sairo

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11/15/2024, 10:07:19 PM

爽やかでありながらも、何処か冷たい風が頬を撫で過ぎ去っていく。

屋敷内へと足を踏み入れたはずであった。
だが目の前に広がるのは室内ではなく、広大な庭園。何処までも澄み切った青空と、季節を問わず咲き誇る種々の花が目を惹いた。

「すごい」

溢れ落ちた声に、横を見る。
繋いだ手の先。庭園に魅入る親友が誘われるようにして足を踏み出した。

「曄《よう》」

手を引き、止める。
はっとした顔で此方を見る親友に、無言で首を振った。
不用意に動き回るのは危険すぎる。

「黄櫨《こうろ》?あれ、皆、は?」

彼女も気づいたのだろう。周囲を見回すその表情が、不安に陰る。
此処には今、自分達以外誰もいない。
おそらくは招かれたのだ。この庭園の主に。
かつての彼が敬愛した者でも、求め続けていた者でもなく、自分達が選ばれた。
それが何を意味しているのかは、分からない。

「曄。出来るだけ離れないでね。何があるか分からないから」
「分かった。ねぇ、ここってもしかして」

寄り添う親友が、戸惑いを乗せて呟いた。問う形ではある.ものの、すでに答えは分かっているのだろう。繋いだ手が,微かに震えている。

「そうだね。クガネ様の神域だ」

答える声は思っていたよりも冷たく淡々として響き、親友の目に微かに怯えの色が滲む。
怖がらせたい訳ではない。しかし不安を取り除けるような手段を何一つ持ち合わせていない事に、密かに歯がみした。

「これからどうしよう」

溢れる不安を乗せた声に、如何するべきかを考える。
他の皆を待つか。それとも動くべきなのか。
待つとしても、ここには身を隠す場所などはなく。動くとしても、何一つ分からない中では身を守る手段を持たない自分達では危険でしかない。
悩むその横を、風が通り過ぎた。
柔らかく、穏やかで、それでいながら冷たさを孕んだ風。
ざわり、木々が葉を揺する音を聞きながら、親友は不思議そうに首を傾げる。

「ここの季節って、秋なのかな。花は季節関係なく咲いているけど、空の色とか風の匂いとかは秋の感じがする」
「どうしたの。急に」
「うまく言えないんだけど、クガネ様にとってここが秋でないといけないのかなって。秋の季節が一番好きとかかもしれないけどさ。でも何ていうかさ、好きとかとはまた違う気がするの」

うまく言えないけれど、と親友は繰り返す。その目には怯えの色は消え、戸惑いに揺れていた。
また風が通り抜けていく。彼女の言う秋の風が誘うように背中を押した。

「どこかに連れて行きたいのかな」
「行ってみようか」

離れないようにと手は繋いだまま。風の吹く方向へと歩き出す。
とても静かだ。風が木々を騒めかせる以外、聞こえるのは自分達の音だけだ。
風は木々の向こう側へと吹き続けている。誘われるままに木々の間を通り抜けて。


「すすき?」
「すごい。こんなにたくさん」

一面に広がる芒の海に、気圧されるようにして立ち止まる。
ここまで連れてきた風は芒の間を抜け、くるり、と円を描くように遊びながら通り過ぎていく。
目的地はこの芒のようだ。

「ここに何かあるのかな」
「どうだろう。何かあるようには感じないけれど」

辺りに何の気配もない事を確認して、芒へと近づく。
手を伸ばして穂に触れる親友を横目で見ながら、不可解さに眉を寄せた。
分からない事ばかりだ。
求め続けていたはずの者ではなく、自分達が招かれた理由。
季節を問わず様々な花は咲いているのに、庭園が秋である理由。
化生に堕ちたと言われているはずのモノの庭に、魔除けとされる芒が一面にある理由。
ちぐはぐで、違和感だらけだ。

「あのさ」

考え込む意識を、親友の声が引き戻す。
彼女を見ると、戸惑いを浮かべながらも真っ直ぐな目と視線が交わった。

「もしかして、クガネ様。助けてほしいんじゃないかな」
「助ける?」
「うん。分からないけど、そう思った」

あぁ、そうか。とその言葉に何故か納得する。
分からない事ばかりではあるけれども、それが一番正解に近いのだろう。

「ここに来てから、何だか変な感じがずっとする。秋でなきゃいけないとか、クガネ様が助けてほしいって思ってるとか。どうしてか、そう思うんだけど、これってよくないかな」
「大丈夫だと思うよ。曄はたぶん近いんだ。クガネ様が求める一族に」
「そうなのかな。でも何で藤白《ふじしろ》さんや篝里《かがり》さんじゃなくて、あたし達だけなんだろうね。会いたかったんじゃなかったのかな」
「それは分からない。でも意味はあるはずだよ」

