白椿の咲く一本の木の前で、一人立ち尽くしていた。
これは夢だ。ぼんやりとそう思う。
記憶にあるそれよりも幾分か小さな椿は、溢れんばかりの白い花を咲かせ。風に葉を揺らし、時折花を地に落とす。
何にも縛られる事のない自由な椿は、何の力も持たないただの椿だった。
「どうか皆をお守り下さい。傷ついた者達に安らかな眠りを与えて下さい」
必死に祈る声が聞こえた。
いつの間にか椿の前に、幼い少女が一人。椿に水を与え、祈っていた。
いくら祈った所で、椿はただの椿だ。そうは思えど口には出さず。少女に習うようにして、椿に祈る。
祈る度、瞬きの度に少女は大人になっていく。やがて少女の姿が消えても、ただ一人椿に祈っていた。
「助けて下さい」
声がして、目を開けた。
椿の前。先ほどとは違う少女が倒れ伏していた。
「助けて」
少女の願う言葉は、椿にではない。
弱りながらも強さを失わない目は、椿ではなくこちらを見ていた。
「どうすればいいの?」
助けて、と言われても、何を求めているのか分からなかった。
誰を助ければいいのか。何をすれば助ける事になるのか。
問いかければ、少女の強い目が迷うように揺れて。
「名前がほしい。このまま消えたくない」
そう言って必死に腕を伸ばす少女に、応えるようにその手を掴んだ。
「目が覚めたか」
「神様?」
目を開けると、彼が奉られている社にいた。
随分と暖かい。彼の腕の中は酷く安心する。
夢うつつに微睡む意識で、彼の胸元に擦り寄った。
「黄櫨《こうろ》。俺の眼を欺くな。お前を失いたくはない」
静かな声に、目を瞬いた。
彼を見上げる。揺らぐ金色が怖れの色を浮かべているのが見えた。
「ごめんなさい、神様」
腕を伸ばし、彼の頬に触れる。ここにいるのだと、どこにも行かないと伝えるように、彼を呼んだ。
「許さぬ。暫くはここから出られると思うな」
「曄《よう》が心配するよ」
「炎が側にいる。問題はないだろうよ」
頬に触れた手に重なる手が、微かに震えている事に気づく。
怖ろしかったのだろうか。彼を一人置いていなくなると思われているのだろうか。
そんな事あるはずないのに。
「あれは黄櫨を求めていた。黄櫨の神になり、呼んでほしかったのだ」
消えてしまった一人きりの妖を思い出す。
妖は妖だ。妖が守る一族にとって式であり、守り神であったけれども、それだけだ。それ以外の者にとっての神には成れない。
それに私の神様は一人だけでいい。
「私の神様は御衣黄《ぎょいこう》様、ただ一人だよ」
言葉にして伝える。彼の金色を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
彼がいい。過去に縋るしかなかった弱い私の手を引いていてくれたから私はここにいる。未来に生きられるように、新しく名前をくれた彼だけが私の神様だ。
「何処にも行かない。離れてもちゃんと神様を呼ぶよ。最初から呼んだのは私だったでしょう。だからこれからも、あの時だって神様を呼べたんだから」
妖の庭で妖と対峙した時、無意識に彼を呼んでいた。
守るように現れた彼の背を見て、本当は泣きたくなるくらいにほっとしたのだ。
「黄櫨」
名を呼ばれる。頬に触れていた手を取られ、指先に彼の唇が触れた。
「どうしたの、神様」
彼は何も答えない。答えの代わりに手が離されて、そのまま彼の手が視界を覆った。
ほんの僅かな違和感と、穏やかで暖かな熱。
「暫し眠れ。怖かったのであろう」
優しい声。それでもどこか憂いを帯びた声音に、彼はまだ不安なのかと思う。
怖いのはきっと神様も同じだ。大丈夫だと言葉で伝えても、不安は消えてくれなかった。
言葉だけでは伝わらないのだろうか。どうすれば彼の不安を、怖れを取り除く事が出来るのか、分からない。
「神様、私はどうすればいい?神様のために私は何が出来るの?」
問いかける。さっき夢で見た少女にしたのと同じ問いを、彼にする。
「名を、呼んでくれ」
ただ一言。
その小さな囁きは、あの椿の元にいた少女達の祈りの言葉によく似ている気がした。
「御衣黄様」
彼の名を呼ぶ。何度も繰り返す。
想いを込めて、只管に。
