認めたくはなかった。

「あぁ、こんな所にいたのか。随分探したんだそ」

低い男の声。
記憶にあるより、大きくたくましくなった上の兄を見上げた。やはりその右腕に巻き付くのは朱殷の色をした鎖。その先が己の左腕に巻き付いているのを見て、彼の目に僅かに怯えの色が浮かんだ。
口元を歪めて、上の兄が軽く鎖を引く。下の兄に抱き留められているためにその身が倒れ込む事はなかったが、己の意思に反して持ち上がった左腕を上の兄はそっと手に取り、唇を触れさせた。

「帰ろうな。父さんはいなくなってしまったけど、俺達がいるから寂しくはないだろう?」

何処までも優しい声音。それに底知れぬ恐怖を覚え、かたかたと体が震え出す。

「お母さん!おお兄ちゃんがちぃ兄ちゃんを怖がらせてるよ」
「怖がらせるつもりはなかったんだが」
「兄貴、大きくなったからな。見下ろされるのはけっこう怖いと思うぜ?」
「大丈夫よ。急に皆が来て少し驚いてしまったのでしょう。ずっと一人だったから安心したからかもしれないわね」

柔らかな、記憶のそれと変わりのない声。
そっと左腕が離される。背後から抱き留めていた腕が離れていく。
そうして微笑む彼女が――母が目の前に来て、そっと彼を抱きしめた。
抱きしめられる前に見えた彼女の右腕に巻き付く柘榴色した鎖の先は、きっと己の胴に巻き付いている事だろう。

「迎えにくるのが遅くなってごめんなさいね」


母は子供達を皆平等に愛していた。
そして子供達も母を愛し、兄弟を愛していた。
ただそれだけの事。少し違うのは、その愛情が他の誰よりも深く、重い事だけ。
父はいなくなったと兄は言った。彼女達を止めてくれる人はもう、誰もいない。

「迎えに来てくれて、ありがとう。おかあさん」

目を閉じて、彼は母の背に左腕を回す。
そのまま抱き上げられる。母が歩く度にじゃらじゃら、と鎖が音をたてた。

絡み付く鎖のような愛情は、あの時の瓦礫よりも重くのし掛かる。
諦め全てを受け入れながら、彼は密かにこの終わりが少しでも早く来る事を願った。



20241128 『愛情』

11/28/2024, 1:29:23 AM

「37.3℃。微熱だね」

体温計に表示された数字を読み上げ、少年は呆れたように溜息を吐いた。

「微熱なら、大丈夫。起きてもいいよね?」
「これからもっと熱が上がるんだよ。おとなしく寝てて」

もぞもぞと起き上がろうとする少女を布団の中に戻しつつ。幼子のように頬を膨らませて拗ねる少女の目を手で覆い、内側からこみ上げてくる数多の感情に耐えるようにして唇を噛みしめた。

何故こんな状況になったのか。
少し前の自分を、少年は恨みがましく思う。
気まぐれに外に出なければ。記憶を辿って通学路を歩かなければ。
ふらふらと夢見心地で彷徨い歩く少女に、声をかけなければ。見て見ぬ振りが出来たのならば。

されるがままの少女を見下ろして、少年は幾度目かの溜息を吐く。噛んだ時に切ってしまったのか、ぴり、と唇に小さな痛みを覚えるが、それを気にしていられるほどの余裕は少年にはなかった。

「何で、戻ってきたの」
「なにが?」

ぽつり、と溢れ落ちた少年の言葉を、舌足らずな少女の声が問い返す。
目を覆う手が熱い。錯覚か、それとも本当に熱が上がってきているのかは分からない。
それでもこうして無抵抗に側にいて甘えて擦り寄るのは、少女が熱に浮かされているからなのだろう。


「まだ、わすれてくれないの?」

歌うような囁く声に、少年の肩が僅かに跳ねる。

「はやく、わすれてよ」

忘れてくれ、と強く願われるほどに嫌われているのか。そうまでして離れていきたいのだろうか。
訊かずとも分かりきっている答えに、少年は自嘲した。
分かっている。遠い過去の記憶の中の少年と少女の関係性は、穏やかさとは対極的なものであった。
敵対関係。勝者と敗者。殺した者と殺された者。
呪いにも似た過去が、ほんの僅かな期待すらも持つ事を許さない。
それでも、と少年は胸中で呟いて。泣くのを堪えるように口元に笑みを浮かべた。

