sairo

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窓から差し込む夕陽の朱を横目に、妹は眠る姉の頬に触れる。
血の気を失った頬は、温もりの欠片一つなく。触れる指先を掠める息と、僅かに上下する胸の動きが、姉がまだ生きているのだと示していた。

「おねえちゃん」

呼びかけても、姉が目を覚ます事はない。それが無性に怖くて、頬に触れていた手を滑らせ、存在を確かめるように肩から腕へと指先で辿り、その先の冷えた指に己のそれを絡めた。

「約束したっておにいちゃんが言ってたもの。ずっと一緒って、おねえちゃんが約束したんだから」

妹にはその約束の記憶はない。赤子の時にされたというそれは、すべては兄から聞いた話だ。
姉はとても寂しがりな子供だったのだという。いつも兄の後ろを付いて回る、気弱で泣き虫な子だったのだと。
記憶にある姉の姿とは異なるその昔話を、妹はどこか遠い物語のように、けれども縋るような思いで聞いていた。
それ以前に、妹には姉との記憶は数える程にしかない。特に幼い頃の記憶は断片しかなく、それすら掠れて曖昧だ。
唯一はっきりと思い出せるのは、無邪気に笑い合えていた最後の記憶。姉と引き離された、忌まわしい呪いの記憶だった。
あの日、ずっと何かに呼ばれていた。行かなければという衝動だけで、姉の手を引きながら森に足を踏み入れた。
引き止める姉の表情は、とても必死だったのを覚えている。それでも呼ぶ声に抗えず、手を振りほどいて駆けだしたのを、今も後悔していた。
その後の記憶はほとんどない。崩れた社と古木。そして姉の声。
高熱に浮かされ、意識がはっきりとする事はなかった。夢と現を彷徨い、光と闇の狭間を漂っていた。
気づけば数年の月日が経ち。
意識が戻った時、その場いたのは涙を流して喜ぶ両親と、大人びた兄。
姉の姿はどこにもなかった。


「まほら」

微かな呼ぶ声に、はっとして姉を見る。
焦点の合わぬ虚ろな瞳が、不安に揺れながら妹のいるであろう場所を見つめていた。

「おねえちゃん、おはよう。でもまだ寝てていいわよ。おにいちゃんが帰ってくるのは、当分先の事だもの」

努めて優しく、静かに告げる。
目覚めてくれた事に嬉しさがこみ上げるものの、兄が戻るまでは姉は苦しいままだ。ならば少しでも眠っていて欲しいと、片手で姉の目を塞ぐ。
妹には姉がどうしてこんなにも衰弱しているのか、詳しくは分からない。兄の言う形代や澱みの意味も知らない。ただ漠然と、姉は己の身代わりになったのだと感じていた。

「大丈夫よ、おねえちゃん。おにいちゃんが戻ってきたら、きっとすぐに苦しいのはなくなるわ。そうしたら、三人でずっと一緒にいましょう」

姉に、己自身に言い聞かせるように囁く。
手の下でゆっくりと瞼を落とす姉の首が僅かに横に振られたのを、気づかない振りをして笑った。

「大丈夫。おねえちゃんをあの闇に連れて行かせはしないから。おねえちゃんは、ここでずっとあたしとおにいちゃんと一緒にいるんだから」

約束。
それが妹を留まらせている。記憶にはない一緒だという約束に縋る事で、人として妹は生きる事が出来ていた。

「約束。守ってよ」

それがなくば、妹は目覚めたあの日に化生に堕ちた。
姿の見えない姉。
遠く、祖父母の元に預けたのだと、笑って告げた両親。何も言わない兄。
こみ上げたのは、激しい怒りだ。兄が止めなければ、約束を教えなければ、妹は怒りにまかせ化生に堕ちていたのだろう。

息を吐く。軽く頭を振り、姉の目を覆ったままの手を外した。


「おねえちゃん?何か言った?」

目を閉じたままの姉の唇が何かを呟くのを見て、耳元を寄せる。
消え入りそうなほど微かに、途切れ途切れに呟くその言葉に、妹の表情が怒りに染まった。

――父さんと、母さんは。

それは妹が憎むほどに嫌う、両親を心配する言葉だった。

「あんなやつらの事なんか忘れて!おねえちゃんを二度も捨てるような最低なやつらなんて、知らなくていい」

ぎり、と噛みしめた唇から血が滴り、さらに気分が悪くなる。
姉は知らないのだ。両親は姉を見捨てる選択をした事を。

一度目は、祖父母の家に預けられた。
二度目は、衰弱していくその身を救う事を諦めた。
姉に対して贖罪ではなく、疵とする事を選択した。切り捨てた罪を抱えていくのだと言った。
言葉で取り繕っても、結局は姉をなかった事にしたかったのだろう。罪を抱えると言った所で、すぐに忘れてしまうのは目に見えていた。

「おねえちゃんに必要なのは、あたしとおにいちゃんだけよ。それ以外はいらない」

だから両親を切り捨てた。
最初から両親などいなかったのだと。そう言って笑う妹に、何を思ったのか。姉は暫くの沈黙の後に、ただごめんなさい、と声なく告げた。

「謝るくらいなら一緒にいて。終わろうなんて考えないで」

切望する妹の言葉に、姉は今度は肯定も否定も返さず。
やがて聞こえた緩やかな呼吸の音に、眠ってしまったのだと気づいた。

「おねえちゃん」

変わらずその呼吸はとても弱い。
今はまだ光と闇の狭間を彷徨う姉が、いつ闇に誘われてしまうのか。その恐怖にいっそ泣き喚いてしまいたかった。

「おにいちゃん。早く帰ってきて」

繋いだままの手を引き、額に触れさせる。
どうか連れて行かないで、と。祈りに似た想いで目を閉じた。



20241203 『光と闇の狭間で』

12/3/2024, 1:55:20 PM