「御衣黄様。私の名前も呼んで」
彼の名を呼ぶ合間にそう願えば、微かな笑う声と共に黄櫨、静かに名を呼ばれる。
彼が与えてくれたもの。今の私を定めてくれる大切な宝物。
段々と瞼が重くなっていく。緩やかに落ちていく意識の中、夢の中の少女が彼女と重なり、あぁそうか、と理解する。
転校生として彼女と初めて会った時。懐かしいと言われたのは、本当の事だった。
彼女があそこまで私達に心を砕いて動いてくれたのは、彼女に名付けたからか。
昔、椿の元で出会った彼女は、人でありながらも、妖のように消えかけていた。遠い昔、呪に蝕まれた亡くなった祓い屋の、その歪み捻れた魂を取り込んで生まれてしまった彼女は、生まれた時から妖に近い存在だった。
両親からもらった、祓い屋の名の一部である白という名がさらに彼女を不安定にさせ、きっと出会わなければあのまま消えていたのだろう。
名がほしい、と彼女は願った。存在を確かにするために。
だから差し出した。忘れ去られ、消えていくだけの名を。
「封が大分解けてしまっているな。それ以上思い出すな。お前は今、黄櫨なのだから」
眠れ、と今一度彼に促され、思考が解けていく。
目が覚めれば、二度と思い返す事もないのだろう。
「お前には俺がいる。孤独に彷徨った過去などいらぬだろう」
途切れる意識の間際。
それでも確かに聞こえた救いのような彼の言葉に、泣くように微笑った。
20241122『どうすればいいの?」
「寒緋《かんひ》さん。少しいい?」
全てが終わり。後に残った面倒事も一区切りがついた頃。少女は男へと声をかけた。
その腕の中には黒い子猫。しなやかな尾を大きく揺らしながらも、少女の腕から逃れようとする様子はない。
「何だよ」
訝しげに男は少女を見る。僅かに苛立ちが浮かぶのは、少女の腕の中の子猫が記憶の中の唯一と同じ名を持つからだ。
そも、兄姉以外とは関わりを持とうとしない男が未だにこの場にいるのは、兄に後始末を指示されたからに過ぎない。
男にとってはこの屋敷に住まう者がどうなろうと、それこそ死に絶えてしまおうと興味はなかった。屋敷内に来た際、広間に立て籠もる者達に手を貸したのも、邪魔をされたくなかったからに過ぎない。
ただ兄に残れと言われたから。それだけがこの場に留まる理由の全てであり、他と交流を持つ事など端から求めていなかった。
「この子。陽光《ようこう》と言うのだけれど。無茶ばかりをしていてね。だから無茶が出来ないようにしようと思って」
「それが何だってんだ…って、おいっ!」
はい、と子猫を手渡され、思わず受け取ってしまった男の顔が不快に歪む。
遠い昔の男の大切な唯一の名は、男の記憶の柔い部分を揺さぶり、酷く不快な気持ちにさせる。況してやこんな畜生に名付けられていると思うだけで、腸が煮えくり返りそうだというのに。
けれども少女は男には見向きもせず。子猫に向かい、呆れを乗せて話しかけた。
「もう人の姿を取れるくらいまで回復したでしょう。さっさと姿を見せてあげなよ、陽光」
少女が子猫の名を呼んだ刹那。子猫の姿が揺らぎ、人の形へと変わっていく。
その姿に男は目を見開き、息を呑んだ。不快に耐えられずその小さな体を握り潰そうとした腕は、焦り抱き留めるようにして人に変わった子猫の体に巻き付いた。
「主!お許し下さい。後生ですので行かないで下さいまし!」
子猫が必死で少女へと手を伸ばす。それに笑顔で手を振って去って行く少女を、それでも諦めきれず男の腕から逃れようと藻掻き出した。
「離して下さいまし!このままでは主に置いて行かれてしまわれます」
「陽光」
「お願いで御座います。主は私のような畜生めを救って下さるほどの尊いお方。今世では主にお仕えする事こそが私の務めなのです。ですのでどうか離して下さいまし、父上」
子猫の言葉に、男は名を呼ぶばかりで離そうとはしない。
「陽光」
噛みしめるように愛しさを込めて名を呼ぶ。男がかつて愛した者との間に生まれたただ一人の、何にも代え難い大切な娘の名を。
霞み色褪せてしまってはいるが、忘れた事など一度もない。
気高く、美しい娘だった。聡明で何事にも動じる事のない強さを抱いた、男の自慢の宝だった。
