sairo

Open App

穏やかな午後の、淡い陽の下を駆けていく。
胸に抱えた芒の穂が揺れる。すれ違う人々に挨拶を交わしながらも、屋敷へと向かう足はさらに急く。
視線の先。話し合う二人の姿を認めて、思わず笑みが浮かんだ。

「当主様!守り神様!」
「おかえり、篝里《かがり》。いつも言っているだろう。私は当主である前に、お前の兄なのだから兄と呼んでくれないか」
「では、兄上。ただいま戻りました」

柔らかな声に窘められて、呼び名を戻す。
当主となられたのだから気軽に話す事など烏滸がましいとは思うが、兄は変わらずにある事を望まれている。兄が望むのならば、とは思うものの、気恥ずかしさにどうしても態度がぎこちなくなってしまう。そんな己の様子に兄が笑うのはいつもの事だ。

「それは、なんだ」
「芒です。使いから戻る途中、あまりにも見事でしたので持ち帰ってしまいました」

彼に声をかけられる。
芒がよほど珍しいのか。指先で穂先に触れるその仕草は、どこか幼くも見える。
ふふ、と思わず声が漏れる。それを誤魔化すようにして、抱えた芒の一束を彼に差し出した。

「こちらをお持ち下さい。差し出がましいとは思いますが、芒は魔除けになりますから。災厄を祓うよう、祈りを込めました」
「私の分はないのかい?」

どこか拗ねたような物言いの兄に、さらに笑みが溢れる。
残りの一束を兄に手渡すと、優しい手に頭を撫でられた。

「ありがとう。ご苦労だったね。ゆっくりと休んでくれ」
「分かりました。何かあればお呼び下さいね、兄上」

失礼致します。と兄達に一礼をして。

「篝里」

部屋へと戻りかけた足を、彼に呼び止められた。
尾花色の瞳に見つめられ、居住まいを正す。

「篝里は好きか。これが」

小さく首を傾げ、けれども直ぐに頷いた。

「はい。とても綺麗で、好きです」

この家を守れるものだから。
口には出さずに、胸中で付け足した。



この家の守り神である彼と出会ったのは、兄が当主となったその祝いの席での事だった。
当主となった者に憑く妖。
遠い祖先との契約なのだと父は言った。
当主に従い、この家を守るモノ。
父は忌み嫌っていたようであった。周りも顔を顰める者が多かった。
それでも、初めて彼を見た時。
とても綺麗だと、その美しさに魅了され怖ろしくも思ったのを覚えている。


「篝里」

声に誘われ、彼の庭へと足を踏み入れる。
屋敷の庭ではない。彼の神域とも言えるその空間。
目を引くのは、季節を問わず咲き誇る種々の花々だった。
その中でも一等美しいのは、藤の花。
彼に名を与えて、その在り方を定めたのだという祖先と同じ名を持つ花。
濡れ縁に座り、彼を待つ。
先代の父と異なり、兄は彼を怖れる事もなく屋敷で好きにさせていた。
他の者を気にしてか、離れの奥に一人佇む彼が気になり、足繁く彼の元を訪れ言葉を交わす。そして彼を知る度に、この庭を見る度に分かった事がある。
彼はその体躯に見合わず、随分と幼いモノだった。
必要なかったのかも知れない。彼にとっては名付けた祖先がすべてであり、それ故に祖先がいなくなった後もその契約を守り続けてきた。祖先の言葉こそが絶対であり、それ以外は関心が薄いようであった。
だから。

「篝里」

庭の奥から現れた彼に差し出されたのは、淡紫色の美しい木通の実。

「以前、篝里が好きだと言っていた」
「ありがとうございます。守り神様のお庭に植えられたのですか?」
「篝里が好きなものだ。嬉しい、か」
「そうですね。嬉しいですよ。守り神様のその私を思って下さるその気持ちが嬉しい、です」

微笑めば、彼は僅かに眉を寄せる。
その感情の機微がまだ分からないのだ。
好き、だと嬉しい。嫌い、だと悲しい。
彼が知るのはその単純な心の動きだ。そこに付随する要素は、彼にはまだ理解しきれない。
彼は感情を知らなかった。喜怒哀楽を感じた事もなかった。
祖先とはどんな関係であったのか。それは分からない。だが、それ以降の彼を継いだ当主達は皆、彼とこうして言葉を交わす事はなかったのだという。有事でもないのに、この庭から出る許可をもらったのは、兄が初めてなのだと言っていた。

「戻ってから兄と頂きます」
「そうか…篝里」

彼の指が木通を持つ手に触れ。
腕に、肩に、首に。そして頬に触れた。
輪郭を確かめるように、ここにいる事を確かめるように。
言葉を交わし、こうして庭に招き入れられてから、彼はこうして体に触れ、名を呼ぶ事が多くなった。
彼の表情からは何も読みとれない。故に何を思っているのかは分からない。

「守り神様。三味線を弾きましょうか?」
「そうだな。頼む」

彼の言葉に頷いて木通を脇に置いて立ち上がる。
濡れ縁から室内に入り、床の間に飾る三味線を手に取った。
彼が珍しく興味を持ち、好きだと言ったもの。
濡れ縁に座り、べん、と撥で軽く弦を鳴らす。

「篝里」

名を呼び、目を細める。
口元が微かに笑みに形取られていくのを視界の端で見ながら、彼の望むままに音色を奏でていく。



父は言っていた。彼に心を許すな、と。
彼の唯一である祖先が、この何処かで眠っているのだからという。記録によれば、祖先は呪いに蝕まれて亡くなったらしい。彼の望む最期ではなかったようだ。
だからいつか取り戻すために、彼はこの庭を造った。そして祖先に適応する者を待っているのだと。
父の言葉は正しいのだろう。彼の尾花色が昏く揺らぐを、何度か目にした事がある。

「守り神様」

だがそれでも。
彼がこの先もこの家を、兄を守ってくれるならば。
兄がこの先も笑っていてくれるのであるならば。

「守り神様。どうか兄をお守り下さい。兄と、兄の血を継ぐ子等が健やかであるよう、お助け下さい」

彼に願う。何度でも。
兄のためになるならば、力のないこの矮小な身でも兄の助けとなるならば。

その為ならばこの命。惜しくなどはないのだから。



20241111 『ススキ』

11/11/2024, 10:38:33 PM