おそらくすべてに理由はある。それはまだわからないけれど。
親友の手を引く。
このまま皆を待つよりは、動いた方がいいのだろうから。
親友も同じ事を考えていたらしい。目を合わせて笑みを浮かべた。
それに笑い返して、どちらともなく歩き出す。

「ここのどこかにクガネ様がいるんだろうね」
「そうだね。でもどこにいるのか分からないから、会うなら探すしかないよ」
「広いから大変そう。さっきみたいに風が連れていってくれないかな」

手を繋いで二人、笑い合う。
そこにはもう、不安や恐怖の色はない。
当てもなく歩き、芒の海を抜け、木々の間を通り抜けて。


不意に、何かの音が聞こえた。
お互いに立ち止まる。耳を澄ませれば、風とは異なる微かな音。

「聞こえた?」
「聞こえた。遠いけど、これは」

てん、と。聞こえるのは、弦を弾く音だ。
誰かがいる。どこかで三味線を鳴らしている。

「行こうか」

誰がいるのかは分からない。何があるのか知りようがない。
それでも。

目を合わせて頷いて。
歩き出す。音の鳴る方へ。



20241115 『秋風』

11/15/2024, 12:08:15 AM

少年がその神社に訪れたのは、夜も更けた頃の事だった。
暗闇に紛れるようにして境内を抜け、社の前で只管に願う。

「お願いします。どうか」
「何をしている」

気づけば、少年の目の前には縄で四肢を繋がれた男の姿。この神社の祭神が不機嫌そうに少年を見下ろしていた。

「貴様。何故此処にいる」

険を増す眼に、それでも少年は怖れる事はなく。縋るように必死で祭神に願いを口にする。

「お願いします。あの人を、師匠を助けて下さい。俺たちからあの人を取らないでっ!」
「何の話だ」

問う言葉に、少年は祭神を睨み付ける。恐怖を、憎悪を、不安を、憤怒を混ぜた涙に揺れる目が、強く訴えかける。

「おまえらが師匠をばけものの所に連れていったんだろ!師匠は師匠なのに、おまえらは師匠を藤白《ふじしろ》にする。師匠にはもう関係がないのに、藤白としてばけものを何とかしろって、そう言ったんだろうが!」
「くだらんな。あれの意思を我の責にするな。不愉快だ」
「おまえらのせいだよ!だって師匠がばけものと会う必要なんてないんだ。会わないようにずっと避けてきたのに。それを、おまえらが」

叫ぶような声は、次第に力をなくしていき。静かに崩れ落ちるようにして少年は膝をついた。
強く握りしめた手が震える。爪が皮膚に食い込んで、滲んだ赤が地に滴を落とした。

「師匠が言ったんだ。じゃあねって。いつもはまた明日って、そう言ってくれるのに。言葉を正しく使う人なのに、これじゃあもう戻ってこないって、そう思って」

ぽつりぽつり、と呟かれる言葉。
不安なのだと訴えかける少年を、祭神は何も言わず冷めた目で見下ろしていた。

「師匠がいなかったら、俺たちはずっと一人のままだった。一人ぼっちで、寂しくて苦しくて逢いたい気持ちを抱えて、消えていくだけだった。俺たちにとって師匠は恩人で、特別なんだ。いなくなってしまったら、俺たちはまた一人になっちまう」

俯く少年からは、先ほどまでの強さは見られない。まるで迷子の幼子のように小さな体をさらに縮めて蹲る。

「師匠がいたから、また明日、って言葉を信じられるようになったのに。また明日会いましょうなんて不確定な言葉。ようやく言えるようになって、手を離せるようになったのに。それを、おまえらが」
「諄い。貴様は我に何を望む」

祭神の言葉に、俯く少年が徐に顔を上げた。
虚ろな目が祭神を見上げ、どうか、と震える唇を開いた。

「お願いします。俺をあのばけものの所へ連れて行って下さい。師匠を守りたい」

願う言葉に、祭神は見定めるように少年を見下ろした。
暫しの沈黙の後。
祭神は社を振り返り、弟妹を呼んだ。

「寒緋《かんひ》。銀花《ぎんか》」
「それも連れてけっていうのかよ、兄貴。姉ちゃんもいないのに子守なんざ無理だぜ」
「連れていくだけだ。それ以上は関与せずともよい。黄櫨《こうろ》以外の生死に興味はない」
「相変わらずだなぁ、兄貴は」

にやり、と社から現れた大柄な男は笑い、傍らの鬼灯を手にした左腕のない少女に行けそうか、と声をかける。
りん、と鈴の音。

――大丈夫。でも送るだけでいいの?

