sairo

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「あれはね、元は小さな無名だった。名も無く、形も無い。何にも成れずに消えていくだけのモノ。それを一人の祓い屋が気まぐれに名付け、式にした」

彼女の声を聞きながら、僅かに残る記憶を辿る。

「名付けた祓い屋に、あれはよく懐いていたよ。まるで雛鳥のように常に後をついていた。祓い屋の助けになろうと力の使い方を学び、式として在り続けた。感情の起伏に乏しく、言葉数も少なかったから何を考えているのか分かり難い所はあったけれど」

違う、と思い返す記憶が否定する。
彼は知らなかったのだ。感情というものを。
彼と言葉を交わしそれを知り、故に記憶の中の自身は彼に教えた。
四節に咲く花の形を。空の色を。実りを感謝し、祈り舞う人々の感情の名を。

「懐いてはいたようだし、悪くは思われていなかったのだろうね。少なくとも祓い屋の戯れでしかなかった契約を、律儀に守り続けていたくらいには…だからなのかな。あれがそこの変態を作り上げてしまったのは」
「ちゃんと聞こえているからね。後で覚えていなよ」
「話に割り込まないで。それに本当の事でしょう」

顔を顰める彼女に、鎖で繋がれたままの男は苦笑する。
格子戸が開けられたというのに未だ鎖を解かぬのは、まだ何かを待っているという事なのだろうか。

「祓い屋という生業は危険が付き纏うものだ。特にあの頃は、今以上に人と人成らざるモノの距離が近かったから。だから祓い屋の最期もまた悲惨だったよ。魂すら歪み捻くれて、正しく人の形を取る事も儘ならなかった。それを見て思う所があったのか。あれは一つの空間を作り上げて、祓い屋を閉じた」

そこは初めて招き入れられた時は、藤の花一つしか咲かぬ寂しい空間だった。
おそらくそこに魂はあったのだろう。記憶の中の自身は終ぞ知る事はなかったが。

「それから長い時間が過ぎた。あれは祓い屋の一族の当主に継がれ、命じられるままにあれは働き、いつしか守り神と呼ばれるようになった」
「代わるか」
「そうだね。篝里《かがり》の事は、キミの方が詳しいだろうから、よろしく」

頷いて、彼女の元まで移動する。

「篝里は祓い屋であった藤白《ふじしろ》の一族の者であった。当主が兄である事以外に特出するものもない。当主である兄を敬愛し、一族を、里の者を愛した。穏やかで性根の真っ直ぐな子供だった」

里を走り回る、陽だまりのような笑顔が脳裏に蘇る。
空から見ていた小さな少年は、いつも笑顔を絶やす事はなく。それに惹かれて、篝里を止まり木に選んだのは必然であったのだろう。

「兄である当主は変わった男だった。篝里と同じく穏やかでありながら当主としての強さもある男は、それまでの当主等とは異なり、あれを己の屋敷に住まう事を許していた」
「あれは人の手には余るモノだったから。契約があり、よく従ってはいたけれど、必要な時以外は喚び出さなかったらしいよ」
「そうだな。先代も何度か苦言を呈していたようであるし、屋敷の者も皆、あれに近づこうとはしなかった」

当主と一人を除いては。
彼を怖れて彼の周りに人は近寄らず。彼もまた人の少ない離れへと移動していき。
そうして離れの奥。一人佇む彼を見て、篝里は何を思ったのだろうか。
己の翼を撫ぜながら離れを見る篝里の横顔には、いつもの笑みはなく、あれについて話す事もなかった。

「篝里だけは違っていた。あれと言葉を交わし、何も知らぬあれに様々を教えた。兄の事。里に住まう者の事。些細な話を繰り返して。そのうちあれは、いつしか藤白を閉じたあの庭に篝里を招き入れるようになった。あれが何を思って篝里を招いていたのかは不明だが、あれの庭は篝里が訪れる度に、篝里の好む花や木々に彩られていった」

好かれていた、とは思う。彼の纏う気配は篝里といる時には、僅かに穏やかになっていたのを知っている。離れにいた彼が見ていたのは、主である当主よりも篝里である事も見ていた。
だが今更だ。
彼の心の内を知る術はなく、知ったとして戻るものは何もない。

「寒く、暗い日だった。蠢く闇に皆が怯えていた。数多くの魑魅魍魎が辺りを徘徊し、当主や祓える者等は屋敷を出ていった。しかしどれだけ待てど、誰一人戻らず暗いまま。篝里は屋敷に残る者等に声をかけ励ましながらも、何か己に出来る事はないかと屋敷を動き回り」

