離れに向かい、屋敷内を駆け抜ける。
生きている者の気配のない静かな廊下は、複雑に入り組み方向感覚を狂わせるが、それでも立ち止まる事はない。
屋敷に足を踏み入れた瞬間に姿が消え離れてしまった二人の少女達を探し、行方を追い求めて走り続けていた。
「随分と、複雑に建て替えたものだね。後裔の趣味を疑うよ」
「そんな訳ないだろう。あれの空間と混じってしまっているんだ」
呆れたように溜息を吐く藤白《ふじしろ》を、玲《れい》は冷たく睨めつける。
「篝里《かがり》の記憶でも、あれの屋敷内はここまで複雑ではなかったが」
「そりゃあ、あちらさんにとっては招かれざる客だろうからな。俺らが来た時からこんなだったが、お前らが来ても変わらねぇのは正直予想外だった。兄貴に何て言えばいいんだよ」
先行する篝里と寒緋《かんひ》が、時折邪魔をするように現れる泥を足を止める事なく蹴散らしていく。
「また場所が変わってる。前はここに広間があったのに。あいつら、もう死んだのかな」
「何の話?」
「ここに来た時、屋敷の奴らが広間に立てこもって結界を張ってたんだ。そこのおっさんが中の奴と少し話して、結界を補強してたみたいだけど」
訝しげな顔をしながら、嵐《あらし》は寒緋を指さす。それに、指を差すんじゃねぇ、と文句を言いながらも、寒緋は縋ろうとする泥を蹴り飛ばした。
皆それぞれに足を止める事なく。迷いなく駆けながらも、その表情は険しさを隠しきれてはいない。
「駄目だな。時間の無駄だ。このままでは辿り着けない」
小さく舌打ちして、藤白が立ち止まる。それに続いて皆足を止めた。
「玲。直接あれの所まで道を繋げる事は出来るか」
「無理。場所が見つからないのに無茶言わないで。そっちだって繋がらないんでしょう」
「まあね。さて、どうするか」
少女達がいるであろう離れに、その先の神域に辿り着くための手段を考えながら、近くの障子戸に手をかける。
触れた瞬間に、とぷり、と形を失った戸に手が沈み込む。揺らぐ戸から伸びた、溶けかけた白い蝋のような腕が沈んだ手首を掴み。そのまま引きずり込もうとする腕を、だが表情一つ変える事なく藤白は見つめ、興味が失せたかのように息を吐くとその腕ごと手を引いた。
「外れか。期待はしてなかったけど」
戸から離れ、溶けて骨だけになった腕を放り投げる。
「師匠。陽光《ようこう》は?連れてかれたあいつらよりも近いじゃん」
嵐の呼んだ名に、寒緋が僅かに肩を震わせる。
それを横目で見ながらも、玲はそれを指摘する事なく首を振った。
「あいつ、また無茶してそうだけど大丈夫かな」
「大丈夫だよ。帰って来る事を約束させてるしね。それより、本当にどうするの?止まったせいで、完全に取り込まれたんだけど」
玲の言葉の通り、気づけば周囲は壁で四方を囲まれている。
前にも後にも進めなくなった事に、しかし誰一人取り乱す様子はない。指摘した玲ですら、静かに藤白の指示を待っていた。
周りの視線を受けて、にやり、と藤白は笑う。
「彼方に近くなったのだから、好都合だ。力業で押し通せばいい」
壁を指さす。その壁を篝里が切り裂いた。
「脳筋め」
次々と壁を破壊し一点に向けて進む彼らを見ながら、玲は呆れたように呟いて小さく笑みを浮かべると、彼らを追ってまた走り出した。
「取りあえず、謝らないといけない事がある」
「何。突然」
荒い息を整えつつ、黄櫨《こうろ》は振り返り、訝しげに曄《よう》を見る。
「余計な事を言ったせいで、どうすればいいのか聞けなかった気がするから」
ごめん、と芒に紛れながら謝る曄に、黄櫨はそんな事かと呟いた。
視線を戻し、前を見る。最後に見たあの背の高い男を警戒しながらも、繋いだままの手をきゅっと握った。
「それなら、私こそ話を切り上げたんだから同じようなものだよ。むしろ分からないのに問い質さなかった私の方が悪いかもしれない」
片手に抱いたままの子猫に視線を落とす。緩やかに弱くなっていく鼓動に焦りを感じながらも、黄櫨はでも、と言葉を続けた。