「忘れてなんかやらない」

こみ上げる感情を必死で押し殺し、ただそれだけを伝える。
少女はきっと悲しむのだろう。忌々しい過去の亡霊が離れない事を嘆くのかもしれない。
少女は変わらず横になったまま。目を覆う少年の手に触れるだけで、退けようとする様子はない。
暫しの沈黙。
やがて少女の唇が、言葉を紡ぐためにゆっくりと開かれていき。

だがその声音は、少年が覚悟していた悲痛さは欠片もなく、穏やかでありながら幼い怒りを宿していた。

「わすれてよ。じゃないと、最初からができない」

最初から。その意味を分かりかねて、少年は眉をひそめる。

「何それ。何が最初なの?」

問いかける言葉に、少女はくすくす笑う。夢見るような弾んだ声音が、あのね、と囁いた。

「わすれたらね。つくえの中に手紙をいれるの」

何を言いたいのか欠片も理解出来ない。困惑する少年を置き去りに、上機嫌な少女の声がさらに続けていく。

「そうしてね。放課後の校舎の裏にきてもらったら、こくはくするの。『せんぱいのことが好きです。付き合ってください』って」
「待って。話が見えない。先輩って誰。もしかして、俺の事?」
「それで、付き合ったらね。いっしょに帰ったりして。途中の公園とかでおしゃべりしたりして」
「何で当然のように付き合ってる事になってんの。断られたらどうするんだよ」

え、と少女は純粋な疑問を乗せた微かな吐息を溢し。
不思議で仕方がない、と少し首を傾げて、なんでって、と呟いた。

「だって依和《いより》。断っても五回くらい付き合ってって言えば、頷いてくれるでしょう?」

至極当然だと言わんばかりの声だった。


「馬鹿。断られたんなら普通は諦めるんだよ」
「ん?なにか言った?」

見えていないと知りながら、少年は首を振る。
何も応えがない事に少女は、依和、と少年の名を呼ぶ。
何も知らなかった幼い頃から何一つ変わらないその響きに、責め立ててしまいたいような、泣き縋りたいような思いを抱え、少年はただ笑った。

「忘れてほしい?そんなに俺と放課後デートがしたいんだ」
「そうよ。それからおやすみの日にお出かけもしたいんだから。やりたいことがたくさんあるの」
「例えばどんな?」
「出かけるやくそくをしたら、せんぱいの好きな服はどんなのかな、とか考えて。なやんで、ちょっとわるいこと考えたりするの」

ふふ、と少女は笑う。片手を宙に彷徨わせ、思わず少年が目を覆う手とは反対の手で取れば、指を絡ませ引き寄せた。

「お出かけの日には少し薄着をするの。そうしたら、こうやって手を繋いでくれるでしょう?距離が近くなって、どきどきして…ねぇ、だからわすれて?」

手に擦り寄って、少女はわすれて、と繰り返す。少女の熱い吐息に酔いそうになるのを耐えながら、少年はでも、と口を開いた。

「あいつの事が好きなんだろう?」
「兄様?もちろん愛しているわ。愛して、いるの…忘れられない。わたしたちが生きていた事を、なかった事になっていくのが怖いから」

ぽつり、と溢れた囁き。消え入りそうな、不安を帯びた声音。
少女の目を覆う手を外す。熱で潤んだ瞳は、それでも真っ直ぐに少年を見据えていた。

「わたしたちは確かに生きていた。生きていただけだったの。兄様以外に従うつもりはなかったけれど、誰かを害そうとするつもりもなかった。それを忘れないで」
「熒《けい》」