小首を傾げた少女に、祭神は頷き肯定する。

「問題ない。戻るだけなら寒緋だけの方が都合がよい。彼方側は我の眼でも見通せぬ故」
「銀花も気をつけろよ。俺なら大丈夫だ。何かあっても兄ちゃんが来てくれる。そんな気がする」

少女の頭を撫でながら、心配はいらないと男は告げる。それに少女は笑みを返して、少年の隣に歩み寄った。
少女に続いて男もまた、少年の隣に立つ。

「んじゃ、行ってくるぜ」
「何かあればすぐに戻れ。よいな」
「心配性だなぁ、兄貴も」

突然の事に戸惑う少年を置き去りにして。
祭神とその弟妹達は頷き合う。

そして、少女の手にした鬼灯が光を灯し。光が少年達を覆い隠していき。
眩い光が弾けたその後には。

少年達の姿はもう、そこにはなかった。





「という訳だな」
「待って。本当に待って」

にこやかに笑う男に、耐えきれずに待ったをかける。
今の説明では、つまりここに来ているのは、男とあの子という事になる。

「つまり、嵐《あらし》がここに来ているって事?この母屋の中に?」
「あぁ、そうだな。着いてからすぐに別れたから、何処にいるのかは分からねぇよ」

最悪だ。どうしてこうなったと、痛むこめかみを押さえる。

「探した方がいい?」
「そうだね。他の皆の事も心配だし。探した方がいいかも」

彼女達の心配そうな声に、首を振る。

「嵐なら一人でも大丈夫。時間がもったいないし」
「でも」

優しい二人に笑いかけ。大丈夫だからと声をかけた。
あの子は無事だろう。こういった荒事に対処するのは得意な方だ。
問題があるとすれば、それは。

「っ師匠!」

母屋から聞こえた声。次いで体に感じる衝撃と塞がれる視界に、思わず呻く。

「師匠、師匠」
「大丈夫だよ。ほら泣かないの」
「泣いてない。でも師匠が無事でよかった」
「ごめんね。心配かけた」

別れた最後の記憶のそれより大きな体に、出かかる溜息を何とか呑み込んだ。
体だけが成長したこの子は、ちびたちの中で一等精神が幼いのだ。

「チョーカーをまた勝手に取ったね。大きくなるのはいいけど、小さい時のままの勢いで来るのは止めてよ。そろそろ本当に潰れるから」
「ごめん。でも師匠が」
「はいはい。文句は一緒に帰ってからね」

手を伸ばし頭を撫でる。
少しだけ緩まった腕の力に、内心でほっと、息を吐いた。
もぞもぞを体を動かし向きを変える。辺りを見回せば、生暖かい視線が四方から向けられているのに気づいて、何とも言えない気持ちになった。

「もう会えないかもしれないって怖かった。師匠がまたねって言ってくれないから、皆怖くて泣いてた」
「うん。ごめんね。色々と余裕がなかったんだよ。これからはちゃんと言うから」

また明日、と笑う友を目の前で失ったこの子には、ちゃんと言葉にしなくては不安がらせてしまうと分かっていたのに。ようやく手を離し笑ってまた、を言えるようになったのに。
自分の事ばかりで周りが見えていなかった事を痛感してごめん、と改めて言葉にする。

「一緒に帰ろう。そのためにも早く終わらせないと」

離れない彼の背を軽く叩いて離すように訴える。
名残惜しげにしながらも離れていく彼に笑いかけて、手を差し出した。

「じゃあ、行こうか。嵐がいるならすぐに帰れるね」
「師匠は必ず俺が守る。絶対に連れていかせはしないから」

差し出した手を離れないようにと強く繋いで、彼は真剣な目で告げる。
それに笑い返して、もう一度周りを見渡した。

「時間を取らせちゃったね。行こうか」

それぞれが頷くのを見て、同じように頷き母屋へと足を踏み入れた。



20241114 『また会いましょう』

11/13/2024, 11:25:56 PM

格子戸を抜けた先。見慣れたはずのそこが、全く見知らぬ場所に見えた。

「曄《よう》。大丈夫?」
「っ、うん。大丈夫」

こみ上げる不安を誤魔化すように、声に出す。
心配する親友の存在だけが、ここに立つ覚悟を与えてくれるような気がした。

「皆、無事だといいけど」

辺りを見回す。
夜でもないのに周囲は暗く、灯りのない状態では遠くまで見通す事は出来そうにない。
左に見える建物は倉だろうか。だとすれば、母屋の台所付近に出た事になる。

