窓のない、暗い部屋。その中心にある巨大な水槽の中で彼女は生きている。
人でありながら水底でしか生きられなくなってしまった彼女は、自分の罪だった。
幼い頃。共に過ごした無垢な時は、今も鮮やかに輝いている。どんな時でも一緒だった、そして自分よりも少しだけ優れていた彼女に憧れて、そして妬ましく思ってしまった。
妬み嫉み。あの頃には気づけなかった、大好きな彼女に対してのどろどろとした澱みのような気持ちを思い返しては、唇を噛みしめる。皮膚を食い破り血が滲んでも、それ以上の後悔に気にはならない。
水槽に手を触れ、そのまま寄り添う。水の中の彼女が気づいて、触れた手に重ねるようにして厚い硝子越しに手を触れた。視線を合わせて柔らかく微笑み、美しい唇が何かの言葉を形作る。聞こえないそれを自分にとって都合の良い言葉に解釈しそうになり、きつく目を閉じた。
彼女をこの暗い水底に閉じ込めてしまったのは自分だ。それを忘れてはいけない。
何度も繰り返す。許されていると勘違いしそうになる度に、刻み付ける。
あの日。あの夕日に赤く染まった帰り道で、彼女を呪った。
自分よりも速く長く泳げる彼女を周りは皆褒めて、彼女も嬉しそうで。自分の両親ですら彼女を天才だと褒め、お前も彼女に並べるくらいに努力しなければと実の娘を叱咤し、そして最後には彼女が娘だったらよかったのに、と嘆いた。
周囲はいつも彼女ばかりを見て、彼女よりも劣る自分は精々が彼女の引き立て役だった。それでも彼女が自分を優先にして、笑って手を差し伸べてくれるから。だから周りなど気にしないようにしていたのに。
けれどあの日。彼女は自分との約束よりも、別の誰かを優先した。
たった一回。今ではその内容すら思い出せぬほどのちっぽけな約束を破られただけで、自分を保ってきた均衡は呆気なく崩れてしまった。
申し訳なさそうに謝る彼女を一方的に罵り、泣き喚き。
そして、言ってしまったのだ。呪いの言葉を。
――そんなに泳ぐのが好きなら、ずっと水の中にいればいいんだ!
本心ではなかった。それでも一度言葉にしてしまったものを、取り消すなど出来るはずもなかった。
何も言わず、悲しげに笑う彼女を今でも覚えている。それすらもあの時は怒りを覚えて。
何かを言いかけた彼女を無視して、一人家へと帰ってしまった。
その次の日から彼女は外に出なくなり。勇気を出して訪ねた彼女の家で、彼女は陽の光の下では生きられなくなってしまったのだと聞かされた。
自分の言った通りに。
だからきっとあれは呪いの言葉で、自分は彼女を呪ってしまったのだ。
「ごめん。ごめんなさい」
繰り返し謝罪する。それが例え自分が許されたいためのものだとしても、止める事が出来ない。
目を開ける。水槽から体を離し、手を離した。
彼女は変わらず笑顔のまま。
「また、来るから」
その笑顔に背を向けて、歩き出す。
部屋を出る瞬間。枯れ果てたと思っていた涙が、一筋流れた。
少女の背が扉の向こうへ消えていくのを見届けて、彼女は浮かべていた笑みを消す。
今日もあの子は、此方側へは来なかった。
水槽から手を離し、水を蹴って水面に顔を出す。
歌うのは、人を惑わせる旋律。愛しいあの子を再び此処へ呼び寄せるための誘いの言葉。
恍惚を目に浮かばせる彼女のその姿は、化生のモノであった。
そも、少女と出会った時にはすでに、彼女は化生であった。
己がいつ化生に堕ちたのか、彼女自身すら知り得ない。
気づけば暗い水底を漂い。月のない夜にだけ地上を彷徨う。
陽を厭い、闇を好む。彼女とはそういうモノであった。
だがいつだったか。戯れに夕暮れを彷徨っていた時、幼子であった少女と出会った。
燦めく瞳。僅かに朱を帯びたまろい頬。薄紅に色づいた小さな唇から紡がれる、心地の良い響きの声音。
少女は彼女が厭うていた太陽の愛し子だった。
初めてほしいと思った。だから近づいた。
少女を、少女の周りを惑わせ。少女の友人として、幼なじみとして共に在った。
少女よりも優れた振る舞いを見せたのは、執着を育てるため。
少女を愛し愛された者を惑わし孤立させ、その上で少女を何よりも優先していたのは、依存を育てるため。
少女の太陽の如く輝く目が、憧れや嫉妬の感情を乗せて彼女だけを見るのを、彼女の言葉や態度一つでそれが恍惚に蕩けていく様を眺めるのは、たまらないものであった。
そうして少しずつ彼女だけを求めるように冷たく切り離させ、甘く優しく包み込んで。
最後の仕上げに、一度だけ少女を裏切った。
全てが順調でだった。予想通り泣きながら責め立てるその目が、それでも縋り求める色を濃くしているのを見た時、彼女は声を上げて嗤いそうになるのを、そのまま連れ去ってしまいそうになるのを必死で耐えていた。
連れ去るのはいけない。少女から求めさせねば意味がない。
それほどまでに彼女は少女を愛していた。眩い太陽が暗闇に染まり堕ちていくのを、ずっと待ち続けていた。
それなのに。
少女を堕とすための言葉を紡ぐより先に、夕陽が少女の手を引き家路につかせてしまった。
それならばと。少女の言葉の通りに水底を漂ってみせれば、少女は罪悪感に泣きながら彼女の元へ通い続けるようになった。
だが、それだけだ。それ以上には、境界を越えるまでには足りなかった。
いつも太陽が邪魔をする。
さきほどもそうだ。彼女から目を逸らし、声を聞かず。結局は部屋を出て、太陽の下へと帰っていってしまった。
焦ることはない。そう己自身に言い聞かせる。
太陽の下で笑う少女がこの暗闇に、彼女に会いに来ているのだから、と。
それに人間の精神はとても脆い事を化生である彼女は知っている。
そう遠くない未来に、少女は罪悪感に耐えきれなくなることだろう。そうすればきっと、少女は此方側へ、この水の中へ堕ちて来てくれるはずだ。
その時を夢想して、くすり、と彼女は嗤う。
そして今日もまた、太陽に焦がれた憐れな化生は、水底に己の太陽が堕ちてきてくれるのを待っている。
20241126 『太陽の下で』
11/26/2024, 2:26:47 PM