sairo

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――守り神様。

声が聞こえて、目を開けた。

変わらぬ庭の景色に、首を傾げる。
彼の姿はどこにもなく。吹き抜ける風が、庭の花々を揺らして遊んでいた。
あれは彼が最初に己に与えた花だ。
霞み消えかけた記憶を思い起こす。
ここにある花や木は、彼が好み己に教え与えたものばかりだ。彼のためにと増やし続けていたものが己の記憶を留めるためのものとなったのは、果たしていつからだろうか。
詮無き事を考え。立ち上がり、辺りを見回す。
やはり彼の姿は見えない。
当然だ。理解はすれど、過ぎる風が時折運ぶ花の香に記憶を揺さぶられ、彼を探す事を止められはしない。
奥にいるのかもしれない。この先の芒は彼が一等好んでいたものだから。
また詮無き事を思いながら姿の見えない彼を探すため、足を踏み出し。

「まだ残っていたんだ。随分と好いていたんだね」

声が聞こえた。
懐かしい、己を定めた唯一の声。
振り返る。藤棚の下で二人の男が立っていた。
風が花弁を舞い上がらせる。鮮やかな色彩を引き連れて、男らの元へと風が駆け抜ける。
黒を纏う男が徐に腕を上げる。風に舞う花弁が腕に戯れるように纏わり付いた。
記憶を揺さぶるその男に、惹かれるようにして歩き出す。
彼らを知っていた。知っているはずだった。

「ここでなら、多少不完全でも戻してあげられる。さあ、戻っておいで」

黒とは対照的な白を纏う男が黒の男の肩に手を触れさせ、口遊む。
千々に離れてしまったものを一つにする術。繰り返す中で己が忘れてしまった旋律。
黒の男の姿が揺らぐ。風と白の男の一部を取り込んで、二つになる。

その姿を認め、駆けだした。

「篝里《かがり》っ!」
「守り神様」

強く抱きしめる。離れぬように。取りこぼさぬように。
求め続けていたその姿に、声に、温もりに。ただ縋り付いた。


「いい加減離れたらどうだい。そのまま潰してしまうつもりかな」

呆れを含んだ声に、顔を上げる。
肩に黒い翼の鳥を止まらせ、腕を組むその姿を己はよく知っていた。

「藤白《ふじしろ》」
「そうだよ。まったく、お前は本当に頭が足りないね」

男が笑う。
僅かに緩めた腕の中の彼が身じろぎし、それに否を答えた。
「此度の所業の責はすべて私にあります。私が望んだのですから、守り神様は悪くありません」

穏やかでありながらも真っ直ぐな視線は、あの時と変わらない。
彼は自身を凡庸と評していたが、己がこれまで出会った人間の中で、彼ほど強く残酷な者はいなかったように思う。

「私は兄を、里の皆を守りたかった。その為にならばこの命、惜しく等はなかったのです。ですがあの望みが守り神様を長く苦しめる事となると知っていたならば、私は」
「篝里」

目を伏せ憂う彼の名を呼ぶ。
はっとして己を見上げる彼の髪に指を絡ませ、閉じ込めるようにしてその身を掻き抱いた。

「篝里。すまなかった」

微かに震える彼の体をさらに引き寄せる。
彼が気に病む必要はない。あの日、己は望みに応えぬという選択も出来たのだから。
それに敢えて応えたのは、己の意思だ。彼の望みに全て応えたいという主我であり、己の唯一との再会の可能性を求めた我欲であった。
そしてどのような形であれ、彼と永遠を共に出来る期待もあったのだ。

「逢いたかった。触れたかった」

抱き留めた腕や胸から伝う熱に、彼の陽だまりのような匂いに酔い痴れる。失う事の意味を理解した今、手放せるはずなどなかった。

「篝里」
「いい加減にしないか。まったく…離れろ」

だが焦れた男の言葉によって、己の意思に逆らい体は彼を離していく。

「篝里」
「情けない声を出すんじゃない。苦しがっていただろうが」

伸ばしたままの腕を、男は容赦なく叩き落とす。
それでも離れる事が怖ろしく、彼から視線を外せずにいれば、彼は少しばかり困ったように眉尻を下げて笑った。

「私ならば大丈夫ですよ?」
「これ以上甘やかすな。何処に行くにも付いて回るようになるぞ。俺の時は厠まで付いてきたんだからな」

遠い過去の話に、そのような事もあったかと幾分か落ち着きを取り戻した思考で思い返す。
彼と共にあった頃よりもさらに過去の記憶は、今や殆どが霞み消えている。この庭に留めていた男との寄辺は男の名である藤しかない。
故に男の話す過去が嘘か誠か判断が付かず。黙したまま男を見れば、小さく彼が笑い声を上げた。