「分からない事もあるけど、分かった事もあるでしょう」
「分かった気になった、だと思うけどね」
苦笑する曄に、確かに、と黄櫨もまた小さく笑う。
「その分かった気になっているものについて、少し話そうか」
視線は前を向いたまま。警戒を緩める事はなく、声を潜めながらの黄櫨の言葉に、曄も声を潜めて話し出す。
「クガネ様が自分を認識出来る者を求めてるって、どういう意味なんだろう」
「妖はね。人に認識してもらえなくなると消えてしまうんだ。だから人の望みに応える事で、妖は自分を認識してもらい形を保つ。妖の事が伝聞で広がってたくさんの人に認識されれば人に応える必要はなくなるけど、人の話には尾ひれが付いて回るものだから、その場合は大概が歪むらしい」
実際に人の噂話で存在が歪み、化生に堕ちた妖がいるらしい。
黄櫨の話に、曄は思わず身を震わせる。
かつては守り神と呼ばれた妖は、同時に人から怖れられていたという。もしもを想像して、それがあり得ない話ではない事が人よりも余程怖ろしく感じた。
「だからあたし達が呼ばれたのかな。藤白さん達は皆、クガネ様をあれって呼んでた。あの人達の中ではもう、クガネ様は守り神じゃないって思ってるって事だよね…あれ?でもそれだと、あたしが呼ばれた意味が分からない。あたしも小さい時からクガネ様は危険だって教えられて、それを信じて」
「たぶん、それだけじゃないんだよ。元々曄はクガネ様に目を付けられていたんだし」
目を付けられた。その言葉に曄の手が己の右目を無意識に覆う。
聞こえる声。枯れない藤の花。掠れていく声と、落ちていく右の視力に怯えていたのは、まだ鮮明に記憶に焼き付いている。
頭を振る。思考を切り替えるようにして、話題を変えた。
「でも、クガネ様はあたし達の一族を守ろうとしてくれた事は間違いないよね。陽光さんが肯定したし。全部裏返しにして繰り返す日を作る事と呪われた人を攫う事が、何で守る事になるのかは分からないけど」
「間引いたんじゃないかな。呪が広がらないように。裏返しの日というのはよく知らないけど、守るというのとはまた別の感じがする」
裏に返し、繰り返す。
時に死者すら生者に裏返る日は、確かに守るというよりもむしろ、守れなかったものを戻して留めておくと言われた方がしっくりくる。
それを伝えれば、黄櫨は一つ頷いて、想像だけどね、と呟いた。
「クガネ様が藤白さんを呼び戻した日。そうする事でしか、皆を守れなかったんじゃないかな。だから当時の当主さんはクガネ様を咎める事はなかったし、藤白さんを受け入れた。仕方がない事だと皆は受け入れて…でもクガネ様だけが受け入れる事が出来なかった」
目を細め、黄櫨は椿の花を通して視た光景を思い返す。
鳥が最期に吐き出した欠片。男はあれの庭から取ってきたと言っていた。
「それでもこの庭園に篝里さんの魂の欠片がある限りは、それを寄辺に自分を保っていられた。藤白さんもいた事もあって、篝里さんの望みに応え続ける事が出来ていた。でもその欠片を奪われて、藤白さんもいなくなって。残ったのは応える相手のいない望みと、クガネ様を怖れる人だけだった」
「それって」
「皆から怖ろしいモノだって認識されて、望まれる事もなくて。そうなったら、歪んでしまうのは仕方がない事だ。だから、きっと」
不意に黄櫨は口を閉ざし、ある一点を見つめ表情を険しくする。
彼女の背越しに見たそれに、曄は漏れそうになる声を押し殺し、黄櫨に寄り添った。
地を擦る足音。ゆっくりとではあるが、此方に近づいてくる背の高い男。
白濁したその目はすでに光を失い。それでもその歩みに迷いはない。
距離が近づく。逃げなければと思うものの、体は意思に反して動く事を拒んでいる。
目を逸らす事が出来ない。呼吸一つ行う事すら苦痛を伴って。
芒が揺れる。
徐に伸ばされた手が、黄櫨の顔、に。
「その汚い手で、俺の黄櫨に触るな」
低く怒りを宿した声。
芒が空を舞い。澱んだ赤が辺りを染めた。
「神様」