目を伏せる。
忘れる事の出来ぬ、あの光景を今一度思い起こす。

「気づけば、あれの庭に迷い込んでいた。正しく招かれた訳ではない。呼び寄せられたという方が近いな。手段はどうであれあれの庭に入った事には変わらない。そして藤棚の下にいるあれを見た」

現世と同じく暗い庭で、幽鬼の如く佇む彼のその表情を覚えてはいない。
その後の事も、断片的な酷く曖昧な記憶しか篝里は有していなかった。

「篝里が最期に見たのは、咲き誇る藤の花だった。花と旋律と、光。そしてそれと同時に現世では明るさが戻った。当主や一族は怪我や呪に侵されてはいたが、皆無事だった。一人を喪い、一人が新たに戻った以外は、何も変わりはなかった」
「戻ったというよりは、作り上げられたという方が正しいかな。歪み捻れた部分を切り離して、足りない部分を篝里の魂を砕いて埋め込んだのだから。藤白としての魂が核としてあるから俺は藤白としての意識が強いけれど、篝里としての部分もいくつかは持ち合わせているからね」

鎖の男が笑いながら補足する。
視線を向ければ、いつか最期に見えたそれに似た笑みを男は浮かべていた。

「当主は篝里を喪った事を悲しんだが、あれを責める事はなかった。現れた藤白を受け入れもした。故にあれはその後も当主の式として働き、次の当主に継がれてもそれは変わる事はなかった」

変わったものは多くはなかったが、それでも少ない訳でもなかった。皆を愛した篝里は皆からも愛されていたのだから。
喪失を皆悲しみ、かつての穏やかな空間は戻りはしなかった。
己の翼を撫ぜるその手も、柔らかな微笑みも。

「だがいつからか、あれは歪んでいった。喪うという意味が理解出来なかったのかもしれないが。あれは篝里を求め始めた。それが顕著になったのはおそらくだが当主が代わり、藤白を怖れ始めた者等が藤白を封印してからだ」
「それ以降は詳しく語れないよ。俺はこの通り封じられてしまったし、この子もここから動けなかったからね」

鎖を揺らしながら、さて、と男が格子の向こうを指さした。
「丁度道が繋がった。といっても屋敷の敷地内までだけれどね。何とかしろとは言うが、あれに作られた身では藤白だと認識されないと力負けする。絶対的な安全を与えられはしないがどうするかい。ここで待つという選択肢もあるよ」
「行くよ。私の躰をそのままにしておけないから」
「あたしも行く。ここで待っていても、きっと変わらないし、叔父さん達も心配だから」
「指示をちょうだい。足手まといにはなりたくない」

今まで話を聞いていた少女等がそろって声を上げる。
互いに繋いだ手が僅かに震えているのを見て、強いのだなと素直に感心した。
与えられるばかりでなく、己の力の範囲内で出来る事をする。まるで篝里のようだ。

「それなら玲《れい》の側にいるといい」
「分かった。一緒に行こうか。無理だと思ったら直ぐ声をかけて。隔離するくらいなら出来るから」

彼女の言葉に、少女等は強く頷く。
それを見て、男は強く腕を振る。ざらざらと崩れる鎖を払い、足取り軽く格子へと近づいた。
その隣につく。斥候はあの時から己の役割だった。

「篝里」

男が窘めるように呼ぶ。横目で見た男は、どこか呆れた顔をしているように見えた。

「今の君に飛ぶための翼はないよ。それを忘れるな」

言われて気づく。
腕を見た。羽根は僅かに残るのみで、これでは飛ぶ事など出来はしない。
思い出す。己の最期を。
翼は折られ、ここに辿り着いた後は二度と動かせなくなった。終わる間際に、あの庭から持ち出した欠片と己を男が一つにしたのを思い出す。

「思い出した。問題ない」
「さっきから分けて話していたのが気になっていたけど、今の形すら忘れるとは思わなかった」
「敢えて思い出そうとすればああなる。仕方がない事だ」

それほどにまで、己と一つになった篝里の欠片は僅かなものだった。時に姿形さえ保つのが困難になるほどに。
目を閉じる。そして開けば、そこに羽根の一つも残りはしない。
折れて飛べない無意味なものは、篝里には必要ない。必要なのは地を駆け、障害を薙ぎ払う手足だけでいい。

「斥候は式を飛ばしてある。それに庭の中にも玲が潜ませているから必要はないよ」
「分かった。行くか」

男を見て、振り返り彼女等を見る。
誰一人躊躇う者がいない事を確認して、格子戸に手をかけた。



20241112 『飛べない翼』

11/13/2024, 3:07:26 AM