sairo

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「黄櫨《こうろ》」

静かな声に呼ばれ、黄櫨の肩がびくりと震えた。

「ここへ辿り着いた事に関しては、褒めてやろう。だが俺の眼を欺いた事は許されると思うな」
「ごめんなさい。神様」

素直に謝罪する黄櫨に、御衣黄《ぎょいこう》はそれ以上責める事はなく。目の前の男を見据え、黄櫨を庇うように太刀を構えた。

「かがり…」

男が黄櫨の声に反応して、足を踏み出す。その眼前に切っ先を突きつけて、御衣黄は嗤った。

「黄櫨は貴様を呼んだのではない。俺を呼んだのだ。貴様を神と呼ぶ者は誰一人居らぬ。必要とする者すらないだろう。そのまま朽ちて消えるとよい」
「じゃまを…する、な…」

低い唸るような声。
男が腕を振う。それに反応して木々が、地が揺れる。鋭い枝葉が御衣黄に向け伸ばされ、地中から湧き上がる泥が彼を捉えようと形を変える。

「無駄な事だ」

笑みを崩す事なく、御衣黄は太刀を振るう。軽やかに舞うようにして泥を翻弄し、四肢に繋がれた縄が泥を砕く。
楽しげに嗤い、遊ぶように舞う御衣黄を男は焦るでもなく、白濁した目を宙に彷徨わせ。
不意にその目が黄櫨を、その背後の曄《よう》を見た。

「駄目だよ、曄」

無意識に前に出ようとする曄の手を引く。
はっとして、引き止めた手を見つめ安堵の息を吐く。
礼を言おうと顔を上げた曄は、だが黄櫨へと伸びる男の手を見て焦り、彼女の名を呼んだ。

「黄櫨っ!」
「触れるな、と。そう言ったはずだ」

煌めく一閃に、男は腕を引き距離を取る。
変わらず無表情なままの男に、御衣黄は忌々しげに舌打ちした。

「物覚えの悪い、成り損ないめが」

黄櫨を男の視界から隠し、太刀を構える。
だが不意に何かに気づいたかのように、太刀を下ろし笑みを浮かべた。

「まあよい。どうやら貴様の待ち人が来たようであるしな」

その刹那。
男の背後で何かの破れる音がした。

「悪ぃ、兄貴。見つけるのに手間取った」
「遅いぞ、寒緋《かんひ》。屋敷の中だ」

何もないはずの空間に縦に亀裂が走り。その割れ目から現れた寒緋に、御衣黄は視線を向けずに声をかける。その言葉に従って、屋敷の方へと駆けていく寒緋を止めようと、男は彼に視線を向け腕を上げる。しかし寒緋に続いて現れた複数の気配に動きが止まった。

「彼の邪魔をしてはいけないよ」
「ふじ、しろ…?」

男を留める藤白《ふじしろ》の言葉に、感情のない瞳に初めて僅かな困惑が浮かぶ。
求めていたはずの存在に、声に留められるその意味が理解できていないようだった。

「…なぜ?」
「彼はお前が攫っていった娘の躰を取り戻しにきたんだ。ちゃんと返してあげなければいけないだろう」
「ふじしろ。だが」
「これ以上、我が儘を言うものじゃない。そろそろ戻らないものもある事くらい理解してくれ」

首を傾げる。幼い子供のような男の仕草に、藤白は小さく嘆息した。

「無駄だ。この庭がある限り、諦めきれぬだろうよ」
「それなら如何すればいいんだい。千里眼を持つ神よ」

藤白の言葉を鼻で笑う。
既に知る答えを敢えて聞く藤白に、御衣黄は侮蔑を含んだ笑みを浮かべながら口を開いた。

「知れた事。季を流せばよい。夏から秋を繰り返すこの庭に、全て等しく眠らせる冬を与えてやれば、諦めもつくであろう」
「簡単に言ってくれる。その手段はどうするんだい」
「何だ。出来ぬのか」

然も以外だと言わんばかりに、御衣黄は藤白を見つめた。

「貴様は作られたのか。なれば致し方ないな」

一人納得し、振り返る。
黄櫨、と静かに名を呼んだ。

「何、神様」
「お前は何を望む?」

問われ、黄櫨は手に抱いた子猫に視線を落とし。曄を見て、御衣黄を見た。

「クガネ様が元に戻る事はあるの?」
「難しいな。あれは既に壊れている。望みに応え続けたとて相手はなく、新しく望みに応えるという思考すら今のあれにはないのであろう。何もせずとも、何れは消えゆくだけの存在だ」
「篝里さんが戻れば、クガネ様も元に戻るの?」
「戻らぬよ。望みに応えるために望んだ者の魂を砕き、その僅かに残る欠片が奪われるまでの季を繰り返したとして、失われたものが戻る事はない。欠落を他で埋めたとして、それは結局は別のものだ。どう足掻いた所で一度失ったものが元に戻る事はないのだ。既に失われているのだから、黄櫨の躰に施された否定する呪も意味をなさぬしな」

御衣黄の言葉に、黄櫨は眼を伏せる。
その頬を優しい風が撫で上げて、芒の小穂を高く舞い上がらせた。
風に促されるように顔を上げ、暫く空を見上げて。黄櫨は御衣黄と視線を合わると、柔らかく微笑んだ。

「歌うよ。クガネ様のために。冬の、惜別の歌を」
「黄櫨」
「私が招かれた。だから歌うの」

黄櫨の微笑みに、御衣黄は仕方がないと息を吐き、道を空けた。
歩き出そうとして、手を引かれる。

「一人で行こうとしないで。あたしも行く。招かれたのは一緒なんだから」

振り返れば、曄は笑って黄櫨の隣に立つ。
手は繋いだまま。視線を合わせて頷いた。

「神様。この子をお願いします」

御衣黄に子猫を託し、歩き出す。
道に迷った子供のような不安げな顔をする男の前まで来ると、手を伸ばした。

「クガネ様。もう終わりにしようか」
「あたし達は大丈夫だから。ゆっくり休んでよ」

男の手を引く。白濁した目が迷い揺れて、けれど促されるままにその場に座り込んだ。

黄櫨が歌う。冬の訪れを。別離を。それでいて優しい歌を静かに歌い上げる。
男の隣に座った曄は、男に寄り添いながらその背を優しく撫で、時折黄櫨の歌に合わせて歌を口遊む。

歌う二人以外には誰も言葉を発する事なく。
静かな歌は木々の葉を落とし、芒を枯らす。
庭園の停滞していた時が動き出し、秋から冬へと季を写していく。

「クガネ様、ありがとう」
「おやすみなさい、クガネ様」

少女達の言葉に、男は静かに瞼を閉じて。

「おやすみ。かんしゃする」

淡く微笑んで、その姿は光となって消えていった。



20241118 『冬になったら』

11/18/2024, 3:32:43 PM