sairo

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てんとんとん、と三味線の音色が響く。
それを頼りに辿り着いたのは、古ぼけた屋敷とその濡れ縁に座り無心に三味線を奏でる女性の姿だった。

「来ましたか」

手を止める事なく、視線も向けずに女性は呟く。

「クガネ、様?」
「いいえ。妖はこの障子戸の向こうへ居ります」

問う言葉には否、を返し。
女性はただ、ちんてんとと、と三味線を鳴らし続けていた。

「貴女は誰?何故ここにいるの?」
「私の名など知った所で詮無き事。主の命により、妖を鎮め抑えるため、此方に参りました」

女性の言う妖とはクガネ様の事だろうか。ならば彼女は、少なくとも敵ではないのだろう。
そう思いながらも一歩だけ前に出て。親友を隠すようにしてさらに問いかけた。

「貴女は敵?それとも味方?」
「異な事を仰られますね。それは貴女方次第に御座います。私の音の妨げとなるのであれば私は貴女方に刃を向けねばなりませぬし、そうでないのであれば争う理由なぞ御座いません」

てんてんしゃん、と三味線を奏でる手は止めぬまま。
ですが、と女性はそこで初めて、此方を見上げた。

「私も限界が近う御座います。此処へ訪れたのが主でも原初の方々では無い事が残念ではありますが、貴女方に後を託すと致しましょう」

澄んだ琥珀色の瞳に射貫かれる。
その眼差しをどこかで見たような錯覚を覚えながら、改めて女性を見据えた。

「その為に聞きたい事があるならば、私の知る範囲ではありますが答えましょう」

聞きたい事。
分からない事はたくさんある。分かっている事などないのに等しい。けれど何から聞くべきかと考えていれば、背後に隠した親友が前に出て、女性に問いかけた。

「クガネ様は、何を求めているの?」

ただ一つの親友の問いに、女性は僅かに目を細め。
口元だけで笑みを浮かべてみせた。

「妖は己を認識する事が出来る者を求めて居ります。己が消えて無くならぬように。己の在り方がこれ以上歪まぬように…望みに応え続ける為に」
「望み?」
「妖の元で絶えず母と謡っていれば、自ずと見えてくるものもあります。妖は篝里《かがり》様の望みに応え続けていただけに過ぎません」

篝里の望む事。
それは何だろうか。穏やかで誠実であったという少年が、私欲を望むとは考え難い。
心当たりのないそれに、だが親友は全てを理解したのだろう。そっか、と小さく呟いて、さらに一歩前に出た。

「篝里さんは、一族《あたし達》を守るように望んだんだね」

酷く静かな。
悲しげな、寂しげな声だった。

「その通りで御座います。どうやら貴女方が招かれたのは、必然であったようで。なれば私も悔いなく役目を終えられます」

ふわりと。淡く微笑みを浮かべて。女性はほぅ、と吐息を溢した。
見れば、彼女の左手は爪が割れ剥がれて血に染まっている。
随分と長い間、一度も手を止める事なく三味線を弾き続けていたようだ。限界が近いと言ってはいたが、もうすでに限界は超えてしまっているのかも知れない。

「もう一つ教えて。クガネ様のためにあたし達が出来る事は何?」
「敢えて言葉にする必要はないでしょう。貴女方なれば必ずや為す事が出来ます故に」

てんてとと。
音色が僅かに歪む。
これ以上引き留めているのは酷だろう。
親友の隣に立つ。ありがとう、と告げれば最後とばかりに三味線の音が高らかに響いた。

「最後にいいかな?」
「はい。何でしょうか」
「貴女の名前が知りたい」

きょとり、と。
随分と幼い眼差しが、此方を見つめ瞬いた。次いでくすくすと鈴を転がすような笑い声を上げて、女性は謡うように言葉を紡いでいく。

「私には名などありませぬが、主はかつての私の名を呼ぶ事を好んでおります。陽光《ようこう》、と。その名で宜しければ告げましょう」

ばちん、と。
弦が弾け、音色が止まった。

「畜生の身では、主の命全てに応えられぬのは致し方なき事か。此度の生も些か疲れるもので御座いましたが、楽しめました。私の事はどうぞ捨て置いて、貴女方は為すべき事を為されて下さいませ」

かたり、と三味線が落ちる。
女性の姿が時を戻していくように小さく、幼くなっていき。
やがては人の形を失って。


「猫?」

そこには、小さな黒い子猫の姿があった。

動かない猫を抱き上げる。まだ暖かく、僅かに息がある事に安堵した。

しかし。

「曄《よう》。取りあえずここを離れるよ」
「分かった。でもどこに」

障子戸の向こう側。
どろり、と何かが動く気配がする。
衣擦れの音。畳を摺るようにして歩き、誰かがゆっくりと近づいてく。

「…り……かが、り…?」

声がした。ひび割れた、歪な声。どこか不思議そうに何度も名を呼んでいる。
かたり、と音がして。障子戸が音を立てる。
かた、かたり、と。音を立てながら僅かに開いた戸の隙間から白く細長い指が伸び、竪框《たてがまち》に手をかけた。


「行こう。さっきのすすきの場所まで戻ろう」

片手に子猫を抱いたまま、親友と手を繋ぎ走り出す。
木々の間を通り抜ける直前。振り返り見た、屋敷の濡れ縁には。

落ちた三味線を拾い上げ、弦に指を這わしながら。
此方を見る、長い黒髪の背の高い男が静かに立っていた。



20241116 『子猫』

11/17/2024, 1:33:24 AM