きつく目を閉じる。それでも耐えられず溢れ落ちた涙が子猫を濡らし、その冷たさに、己の言葉を聞く事のない男に、焦りを浮かべた子猫の表情が段々と苛立ちと怒りに変わっていく。
「父上。離して下さい」
「陽光」
ぷちり、と何かが切れる、音がした。
「いい加減にせぬか、親父殿!離せと何度言うたら理解するのか、この軟弱者めがっ!」
「陽光だ。本物の陽光だ」
「ええい、いつまでも泣くでないわ!あれから何百年も経っているというに、その泣き癖は変わらぬとは全くもって嘆かわしい。疾く離せ。擦り寄るでない」
子猫の手が男の頬を張る。それでも男は子猫を離す事はなく。目尻を下げ、口元を笑みの形に歪めて、嬉しくて仕方がないのだとさらに強く抱きしめた。
「陽光。ごめんな。俺がもっとしっかりしていれば、あんな野郎に嫁ぐ事なんてなかったのに。あんな脆弱で女一人守れんような奴なんかに」
後悔を口にする。娘を手放した事を、男は今も悔いていた。
例えその婚姻が娘の意思であったとしても。男の唯一の宝である娘を手元に置いておきたかったのだ。
「殿を謗るのはやめよ。親父殿よりも余程素晴らしきお人であったわ」
男から顔を背け、子猫は窘める。
だが子猫の纏う気は幾分か落ち着いている。夫婦であった時は僅かではあったものの、穏やかで愛おしい過去を懐かしむように子猫は目を細めた。
子猫にとっては男と共に過ごした時より、己が認め愛した殿との記憶が何よりも大切な宝であった。
それに不満を覚えて、男は子猫を幼子を抱くようにして抱き上げ視線を合わせる。愛しい者との記憶を辿る行為を邪魔され、子猫はまた苛立たしげに男を強く睨めつけた。
「何だ、親父殿」
「…俺の方が、強い」
微かな、訴えかける呟きを、子猫は鼻で笑う。
「殿は最期の時まで人前では涙一つ見せぬ、立派な男子であったぞ」
押し黙る。それでも目だけで不満を表す男に、子猫は致し方ない、と呆れて柔らかく笑った。
かつて娘であった子猫は、男のこの表情に弱いのだ。
「分かった分かった。そうだな、親父殿は誰よりも強い男であったな。詫びに暫くは親父殿の元で厄介になる故、許せ」
「本当だな。嘘じゃないな」
「この陽光に二言はない。それに此度の所業に主は甚く気分を害されてしまった事であるし、今更戻れぬ」
「そうか」
子猫の言葉に、男は泣くように顔を歪めて笑う。
幸せだと、目を細めて。男は己の唯一である宝を強く抱きしめ、その額に口付けた。
「あ。ふっとんだ」
男達とは離れた場所。
少女と少年は、男が子猫に殴られ蹴られ吹き飛ばされていくのを笑いながら見ていた。
「師匠。陽光はあれでいいのか?」
笑いながらも不安を宿して、少年は少女に問いかける。少年の記憶にある限り、子猫はかつての親の元へ帰る事を拒んでいたはずであった。
「いいんだよ、あれで。陽光は素直でないからね」
子猫は男と会いたくはないと言ってはいたが、男が嫌いだとは一言も言わなかった。ああして男に手を上げる事はあれど、男と離れてもその場を去ろうとしないのが何よりの証拠だ。
それを指摘すれば、少年はそういうものかと首を傾げながら、男と子猫のじゃれ合いを眺めていた。
「あのおっさん。陽光に頼まれてちび達がおっさんの永遠を解こうとしたって知ったら、どう思うんだろうな」
「さあね。でも案外嬉しがるんじゃないかな。手段はどうであれ、一人を苦しむ父を救うためだったんだから」
実際は、男にはすでに共にいてくれる兄姉がおり、一人を苦しむ事はなかったようであるが。
それでも愛娘が己を想い続けていたと知れば、幸せ者だと男は泣くように笑い、終を受け入れるのかもしれない。
男達から視線を逸らし、庭中を駆け回る童女達に視線を向ける。
傍らの少年よりもさらに幼い少年の指示で、あやとり紐を手に走る二人の童女はとても楽しそうだ。指示役の少年も、いつもより表情は柔らかいように見える。
目を細め、笑みを溢し。
けれどそう言えば、と笑みを消して、少女は傍らの少年に話しかけた。
「様子見だって言ったのに勝手に動いた事のお説教がまだだったね」
ぎくり、と少年の肩が跳ねる。