一筋流れた滴を拭い、少年は少女の名を呼んだ。
それ以外に何かを言えるはずもなかった。

「忘れるわけにはいかないの。でも、依和はわすれて。わたしに優しい夢を見せてくれた大好きな依和は、わたしたちの事なんか全部なくして、幸せになって」

次々と溢れ落ちる涙をそのままに、少女は笑う。
笑いながら、泣きながらも手を離し、ゆっくりを体を起こした。

「ごめんね。今日のぜんぶは嘘だよ。熱に浮かされた夢の話。わすれてほしいのはほんとだけど」

ふらつきながら立ち上がる少女を、少年はただ見ていた。腕も足も縫い止められたように動かす事が出来ず。唯一縛られていない唇で、熒、と少年は静かに名を呼んだ。

「なあに?」
「忘れてなんかやらない。これ以上熒の好きにはさせたくないから」
「わすれてよ。今の依和には必要ないんだから」

膨れてそっぽを向く少女に、少年は口元だけで笑ってみせる。
遠い過去の記憶は、確かに今まで平穏に暮らしていた少年には重すぎるものだ。それでもすべてを思い出してから今まで、忘れてしまいたいと思った事はなかったのもまた事実であった。

「忘れない。でも先輩と後輩ごっこはしてあげてもいいよ」

だから戻っておいで、と声なく願う。
きょとり、と少女は瞬く。新しく溢れ落ちた滴が光を反射して、宝石のように煌めいた。

「いやよ」

囁く声は、柔らかい。

「忘れないなら、幼なじみのままがいい。一番近くにいられる関係がいいの」

ふわり、と笑って少女の姿が霞み消える。
それを見届けて、自由を取り戻した手に唇を触れさせて。

「本当に我が儘なやつ」

少女の熱が移ったように上がる己の体温を感じて、一人少年は笑った。



20241127 『微熱』

11/26/2024, 2:26:47 PM

窓のない、暗い部屋。その中心にある巨大な水槽の中で彼女は生きている。
人でありながら水底でしか生きられなくなってしまった彼女は、自分の罪だった。

幼い頃。共に過ごした無垢な時は、今も鮮やかに輝いている。どんな時でも一緒だった、そして自分よりも少しだけ優れていた彼女に憧れて、そして妬ましく思ってしまった。
妬み嫉み。あの頃には気づけなかった、大好きな彼女に対してのどろどろとした澱みのような気持ちを思い返しては、唇を噛みしめる。皮膚を食い破り血が滲んでも、それ以上の後悔に気にはならない。
水槽に手を触れ、そのまま寄り添う。水の中の彼女が気づいて、触れた手に重ねるようにして厚い硝子越しに手を触れた。視線を合わせて柔らかく微笑み、美しい唇が何かの言葉を形作る。聞こえないそれを自分にとって都合の良い言葉に解釈しそうになり、きつく目を閉じた。

彼女をこの暗い水底に閉じ込めてしまったのは自分だ。それを忘れてはいけない。
何度も繰り返す。許されていると勘違いしそうになる度に、刻み付ける。
あの日。あの夕日に赤く染まった帰り道で、彼女を呪った。
自分よりも速く長く泳げる彼女を周りは皆褒めて、彼女も嬉しそうで。自分の両親ですら彼女を天才だと褒め、お前も彼女に並べるくらいに努力しなければと実の娘を叱咤し、そして最後には彼女が娘だったらよかったのに、と嘆いた。
周囲はいつも彼女ばかりを見て、彼女よりも劣る自分は精々が彼女の引き立て役だった。それでも彼女が自分を優先にして、笑って手を差し伸べてくれるから。だから周りなど気にしないようにしていたのに。

けれどあの日。彼女は自分との約束よりも、別の誰かを優先した。
たった一回。今ではその内容すら思い出せぬほどのちっぽけな約束を破られただけで、自分を保ってきた均衡は呆気なく崩れてしまった。
申し訳なさそうに謝る彼女を一方的に罵り、泣き喚き。
そして、言ってしまったのだ。呪いの言葉を。

――そんなに泳ぐのが好きなら、ずっと水の中にいればいいんだ!