「式の気配が消えている。これはよくないな」
「様子を見てくるか」
「いやいい。よくない状況が分かったのだから、無理をする必要はないよ。玲《れい》、何かあればすぐに切り離せ」
「分かってる。それより、何この臭い。腐った泥のような」

顔を顰めて鼻を押さえる彼女に困惑する。
辺りの匂いを嗅いでも彼女の言うものは感じられず。逆に馨しい花の香りに目眩がしそうだ。
隣にいる親友を見る。その横顔からは、何も察する事は出来ない。けれどどこか険しさを湛えた眼が母屋の先、離れのある辺りを真っ直ぐに見つめていて、嫌な予感に息を呑む。

「何か、いるね」
「何かって、何?」
「分からない。でも」

その視線は変わらず屋敷の奥を見つめていて。
彼女達も気づいたのだろう。皆険しい顔をして母屋に視線を向けた。

「くるよ」

誰かの言葉とほぼ同時。
静かだった空間に、声が響いた。

「何、あれ」
「泥、かな。離れないでね」

母屋から這い出てきたのは、親友が言うように泥に近いナニか。
べちゃり、ぐちゃり、と地面を黒に染め、いくつもの泥がこちらへ近づいてくる。
その泥から声がした。
叫ぶような、呻くような。意味を持たない音の羅列が重なり合い、不協和音を奏でている。

「気持ち悪いな。これ以上近づかないで」

彼女の言葉が泥を否定し、見えない壁が境界となってそれ以上泥が近づく事を許さない。
そうして進めなくなった泥を、彼らは容赦なく切り裂いていく。

「臭い。藤白《ふじしろ》、早く何とかして。泥を切ってどうするの」
「そうは言ってもね。燃やしたりしたら屋敷まで燃えてしまうじゃないか。それよりは切った方が確実だよ」
「数が多いな。また来るぞ」

母屋から次々と現れる泥に、それぞれの表情は段々に険しさを増していく。
何も出来ない事が、歯痒くて仕方ない。けれど今無理に何かをしようとしても、足手まといにしかならない事は分かりきっている。
繋いでいる手に力が籠もる。縋るようにして親友にもたれかかった。

「ごめん。少しだけ」
「いいよ。見ているだけはつらいね。特にあの子達に何も出来ないのは苦しいね」
「あの子達?」

親友の言っている意味が分からず、視線を向ける。同じようにこちらを見た親友は、何故か悲しげな顔をして笑い泥を指さした。

「元に戻す事は出来ないし、還す事も出来ない。根源が歪んでしまっているから」
「もしかして、あの泥」

泥を見る。目を凝らし、耳を澄ませる。
泥と重なるようにして、小さな点が淡く光を灯していた。
光が明暗を繰り返す度、声が聞こえる。意味のない呻きではない。痛みや苦しみに嘆くたくさんの人が、必死に声を上げていた。

「魂と呪と。無理矢理一つにされていたものが、今度は無数に千切られてしまったんだ。どこかに大本があるはずなんだけど」

親友がするように辺りを見ても、見える範囲には千切れたという泥ばかりだ。泥が母屋から出てくる事からも、屋敷の何処かにいるのだろう。
そう思い、親友を見る。その眼は再び、離れのある方角に向けられ、何かを屋敷越しに視ているようだった。
不意に、親友の表情が変わる。
険しさの中に困惑を混ぜたような目をして、一歩前に出た。

「危ないから、まだ下がってて」
「誰かいる。こっちに来るよ」

振り返る彼女に、親友は視線は屋敷に向けたまま答える。
その言葉に母屋を見る彼女の前で、泥が燃え上がった。

「藤白!」
「俺じゃない。母屋だ」
「何だお前ら?ここの奴か」

低い、男の人の声。
次々と燃える泥が灯りになって見えた母屋の奥から、大柄な人影がこちらに向かって歩み寄ってくる。

「ん?嬢ちゃんと、嬢ちゃんの友達じゃねぇか。兄貴がよく許したな」

その人影に、見覚えがあった。

「寒緋《かんひ》さん」
「久しぶりだな、嬢ちゃん。兄貴はどうした?」

けれど彼の纏う空気は知らない誰かのように冷たくて、近づいてくるのが怖いと思ってしまう。口元だけを歪めて笑い、けれどその琥珀色の瞳は鋭さを隠そうともせずに。近づくだけで切り裂かれてしまいそうな雰囲気に、体が震えるのを止められない。
彼が手にした何かを投げつける度に泥が燃える。真っ赤な炎に照らされた彼の服が赤に染まっているように見えて、目を逸らした。

