sairo

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母は子供達を皆平等に愛していた。
誰か一人を愛でる訳でも、蔑ろにするでもなく。母は持てる全てを子供達に与え続けていた。
だが母である前に、彼女はただの弱き人であった。与えられるものは限りがあり、その両の手は子供達を守るにはあまりにも小さい。
だからこそ、時に取りこぼし切り捨てなければならない事は仕方がないと、誰もがそう思っていた。
母である、彼女以外は。



今日もまた彷徨い歩く彼女を見下ろして、彼は小さく息を吐く。
じゃら、じゃらり、と体に巻き付く鎖を鳴らしながら、腕を上げて風を起こす。風に体を押し留められ、木々の騒めく音に気づいた彼女の子供達に連れ戻されていく彼女を見届けて、いい加減諦めてほしい、とぼやいた。

彼女は子供達を愛している。それは痛いくらいに分かっている。
愛情だけで救い守れるものなど、ほんの僅かしかない。それも分かりきった事だ。

よくある話。
彼も零れ落ち終わってしまった者の一人だ。
仕方がない事だと、彼自身も分かっていた。
今でも思い出せる。
笑い合い、話す声。母と兄を上の兄と妹と一緒に待っていた。
どこかで響く爆発音。停電。悲鳴。
崩れ落ちてきた天井から、咄嗟に妹を庇えたのは奇跡に近かった。
妹を突き飛ばし、代わりに崩れた天井に巻き込まれた。
隣で泣きじゃくる妹と、瓦礫の向こう側の弟。
まだ子供の兄には酷な選択だった。けれど聡明な兄だったからこそ、正しく選ぶ事が出来たのだろう。

――助けにくるから。必ず戻ってくるから。それまで頑張れ!

泣きながらも告げた兄の言葉に何と答えたのか、彼はもう覚えてはいない。答える事すら出来なかったのかもしれない。
しかし引き止める事だけはしなかったと、それだけは断言できた。激痛に霞む意識の中、どうか戻ってこないでと願い続けていたのだから。
そのまま彼は終わりを迎えた。迎えたのだと思っている。今際に聞こえた母の声は、一人の不安が作り出した幻聴であると願っている。
たとえそれが、普段の母とは似つかぬ強く荒々しい言葉だったとしても。


皆が戻っていった事を確認して、ゆっくりと地に降りる。
じゃらじゃらと音を立てる鎖が煩わしい。肉体を失い魂だけとなった彼が未だにこうして現世に留まっているのは、この全身に巻き付く鎖が留めているからだった。
何度か訪れた迎えも鎖を解く事は出来ず、こうして今も彼はこの場所で一人鎖が解ける日を待ち続けていた。


「こんにちは」
「あぁ、また来てくれたんだ」

聞こえた声に振り返れば、いつも訪れてくれる常世の迎えのモノ。しかし今日はその傍らに見た事のない黒い男の姿があった。

「なんだこれは」

眉間に深く皺を刻み、男は不機嫌を隠しもせずに吐き捨てる。男の視線が鎖に向けられているのを見て、確かにこれは見苦しいものだな、と苦笑した。

「解けない。鋏にも切れなかった」
「当然だ。鋏で鎖は切れん」

嘆息し、男は彼に近づいていく。その手にはいつの間にか黒い刀が握られており、躊躇いもなく男は刀の鯉口を切った。
だが男の動きが止まる。眉間の皺はそのままに怪訝を浮かべた目が鎖の先、彼女達が去って行った方を見遣り細くなる。

「腕が足りんな」

腕、と言われ、彼は己の腕を見下ろす。そこに腕はある。しかし左腕だけだ。
言われて、初めて腕が一本足りない事を彼は認識した。

「鎖の先?」
「そうだ。ただの執着かと思ったが、これは反魂だろう」

反魂。魂を呼び戻し、死者を蘇らせる術。
何故、と彼は首を傾げる。そこまで求められる理由が、彼には思い当たらなかった。
あれは仕方がない事だった。時折聞こえてきていた大人の声も何度も言っていた。
仕方がない事だ。兄の判断は正しかった。残った子供達を大切にしてほしい。
最近は聞こえなくなっていたが、それはつまり納得したからだと思っていた。
少なくとも母以外は彼の死を乗り越えているだろうに、一体誰が。

