離れに向かい、屋敷内を駆け抜ける。
生きている者の気配のない静かな廊下は、複雑に入り組み方向感覚を狂わせるが、それでも立ち止まる事はない。
屋敷に足を踏み入れた瞬間に姿が消え離れてしまった二人の少女達を探し、行方を追い求めて走り続けていた。
「随分と、複雑に建て替えたものだね。後裔の趣味を疑うよ」
「そんな訳ないだろう。あれの空間と混じってしまっているんだ」
呆れたように溜息を吐く藤白《ふじしろ》を、玲《れい》は冷たく睨めつける。
「篝里《かがり》の記憶でも、あれの屋敷内はここまで複雑ではなかったが」
「そりゃあ、あちらさんにとっては招かれざる客だろうからな。俺らが来た時からこんなだったが、お前らが来ても変わらねぇのは正直予想外だった。兄貴に何て言えばいいんだよ」
先行する篝里と寒緋《かんひ》が、時折邪魔をするように現れる泥を足を止める事なく蹴散らしていく。
「また場所が変わってる。前はここに広間があったのに。あいつら、もう死んだのかな」
「何の話?」
「ここに来た時、屋敷の奴らが広間に立てこもって結界を張ってたんだ。そこのおっさんが中の奴と少し話して、結界を補強してたみたいだけど」
訝しげな顔をしながら、嵐《あらし》は寒緋を指さす。それに、指を差すんじゃねぇ、と文句を言いながらも、寒緋は縋ろうとする泥を蹴り飛ばした。
皆それぞれに足を止める事なく。迷いなく駆けながらも、その表情は険しさを隠しきれてはいない。
「駄目だな。時間の無駄だ。このままでは辿り着けない」
小さく舌打ちして、藤白が立ち止まる。それに続いて皆足を止めた。
「玲。直接あれの所まで道を繋げる事は出来るか」
「無理。場所が見つからないのに無茶言わないで。そっちだって繋がらないんでしょう」
「まあね。さて、どうするか」
少女達がいるであろう離れに、その先の神域に辿り着くための手段を考えながら、近くの障子戸に手をかける。
触れた瞬間に、とぷり、と形を失った戸に手が沈み込む。揺らぐ戸から伸びた、溶けかけた白い蝋のような腕が沈んだ手首を掴み。そのまま引きずり込もうとする腕を、だが表情一つ変える事なく藤白は見つめ、興味が失せたかのように息を吐くとその腕ごと手を引いた。
「外れか。期待はしてなかったけど」
戸から離れ、溶けて骨だけになった腕を放り投げる。
「師匠。陽光《ようこう》は?連れてかれたあいつらよりも近いじゃん」
嵐の呼んだ名に、寒緋が僅かに肩を震わせる。
それを横目で見ながらも、玲はそれを指摘する事なく首を振った。
「あいつ、また無茶してそうだけど大丈夫かな」
「大丈夫だよ。帰って来る事を約束させてるしね。それより、本当にどうするの?止まったせいで、完全に取り込まれたんだけど」
玲の言葉の通り、気づけば周囲は壁で四方を囲まれている。
前にも後にも進めなくなった事に、しかし誰一人取り乱す様子はない。指摘した玲ですら、静かに藤白の指示を待っていた。
周りの視線を受けて、にやり、と藤白は笑う。
「彼方に近くなったのだから、好都合だ。力業で押し通せばいい」
壁を指さす。その壁を篝里が切り裂いた。
「脳筋め」
次々と壁を破壊し一点に向けて進む彼らを見ながら、玲は呆れたように呟いて小さく笑みを浮かべると、彼らを追ってまた走り出した。
「取りあえず、謝らないといけない事がある」
「何。突然」
荒い息を整えつつ、黄櫨《こうろ》は振り返り、訝しげに曄《よう》を見る。
「余計な事を言ったせいで、どうすればいいのか聞けなかった気がするから」
ごめん、と芒に紛れながら謝る曄に、黄櫨はそんな事かと呟いた。
視線を戻し、前を見る。最後に見たあの背の高い男を警戒しながらも、繋いだままの手をきゅっと握った。
「それなら、私こそ話を切り上げたんだから同じようなものだよ。むしろ分からないのに問い質さなかった私の方が悪いかもしれない」
片手に抱いたままの子猫に視線を落とす。緩やかに弱くなっていく鼓動に焦りを感じながらも、黄櫨はでも、と言葉を続けた。
「分からない事もあるけど、分かった事もあるでしょう」
「分かった気になった、だと思うけどね」
苦笑する曄に、確かに、と黄櫨もまた小さく笑う。