「寒緋さんはどうしてここに?」
「兄貴の頼み事だよ。それにしても兄貴の眼を誤魔化すなんざ、止めといた方がいいと思うけどな。怒らせると後が怖いぜ」
「大丈夫です。寒緋さんがここにいるなら、きっと全部視ていたんだと思いますから」

微笑んで、親友は繋いでいた手を解き、彼に近づく。そして彼の手を取り、小さく旋律を口遊み始めた。
今のこの場所には似合わない。陽だまりのような暖かさを感じるような音色。

「やっぱすげえな。嬢ちゃんは」

彼の目が僅かに見開かれ、そして緩やかに細まる。
直前の鋭さが消える。口遊む音色に怖いものがすべて融かされていくようだ。

「これで、大丈夫ですか?」
「ん。助かった。姉ちゃんを置いて来ちまったから、少し呑まれてたみたいだ」

彼の穏やかになった空気に、周りの緊迫した空気も消えていく。

「すごい。何あれ」

彼女が小さく呟く。安堵に驚きが混じった表情をして親友を見て、こちらを振り返り手招いた。

「おいで。もう泥は全部なくなったみたいだから」

側に寄れば、どこか心配そうな彼女に手を握られる。

「震えてる。怖かったね、大丈夫だよ」

その言葉に握られた手を見る。微かに震える手を見て、さっきまでの色々な恐怖を思い出し、きつく目を閉じた。

「つらいなら、無理に行かなくてもいい」
「大丈夫。行くってきめたから」

頭を振り、目を開ける。
真っ直ぐに彼女を見て答えれば、彼女はそれ以上何も言わずに頷いた。

「行こう。急がないと」

握られた手を引く。
急がなければ、とその衝動にも似た気持ちが前へと足を進ませた。



20241113 『スリル』

11/13/2024, 3:07:26 AM

「あれはね、元は小さな無名だった。名も無く、形も無い。何にも成れずに消えていくだけのモノ。それを一人の祓い屋が気まぐれに名付け、式にした」

彼女の声を聞きながら、僅かに残る記憶を辿る。

「名付けた祓い屋に、あれはよく懐いていたよ。まるで雛鳥のように常に後をついていた。祓い屋の助けになろうと力の使い方を学び、式として在り続けた。感情の起伏に乏しく、言葉数も少なかったから何を考えているのか分かり難い所はあったけれど」

違う、と思い返す記憶が否定する。
彼は知らなかったのだ。感情というものを。
彼と言葉を交わしそれを知り、故に記憶の中の自身は彼に教えた。
四節に咲く花の形を。空の色を。実りを感謝し、祈り舞う人々の感情の名を。

「懐いてはいたようだし、悪くは思われていなかったのだろうね。少なくとも祓い屋の戯れでしかなかった契約を、律儀に守り続けていたくらいには…だからなのかな。あれがそこの変態を作り上げてしまったのは」
「ちゃんと聞こえているからね。後で覚えていなよ」
「話に割り込まないで。それに本当の事でしょう」

顔を顰める彼女に、鎖で繋がれたままの男は苦笑する。
格子戸が開けられたというのに未だ鎖を解かぬのは、まだ何かを待っているという事なのだろうか。

「祓い屋という生業は危険が付き纏うものだ。特にあの頃は、今以上に人と人成らざるモノの距離が近かったから。だから祓い屋の最期もまた悲惨だったよ。魂すら歪み捻くれて、正しく人の形を取る事も儘ならなかった。それを見て思う所があったのか。あれは一つの空間を作り上げて、祓い屋を閉じた」

そこは初めて招き入れられた時は、藤の花一つしか咲かぬ寂しい空間だった。
おそらくそこに魂はあったのだろう。記憶の中の自身は終ぞ知る事はなかったが。

「それから長い時間が過ぎた。あれは祓い屋の一族の当主に継がれ、命じられるままにあれは働き、いつしか守り神と呼ばれるようになった」
「代わるか」
「そうだね。篝里《かがり》の事は、キミの方が詳しいだろうから、よろしく」