「嵐《あらし》がおちびのお願いに弱いのは知ってるけど、意味のない事だって知ってたでしょう?ちゃんと止めてよ」
「だってさ、ちび達が失敗して落ち込んでたし、褒めてほしかったんだって。あのおっさんと同じくらいの呪いは、あれくらいしかなかったし」
もごもごと言い訳をするも、次第に声は小さくなり。
小さなごめんなさいの言葉に、少女は仕方ないと笑った。
「まあいいや。そろそろあの子達も休憩した方がいいだろうし。皆が揃ってからお説教をしようか」
えぇ、とぼやく声は聞こえないふりをして。
「晴《はる》、天《そら》、光《ひかり》。戻っておいで。休憩にしよう」
視線に気づき、笑顔で手を振る少女の宝物達に声をかけた。
20241121 『宝物』
蝋燭に火を灯す。
揺らめくその炎で香に火をつければ、ゆらりと立ち上る煙が形を作り、やがて緋色の妖の姿になった。
「まさか貴女に呼ばれるとはね」
「藤白《ふじしろ》さんを探せって教えてくれたって聞いたから。どうなったのか知る権利はあるかなって」
蝋燭の炎に視線を向けたまま呟く。
「色々あって、他の皆はまだ庭の中でやらないと行けない事があるって言ってた。だからあたしが話せるのは、クガネ様が消えた時までだけどね」
妖は何も言わない。その沈黙に甘えてゆっくりと話し出す。
「クラスに転校生が来たの。少し不思議な子」
自分達にとっては、彼女が始まりだった。
それからたくさんの事が起きた。
聞こえる声。送られた枯れない藤の花。
座敷牢とそこにいた二人の男の人。
変わり果てた叔父の屋敷。
そして、クガネ様。
要領の得ない、妖の話とは比べものにならないほどお粗末な話。
それでも話を止めるつもりはなかった。誰かに話を、クガネ様の事を知っていてほしかった。
話ながらも神に言われた事が繰り返し頭を過ぎていく。
妖は誰からも認識されなければ消える。消えてしまえば残るものなど何一つないのだと。
だからクガネ様に作られたという藤白も、彼に作られたという篝里《かがり》もクガネ様と共に消えてしまった。
そしていずれは自分達の記憶からも消えてしまうらしい。
「それで黄櫨《こうろ》がクガネ様のために歌って。クガネ様が笑って目を閉じたら、そのまま光になって消えたの」
ふぅ、と息を吐く。とても長い話になると思っていたけれど、話し方が下手なせいか思っていたよりは早く終わってしまった。
変わらず妖は何も言わない。多くを見知っている妖だから、既に知っていたのだろうか。
「クガネ様が消えた事で、屋敷は元に戻ったし、皆無事だった。でも皆クガネ様を忘れてた」
屋敷の主である叔父ですら、覚えてはいなかった。今回の事は離れに留まるたくさんのナニかが原因だと思われていた。
誰からも忘れられてしまうのは、とても寂しい事だ。
けれどあの場にいた自分以外は、それでいいのだと言う。
彼を正しく覚える者がいないのだから。離れの奥の怖ろしい存在として認識されていくよりは忘れられ消えて行く方がいいと。
それを否定するつもりはない。歪んだあの姿のままでいるのは苦しい事だと思ってもいる。
けれど如何しても。如何しても考えてしまうのだ。
長い間一人きりで、人々に誤解され歪んでいきながらも必死で守ろうとした優しい神様が、結局最後まで一人きりで消えていく結果を変える方法が本当はあるのではないかと。
「馬鹿な子ね。怖い目に遭ったというのに、その相手に心を砕くなんて」
静かな呟き。紡がれた言葉は呆れを含んではいるものの。その声音はどこか優しい。
妖に視線を向ける。以前出会った時の気怠い空気はなく、ただ柔らかい笑みを浮かべて手招いた。
「別に怖くない。クガネ様は怖くなかったよ」
妖の側に歩み寄りながらも、怖くはないのだと、繰り返し言葉にする。
クガネ様は怖くない。今は心からそう思える。
親友と二人、終わらせるために歌った時に流れ込んできたクガネ様の記憶が、それを伝えてくれている。
藤の花は、守ろうとして送られた。これ以上彼を見ないように、声に応えないように。僅かに残る彼の意識が、自分という魔から守られるようにと送らせた。