「切るのは容易いが、最悪術師が死ぬな」
「それは、だめ」
「分かっている。人間の死に我らが関わるわけにいかぬのだから、しばらくはこのままにするしかないだろう」

舌打ちして男は踵を返す。咄嗟に引き止めようと伸ばした彼の腕は男に届く事はなかったものの、じゃらり、と耳障りな鎖の音に、男の足が止まる。

「あの。誰が、ぼくを」

やはり、母なのだろうか。
母は子供達を愛している。それは今も変わらない。
彼を取り戻そうと手を尽くしてくれるような存在は、母以外に思いつかなかった。

「貴様の血に連なる者だ。それも複数のな」

え、と。気の抜けた声が漏れた。

「貴様の一部は術師の元にある。それを縁に戻るのも、この地に留まるのも好きにしろ」
「術が解けたら、また迎えにくる」
「術師が死ぬまでの時間だ。そう長くはないだろう。もしも術師が化生に堕ちたのならば、その時は切り捨ててやろう」

そう言って、常世のモノ達は去って行く。
一人残された彼は、受け容れがたい事実に呆然と立ち尽くし。


「見つけた」
「お母さん!おお兄ちゃん!こっちだよ」

鎖を引かれた。
突然の事によろける体を支えるように、逃がさないと閉じ込めるようにして背後から大きな腕に抱き留められる。

「ちぃ兄ちゃん。わたしよりも小さくなっちゃった」
「あの時から変わんないんだろ。ま、これくらいが丁度いいよな。抱き心地いいし、可愛いし」

大人になった下の兄と妹がくすくすと笑う。二人のその右手に巻き付く鎖を見て、彼はびくり、と肩を震わせた。
何故、と混乱する思考で彼は必死に考える。意味が分からなかった。優しかったはずの二人に巻き付く赤色の鎖の先が、己の左右の足にそれぞれ巻き付いている事を認めたくはなかった。

「あぁ、こんな所にいたのか。随分探したんだそ」

低い男の声。
記憶にあるより、大きくたくましくなった上の兄を見上げた。やはりその右腕に巻き付くのは朱殷の色をした鎖。その先が己の左腕に巻き付いているのを見て、彼の目に僅かに怯えの色が浮かんだ。
口元を歪めて、上の兄が軽く鎖を引く。下の兄に抱き留められているためにその身が倒れ込む事はなかったが、己の意思に反して持ち上がった左腕を上の兄はそっと手に取り、唇を触れさせた。

「帰ろうな。父さんはいなくなってしまったけど、俺達がいるから寂しくはないだろう?」

何処までも優しい声音。それに底知れぬ恐怖を覚え、かたかたと体が震え出す。

「お母さん!おお兄ちゃんがちぃ兄ちゃんを怖がらせてるよ」
「怖がらせるつもりはなかったんだが」
「兄貴、大きくなったからな。見下ろされるのはけっこう怖いと思うぜ?」
「大丈夫よ。急に皆が来て少し驚いてしまったのでしょう。ずっと一人だったから安心したからかもしれないわね」

柔らかな、記憶のそれと変わりのない声。
そっと左腕が離される。背後から抱き留めていた腕が離れていく。
そうして微笑む彼女が――母が目の前に来て、そっと彼を抱きしめた。
抱きしめられる前に見えた彼女の右腕に巻き付く柘榴色した鎖の先は、きっと己の胴に巻き付いている事だろう。

「迎えにくるのが遅くなってごめんなさいね」


母は子供達を皆平等に愛していた。
そして子供達も母を愛し、兄弟を愛していた。
ただそれだけの事。少し違うのは、その愛情が他の誰よりも深く、重い事だけ。
父はいなくなったと兄は言った。彼女達を止めてくれる人はもう、誰もいない。

「迎えに来てくれて、ありがとう。おかあさん」

目を閉じて、彼は母の背に左腕を回す。
そのまま抱き上げられる。母が歩く度にじゃらじゃら、と鎖が音をたてた。

絡み付く鎖のような愛情は、あの時の瓦礫よりも重くのし掛かる。
諦め全てを受け入れながら、彼は密かにこの終わりが少しでも早く来る事を願った。



20241128 『愛情』

11/29/2024, 1:51:51 AM