大きな背。
それが少年の見た、彼女の最後の姿だった。
大人達の険しい話し声を、彼女の背越しに聞いていた。
何を話しているのかは分からない。けれど時折聞こえる怒鳴り声や彼女を責め立てる声から、その内容が決して穏やかではない事を少年は感じていた。
不意に会話が途切れる。振り向いた彼女は凪いだ微笑みを浮かべて身を屈め、少年の頭をそっと撫でた。
「巫女様?」
彼女は何も言わない。ただ微笑み一つを残して身を起こし、村の奥へと歩き出す。
誰も何も言わない。彼女を止める者もない。
急に怖くなり、少年は早足で彼女に追いついて袖を引く。今までならば気づいて止まってくれていた彼女は、何故か歩みを止める事はなかった。
不気味な静寂の中、彼女は迷いなく歩みを進める。袖を引く少年の歩幅に合わせ、幾分かその速さは穏やかになってはいるが、それでも立ち止まる様子はない。
彼女と少年の後。離れて大人達がついて歩く。複数の足音が、どこか耳障りに少年の鼓膜を揺すった。
彼女が立ち止まる。どうやら彼女の目指していた場所に着いたらしい。
俯いていた少年が彼女を見上げ、そして目の前の淵を見る。
ざあざあ、と奥の小さな滝が立てる音を、どこか夢心地で聞いていた。
彼女の手が袖を引いたままの少年の手を離す。名残惜しげに彼女を追う手に背を向けて。
「左様ならば、仕方ない」
凜とした別れの言葉と共に、彼女は躊躇いなく淵にその身を沈めた。
「どうしたの?」
柔らかな声に顔を上げる。
見上げた先には、少年の姿。蹲り泣く幼子よりは幾分か年上に見える彼は、心配そうに身を屈めて幼子に手を差し出した。
「麓の子かな?こんな所まで来てはいけないよ」
優しく窘められて、幼子の目からは新たな滴が溢れ落ちる。しゃくり上げながら、ごめんなさい、と謝れば、少年は小さく笑って大丈夫だと、頭を撫でた。
「おいで。麓まで送ってあげる」
少年に促され、幼子は少しよろけながらも立ち上がる。
手を引かれ、そのまま歩き出そうとして。
「?」
少年に引かれている手とは反対側。
袖を引かれた、気がした。
振り返る。けれどそこには誰もいない。
「どうしたの?」
少年が不思議そうに小首を傾げ問いかける。それに何でもないと首を振って、幼子は少年に連れられて歩き出した。
「ここはね、巫女様の眠る淵があるんだよ。だから巫女様の眠りの邪魔をしないように、誰も入ってはいけないんだ」
幼子の手を引きながら、少年は語る。
この先にある淵には巨大な毒蛇が住むと言われており、その毒蛇を鎮めるために、昔旅の巫女が人身御供として淵に身を沈めたのだと。
少年の話を聞いて、幼子は不思議に思う。
誰も入ってはいけないのならば、何故少年はこの場所にいたのだろうか。
それは聞いてもいい事なのか。幼子には判断がつかない。
不用意に聞いて、少年は怒りはしないだろうか。聞いた事でもしもこの場に置いていかれでもしたら。
そんな不安が幼子の口を閉ざす。少し前を歩き、手を引く少年の後ろ姿を静かに見つめていた。
その視線に気づいたのだろう。あぁ、と小さく頷いて、歩きながらも振り返り、幼子に笑いかける。
「きみみたいに、迷い込んでしまった人の案内をするのが、ぼくのお役目なんだ」
管理人みたいなものだよ、と少年は明るく告げてまた前を向くが、そういえば、と何かに気づき立ち止まった。
一歩遅れて幼子も立ち止まる。
「一つ言い忘れてた。ここでは別れの言葉を言ってはいけないよ」
振り返る少年の表情には、もう笑みはなく。真剣な眼差しに、どうして、と幼子は首を傾げる。
「巫女様にはね。大切にしていた子がいたのだけれど、その子のお別れの言葉を聞く前に眠ってしまったんだ。だから別れの言葉を聞くと、その子がお別れを言いに来たのだと勘違いをして巫女様が来てしまうよ」
そうなのか、と。あまりよく分からないままに幼子は頷く。
素直な幼子に笑みを返して、少年はまた幼子の手を引き歩き出した。
「このまま真っ直ぐ行けば、戻れるよ」
木々の合間を抜け、獣道を辿り。