呪われた人を呼び寄せるのも、元はその呪いを代わりに取り込んで返していたらしい。けれど体に溜めた呪いが限界を超えて制御が出来なくなり、人の認識によって存在が歪んで。呪われた人を呼び寄せる意味を失って、行為だけが残ってしまった。
そしてその行為と、篝里に逢いたいという気持ちと。僅かに残る術の記憶が合わさって、人にも、況してや篝里にもなれない泥の塊がいくつも出来てしまった。
「クガネ様は怖くない。あたし達が怖がったから、クガネ様が怖くなってしまったんだ」
妖の招く手に触れて、はっきりと伝える。
順番を間違えてはいけないのだと。
「本当に馬鹿な子。真っ直ぐで甘い子に、一つ教えてあげましょうか」
抱き上げられて、妖の膝の上。
しなやかな指が差す方へ視線を向ける。蝋燭の火が妖の指に応えるように、ゆらりと揺れた。
「人が終を迎えて行く先がどこなのか、知っているかしら。全てが始まる場所であり、終わる場所でもある常世と呼ばれる世界」
指先がくるり、と円を描き。それに合わせて火の揺らめきが大きくなっていく。
「人はまた始まるためにそこへ還っていくのよ。藤白も篝里も還っていったようね。おまけを連れて」
揺らめく火の向こう側に何かが浮かび上がる。
三人の男の人の後ろ姿。
足取り軽く。真ん中の背の高い男の人の手を、二人が引いている。黒い鳥が三人の頭上を旋回し、戯れに誰かの肩や頭の上に止まっては、再び空へと飛び立っていく。
その姿はどこか見覚えがある気がした。
「少し違うけど藤白、さんと、篝里さん?じゃあ真ん中の金色の髪の男の人は」
「そうよ。あれが黄金《くがね》。藤白も篝里も、混ざるもののない姿がそれよ」
声は聞こえない。表情も見えない。
けれども皆笑っているように見えた。そう思えるくらい後ろ姿だけでも、楽しそうだった。
「あの二人は黄金に甘いもの。無理矢理にでも一緒に連れて行く事にしたようね」
くすくすと、妖は笑う。指を下ろせば蝋燭の火は消えて、白い煙が一筋上っていった。
「クガネ様は一人じゃないんだね」
「一人にさせてはもらえないのよ。過保護なのも考えものよね」
それくらいが丁度良いのではないだろうか。
少なくとも皆が笑っている。寂しい思いはしていないのだから。
振り返り、妖を見る。
鈍色に煌めく瞳が星のようで、とても綺麗だった。
「煙もそろそろ絶えるわね。戻るわ」
「お香ならまだあるよ。蝋燭はまた点ければいい」
「何が言いたいのかしら?」
笑みを浮かべたまま、妖はわざとらしく首を傾げる。
知っていて敢えて聞く、その意地の悪さに苦笑して。膝から降りて蝋燭に火を灯し、香に火をつけた。
振り返り、妖と同じように笑ってみせる。
「折角なんだから、何か話を聞かせてよ。一人で退屈しているの」
妖に、望む。
この美しい緋色の妖が、消えてしまわぬように。
20241120 『キャンドル』
――守り神様。
声が聞こえて、目を開けた。
変わらぬ庭の景色に、首を傾げる。
彼の姿はどこにもなく。吹き抜ける風が、庭の花々を揺らして遊んでいた。
あれは彼が最初に己に与えた花だ。
霞み消えかけた記憶を思い起こす。
ここにある花や木は、彼が好み己に教え与えたものばかりだ。彼のためにと増やし続けていたものが己の記憶を留めるためのものとなったのは、果たしていつからだろうか。
詮無き事を考え。立ち上がり、辺りを見回す。
やはり彼の姿は見えない。
当然だ。理解はすれど、過ぎる風が時折運ぶ花の香に記憶を揺さぶられ、彼を探す事を止められはしない。
奥にいるのかもしれない。この先の芒は彼が一等好んでいたものだから。
また詮無き事を思いながら姿の見えない彼を探すため、足を踏み出し。
「まだ残っていたんだ。随分と好いていたんだね」
声が聞こえた。
懐かしい、己を定めた唯一の声。
振り返る。藤棚の下で二人の男が立っていた。
風が花弁を舞い上がらせる。鮮やかな色彩を引き連れて、男らの元へと風が駆け抜ける。
黒を纏う男が徐に腕を上げる。風に舞う花弁が腕に戯れるように纏わり付いた。
記憶を揺さぶるその男に、惹かれるようにして歩き出す。
彼らを知っていた。知っているはずだった。