頷いて、彼女の元まで移動する。

「篝里は祓い屋であった藤白《ふじしろ》の一族の者であった。当主が兄である事以外に特出するものもない。当主である兄を敬愛し、一族を、里の者を愛した。穏やかで性根の真っ直ぐな子供だった」

里を走り回る、陽だまりのような笑顔が脳裏に蘇る。
空から見ていた小さな少年は、いつも笑顔を絶やす事はなく。それに惹かれて、篝里を止まり木に選んだのは必然であったのだろう。

「兄である当主は変わった男だった。篝里と同じく穏やかでありながら当主としての強さもある男は、それまでの当主等とは異なり、あれを己の屋敷に住まう事を許していた」
「あれは人の手には余るモノだったから。契約があり、よく従ってはいたけれど、必要な時以外は喚び出さなかったらしいよ」
「そうだな。先代も何度か苦言を呈していたようであるし、屋敷の者も皆、あれに近づこうとはしなかった」

当主と一人を除いては。
彼を怖れて彼の周りに人は近寄らず。彼もまた人の少ない離れへと移動していき。
そうして離れの奥。一人佇む彼を見て、篝里は何を思ったのだろうか。
己の翼を撫ぜながら離れを見る篝里の横顔には、いつもの笑みはなく、あれについて話す事もなかった。

「篝里だけは違っていた。あれと言葉を交わし、何も知らぬあれに様々を教えた。兄の事。里に住まう者の事。些細な話を繰り返して。そのうちあれは、いつしか藤白を閉じたあの庭に篝里を招き入れるようになった。あれが何を思って篝里を招いていたのかは不明だが、あれの庭は篝里が訪れる度に、篝里の好む花や木々に彩られていった」

好かれていた、とは思う。彼の纏う気配は篝里といる時には、僅かに穏やかになっていたのを知っている。離れにいた彼が見ていたのは、主である当主よりも篝里である事も見ていた。
だが今更だ。
彼の心の内を知る術はなく、知ったとして戻るものは何もない。

「寒く、暗い日だった。蠢く闇に皆が怯えていた。数多くの魑魅魍魎が辺りを徘徊し、当主や祓える者等は屋敷を出ていった。しかしどれだけ待てど、誰一人戻らず暗いまま。篝里は屋敷に残る者等に声をかけ励ましながらも、何か己に出来る事はないかと屋敷を動き回り」

目を伏せる。
忘れる事の出来ぬ、あの光景を今一度思い起こす。

「気づけば、あれの庭に迷い込んでいた。正しく招かれた訳ではない。呼び寄せられたという方が近いな。手段はどうであれあれの庭に入った事には変わらない。そして藤棚の下にいるあれを見た」

現世と同じく暗い庭で、幽鬼の如く佇む彼のその表情を覚えてはいない。
その後の事も、断片的な酷く曖昧な記憶しか篝里は有していなかった。

「篝里が最期に見たのは、咲き誇る藤の花だった。花と旋律と、光。そしてそれと同時に現世では明るさが戻った。当主や一族は怪我や呪に侵されてはいたが、皆無事だった。一人を喪い、一人が新たに戻った以外は、何も変わりはなかった」
「戻ったというよりは、作り上げられたという方が正しいかな。歪み捻れた部分を切り離して、足りない部分を篝里の魂を砕いて埋め込んだのだから。藤白としての魂が核としてあるから俺は藤白としての意識が強いけれど、篝里としての部分もいくつかは持ち合わせているからね」

鎖の男が笑いながら補足する。
視線を向ければ、いつか最期に見えたそれに似た笑みを男は浮かべていた。

「当主は篝里を喪った事を悲しんだが、あれを責める事はなかった。現れた藤白を受け入れもした。故にあれはその後も当主の式として働き、次の当主に継がれてもそれは変わる事はなかった」

変わったものは多くはなかったが、それでも少ない訳でもなかった。皆を愛した篝里は皆からも愛されていたのだから。
喪失を皆悲しみ、かつての穏やかな空間は戻りはしなかった。
己の翼を撫ぜるその手も、柔らかな微笑みも。

「だがいつからか、あれは歪んでいった。喪うという意味が理解出来なかったのかもしれないが。あれは篝里を求め始めた。それが顕著になったのはおそらくだが当主が代わり、藤白を怖れ始めた者等が藤白を封印してからだ」
「それ以降は詳しく語れないよ。俺はこの通り封じられてしまったし、この子もここから動けなかったからね」