微かな黄櫨の呟く声に、彼女を一瞥し男と対峙する。
「…だれ、だ……」
「貴様に名乗る必要を感じぬな。だが応えてやろう。我が名は御衣黄《ぎょいこう》。黄櫨の、神だ」
白銀の太刀を構え金の瞳を持つ美しい神が、不敵に笑った。
20241117 『はなればなれ」
てんとんとん、と三味線の音色が響く。
それを頼りに辿り着いたのは、古ぼけた屋敷とその濡れ縁に座り無心に三味線を奏でる女性の姿だった。
「来ましたか」
手を止める事なく、視線も向けずに女性は呟く。
「クガネ、様?」
「いいえ。妖はこの障子戸の向こうへ居ります」
問う言葉には否、を返し。
女性はただ、ちんてんとと、と三味線を鳴らし続けていた。
「貴女は誰?何故ここにいるの?」
「私の名など知った所で詮無き事。主の命により、妖を鎮め抑えるため、此方に参りました」
女性の言う妖とはクガネ様の事だろうか。ならば彼女は、少なくとも敵ではないのだろう。
そう思いながらも一歩だけ前に出て。親友を隠すようにしてさらに問いかけた。
「貴女は敵?それとも味方?」
「異な事を仰られますね。それは貴女方次第に御座います。私の音の妨げとなるのであれば私は貴女方に刃を向けねばなりませぬし、そうでないのであれば争う理由なぞ御座いません」
てんてんしゃん、と三味線を奏でる手は止めぬまま。
ですが、と女性はそこで初めて、此方を見上げた。
「私も限界が近う御座います。此処へ訪れたのが主でも原初の方々では無い事が残念ではありますが、貴女方に後を託すと致しましょう」
澄んだ琥珀色の瞳に射貫かれる。
その眼差しをどこかで見たような錯覚を覚えながら、改めて女性を見据えた。
「その為に聞きたい事があるならば、私の知る範囲ではありますが答えましょう」
聞きたい事。
分からない事はたくさんある。分かっている事などないのに等しい。けれど何から聞くべきかと考えていれば、背後に隠した親友が前に出て、女性に問いかけた。
「クガネ様は、何を求めているの?」
ただ一つの親友の問いに、女性は僅かに目を細め。
口元だけで笑みを浮かべてみせた。
「妖は己を認識する事が出来る者を求めて居ります。己が消えて無くならぬように。己の在り方がこれ以上歪まぬように…望みに応え続ける為に」
「望み?」
「妖の元で絶えず母と謡っていれば、自ずと見えてくるものもあります。妖は篝里《かがり》様の望みに応え続けていただけに過ぎません」
篝里の望む事。
それは何だろうか。穏やかで誠実であったという少年が、私欲を望むとは考え難い。
心当たりのないそれに、だが親友は全てを理解したのだろう。そっか、と小さく呟いて、さらに一歩前に出た。
「篝里さんは、一族《あたし達》を守るように望んだんだね」
酷く静かな。
悲しげな、寂しげな声だった。
「その通りで御座います。どうやら貴女方が招かれたのは、必然であったようで。なれば私も悔いなく役目を終えられます」
ふわりと。淡く微笑みを浮かべて。女性はほぅ、と吐息を溢した。
見れば、彼女の左手は爪が割れ剥がれて血に染まっている。
随分と長い間、一度も手を止める事なく三味線を弾き続けていたようだ。限界が近いと言ってはいたが、もうすでに限界は超えてしまっているのかも知れない。
「もう一つ教えて。クガネ様のためにあたし達が出来る事は何?」
「敢えて言葉にする必要はないでしょう。貴女方なれば必ずや為す事が出来ます故に」
てんてとと。
音色が僅かに歪む。
これ以上引き留めているのは酷だろう。
親友の隣に立つ。ありがとう、と告げれば最後とばかりに三味線の音が高らかに響いた。
「最後にいいかな?」
「はい。何でしょうか」
「貴女の名前が知りたい」
きょとり、と。
随分と幼い眼差しが、此方を見つめ瞬いた。次いでくすくすと鈴を転がすような笑い声を上げて、女性は謡うように言葉を紡いでいく。
「私には名などありませぬが、主はかつての私の名を呼ぶ事を好んでおります。陽光《ようこう》、と。その名で宜しければ告げましょう」
ばちん、と。