「ここでなら、多少不完全でも戻してあげられる。さあ、戻っておいで」
黒とは対照的な白を纏う男が黒の男の肩に手を触れさせ、口遊む。
千々に離れてしまったものを一つにする術。繰り返す中で己が忘れてしまった旋律。
黒の男の姿が揺らぐ。風と白の男の一部を取り込んで、二つになる。
その姿を認め、駆けだした。
「篝里《かがり》っ!」
「守り神様」
強く抱きしめる。離れぬように。取りこぼさぬように。
求め続けていたその姿に、声に、温もりに。ただ縋り付いた。
「いい加減離れたらどうだい。そのまま潰してしまうつもりかな」
呆れを含んだ声に、顔を上げる。
肩に黒い翼の鳥を止まらせ、腕を組むその姿を己はよく知っていた。
「藤白《ふじしろ》」
「そうだよ。まったく、お前は本当に頭が足りないね」
男が笑う。
僅かに緩めた腕の中の彼が身じろぎし、それに否を答えた。
「此度の所業の責はすべて私にあります。私が望んだのですから、守り神様は悪くありません」
穏やかでありながらも真っ直ぐな視線は、あの時と変わらない。
彼は自身を凡庸と評していたが、己がこれまで出会った人間の中で、彼ほど強く残酷な者はいなかったように思う。
「私は兄を、里の皆を守りたかった。その為にならばこの命、惜しく等はなかったのです。ですがあの望みが守り神様を長く苦しめる事となると知っていたならば、私は」
「篝里」
目を伏せ憂う彼の名を呼ぶ。
はっとして己を見上げる彼の髪に指を絡ませ、閉じ込めるようにしてその身を掻き抱いた。
「篝里。すまなかった」
微かに震える彼の体をさらに引き寄せる。
彼が気に病む必要はない。あの日、己は望みに応えぬという選択も出来たのだから。
それに敢えて応えたのは、己の意思だ。彼の望みに全て応えたいという主我であり、己の唯一との再会の可能性を求めた我欲であった。
そしてどのような形であれ、彼と永遠を共に出来る期待もあったのだ。
「逢いたかった。触れたかった」
抱き留めた腕や胸から伝う熱に、彼の陽だまりのような匂いに酔い痴れる。失う事の意味を理解した今、手放せるはずなどなかった。
「篝里」
「いい加減にしないか。まったく…離れろ」
だが焦れた男の言葉によって、己の意思に逆らい体は彼を離していく。
「篝里」
「情けない声を出すんじゃない。苦しがっていただろうが」
伸ばしたままの腕を、男は容赦なく叩き落とす。
それでも離れる事が怖ろしく、彼から視線を外せずにいれば、彼は少しばかり困ったように眉尻を下げて笑った。
「私ならば大丈夫ですよ?」
「これ以上甘やかすな。何処に行くにも付いて回るようになるぞ。俺の時は厠まで付いてきたんだからな」
遠い過去の話に、そのような事もあったかと幾分か落ち着きを取り戻した思考で思い返す。
彼と共にあった頃よりもさらに過去の記憶は、今や殆どが霞み消えている。この庭に留めていた男との寄辺は男の名である藤しかない。
故に男の話す過去が嘘か誠か判断が付かず。黙したまま男を見れば、小さく彼が笑い声を上げた。
「申し訳ありません。私の知る守り神様とはあまりにもかけ離れていたので」
「あの頃はまだ純粋だったからね。そしてあまりにも無知すぎた。そのまま手放してしまったのは、さすがに後悔しているよ」
そう言って男は苦笑し、空を見上げる。遠い過去を想うその目に、僅かばかりの寂しさを感じた。
「ここにいるのは馬鹿の集まりだな。俺は俺の式に戯れ言を吹き込んで。それを律儀に守った式が暴走して。後裔が己の命を使って式に望み。その後裔の式が庭から欠片を持ち出して均衡を崩した」
「そうですね。誰か一人でも思い留まる事が出来たなら、結果は異なっていたのでしょうから」
「本当にね。あの子達には悪い事をした」
あの子達。己を終わらせてくれた、優しい少女らを思う。
男の使う術とは異なる歌は、純粋な祈りだった。
思い出す。呪をその身に宿した少女と初めて出会った時を。
母屋にいる時から感じていた。幾重にも絡み合う呪と、それを身に宿しながらも自身を失う事のない強さ。そして神様、と呼ぶ澄んだ声音。
羨ましい、と思った。少女の神が。迷いのないその呼び名が。