少年に手を引かれ歩き続けて、ようやく広い場所に出た。
ほぅ、と安堵の息が漏れる。長い道のりは幼子の体力を大分削ってはいたが、あと少しだという思いが、幼子の足を前に進ませる。
手が離される。それが少しだけ寂しいと、幼子は名残惜しげに己の手を見つめた。
少年と出会ってから、さほど時間が経っている訳ではない。だが少年と過ごした時間は、幼子にとってとても楽しいものであった。
離れがたいと思ってしまうくらいには。
「気をつけて。もうここに来てはいけないよ」
柔らかく微笑んで背中を押す。
少年の言葉を寂しく思いながらも、おとなしく頷いた。
「左様なら。元気でね」
手を振る少年に、同じように手を振り替えして。
「ありがと。さよなら」
別れの言葉を、口にした。
ざわり、と響めく風の音。
ざわり、ぞわり、と木々を揺らし、草葉を鳴らして。
がらり、と空気を変えた周りに、幼子の唇から声にならない悲鳴が漏れた。
先ほどまで優しい笑みを浮かべていた少年から、表情が抜け落ちる。
「言ってしまったね」
静かな呟き。その声音は、今まで手を引いてくれていた少年のものとは思えぬほどに冷たく響いて。
ぞくり、とした恐怖がこみ上げて、逃げようと背後を振り返る。
「ぇ?」
そこに道はなかった。
鬱蒼とした木々が生い茂り、あったはずの帰り道はどこにも見えない。
呆然とする幼子の耳に、ざあざあ、と水の落ちる音が響く。
はっとして辺りを見回せば、そこは先ほどいた場所ではなくなっていた。
「別れの言葉は口にしてはいけないと、言ったはずなのに」
無感情な声が響く。
恐る恐る振り返り見た少年の背後。淵の奥にある滝がざあざあ、と音を立てる。
なんで、と震える唇で、幼子は声も出せずに呟いた。
なんで。どうして。
少年が先にさようならを言った。だから大丈夫なのだと思って。
疑問ばかりがこみ上げる。恐怖で滲む涙で、周囲がぼやけていく。
ざり、と地を擦り、少年が一歩足を踏み出す。思わず後退る幼子の体は、けれど何かにぶつかり下がる事はなかった。
冷たい、濡れた感覚。頭に、肩に落ちる、いくつもの水滴。
「左様ならば、仕方ない…そうでしょう?巫女様」
少年が口元を歪めて嗤う。
背後から伸びた、鱗に覆われた白い腕が幼子を閉じ込め。
促されるようにして見上げる幼子の視線の先。
濡れた長い髪を無造作に垂らし、見下ろす表情の抜け落ちた美しい女と。
目があった。
「おいしかった?巫女様」
膝に頭を乗せ眠る大蛇を、少年は優しく撫でる。
二刻もあれば全て消化され、目を覚ます事だろう。
「人間はいつも約束を破ってばかりだね」
呟きながら、鬱蒼と生い茂る木々へと視線を向ける。
そこにはかつて道があり、その先には小さな村があった。
今は無い。村があった事すら覚えている者はいないだろう。
「巫女様との約束を破らなければ、今もあの村はあったのかな」
無理だろうな、と少年は嗤う。
村の者は約束を守るつもりなど、最初からなかったのだから。もしもを考えても意味のない事だ。
あの時。人身御供として立てられたのは、少年だった。
身寄りのない、悲しむ者のない子供。食い扶持を減らす、口実もあったのだろう。
――私が鎮めましょう。代わりに子を生かして下さい。
それを見越して、巫女は村の者と取引をした。彼らを信じて、子供を託した。
だが結局は。
数年後には、巫女と同じように子供は淵に沈められ。
巫女の怒りに触れた村は、一夜にして焼き尽くされた。
「仕方がない。約束を破ってしまったのだから」
村の者も。先ほどの幼子も。
約束を、契約を違えたのだから、その咎を受けるのは仕方のない事だ。
くすり、と嗤う。
少しだけ、可哀想だな、と他人事のように思った。
「最初から帰す気なんてなかったって知ったら、あの子は何を思うかな。帰り道のふりをして巫女様の所へ連れてきて、わざと別れの言葉を口にさせたなんて」
ねぇ、と隣に視線を向ける。
少年と同じ見目をした幻が、声なく泣いていた。
20241204 『さよならは言わないで』
12/4/2024, 10:34:50 PM