sairo

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「寒緋《かんひ》さん。少しいい?」

全てが終わり。後に残った面倒事も一区切りがついた頃。少女は男へと声をかけた。
その腕の中には黒い子猫。しなやかな尾を大きく揺らしながらも、少女の腕から逃れようとする様子はない。

「何だよ」

訝しげに男は少女を見る。僅かに苛立ちが浮かぶのは、少女の腕の中の子猫が記憶の中の唯一と同じ名を持つからだ。
そも、兄姉以外とは関わりを持とうとしない男が未だにこの場にいるのは、兄に後始末を指示されたからに過ぎない。
男にとってはこの屋敷に住まう者がどうなろうと、それこそ死に絶えてしまおうと興味はなかった。屋敷内に来た際、広間に立て籠もる者達に手を貸したのも、邪魔をされたくなかったからに過ぎない。
ただ兄に残れと言われたから。それだけがこの場に留まる理由の全てであり、他と交流を持つ事など端から求めていなかった。

「この子。陽光《ようこう》と言うのだけれど。無茶ばかりをしていてね。だから無茶が出来ないようにしようと思って」
「それが何だってんだ…って、おいっ!」

はい、と子猫を手渡され、思わず受け取ってしまった男の顔が不快に歪む。
遠い昔の男の大切な唯一の名は、男の記憶の柔い部分を揺さぶり、酷く不快な気持ちにさせる。況してやこんな畜生に名付けられていると思うだけで、腸が煮えくり返りそうだというのに。
けれども少女は男には見向きもせず。子猫に向かい、呆れを乗せて話しかけた。

「もう人の姿を取れるくらいまで回復したでしょう。さっさと姿を見せてあげなよ、陽光」

少女が子猫の名を呼んだ刹那。子猫の姿が揺らぎ、人の形へと変わっていく。
その姿に男は目を見開き、息を呑んだ。不快に耐えられずその小さな体を握り潰そうとした腕は、焦り抱き留めるようにして人に変わった子猫の体に巻き付いた。

「主!お許し下さい。後生ですので行かないで下さいまし!」

子猫が必死で少女へと手を伸ばす。それに笑顔で手を振って去って行く少女を、それでも諦めきれず男の腕から逃れようと藻掻き出した。

「離して下さいまし!このままでは主に置いて行かれてしまわれます」
「陽光」
「お願いで御座います。主は私のような畜生めを救って下さるほどの尊いお方。今世では主にお仕えする事こそが私の務めなのです。ですのでどうか離して下さいまし、父上」

子猫の言葉に、男は名を呼ぶばかりで離そうとはしない。

「陽光」

噛みしめるように愛しさを込めて名を呼ぶ。男がかつて愛した者との間に生まれたただ一人の、何にも代え難い大切な娘の名を。
霞み色褪せてしまってはいるが、忘れた事など一度もない。
気高く、美しい娘だった。聡明で何事にも動じる事のない強さを抱いた、男の自慢の宝だった。
きつく目を閉じる。それでも耐えられず溢れ落ちた涙が子猫を濡らし、その冷たさに、己の言葉を聞く事のない男に、焦りを浮かべた子猫の表情が段々と苛立ちと怒りに変わっていく。

「父上。離して下さい」
「陽光」

ぷちり、と何かが切れる、音がした。

「いい加減にせぬか、親父殿!離せと何度言うたら理解するのか、この軟弱者めがっ!」
「陽光だ。本物の陽光だ」
「ええい、いつまでも泣くでないわ!あれから何百年も経っているというに、その泣き癖は変わらぬとは全くもって嘆かわしい。疾く離せ。擦り寄るでない」