「申し訳ありません。私の知る守り神様とはあまりにもかけ離れていたので」
「あの頃はまだ純粋だったからね。そしてあまりにも無知すぎた。そのまま手放してしまったのは、さすがに後悔しているよ」

そう言って男は苦笑し、空を見上げる。遠い過去を想うその目に、僅かばかりの寂しさを感じた。

「ここにいるのは馬鹿の集まりだな。俺は俺の式に戯れ言を吹き込んで。それを律儀に守った式が暴走して。後裔が己の命を使って式に望み。その後裔の式が庭から欠片を持ち出して均衡を崩した」
「そうですね。誰か一人でも思い留まる事が出来たなら、結果は異なっていたのでしょうから」
「本当にね。あの子達には悪い事をした」

あの子達。己を終わらせてくれた、優しい少女らを思う。
男の使う術とは異なる歌は、純粋な祈りだった。
思い出す。呪をその身に宿した少女と初めて出会った時を。
母屋にいる時から感じていた。幾重にも絡み合う呪と、それを身に宿しながらも自身を失う事のない強さ。そして神様、と呼ぶ澄んだ声音。
羨ましい、と思った。少女の神が。迷いのないその呼び名が。
故に連れて来た。意識の切り離された躰だが、それでも構わなかった。
その選択が最良だった事だけが、幸いだった。


「さて、行こうか」

不意に男が告げた。

「はい。皆で行きましょう」

腕に黒い鳥を止まらせた彼が、笑って男の隣に立った。

もう行ってしまうのか。
いや、漸く行けるのだろう。
人間である彼らが、また始まる事が出来るのは喜ばしい事だ。
名残惜しさに蓋をして、見送るべきかと居住まいを正す。

「何をしているんだ。お前も行くんだよ」
「一緒に行きましょう。守り神様」

差し出された彼の手に困惑する。
人間ではない己が、彼らと共に行く事など出来るはずがない。
彼の手に視線を向けたまま動けない己に嘆息し、男は有無を言わさず腕を引いた。

「ほら、さっさとしないか。それとその見窄らしい格好を何とかしろ。見苦しくて仕方がない」

引かれた男の腕を見、己の狩衣を見る。
煤け草臥れ。擦り切れた狩衣は、確かに随分と見窄らしいものだった。

「それから溜め込んだ呪もここに置いていけ。後始末くらいは俺の記憶にさせても許されるだろう」

男の視線が、早くしろと訴える。
しかし如何すれば良いのか、記憶の中には残っていなかった。
戸惑う己に男は再び嘆息し。腕を引いて視線を合わせた。

「最後まで世話のかかる式だな…黄金《くがね》。元に戻れ」

名を、呼ばれる。
正しく。意味を伴って。
姿が戻っていく。瞳は白から尾花色へ。髪は黒から金へ。
重苦しい体は、軽さを取り戻し。男と共にいた頃の姿を取り戻す。

「良かった。守り神様が元の姿に戻る事が出来て」
「篝里」
「行きましょう、守り神様」

ふわり、と彼が笑う。
差し出された手に、恐る恐る手を重ねた。

「本当に、いいのだろうか」
「どうにでもなるさ。人が妖に成り、妖が人に生まれる世界だ。溜め込んだ想い出を全て置いて行くのだから、それくらいは何とかしてくれるだろう」
「駄目だと言われても、私が説得します。だから今度こそ一緒にいましょう」
「藤白。篝里」

彼らに手を引かれ、歩き出す。
背後を振り返る事はない。置いていくいくつもの寄辺はもう必要ない。

歩む先。遠くに見えた姿に、不安が過る。
だが僅かに前を行く彼らに引かれた手の熱に掻き消され。
笑みを浮かべ、彼らと共に終に向かい足を進めた。



20241119 『たくさんの想い出』

11/19/2024, 3:34:15 PM