sairo

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格子戸を抜けた先。見慣れたはずのそこが、全く見知らぬ場所に見えた。

「曄《よう》。大丈夫?」
「っ、うん。大丈夫」

こみ上げる不安を誤魔化すように、声に出す。
心配する親友の存在だけが、ここに立つ覚悟を与えてくれるような気がした。

「皆、無事だといいけど」

辺りを見回す。
夜でもないのに周囲は暗く、灯りのない状態では遠くまで見通す事は出来そうにない。
左に見える建物は倉だろうか。だとすれば、母屋の台所付近に出た事になる。

「式の気配が消えている。これはよくないな」
「様子を見てくるか」
「いやいい。よくない状況が分かったのだから、無理をする必要はないよ。玲《れい》、何かあればすぐに切り離せ」
「分かってる。それより、何この臭い。腐った泥のような」

顔を顰めて鼻を押さえる彼女に困惑する。
辺りの匂いを嗅いでも彼女の言うものは感じられず。逆に馨しい花の香りに目眩がしそうだ。
隣にいる親友を見る。その横顔からは、何も察する事は出来ない。けれどどこか険しさを湛えた眼が母屋の先、離れのある辺りを真っ直ぐに見つめていて、嫌な予感に息を呑む。

「何か、いるね」
「何かって、何?」
「分からない。でも」

その視線は変わらず屋敷の奥を見つめていて。
彼女達も気づいたのだろう。皆険しい顔をして母屋に視線を向けた。

「くるよ」

誰かの言葉とほぼ同時。
静かだった空間に、声が響いた。

「何、あれ」
「泥、かな。離れないでね」

母屋から這い出てきたのは、親友が言うように泥に近いナニか。
べちゃり、ぐちゃり、と地面を黒に染め、いくつもの泥がこちらへ近づいてくる。
その泥から声がした。
叫ぶような、呻くような。意味を持たない音の羅列が重なり合い、不協和音を奏でている。

「気持ち悪いな。これ以上近づかないで」

彼女の言葉が泥を否定し、見えない壁が境界となってそれ以上泥が近づく事を許さない。
そうして進めなくなった泥を、彼らは容赦なく切り裂いていく。

「臭い。藤白《ふじしろ》、早く何とかして。泥を切ってどうするの」
「そうは言ってもね。燃やしたりしたら屋敷まで燃えてしまうじゃないか。それよりは切った方が確実だよ」
「数が多いな。また来るぞ」

母屋から次々と現れる泥に、それぞれの表情は段々に険しさを増していく。
何も出来ない事が、歯痒くて仕方ない。けれど今無理に何かをしようとしても、足手まといにしかならない事は分かりきっている。
繋いでいる手に力が籠もる。縋るようにして親友にもたれかかった。

「ごめん。少しだけ」
「いいよ。見ているだけはつらいね。特にあの子達に何も出来ないのは苦しいね」
「あの子達?」

親友の言っている意味が分からず、視線を向ける。同じようにこちらを見た親友は、何故か悲しげな顔をして笑い泥を指さした。

「元に戻す事は出来ないし、還す事も出来ない。根源が歪んでしまっているから」
「もしかして、あの泥」

泥を見る。目を凝らし、耳を澄ませる。
泥と重なるようにして、小さな点が淡く光を灯していた。
光が明暗を繰り返す度、声が聞こえる。意味のない呻きではない。痛みや苦しみに嘆くたくさんの人が、必死に声を上げていた。

「魂と呪と。無理矢理一つにされていたものが、今度は無数に千切られてしまったんだ。どこかに大本があるはずなんだけど」

親友がするように辺りを見ても、見える範囲には千切れたという泥ばかりだ。泥が母屋から出てくる事からも、屋敷の何処かにいるのだろう。
そう思い、親友を見る。その眼は再び、離れのある方角に向けられ、何かを屋敷越しに視ているようだった。
不意に、親友の表情が変わる。
険しさの中に困惑を混ぜたような目をして、一歩前に出た。

「危ないから、まだ下がってて」
「誰かいる。こっちに来るよ」

振り返る彼女に、親友は視線は屋敷に向けたまま答える。
その言葉に母屋を見る彼女の前で、泥が燃え上がった。

「藤白!」
「俺じゃない。母屋だ」
「何だお前ら?ここの奴か」

低い、男の人の声。
次々と燃える泥が灯りになって見えた母屋の奥から、大柄な人影がこちらに向かって歩み寄ってくる。

「ん?嬢ちゃんと、嬢ちゃんの友達じゃねぇか。兄貴がよく許したな」

その人影に、見覚えがあった。

「寒緋《かんひ》さん」
「久しぶりだな、嬢ちゃん。兄貴はどうした?」

けれど彼の纏う空気は知らない誰かのように冷たくて、近づいてくるのが怖いと思ってしまう。口元だけを歪めて笑い、けれどその琥珀色の瞳は鋭さを隠そうともせずに。近づくだけで切り裂かれてしまいそうな雰囲気に、体が震えるのを止められない。
彼が手にした何かを投げつける度に泥が燃える。真っ赤な炎に照らされた彼の服が赤に染まっているように見えて、目を逸らした。

「寒緋さんはどうしてここに?」
「兄貴の頼み事だよ。それにしても兄貴の眼を誤魔化すなんざ、止めといた方がいいと思うけどな。怒らせると後が怖いぜ」
「大丈夫です。寒緋さんがここにいるなら、きっと全部視ていたんだと思いますから」

微笑んで、親友は繋いでいた手を解き、彼に近づく。そして彼の手を取り、小さく旋律を口遊み始めた。
今のこの場所には似合わない。陽だまりのような暖かさを感じるような音色。

「やっぱすげえな。嬢ちゃんは」

彼の目が僅かに見開かれ、そして緩やかに細まる。
直前の鋭さが消える。口遊む音色に怖いものがすべて融かされていくようだ。

「これで、大丈夫ですか?」
「ん。助かった。姉ちゃんを置いて来ちまったから、少し呑まれてたみたいだ」

彼の穏やかになった空気に、周りの緊迫した空気も消えていく。

「すごい。何あれ」

彼女が小さく呟く。安堵に驚きが混じった表情をして親友を見て、こちらを振り返り手招いた。

「おいで。もう泥は全部なくなったみたいだから」

側に寄れば、どこか心配そうな彼女に手を握られる。

「震えてる。怖かったね、大丈夫だよ」

その言葉に握られた手を見る。微かに震える手を見て、さっきまでの色々な恐怖を思い出し、きつく目を閉じた。

「つらいなら、無理に行かなくてもいい」
「大丈夫。行くってきめたから」

頭を振り、目を開ける。
真っ直ぐに彼女を見て答えれば、彼女はそれ以上何も言わずに頷いた。

「行こう。急がないと」

握られた手を引く。
急がなければ、とその衝動にも似た気持ちが前へと足を進ませた。



20241113 『スリル』

11/13/2024, 11:25:56 PM