弦が弾け、音色が止まった。
「畜生の身では、主の命全てに応えられぬのは致し方なき事か。此度の生も些か疲れるもので御座いましたが、楽しめました。私の事はどうぞ捨て置いて、貴女方は為すべき事を為されて下さいませ」
かたり、と三味線が落ちる。
女性の姿が時を戻していくように小さく、幼くなっていき。
やがては人の形を失って。
「猫?」
そこには、小さな黒い子猫の姿があった。
動かない猫を抱き上げる。まだ暖かく、僅かに息がある事に安堵した。
しかし。
「曄《よう》。取りあえずここを離れるよ」
「分かった。でもどこに」
障子戸の向こう側。
どろり、と何かが動く気配がする。
衣擦れの音。畳を摺るようにして歩き、誰かがゆっくりと近づいてく。
「…り……かが、り…?」
声がした。ひび割れた、歪な声。どこか不思議そうに何度も名を呼んでいる。
かたり、と音がして。障子戸が音を立てる。
かた、かたり、と。音を立てながら僅かに開いた戸の隙間から白く細長い指が伸び、竪框《たてがまち》に手をかけた。
「行こう。さっきのすすきの場所まで戻ろう」
片手に子猫を抱いたまま、親友と手を繋ぎ走り出す。
木々の間を通り抜ける直前。振り返り見た、屋敷の濡れ縁には。
落ちた三味線を拾い上げ、弦に指を這わしながら。
此方を見る、長い黒髪の背の高い男が静かに立っていた。
20241116 『子猫』
爽やかでありながらも、何処か冷たい風が頬を撫で過ぎ去っていく。
屋敷内へと足を踏み入れたはずであった。
だが目の前に広がるのは室内ではなく、広大な庭園。何処までも澄み切った青空と、季節を問わず咲き誇る種々の花が目を惹いた。
「すごい」
溢れ落ちた声に、横を見る。
繋いだ手の先。庭園に魅入る親友が誘われるようにして足を踏み出した。
「曄《よう》」
手を引き、止める。
はっとした顔で此方を見る親友に、無言で首を振った。
不用意に動き回るのは危険すぎる。
「黄櫨《こうろ》?あれ、皆、は?」
彼女も気づいたのだろう。周囲を見回すその表情が、不安に陰る。
此処には今、自分達以外誰もいない。
おそらくは招かれたのだ。この庭園の主に。
かつての彼が敬愛した者でも、求め続けていた者でもなく、自分達が選ばれた。
それが何を意味しているのかは、分からない。
「曄。出来るだけ離れないでね。何があるか分からないから」
「分かった。ねぇ、ここってもしかして」
寄り添う親友が、戸惑いを乗せて呟いた。問う形ではある.ものの、すでに答えは分かっているのだろう。繋いだ手が,微かに震えている。
「そうだね。クガネ様の神域だ」
答える声は思っていたよりも冷たく淡々として響き、親友の目に微かに怯えの色が滲む。
怖がらせたい訳ではない。しかし不安を取り除けるような手段を何一つ持ち合わせていない事に、密かに歯がみした。
「これからどうしよう」
溢れる不安を乗せた声に、如何するべきかを考える。
他の皆を待つか。それとも動くべきなのか。
待つとしても、ここには身を隠す場所などはなく。動くとしても、何一つ分からない中では身を守る手段を持たない自分達では危険でしかない。
悩むその横を、風が通り過ぎた。
柔らかく、穏やかで、それでいながら冷たさを孕んだ風。
ざわり、木々が葉を揺する音を聞きながら、親友は不思議そうに首を傾げる。
「ここの季節って、秋なのかな。花は季節関係なく咲いているけど、空の色とか風の匂いとかは秋の感じがする」
「どうしたの。急に」
「うまく言えないんだけど、クガネ様にとってここが秋でないといけないのかなって。秋の季節が一番好きとかかもしれないけどさ。でも何ていうかさ、好きとかとはまた違う気がするの」
うまく言えないけれど、と親友は繰り返す。その目には怯えの色は消え、戸惑いに揺れていた。
また風が通り抜けていく。彼女の言う秋の風が誘うように背中を押した。
「どこかに連れて行きたいのかな」
「行ってみようか」
離れないようにと手は繋いだまま。風の吹く方向へと歩き出す。