鎖を揺らしながら、さて、と男が格子の向こうを指さした。
「丁度道が繋がった。といっても屋敷の敷地内までだけれどね。何とかしろとは言うが、あれに作られた身では藤白だと認識されないと力負けする。絶対的な安全を与えられはしないがどうするかい。ここで待つという選択肢もあるよ」
「行くよ。私の躰をそのままにしておけないから」
「あたしも行く。ここで待っていても、きっと変わらないし、叔父さん達も心配だから」
「指示をちょうだい。足手まといにはなりたくない」

今まで話を聞いていた少女等がそろって声を上げる。
互いに繋いだ手が僅かに震えているのを見て、強いのだなと素直に感心した。
与えられるばかりでなく、己の力の範囲内で出来る事をする。まるで篝里のようだ。

「それなら玲《れい》の側にいるといい」
「分かった。一緒に行こうか。無理だと思ったら直ぐ声をかけて。隔離するくらいなら出来るから」

彼女の言葉に、少女等は強く頷く。
それを見て、男は強く腕を振る。ざらざらと崩れる鎖を払い、足取り軽く格子へと近づいた。
その隣につく。斥候はあの時から己の役割だった。

「篝里」

男が窘めるように呼ぶ。横目で見た男は、どこか呆れた顔をしているように見えた。

「今の君に飛ぶための翼はないよ。それを忘れるな」

言われて気づく。
腕を見た。羽根は僅かに残るのみで、これでは飛ぶ事など出来はしない。
思い出す。己の最期を。
翼は折られ、ここに辿り着いた後は二度と動かせなくなった。終わる間際に、あの庭から持ち出した欠片と己を男が一つにしたのを思い出す。

「思い出した。問題ない」
「さっきから分けて話していたのが気になっていたけど、今の形すら忘れるとは思わなかった」
「敢えて思い出そうとすればああなる。仕方がない事だ」

それほどにまで、己と一つになった篝里の欠片は僅かなものだった。時に姿形さえ保つのが困難になるほどに。
目を閉じる。そして開けば、そこに羽根の一つも残りはしない。
折れて飛べない無意味なものは、篝里には必要ない。必要なのは地を駆け、障害を薙ぎ払う手足だけでいい。

「斥候は式を飛ばしてある。それに庭の中にも玲が潜ませているから必要はないよ」
「分かった。行くか」

男を見て、振り返り彼女等を見る。
誰一人躊躇う者がいない事を確認して、格子戸に手をかけた。



20241112 『飛べない翼』

11/11/2024, 10:38:33 PM

穏やかな午後の、淡い陽の下を駆けていく。
胸に抱えた芒の穂が揺れる。すれ違う人々に挨拶を交わしながらも、屋敷へと向かう足はさらに急く。
視線の先。話し合う二人の姿を認めて、思わず笑みが浮かんだ。

「当主様!守り神様!」
「おかえり、篝里《かがり》。いつも言っているだろう。私は当主である前に、お前の兄なのだから兄と呼んでくれないか」
「では、兄上。ただいま戻りました」

柔らかな声に窘められて、呼び名を戻す。
当主となられたのだから気軽に話す事など烏滸がましいとは思うが、兄は変わらずにある事を望まれている。兄が望むのならば、とは思うものの、気恥ずかしさにどうしても態度がぎこちなくなってしまう。そんな己の様子に兄が笑うのはいつもの事だ。

「それは、なんだ」
「芒です。使いから戻る途中、あまりにも見事でしたので持ち帰ってしまいました」

彼に声をかけられる。
芒がよほど珍しいのか。指先で穂先に触れるその仕草は、どこか幼くも見える。
ふふ、と思わず声が漏れる。それを誤魔化すようにして、抱えた芒の一束を彼に差し出した。

