「37.3℃。微熱だね」
体温計に表示された数字を読み上げ、少年は呆れたように溜息を吐いた。
「微熱なら、大丈夫。起きてもいいよね?」
「これからもっと熱が上がるんだよ。おとなしく寝てて」
もぞもぞと起き上がろうとする少女を布団の中に戻しつつ。幼子のように頬を膨らませて拗ねる少女の目を手で覆い、内側からこみ上げてくる数多の感情に耐えるようにして唇を噛みしめた。
何故こんな状況になったのか。
少し前の自分を、少年は恨みがましく思う。
気まぐれに外に出なければ。記憶を辿って通学路を歩かなければ。
ふらふらと夢見心地で彷徨い歩く少女に、声をかけなければ。見て見ぬ振りが出来たのならば。
されるがままの少女を見下ろして、少年は幾度目かの溜息を吐く。噛んだ時に切ってしまったのか、ぴり、と唇に小さな痛みを覚えるが、それを気にしていられるほどの余裕は少年にはなかった。
「何で、戻ってきたの」
「なにが?」
ぽつり、と溢れ落ちた少年の言葉を、舌足らずな少女の声が問い返す。
目を覆う手が熱い。錯覚か、それとも本当に熱が上がってきているのかは分からない。
それでもこうして無抵抗に側にいて甘えて擦り寄るのは、少女が熱に浮かされているからなのだろう。
「まだ、わすれてくれないの?」
歌うような囁く声に、少年の肩が僅かに跳ねる。
「はやく、わすれてよ」
忘れてくれ、と強く願われるほどに嫌われているのか。そうまでして離れていきたいのだろうか。
訊かずとも分かりきっている答えに、少年は自嘲した。
分かっている。遠い過去の記憶の中の少年と少女の関係性は、穏やかさとは対極的なものであった。
敵対関係。勝者と敗者。殺した者と殺された者。
呪いにも似た過去が、ほんの僅かな期待すらも持つ事を許さない。
それでも、と少年は胸中で呟いて。泣くのを堪えるように口元に笑みを浮かべた。
「忘れてなんかやらない」
こみ上げる感情を必死で押し殺し、ただそれだけを伝える。
少女はきっと悲しむのだろう。忌々しい過去の亡霊が離れない事を嘆くのかもしれない。
少女は変わらず横になったまま。目を覆う少年の手に触れるだけで、退けようとする様子はない。
暫しの沈黙。
やがて少女の唇が、言葉を紡ぐためにゆっくりと開かれていき。
だがその声音は、少年が覚悟していた悲痛さは欠片もなく、穏やかでありながら幼い怒りを宿していた。
「わすれてよ。じゃないと、最初からができない」
最初から。その意味を分かりかねて、少年は眉をひそめる。
「何それ。何が最初なの?」
問いかける言葉に、少女はくすくす笑う。夢見るような弾んだ声音が、あのね、と囁いた。
「わすれたらね。つくえの中に手紙をいれるの」
何を言いたいのか欠片も理解出来ない。困惑する少年を置き去りに、上機嫌な少女の声がさらに続けていく。
「そうしてね。放課後の校舎の裏にきてもらったら、こくはくするの。『せんぱいのことが好きです。付き合ってください』って」
「待って。話が見えない。先輩って誰。もしかして、俺の事?」
「それで、付き合ったらね。いっしょに帰ったりして。途中の公園とかでおしゃべりしたりして」
「何で当然のように付き合ってる事になってんの。断られたらどうするんだよ」
え、と少女は純粋な疑問を乗せた微かな吐息を溢し。
不思議で仕方がない、と少し首を傾げて、なんでって、と呟いた。
「だって依和《いより》。断っても五回くらい付き合ってって言えば、頷いてくれるでしょう?」
至極当然だと言わんばかりの声だった。
「馬鹿。断られたんなら普通は諦めるんだよ」
「ん?なにか言った?」
見えていないと知りながら、少年は首を振る。
何も応えがない事に少女は、依和、と少年の名を呼ぶ。
何も知らなかった幼い頃から何一つ変わらないその響きに、責め立ててしまいたいような、泣き縋りたいような思いを抱え、少年はただ笑った。
「忘れてほしい?そんなに俺と放課後デートがしたいんだ」
「そうよ。それからおやすみの日にお出かけもしたいんだから。やりたいことがたくさんあるの」
「例えばどんな?」
「出かけるやくそくをしたら、せんぱいの好きな服はどんなのかな、とか考えて。なやんで、ちょっとわるいこと考えたりするの」
ふふ、と少女は笑う。片手を宙に彷徨わせ、思わず少年が目を覆う手とは反対の手で取れば、指を絡ませ引き寄せた。
「お出かけの日には少し薄着をするの。そうしたら、こうやって手を繋いでくれるでしょう?距離が近くなって、どきどきして…ねぇ、だからわすれて?」
手に擦り寄って、少女はわすれて、と繰り返す。少女の熱い吐息に酔いそうになるのを耐えながら、少年はでも、と口を開いた。
「あいつの事が好きなんだろう?」
「兄様?もちろん愛しているわ。愛して、いるの…忘れられない。わたしたちが生きていた事を、なかった事になっていくのが怖いから」
ぽつり、と溢れた囁き。消え入りそうな、不安を帯びた声音。
少女の目を覆う手を外す。熱で潤んだ瞳は、それでも真っ直ぐに少年を見据えていた。
「わたしたちは確かに生きていた。生きていただけだったの。兄様以外に従うつもりはなかったけれど、誰かを害そうとするつもりもなかった。それを忘れないで」
「熒《けい》」
一筋流れた滴を拭い、少年は少女の名を呼んだ。
それ以外に何かを言えるはずもなかった。
「忘れるわけにはいかないの。でも、依和はわすれて。わたしに優しい夢を見せてくれた大好きな依和は、わたしたちの事なんか全部なくして、幸せになって」
次々と溢れ落ちる涙をそのままに、少女は笑う。
笑いながら、泣きながらも手を離し、ゆっくりを体を起こした。
「ごめんね。今日のぜんぶは嘘だよ。熱に浮かされた夢の話。わすれてほしいのはほんとだけど」
ふらつきながら立ち上がる少女を、少年はただ見ていた。腕も足も縫い止められたように動かす事が出来ず。唯一縛られていない唇で、熒、と少年は静かに名を呼んだ。
「なあに?」
「忘れてなんかやらない。これ以上熒の好きにはさせたくないから」
「わすれてよ。今の依和には必要ないんだから」
膨れてそっぽを向く少女に、少年は口元だけで笑ってみせる。
遠い過去の記憶は、確かに今まで平穏に暮らしていた少年には重すぎるものだ。それでもすべてを思い出してから今まで、忘れてしまいたいと思った事はなかったのもまた事実であった。
「忘れない。でも先輩と後輩ごっこはしてあげてもいいよ」
だから戻っておいで、と声なく願う。
きょとり、と少女は瞬く。新しく溢れ落ちた滴が光を反射して、宝石のように煌めいた。
「いやよ」
囁く声は、柔らかい。
「忘れないなら、幼なじみのままがいい。一番近くにいられる関係がいいの」
ふわり、と笑って少女の姿が霞み消える。
それを見届けて、自由を取り戻した手に唇を触れさせて。
「本当に我が儘なやつ」
少女の熱が移ったように上がる己の体温を感じて、一人少年は笑った。
20241127 『微熱』
11/28/2024, 1:29:23 AM