とても静かだ。風が木々を騒めかせる以外、聞こえるのは自分達の音だけだ。
風は木々の向こう側へと吹き続けている。誘われるままに木々の間を通り抜けて。
「すすき?」
「すごい。こんなにたくさん」
一面に広がる芒の海に、気圧されるようにして立ち止まる。
ここまで連れてきた風は芒の間を抜け、くるり、と円を描くように遊びながら通り過ぎていく。
目的地はこの芒のようだ。
「ここに何かあるのかな」
「どうだろう。何かあるようには感じないけれど」
辺りに何の気配もない事を確認して、芒へと近づく。
手を伸ばして穂に触れる親友を横目で見ながら、不可解さに眉を寄せた。
分からない事ばかりだ。
求め続けていたはずの者ではなく、自分達が招かれた理由。
季節を問わず様々な花は咲いているのに、庭園が秋である理由。
化生に堕ちたと言われているはずのモノの庭に、魔除けとされる芒が一面にある理由。
ちぐはぐで、違和感だらけだ。
「あのさ」
考え込む意識を、親友の声が引き戻す。
彼女を見ると、戸惑いを浮かべながらも真っ直ぐな目と視線が交わった。
「もしかして、クガネ様。助けてほしいんじゃないかな」
「助ける?」
「うん。分からないけど、そう思った」
あぁ、そうか。とその言葉に何故か納得する。
分からない事ばかりではあるけれども、それが一番正解に近いのだろう。
「ここに来てから、何だか変な感じがずっとする。秋でなきゃいけないとか、クガネ様が助けてほしいって思ってるとか。どうしてか、そう思うんだけど、これってよくないかな」
「大丈夫だと思うよ。曄はたぶん近いんだ。クガネ様が求める一族に」
「そうなのかな。でも何で藤白《ふじしろ》さんや篝里《かがり》さんじゃなくて、あたし達だけなんだろうね。会いたかったんじゃなかったのかな」
「それは分からない。でも意味はあるはずだよ」
おそらくすべてに理由はある。それはまだわからないけれど。
親友の手を引く。
このまま皆を待つよりは、動いた方がいいのだろうから。
親友も同じ事を考えていたらしい。目を合わせて笑みを浮かべた。
それに笑い返して、どちらともなく歩き出す。
「ここのどこかにクガネ様がいるんだろうね」
「そうだね。でもどこにいるのか分からないから、会うなら探すしかないよ」
「広いから大変そう。さっきみたいに風が連れていってくれないかな」
手を繋いで二人、笑い合う。
そこにはもう、不安や恐怖の色はない。
当てもなく歩き、芒の海を抜け、木々の間を通り抜けて。
不意に、何かの音が聞こえた。
お互いに立ち止まる。耳を澄ませれば、風とは異なる微かな音。
「聞こえた?」
「聞こえた。遠いけど、これは」
てん、と。聞こえるのは、弦を弾く音だ。
誰かがいる。どこかで三味線を鳴らしている。
「行こうか」
誰がいるのかは分からない。何があるのか知りようがない。
それでも。
目を合わせて頷いて。
歩き出す。音の鳴る方へ。
20241115 『秋風』
少年がその神社に訪れたのは、夜も更けた頃の事だった。
暗闇に紛れるようにして境内を抜け、社の前で只管に願う。
「お願いします。どうか」
「何をしている」
気づけば、少年の目の前には縄で四肢を繋がれた男の姿。この神社の祭神が不機嫌そうに少年を見下ろしていた。
「貴様。何故此処にいる」
険を増す眼に、それでも少年は怖れる事はなく。縋るように必死で祭神に願いを口にする。
「お願いします。あの人を、師匠を助けて下さい。俺たちからあの人を取らないでっ!」
「何の話だ」
問う言葉に、少年は祭神を睨み付ける。恐怖を、憎悪を、不安を、憤怒を混ぜた涙に揺れる目が、強く訴えかける。
「おまえらが師匠をばけものの所に連れていったんだろ!師匠は師匠なのに、おまえらは師匠を藤白《ふじしろ》にする。師匠にはもう関係がないのに、藤白としてばけものを何とかしろって、そう言ったんだろうが!」
「くだらんな。あれの意思を我の責にするな。不愉快だ」