「こちらをお持ち下さい。差し出がましいとは思いますが、芒は魔除けになりますから。災厄を祓うよう、祈りを込めました」
「私の分はないのかい?」

どこか拗ねたような物言いの兄に、さらに笑みが溢れる。
残りの一束を兄に手渡すと、優しい手に頭を撫でられた。

「ありがとう。ご苦労だったね。ゆっくりと休んでくれ」
「分かりました。何かあればお呼び下さいね、兄上」

失礼致します。と兄達に一礼をして。

「篝里」

部屋へと戻りかけた足を、彼に呼び止められた。
尾花色の瞳に見つめられ、居住まいを正す。

「篝里は好きか。これが」

小さく首を傾げ、けれども直ぐに頷いた。

「はい。とても綺麗で、好きです」

この家を守れるものだから。
口には出さずに、胸中で付け足した。



この家の守り神である彼と出会ったのは、兄が当主となったその祝いの席での事だった。
当主となった者に憑く妖。
遠い祖先との契約なのだと父は言った。
当主に従い、この家を守るモノ。
父は忌み嫌っていたようであった。周りも顔を顰める者が多かった。
それでも、初めて彼を見た時。
とても綺麗だと、その美しさに魅了され怖ろしくも思ったのを覚えている。


「篝里」

声に誘われ、彼の庭へと足を踏み入れる。
屋敷の庭ではない。彼の神域とも言えるその空間。
目を引くのは、季節を問わず咲き誇る種々の花々だった。
その中でも一等美しいのは、藤の花。
彼に名を与えて、その在り方を定めたのだという祖先と同じ名を持つ花。
濡れ縁に座り、彼を待つ。
先代の父と異なり、兄は彼を怖れる事もなく屋敷で好きにさせていた。
他の者を気にしてか、離れの奥に一人佇む彼が気になり、足繁く彼の元を訪れ言葉を交わす。そして彼を知る度に、この庭を見る度に分かった事がある。
彼はその体躯に見合わず、随分と幼いモノだった。
必要なかったのかも知れない。彼にとっては名付けた祖先がすべてであり、それ故に祖先がいなくなった後もその契約を守り続けてきた。祖先の言葉こそが絶対であり、それ以外は関心が薄いようであった。
だから。

「篝里」

庭の奥から現れた彼に差し出されたのは、淡紫色の美しい木通の実。

「以前、篝里が好きだと言っていた」
「ありがとうございます。守り神様のお庭に植えられたのですか?」
「篝里が好きなものだ。嬉しい、か」
「そうですね。嬉しいですよ。守り神様のその私を思って下さるその気持ちが嬉しい、です」

微笑めば、彼は僅かに眉を寄せる。
その感情の機微がまだ分からないのだ。
好き、だと嬉しい。嫌い、だと悲しい。
彼が知るのはその単純な心の動きだ。そこに付随する要素は、彼にはまだ理解しきれない。
彼は感情を知らなかった。喜怒哀楽を感じた事もなかった。
祖先とはどんな関係であったのか。それは分からない。だが、それ以降の彼を継いだ当主達は皆、彼とこうして言葉を交わす事はなかったのだという。有事でもないのに、この庭から出る許可をもらったのは、兄が初めてなのだと言っていた。

「戻ってから兄と頂きます」
「そうか…篝里」

彼の指が木通を持つ手に触れ。
腕に、肩に、首に。そして頬に触れた。
輪郭を確かめるように、ここにいる事を確かめるように。
言葉を交わし、こうして庭に招き入れられてから、彼はこうして体に触れ、名を呼ぶ事が多くなった。
彼の表情からは何も読みとれない。故に何を思っているのかは分からない。

「守り神様。三味線を弾きましょうか?」
「そうだな。頼む」

彼の言葉に頷いて木通を脇に置いて立ち上がる。
濡れ縁から室内に入り、床の間に飾る三味線を手に取った。
彼が珍しく興味を持ち、好きだと言ったもの。
濡れ縁に座り、べん、と撥で軽く弦を鳴らす。

「篝里」

名を呼び、目を細める。
口元が微かに笑みに形取られていくのを視界の端で見ながら、彼の望むままに音色を奏でていく。



父は言っていた。彼に心を許すな、と。
彼の唯一である祖先が、この何処かで眠っているのだからという。記録によれば、祖先は呪いに蝕まれて亡くなったらしい。彼の望む最期ではなかったようだ。
だからいつか取り戻すために、彼はこの庭を造った。そして祖先に適応する者を待っているのだと。
父の言葉は正しいのだろう。彼の尾花色が昏く揺らぐを、何度か目にした事がある。

「守り神様」

だがそれでも。
彼がこの先もこの家を、兄を守ってくれるならば。
兄がこの先も笑っていてくれるのであるならば。

「守り神様。どうか兄をお守り下さい。兄と、兄の血を継ぐ子等が健やかであるよう、お助け下さい」

彼に願う。何度でも。
兄のためになるならば、力のないこの矮小な身でも兄の助けとなるならば。

その為ならばこの命。惜しくなどはないのだから。



20241111 『ススキ』

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