本心ではなかった。それでも一度言葉にしてしまったものを、取り消すなど出来るはずもなかった。
何も言わず、悲しげに笑う彼女を今でも覚えている。それすらもあの時は怒りを覚えて。
何かを言いかけた彼女を無視して、一人家へと帰ってしまった。
その次の日から彼女は外に出なくなり。勇気を出して訪ねた彼女の家で、彼女は陽の光の下では生きられなくなってしまったのだと聞かされた。
自分の言った通りに。
だからきっとあれは呪いの言葉で、自分は彼女を呪ってしまったのだ。


「ごめん。ごめんなさい」

繰り返し謝罪する。それが例え自分が許されたいためのものだとしても、止める事が出来ない。
目を開ける。水槽から体を離し、手を離した。
彼女は変わらず笑顔のまま。

「また、来るから」

その笑顔に背を向けて、歩き出す。
部屋を出る瞬間。枯れ果てたと思っていた涙が、一筋流れた。





少女の背が扉の向こうへ消えていくのを見届けて、彼女は浮かべていた笑みを消す。

今日もあの子は、此方側へは来なかった。

水槽から手を離し、水を蹴って水面に顔を出す。
歌うのは、人を惑わせる旋律。愛しいあの子を再び此処へ呼び寄せるための誘いの言葉。
恍惚を目に浮かばせる彼女のその姿は、化生のモノであった。


そも、少女と出会った時にはすでに、彼女は化生であった。
己がいつ化生に堕ちたのか、彼女自身すら知り得ない。
気づけば暗い水底を漂い。月のない夜にだけ地上を彷徨う。
陽を厭い、闇を好む。彼女とはそういうモノであった。
だがいつだったか。戯れに夕暮れを彷徨っていた時、幼子であった少女と出会った。
燦めく瞳。僅かに朱を帯びたまろい頬。薄紅に色づいた小さな唇から紡がれる、心地の良い響きの声音。
少女は彼女が厭うていた太陽の愛し子だった。

初めてほしいと思った。だから近づいた。
少女を、少女の周りを惑わせ。少女の友人として、幼なじみとして共に在った。
少女よりも優れた振る舞いを見せたのは、執着を育てるため。
少女を愛し愛された者を惑わし孤立させ、その上で少女を何よりも優先していたのは、依存を育てるため。
少女の太陽の如く輝く目が、憧れや嫉妬の感情を乗せて彼女だけを見るのを、彼女の言葉や態度一つでそれが恍惚に蕩けていく様を眺めるのは、たまらないものであった。

そうして少しずつ彼女だけを求めるように冷たく切り離させ、甘く優しく包み込んで。
最後の仕上げに、一度だけ少女を裏切った。
全てが順調でだった。予想通り泣きながら責め立てるその目が、それでも縋り求める色を濃くしているのを見た時、彼女は声を上げて嗤いそうになるのを、そのまま連れ去ってしまいそうになるのを必死で耐えていた。
連れ去るのはいけない。少女から求めさせねば意味がない。
それほどまでに彼女は少女を愛していた。眩い太陽が暗闇に染まり堕ちていくのを、ずっと待ち続けていた。
それなのに。
少女を堕とすための言葉を紡ぐより先に、夕陽が少女の手を引き家路につかせてしまった。
それならばと。少女の言葉の通りに水底を漂ってみせれば、少女は罪悪感に泣きながら彼女の元へ通い続けるようになった。
だが、それだけだ。それ以上には、境界を越えるまでには足りなかった。
いつも太陽が邪魔をする。
さきほどもそうだ。彼女から目を逸らし、声を聞かず。結局は部屋を出て、太陽の下へと帰っていってしまった。
焦ることはない。そう己自身に言い聞かせる。
太陽の下で笑う少女がこの暗闇に、彼女に会いに来ているのだから、と。
それに人間の精神はとても脆い事を化生である彼女は知っている。
そう遠くない未来に、少女は罪悪感に耐えきれなくなることだろう。そうすればきっと、少女は此方側へ、この水の中へ堕ちて来てくれるはずだ。

その時を夢想して、くすり、と彼女は嗤う。

そして今日もまた、太陽に焦がれた憐れな化生は、水底に己の太陽が堕ちてきてくれるのを待っている。



20241126 『太陽の下で』

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