くらり、と歪む世界。
近づいてくる終わりに、あと少しと歯を食いしばり耐える。
ここで終わる訳にはいかない。せめてあと一月耐えなければ意味がない。
途切れそうになる意識を繋ぎ止めながら、ゆっくりとベッドを抜け出した。
「何してんのよ!」
がちゃり、とドアの開く音とほぼ同時に、強く憤る声がした。
ベッドから抜け出し、そのまま崩れ落ちていた自分の元へ駆け寄ると、華奢な白い手が強く肩を掴む。
「そんな死にそうな顔して、どこに行こうとしたのよ!」
顔を上げる。怒りに歪んだ表情をした妹に大丈夫だと、必死に笑ってみせた。
だがそれがさらに彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。眦をきつく吊り上げ、許さない、と睨めつけられる。
「勝手に抜け出そうとした事、おにいちゃんに言いつけてやるんだからっ!」
それは止めてほしい。
震える指で、妹の服を掴んで引き止める。簡単に振りほどけるだろうか細い力ではあったが、立ち上がりかけていた妹を留める事が出来た事に安堵した。
兄の事は、少しだけ苦手だ。
強い目が、あの全てを見通すような鋭い眼差しが、怖い。
家族の中で、一番最初に自分のこれに気づいてしまったのが兄だった。気づかれなければ、きっと今頃終わるための用意が出来ていたはずだったのに。
「言いつける必要はねぇな。ここにいるから」
ドアの前。聞こえた静かな声に、思わず肩が跳ねる。
「おにいちゃん」
振り返る妹が嬉しそうに立ち上がる。移動した事で近づく兄の姿が視界に入り、ひ、と声にならない呻きが漏れた。
「また抜け出そうとしたのか。今度はどこに行くつもりだったんだ?」
優しい声音。笑みを浮かべながらも、その目は鋭さを湛えて。
その目に怯えて後ずさりしそうになる体は、しかし背後に回った妹に抱き竦められて動けない。
「どうした?何がしたかったんだ?」
身を屈めた兄の冷たい手が頬に触れる。
引き攣った喉から声は出せず。僅かに首を振って何もないと答えれば、そうか、と兄は愉しそうに笑った。
「そういや。お前のそれ、ようやく原因が分かったぜ」
触れるだけだった兄の両手が頬を包み、視線を合わせられる。笑みを浮かべながらも、その目には隠しきれない怒りの感情が渦巻いていて、ただ怖かった。
「形代」
目を見開いて、息を呑んだ。
「お前の事だから、家族の中の誰かだろうなぁ。俺ではないし、お袋や親父も違う…なら、残りは一人だけだなぁ」
額を合わせて、静かに言い聞かせるようにして囁かれる。
言い逃れは出来ない。それが出来る段階は、疾うに過ぎてしまっていた。
「たしか、十年くらい前だったか?お前らが神隠しにあったのは。戻ってはきたが、お前は泣いて話も出来ねぇし、こいつはずっと眠ったまんまだったし…一体、あの時何があったんだろうなぁ」
「ぁ…ごめ、な、さ……」
兄の鋭い視線に耐えかねて、謝罪の言葉が口から溢れ落ちる。
意味がないと知っている。けれど恐怖に混乱する思考では、それしかもう言葉には出来なかった。
「何謝ってんだ?悪い事でもしていたのか?なら、お兄ちゃんに何したか、全部教えてくれるよな」
兄の瞳孔が猫のように広がっていく。焦点も合わぬ程近いその目の中で、あの時の自分達の姿が浮かび上がる。
妹に手を引かれて入り込む森の中。止めようと引いた手は逆に振り払われ、駆けだしていく妹の小さな背中。追いかけるその先にあった、朽ちた鳥居。
まるで映画のように、あの日の記憶が兄の目の中で流れて行く。その先を見たくはないのに、目を逸らす事も閉じる事も許されない。
鳥居を抜けた先。急に訪れた夜の暗闇を手探りで進んで、辿り着いた場所。朽ちて形を留めていない社と、その奥にある巨大な古木。
たくさんの誰かが吊されて、取り込まれているのが見えた。
そしてその古木の根元にいた、意識のない妹の姿。
駆け寄って、肩を揺すっても起きない妹を必死に抱え上げた。来た道を戻るために、数歩歩き出し。
最後に見えたのは、妹に向かい伸びる鋭い枝。
咄嗟に妹に覆い被さって、そこで何も見えなくなった。
「良い子だ。怖かったなぁ」
離れていく兄をただ見つめる。離れても焦点が合わない事を不思議に思っていれば、ぐい、と後ろに体が引かれ今度は妹と目を合わせられる。
「ちょっと、おにいちゃん。あんまりおねえちゃんを泣かせないでよ」
目尻を拭われ、妹の唇が触れる。焦点が合わないのは、泣いていたからだと気づいた。
「可哀想なおねえちゃん。大好きよ…でも、許さないから」
激しい怒りを湛えた目をして、妹は笑う。
「おねえちゃんはもう、あたしとおにいちゃんのものにするわ。だからその命、勝手に終わらせようとする事は許さないから」
「そうだなぁ。俺らが何にも言わないのをいい事に、ここまでぼろぼろにしちまったんだ。寂しがりのくせにこのまま一人きりで終わらせるってなら、俺らがもらって終わらないように大事にしまって置くしかないわなぁ」
妹の指に顎を掬われ、兄に向けて喉を晒される。嫌な予感に逃れようと藻掻くものの、弱りきって自由にならない体は妹の細い指一つ振りほどく事が出来ない。
「そんなに怯えんな。少し痛いが、今よりは楽になるから」
兄の指が喉を撫で上げ、唇を寄せる。止めて、と願う声は形にはならず、悲鳴に成り代わった。
痛い。食い破られてしまいそうな、痛み。そして体に溜まった澱みを吸い上げられていく感覚。
耐えられず目を閉じる。止めようと、縋ろうと彷徨う手はそれぞれ二人に繋がれて、もう離れる事が出来ない。
「まあ、こんなもんか。時間稼ぎにはなるだろ」
兄が離れていく気配がする。けれどもう目を開ける気も、況してや逃げる気力もなく、そのまま妹にもたれ掛かった。
幾分か楽になった体が睡眠を欲しがって、意識を落としていく。
「しばらく戻れねぇが、良い子にしてろよ?」
「大丈夫よ、おにいちゃん。でも早く帰ってきてね。でないと、おねえちゃんだけじゃなくて、あたしも悪い子になってしまいそうだもの」
二人の声が遠い。
触れる熱が、微睡んだ意識をさらに深く沈めていく。
「あたしのためとか、終わるための言い訳は許さない。終わらせてなんかあげないわ。おねえちゃんはこれからずっとあたしとおにいちゃんのものだから」
「そうだな。これまでも、これからも三人一緒だ。約束したからな」
笑う声がする。
遠い昔。幼い頃の自分が寂しさに耐えかねて、泣きながら差し出した小指が。
酔いそうな熱を持ち始めた、そんな気がした。
20241129 『終わらせないで』
11/29/2024, 11:03:10 PM