「おまえらのせいだよ!だって師匠がばけものと会う必要なんてないんだ。会わないようにずっと避けてきたのに。それを、おまえらが」
叫ぶような声は、次第に力をなくしていき。静かに崩れ落ちるようにして少年は膝をついた。
強く握りしめた手が震える。爪が皮膚に食い込んで、滲んだ赤が地に滴を落とした。
「師匠が言ったんだ。じゃあねって。いつもはまた明日って、そう言ってくれるのに。言葉を正しく使う人なのに、これじゃあもう戻ってこないって、そう思って」
ぽつりぽつり、と呟かれる言葉。
不安なのだと訴えかける少年を、祭神は何も言わず冷めた目で見下ろしていた。
「師匠がいなかったら、俺たちはずっと一人のままだった。一人ぼっちで、寂しくて苦しくて逢いたい気持ちを抱えて、消えていくだけだった。俺たちにとって師匠は恩人で、特別なんだ。いなくなってしまったら、俺たちはまた一人になっちまう」
俯く少年からは、先ほどまでの強さは見られない。まるで迷子の幼子のように小さな体をさらに縮めて蹲る。
「師匠がいたから、また明日、って言葉を信じられるようになったのに。また明日会いましょうなんて不確定な言葉。ようやく言えるようになって、手を離せるようになったのに。それを、おまえらが」
「諄い。貴様は我に何を望む」
祭神の言葉に、俯く少年が徐に顔を上げた。
虚ろな目が祭神を見上げ、どうか、と震える唇を開いた。
「お願いします。俺をあのばけものの所へ連れて行って下さい。師匠を守りたい」
願う言葉に、祭神は見定めるように少年を見下ろした。
暫しの沈黙の後。
祭神は社を振り返り、弟妹を呼んだ。
「寒緋《かんひ》。銀花《ぎんか》」
「それも連れてけっていうのかよ、兄貴。姉ちゃんもいないのに子守なんざ無理だぜ」
「連れていくだけだ。それ以上は関与せずともよい。黄櫨《こうろ》以外の生死に興味はない」
「相変わらずだなぁ、兄貴は」
にやり、と社から現れた大柄な男は笑い、傍らの鬼灯を手にした左腕のない少女に行けそうか、と声をかける。
りん、と鈴の音。
――大丈夫。でも送るだけでいいの?
小首を傾げた少女に、祭神は頷き肯定する。
「問題ない。戻るだけなら寒緋だけの方が都合がよい。彼方側は我の眼でも見通せぬ故」
「銀花も気をつけろよ。俺なら大丈夫だ。何かあっても兄ちゃんが来てくれる。そんな気がする」
少女の頭を撫でながら、心配はいらないと男は告げる。それに少女は笑みを返して、少年の隣に歩み寄った。
少女に続いて男もまた、少年の隣に立つ。
「んじゃ、行ってくるぜ」
「何かあればすぐに戻れ。よいな」
「心配性だなぁ、兄貴も」
突然の事に戸惑う少年を置き去りにして。
祭神とその弟妹達は頷き合う。
そして、少女の手にした鬼灯が光を灯し。光が少年達を覆い隠していき。
眩い光が弾けたその後には。
少年達の姿はもう、そこにはなかった。
「という訳だな」
「待って。本当に待って」
にこやかに笑う男に、耐えきれずに待ったをかける。
今の説明では、つまりここに来ているのは、男とあの子という事になる。
「つまり、嵐《あらし》がここに来ているって事?この母屋の中に?」
「あぁ、そうだな。着いてからすぐに別れたから、何処にいるのかは分からねぇよ」
最悪だ。どうしてこうなったと、痛むこめかみを押さえる。
「探した方がいい?」
「そうだね。他の皆の事も心配だし。探した方がいいかも」
彼女達の心配そうな声に、首を振る。
「嵐なら一人でも大丈夫。時間がもったいないし」
「でも」
優しい二人に笑いかけ。大丈夫だからと声をかけた。
あの子は無事だろう。こういった荒事に対処するのは得意な方だ。
問題があるとすれば、それは。
「っ師匠!」
母屋から聞こえた声。次いで体に感じる衝撃と塞がれる視界に、思わず呻く。
「師匠、師匠」
「大丈夫だよ。ほら泣かないの」
「泣いてない。でも師匠が無事でよかった」
「ごめんね。心配かけた」
別れた最後の記憶のそれより大きな体に、出かかる溜息を何とか呑み込んだ。
