「季は滞りなく移っている。目覚めの春が訪れるまで、確とこの壬《みずのえ》が全てを眠らせ留まらせよう」
内に灯る温もりが消え。秋から冬へと季が移った。
ほぅ、と息を吐く。此度も無事に役目を終えられた事に安堵した。
「また、ね。お役目、頑張って」
「あぁ。庚《かのえ》も、次の役儀まで休むといい」
淡々とした声音ではあるものの、頭を撫でるその手は変わらず優しい。
小さく笑みを溢し別れを告げて、くるり、と振り返った。けれどそこに在るはずのものは何処にも見えず。
息を呑む。こみ上げる不安に、ただ狼狽えるしか出来ない。
「何かあったか」
「帰り道が」
怪訝な声に、震える声で一言を返す。
「道が開かぬのか。まぁ、よくある事だ。心配せずとも時期に開く」
「でも」
落ち着いた声が、案ずるな、と宥めるように背を撫でる。
それでも不安は消える事なく胸の内に燻り続けて、耐えきれずに傍らの温もりに縋りついた。
初めての事だ。少なくとも己にとっては。
夏や冬とは違う。四節の中でも強いこの二季は、季を移しても影響が残りやすく、そのために道が開かない事は珍しくはない。
秋とは違うのだ。もたらした実りを、人間は収穫し終えている。あとはもう目覚めが来るまで眠るだけ。
秋はすでに役割を終えてしまっている。季も冬へと移っている。それなのに、帰るための道は開かない。
「このまま他の皆のように、わたしも消えてしまうのかな」
知らず溢れ落ちてしまった言葉に、はっとして口を塞ぐ。
考えないようにしていた事だった。けれどどうしても考えてしまう事でもあった。
「消えぬだろう。庚が最後の秋だ。秋が消えれば四節は崩壊し、世界が終わる」
「でも今までこんな事はなかった」
背を撫でる手が止まり、代わりに抱き上げられる。
「案ずるな。道が開くまでは壬が庚を守るのだから、不安に思う事はない」
間近で見るその目は、冬のように静かで優しい。
その目に写る己の不安そうな表情がその優しさに溶けて、少しだけ笑う事が出来た。
「ありがとう」
「庚のためだ。問題はない」
当然だと告げる言葉に、ありがとう、と繰り返す。
最後に残ったのが壬で本当によかった。不謹慎ながらにそう思う。
他の冬よりも己に甘く、何かと世話を焼いてくれていたのが壬だった。兄弟に手を引かれ、緊張しながらも初めて壬に季を移した事を、懐かしく思う。
ふふ、と小さく溢れた笑う声に、静かな目が問いかける。
「何でもない。昔の事を思い出していたの」
「そうか。壬も覚えている。庚はよく泣いていたな。今は泣かなくなったのだから、しっかりと成長している。喜ばしい事だ」
「それは忘れていて」
恥ずかしさで、頬が熱を持つ。
自覚はないのだろう。意味を分かりかねて首を傾げるその姿に、それ以上は何も言えなくなってしまう。
「庚は忙しないな。こうして長く語り合う事はなかった故、気づきもしなかった」
「今までは、季を移したらすぐに戻っていたから」
「そうだな。だが、悪い事ではないと壬は思っている」
意外な言葉に目を瞬く。
そのような酷い事を、己以外が思う事などないと思っていた。
「庚。望もうと、望むまいと世界は終わりを迎える。或いは既に終わっていたのかもしれん。壬ら、異端がなくば四節は疾うに停滞していた」
「異端?」
言っている意味が分からず、今度は己が首を傾げた。
己が異端であると言われるのは理解できる。役目に疑問を持つ己は、異端でしかない。
けれど壬は、他の残った季は役目に疑問を持つ事などないだろうに。
「そうだ。壬は己を壬と認識している。そして庚や甲《きのえ》を季ではなく、個として認識している。庚や甲、おそらくは丙《ひのえ》も同じだろう」
「個として、認識」
「故に人間から認識されずとも、壬は消える事なくここに在る…だがそれも限界なのだろう」
あぁ、と限界の言葉の意味を理解して、目を伏せる。
ひとりきりでは限りがある。帰る道も開かない。
世界は緩やかに、静かに、終わってしまったのか。
「庚。話をしよう。壬は庚を知りたい。その絶えず変化する感情の意味を教えてくれ」
「お話」
「道が開くまでで構わない。庚は何に泣くのか気になっていた。壬に聞かせてくれ」
何を話せばいいのだろう。泣いていた昔を思い返す。
あの時はただ不安だった。己に季を移す事など出来るのか、怖かったのだ。
「泣いていたのは、昔の話だから。あの時はひとりで季を移す事になれていなかったから、不安だっただけで。今は、泣いてない」
今は泣かなくなった。少なくとも誰かの前では泣いてはいない。
誰かがいれば淋しくはないのだから。
伏せていた目を上げる。近い目が優しく細められて、庚、と呼んだ。
適わないな、と諦めて笑う。
「ひとりになると淋しくなって、このままひとりきりで消えてしまうような気がして怖くなって、泣くの。誰かといれば泣かない。もしそこで消えてしまっても、ひとりじゃないから」
「淋しいのは怖いか」
「怖いし、嫌だ。昔も、今も。ずっと」
「そうか」
ではこうしよう、と静かな声が囁く。
「このまま道が開かぬのならば、消える前に壬が庚を眠らせよう。眠る庚と共にいよう」
「ずっと一緒?」
「あぁ、そうだ。淋しくはないだろう」
確かに、一緒ならば淋しくはない。
その優しさが嬉しくて、少しだけ気恥ずかしくて。誤魔化すように首に腕を回して擦り寄った。
「ありがとう。壬」
お礼を言えば、頭を優しく撫でられる。
「庚は淋しがりなのだな。新しく庚が知れた」
穏やかな声に気恥ずかしさが増すが、撫でる手の心地よさに聞こえないふりをした。
「他にも教えてくれ。庚が知りたい」
「いいよ。その代わり、壬の事も教えて」
知りたいと思っていたのは、己も同じだ。
答えの代わりに、頭を撫でていた手が離れ、くるり、と指先で宙に円を描く。
ひゅう、と風が吹き抜ける。
秋とは違う、その鋭い冷たさと匂いに。
初めて、冬を知った。
20241130 『冬の始まり』
12/1/2024, 3:29:36 AM