故に連れて来た。意識の切り離された躰だが、それでも構わなかった。
その選択が最良だった事だけが、幸いだった。
「さて、行こうか」
不意に男が告げた。
「はい。皆で行きましょう」
腕に黒い鳥を止まらせた彼が、笑って男の隣に立った。
もう行ってしまうのか。
いや、漸く行けるのだろう。
人間である彼らが、また始まる事が出来るのは喜ばしい事だ。
名残惜しさに蓋をして、見送るべきかと居住まいを正す。
「何をしているんだ。お前も行くんだよ」
「一緒に行きましょう。守り神様」
差し出された彼の手に困惑する。
人間ではない己が、彼らと共に行く事など出来るはずがない。
彼の手に視線を向けたまま動けない己に嘆息し、男は有無を言わさず腕を引いた。
「ほら、さっさとしないか。それとその見窄らしい格好を何とかしろ。見苦しくて仕方がない」
引かれた男の腕を見、己の狩衣を見る。
煤け草臥れ。擦り切れた狩衣は、確かに随分と見窄らしいものだった。
「それから溜め込んだ呪もここに置いていけ。後始末くらいは俺の記憶にさせても許されるだろう」
男の視線が、早くしろと訴える。
しかし如何すれば良いのか、記憶の中には残っていなかった。
戸惑う己に男は再び嘆息し。腕を引いて視線を合わせた。
「最後まで世話のかかる式だな…黄金《くがね》。元に戻れ」
名を、呼ばれる。
正しく。意味を伴って。
姿が戻っていく。瞳は白から尾花色へ。髪は黒から金へ。
重苦しい体は、軽さを取り戻し。男と共にいた頃の姿を取り戻す。
「良かった。守り神様が元の姿に戻る事が出来て」
「篝里」
「行きましょう、守り神様」
ふわり、と彼が笑う。
差し出された手に、恐る恐る手を重ねた。
「本当に、いいのだろうか」
「どうにでもなるさ。人が妖に成り、妖が人に生まれる世界だ。溜め込んだ想い出を全て置いて行くのだから、それくらいは何とかしてくれるだろう」
「駄目だと言われても、私が説得します。だから今度こそ一緒にいましょう」
「藤白。篝里」
彼らに手を引かれ、歩き出す。
背後を振り返る事はない。置いていくいくつもの寄辺はもう必要ない。
歩む先。遠くに見えた姿に、不安が過る。
だが僅かに前を行く彼らに引かれた手の熱に掻き消され。
笑みを浮かべ、彼らと共に終に向かい足を進めた。
20241119 『たくさんの想い出』
「黄櫨《こうろ》」
静かな声に呼ばれ、黄櫨の肩がびくりと震えた。
「ここへ辿り着いた事に関しては、褒めてやろう。だが俺の眼を欺いた事は許されると思うな」
「ごめんなさい。神様」
素直に謝罪する黄櫨に、御衣黄《ぎょいこう》はそれ以上責める事はなく。目の前の男を見据え、黄櫨を庇うように太刀を構えた。
「かがり…」
男が黄櫨の声に反応して、足を踏み出す。その眼前に切っ先を突きつけて、御衣黄は嗤った。
「黄櫨は貴様を呼んだのではない。俺を呼んだのだ。貴様を神と呼ぶ者は誰一人居らぬ。必要とする者すらないだろう。そのまま朽ちて消えるとよい」
「じゃまを…する、な…」
低い唸るような声。
男が腕を振う。それに反応して木々が、地が揺れる。鋭い枝葉が御衣黄に向け伸ばされ、地中から湧き上がる泥が彼を捉えようと形を変える。
「無駄な事だ」
笑みを崩す事なく、御衣黄は太刀を振るう。軽やかに舞うようにして泥を翻弄し、四肢に繋がれた縄が泥を砕く。
楽しげに嗤い、遊ぶように舞う御衣黄を男は焦るでもなく、白濁した目を宙に彷徨わせ。
不意にその目が黄櫨を、その背後の曄《よう》を見た。
「駄目だよ、曄」
無意識に前に出ようとする曄の手を引く。
はっとして、引き止めた手を見つめ安堵の息を吐く。
礼を言おうと顔を上げた曄は、だが黄櫨へと伸びる男の手を見て焦り、彼女の名を呼んだ。
「黄櫨っ!」
「触れるな、と。そう言ったはずだ」
煌めく一閃に、男は腕を引き距離を取る。
変わらず無表情なままの男に、御衣黄は忌々しげに舌打ちした。
「物覚えの悪い、成り損ないめが」
黄櫨を男の視界から隠し、太刀を構える。
だが不意に何かに気づいたかのように、太刀を下ろし笑みを浮かべた。