体だけが成長したこの子は、ちびたちの中で一等精神が幼いのだ。
「チョーカーをまた勝手に取ったね。大きくなるのはいいけど、小さい時のままの勢いで来るのは止めてよ。そろそろ本当に潰れるから」
「ごめん。でも師匠が」
「はいはい。文句は一緒に帰ってからね」
手を伸ばし頭を撫でる。
少しだけ緩まった腕の力に、内心でほっと、息を吐いた。
もぞもぞを体を動かし向きを変える。辺りを見回せば、生暖かい視線が四方から向けられているのに気づいて、何とも言えない気持ちになった。
「もう会えないかもしれないって怖かった。師匠がまたねって言ってくれないから、皆怖くて泣いてた」
「うん。ごめんね。色々と余裕がなかったんだよ。これからはちゃんと言うから」
また明日、と笑う友を目の前で失ったこの子には、ちゃんと言葉にしなくては不安がらせてしまうと分かっていたのに。ようやく手を離し笑ってまた、を言えるようになったのに。
自分の事ばかりで周りが見えていなかった事を痛感してごめん、と改めて言葉にする。
「一緒に帰ろう。そのためにも早く終わらせないと」
離れない彼の背を軽く叩いて離すように訴える。
名残惜しげにしながらも離れていく彼に笑いかけて、手を差し出した。
「じゃあ、行こうか。嵐がいるならすぐに帰れるね」
「師匠は必ず俺が守る。絶対に連れていかせはしないから」
差し出した手を離れないようにと強く繋いで、彼は真剣な目で告げる。
それに笑い返して、もう一度周りを見渡した。
「時間を取らせちゃったね。行こうか」
それぞれが頷くのを見て、同じように頷き母屋へと足を踏み入れた。
20241114 『また会いましょう』
格子戸を抜けた先。見慣れたはずのそこが、全く見知らぬ場所に見えた。
「曄《よう》。大丈夫?」
「っ、うん。大丈夫」
こみ上げる不安を誤魔化すように、声に出す。
心配する親友の存在だけが、ここに立つ覚悟を与えてくれるような気がした。
「皆、無事だといいけど」
辺りを見回す。
夜でもないのに周囲は暗く、灯りのない状態では遠くまで見通す事は出来そうにない。
左に見える建物は倉だろうか。だとすれば、母屋の台所付近に出た事になる。
「式の気配が消えている。これはよくないな」
「様子を見てくるか」
「いやいい。よくない状況が分かったのだから、無理をする必要はないよ。玲《れい》、何かあればすぐに切り離せ」
「分かってる。それより、何この臭い。腐った泥のような」
顔を顰めて鼻を押さえる彼女に困惑する。
辺りの匂いを嗅いでも彼女の言うものは感じられず。逆に馨しい花の香りに目眩がしそうだ。
隣にいる親友を見る。その横顔からは、何も察する事は出来ない。けれどどこか険しさを湛えた眼が母屋の先、離れのある辺りを真っ直ぐに見つめていて、嫌な予感に息を呑む。
「何か、いるね」
「何かって、何?」
「分からない。でも」
その視線は変わらず屋敷の奥を見つめていて。
彼女達も気づいたのだろう。皆険しい顔をして母屋に視線を向けた。
「くるよ」
誰かの言葉とほぼ同時。
静かだった空間に、声が響いた。
「何、あれ」
「泥、かな。離れないでね」
母屋から這い出てきたのは、親友が言うように泥に近いナニか。
べちゃり、ぐちゃり、と地面を黒に染め、いくつもの泥がこちらへ近づいてくる。
その泥から声がした。
叫ぶような、呻くような。意味を持たない音の羅列が重なり合い、不協和音を奏でている。
「気持ち悪いな。これ以上近づかないで」
彼女の言葉が泥を否定し、見えない壁が境界となってそれ以上泥が近づく事を許さない。
そうして進めなくなった泥を、彼らは容赦なく切り裂いていく。
「臭い。藤白《ふじしろ》、早く何とかして。泥を切ってどうするの」
「そうは言ってもね。燃やしたりしたら屋敷まで燃えてしまうじゃないか。それよりは切った方が確実だよ」
「数が多いな。また来るぞ」
母屋から次々と現れる泥に、それぞれの表情は段々に険しさを増していく。