「その分かった気になっているものについて、少し話そうか」
視線は前を向いたまま。警戒を緩める事はなく、声を潜めながらの黄櫨の言葉に、曄も声を潜めて話し出す。
「クガネ様が自分を認識出来る者を求めてるって、どういう意味なんだろう」
「妖はね。人に認識してもらえなくなると消えてしまうんだ。だから人の望みに応える事で、妖は自分を認識してもらい形を保つ。妖の事が伝聞で広がってたくさんの人に認識されれば人に応える必要はなくなるけど、人の話には尾ひれが付いて回るものだから、その場合は大概が歪むらしい」
実際に人の噂話で存在が歪み、化生に堕ちた妖がいるらしい。
黄櫨の話に、曄は思わず身を震わせる。
かつては守り神と呼ばれた妖は、同時に人から怖れられていたという。もしもを想像して、それがあり得ない話ではない事が人よりも余程怖ろしく感じた。
「だからあたし達が呼ばれたのかな。藤白さん達は皆、クガネ様をあれって呼んでた。あの人達の中ではもう、クガネ様は守り神じゃないって思ってるって事だよね…あれ?でもそれだと、あたしが呼ばれた意味が分からない。あたしも小さい時からクガネ様は危険だって教えられて、それを信じて」
「たぶん、それだけじゃないんだよ。元々曄はクガネ様に目を付けられていたんだし」
目を付けられた。その言葉に曄の手が己の右目を無意識に覆う。
聞こえる声。枯れない藤の花。掠れていく声と、落ちていく右の視力に怯えていたのは、まだ鮮明に記憶に焼き付いている。
頭を振る。思考を切り替えるようにして、話題を変えた。
「でも、クガネ様はあたし達の一族を守ろうとしてくれた事は間違いないよね。陽光さんが肯定したし。全部裏返しにして繰り返す日を作る事と呪われた人を攫う事が、何で守る事になるのかは分からないけど」
「間引いたんじゃないかな。呪が広がらないように。裏返しの日というのはよく知らないけど、守るというのとはまた別の感じがする」
裏に返し、繰り返す。
時に死者すら生者に裏返る日は、確かに守るというよりもむしろ、守れなかったものを戻して留めておくと言われた方がしっくりくる。
それを伝えれば、黄櫨は一つ頷いて、想像だけどね、と呟いた。
「クガネ様が藤白さんを呼び戻した日。そうする事でしか、皆を守れなかったんじゃないかな。だから当時の当主さんはクガネ様を咎める事はなかったし、藤白さんを受け入れた。仕方がない事だと皆は受け入れて…でもクガネ様だけが受け入れる事が出来なかった」
目を細め、黄櫨は椿の花を通して視た光景を思い返す。
鳥が最期に吐き出した欠片。男はあれの庭から取ってきたと言っていた。
「それでもこの庭園に篝里さんの魂の欠片がある限りは、それを寄辺に自分を保っていられた。藤白さんもいた事もあって、篝里さんの望みに応え続ける事が出来ていた。でもその欠片を奪われて、藤白さんもいなくなって。残ったのは応える相手のいない望みと、クガネ様を怖れる人だけだった」
「それって」
「皆から怖ろしいモノだって認識されて、望まれる事もなくて。そうなったら、歪んでしまうのは仕方がない事だ。だから、きっと」
不意に黄櫨は口を閉ざし、ある一点を見つめ表情を険しくする。
彼女の背越しに見たそれに、曄は漏れそうになる声を押し殺し、黄櫨に寄り添った。
地を擦る足音。ゆっくりとではあるが、此方に近づいてくる背の高い男。
白濁したその目はすでに光を失い。それでもその歩みに迷いはない。
距離が近づく。逃げなければと思うものの、体は意思に反して動く事を拒んでいる。
目を逸らす事が出来ない。呼吸一つ行う事すら苦痛を伴って。
芒が揺れる。
徐に伸ばされた手が、黄櫨の顔、に。
「その汚い手で、俺の黄櫨に触るな」
低く怒りを宿した声。
芒が空を舞い。澱んだ赤が辺りを染めた。
「神様」
微かな黄櫨の呟く声に、彼女を一瞥し男と対峙する。
「…だれ、だ……」
「貴様に名乗る必要を感じぬな。だが応えてやろう。我が名は御衣黄《ぎょいこう》。黄櫨の、神だ」
白銀の太刀を構え金の瞳を持つ美しい神が、不敵に笑った。
20241117 『はなればなれ」
11/18/2024, 12:53:00 AM