「まあよい。どうやら貴様の待ち人が来たようであるしな」
その刹那。
男の背後で何かの破れる音がした。
「悪ぃ、兄貴。見つけるのに手間取った」
「遅いぞ、寒緋《かんひ》。屋敷の中だ」
何もないはずの空間に縦に亀裂が走り。その割れ目から現れた寒緋に、御衣黄は視線を向けずに声をかける。その言葉に従って、屋敷の方へと駆けていく寒緋を止めようと、男は彼に視線を向け腕を上げる。しかし寒緋に続いて現れた複数の気配に動きが止まった。
「彼の邪魔をしてはいけないよ」
「ふじ、しろ…?」
男を留める藤白《ふじしろ》の言葉に、感情のない瞳に初めて僅かな困惑が浮かぶ。
求めていたはずの存在に、声に留められるその意味が理解できていないようだった。
「…なぜ?」
「彼はお前が攫っていった娘の躰を取り戻しにきたんだ。ちゃんと返してあげなければいけないだろう」
「ふじしろ。だが」
「これ以上、我が儘を言うものじゃない。そろそろ戻らないものもある事くらい理解してくれ」
首を傾げる。幼い子供のような男の仕草に、藤白は小さく嘆息した。
「無駄だ。この庭がある限り、諦めきれぬだろうよ」
「それなら如何すればいいんだい。千里眼を持つ神よ」
藤白の言葉を鼻で笑う。
既に知る答えを敢えて聞く藤白に、御衣黄は侮蔑を含んだ笑みを浮かべながら口を開いた。
「知れた事。季を流せばよい。夏から秋を繰り返すこの庭に、全て等しく眠らせる冬を与えてやれば、諦めもつくであろう」
「簡単に言ってくれる。その手段はどうするんだい」
「何だ。出来ぬのか」
然も以外だと言わんばかりに、御衣黄は藤白を見つめた。
「貴様は作られたのか。なれば致し方ないな」
一人納得し、振り返る。
黄櫨、と静かに名を呼んだ。
「何、神様」
「お前は何を望む?」
問われ、黄櫨は手に抱いた子猫に視線を落とし。曄を見て、御衣黄を見た。
「クガネ様が元に戻る事はあるの?」
「難しいな。あれは既に壊れている。望みに応え続けたとて相手はなく、新しく望みに応えるという思考すら今のあれにはないのであろう。何もせずとも、何れは消えゆくだけの存在だ」
「篝里さんが戻れば、クガネ様も元に戻るの?」
「戻らぬよ。望みに応えるために望んだ者の魂を砕き、その僅かに残る欠片が奪われるまでの季を繰り返したとして、失われたものが戻る事はない。欠落を他で埋めたとして、それは結局は別のものだ。どう足掻いた所で一度失ったものが元に戻る事はないのだ。既に失われているのだから、黄櫨の躰に施された否定する呪も意味をなさぬしな」
御衣黄の言葉に、黄櫨は眼を伏せる。
その頬を優しい風が撫で上げて、芒の小穂を高く舞い上がらせた。
風に促されるように顔を上げ、暫く空を見上げて。黄櫨は御衣黄と視線を合わると、柔らかく微笑んだ。
「歌うよ。クガネ様のために。冬の、惜別の歌を」
「黄櫨」
「私が招かれた。だから歌うの」
黄櫨の微笑みに、御衣黄は仕方がないと息を吐き、道を空けた。
歩き出そうとして、手を引かれる。
「一人で行こうとしないで。あたしも行く。招かれたのは一緒なんだから」
振り返れば、曄は笑って黄櫨の隣に立つ。
手は繋いだまま。視線を合わせて頷いた。
「神様。この子をお願いします」
御衣黄に子猫を託し、歩き出す。
道に迷った子供のような不安げな顔をする男の前まで来ると、手を伸ばした。
「クガネ様。もう終わりにしようか」
「あたし達は大丈夫だから。ゆっくり休んでよ」
男の手を引く。白濁した目が迷い揺れて、けれど促されるままにその場に座り込んだ。
黄櫨が歌う。冬の訪れを。別離を。それでいて優しい歌を静かに歌い上げる。
男の隣に座った曄は、男に寄り添いながらその背を優しく撫で、時折黄櫨の歌に合わせて歌を口遊む。
歌う二人以外には誰も言葉を発する事なく。
静かな歌は木々の葉を落とし、芒を枯らす。
庭園の停滞していた時が動き出し、秋から冬へと季を写していく。
「クガネ様、ありがとう」
「おやすみなさい、クガネ様」
少女達の言葉に、男は静かに瞼を閉じて。
「おやすみ。かんしゃする」
淡く微笑んで、その姿は光となって消えていった。
20241118 『冬になったら』