何も出来ない事が、歯痒くて仕方ない。けれど今無理に何かをしようとしても、足手まといにしかならない事は分かりきっている。
繋いでいる手に力が籠もる。縋るようにして親友にもたれかかった。
「ごめん。少しだけ」
「いいよ。見ているだけはつらいね。特にあの子達に何も出来ないのは苦しいね」
「あの子達?」
親友の言っている意味が分からず、視線を向ける。同じようにこちらを見た親友は、何故か悲しげな顔をして笑い泥を指さした。
「元に戻す事は出来ないし、還す事も出来ない。根源が歪んでしまっているから」
「もしかして、あの泥」
泥を見る。目を凝らし、耳を澄ませる。
泥と重なるようにして、小さな点が淡く光を灯していた。
光が明暗を繰り返す度、声が聞こえる。意味のない呻きではない。痛みや苦しみに嘆くたくさんの人が、必死に声を上げていた。
「魂と呪と。無理矢理一つにされていたものが、今度は無数に千切られてしまったんだ。どこかに大本があるはずなんだけど」
親友がするように辺りを見ても、見える範囲には千切れたという泥ばかりだ。泥が母屋から出てくる事からも、屋敷の何処かにいるのだろう。
そう思い、親友を見る。その眼は再び、離れのある方角に向けられ、何かを屋敷越しに視ているようだった。
不意に、親友の表情が変わる。
険しさの中に困惑を混ぜたような目をして、一歩前に出た。
「危ないから、まだ下がってて」
「誰かいる。こっちに来るよ」
振り返る彼女に、親友は視線は屋敷に向けたまま答える。
その言葉に母屋を見る彼女の前で、泥が燃え上がった。
「藤白!」
「俺じゃない。母屋だ」
「何だお前ら?ここの奴か」
低い、男の人の声。
次々と燃える泥が灯りになって見えた母屋の奥から、大柄な人影がこちらに向かって歩み寄ってくる。
「ん?嬢ちゃんと、嬢ちゃんの友達じゃねぇか。兄貴がよく許したな」
その人影に、見覚えがあった。
「寒緋《かんひ》さん」
「久しぶりだな、嬢ちゃん。兄貴はどうした?」
けれど彼の纏う空気は知らない誰かのように冷たくて、近づいてくるのが怖いと思ってしまう。口元だけを歪めて笑い、けれどその琥珀色の瞳は鋭さを隠そうともせずに。近づくだけで切り裂かれてしまいそうな雰囲気に、体が震えるのを止められない。
彼が手にした何かを投げつける度に泥が燃える。真っ赤な炎に照らされた彼の服が赤に染まっているように見えて、目を逸らした。
「寒緋さんはどうしてここに?」
「兄貴の頼み事だよ。それにしても兄貴の眼を誤魔化すなんざ、止めといた方がいいと思うけどな。怒らせると後が怖いぜ」
「大丈夫です。寒緋さんがここにいるなら、きっと全部視ていたんだと思いますから」
微笑んで、親友は繋いでいた手を解き、彼に近づく。そして彼の手を取り、小さく旋律を口遊み始めた。
今のこの場所には似合わない。陽だまりのような暖かさを感じるような音色。
「やっぱすげえな。嬢ちゃんは」
彼の目が僅かに見開かれ、そして緩やかに細まる。
直前の鋭さが消える。口遊む音色に怖いものがすべて融かされていくようだ。
「これで、大丈夫ですか?」
「ん。助かった。姉ちゃんを置いて来ちまったから、少し呑まれてたみたいだ」
彼の穏やかになった空気に、周りの緊迫した空気も消えていく。
「すごい。何あれ」
彼女が小さく呟く。安堵に驚きが混じった表情をして親友を見て、こちらを振り返り手招いた。
「おいで。もう泥は全部なくなったみたいだから」
側に寄れば、どこか心配そうな彼女に手を握られる。
「震えてる。怖かったね、大丈夫だよ」
その言葉に握られた手を見る。微かに震える手を見て、さっきまでの色々な恐怖を思い出し、きつく目を閉じた。
「つらいなら、無理に行かなくてもいい」
「大丈夫。行くってきめたから」
頭を振り、目を開ける。
真っ直ぐに彼女を見て答えれば、彼女はそれ以上何も言わずに頷いた。
「行こう。急がないと」
握られた手を引く。
急がなければ、とその衝動にも似た気持ちが前へと足を進ませた。
20241113 『スリル』