子猫の手が男の頬を張る。それでも男は子猫を離す事はなく。目尻を下げ、口元を笑みの形に歪めて、嬉しくて仕方がないのだとさらに強く抱きしめた。

「陽光。ごめんな。俺がもっとしっかりしていれば、あんな野郎に嫁ぐ事なんてなかったのに。あんな脆弱で女一人守れんような奴なんかに」

後悔を口にする。娘を手放した事を、男は今も悔いていた。
例えその婚姻が娘の意思であったとしても。男の唯一の宝である娘を手元に置いておきたかったのだ。

「殿を謗るのはやめよ。親父殿よりも余程素晴らしきお人であったわ」

男から顔を背け、子猫は窘める。
だが子猫の纏う気は幾分か落ち着いている。夫婦であった時は僅かではあったものの、穏やかで愛おしい過去を懐かしむように子猫は目を細めた。
子猫にとっては男と共に過ごした時より、己が認め愛した殿との記憶が何よりも大切な宝であった。
それに不満を覚えて、男は子猫を幼子を抱くようにして抱き上げ視線を合わせる。愛しい者との記憶を辿る行為を邪魔され、子猫はまた苛立たしげに男を強く睨めつけた。

「何だ、親父殿」
「…俺の方が、強い」

微かな、訴えかける呟きを、子猫は鼻で笑う。

「殿は最期の時まで人前では涙一つ見せぬ、立派な男子であったぞ」

押し黙る。それでも目だけで不満を表す男に、子猫は致し方ない、と呆れて柔らかく笑った。
かつて娘であった子猫は、男のこの表情に弱いのだ。

「分かった分かった。そうだな、親父殿は誰よりも強い男であったな。詫びに暫くは親父殿の元で厄介になる故、許せ」
「本当だな。嘘じゃないな」
「この陽光に二言はない。それに此度の所業に主は甚く気分を害されてしまった事であるし、今更戻れぬ」
「そうか」

子猫の言葉に、男は泣くように顔を歪めて笑う。
幸せだと、目を細めて。男は己の唯一である宝を強く抱きしめ、その額に口付けた。





「あ。ふっとんだ」

男達とは離れた場所。
少女と少年は、男が子猫に殴られ蹴られ吹き飛ばされていくのを笑いながら見ていた。

「師匠。陽光はあれでいいのか?」

笑いながらも不安を宿して、少年は少女に問いかける。少年の記憶にある限り、子猫はかつての親の元へ帰る事を拒んでいたはずであった。

「いいんだよ、あれで。陽光は素直でないからね」

子猫は男と会いたくはないと言ってはいたが、男が嫌いだとは一言も言わなかった。ああして男に手を上げる事はあれど、男と離れてもその場を去ろうとしないのが何よりの証拠だ。
それを指摘すれば、少年はそういうものかと首を傾げながら、男と子猫のじゃれ合いを眺めていた。

「あのおっさん。陽光に頼まれてちび達がおっさんの永遠を解こうとしたって知ったら、どう思うんだろうな」
「さあね。でも案外嬉しがるんじゃないかな。手段はどうであれ、一人を苦しむ父を救うためだったんだから」

実際は、男にはすでに共にいてくれる兄姉がおり、一人を苦しむ事はなかったようであるが。
それでも愛娘が己を想い続けていたと知れば、幸せ者だと男は泣くように笑い、終を受け入れるのかもしれない。
男達から視線を逸らし、庭中を駆け回る童女達に視線を向ける。
傍らの少年よりもさらに幼い少年の指示で、あやとり紐を手に走る二人の童女はとても楽しそうだ。指示役の少年も、いつもより表情は柔らかいように見える。
目を細め、笑みを溢し。
けれどそう言えば、と笑みを消して、少女は傍らの少年に話しかけた。

「様子見だって言ったのに勝手に動いた事のお説教がまだだったね」

ぎくり、と少年の肩が跳ねる。

「嵐《あらし》がおちびのお願いに弱いのは知ってるけど、意味のない事だって知ってたでしょう?ちゃんと止めてよ」
「だってさ、ちび達が失敗して落ち込んでたし、褒めてほしかったんだって。あのおっさんと同じくらいの呪いは、あれくらいしかなかったし」

もごもごと言い訳をするも、次第に声は小さくなり。
小さなごめんなさいの言葉に、少女は仕方ないと笑った。

「まあいいや。そろそろあの子達も休憩した方がいいだろうし。皆が揃ってからお説教をしようか」

えぇ、とぼやく声は聞こえないふりをして。

「晴《はる》、天《そら》、光《ひかり》。戻っておいで。休憩にしよう」

視線に気づき、笑顔で手を振る少女の宝物達に声をかけた。



20241121 『宝物』

11/21/2024, 12:44:46 PM